ダンムル(R)/書きたいところだけ書いたその日抽出されたばかりの彼は、ひどく不安定だった。
大きな鎧に条件付きのヘルメット。サイチームの所属である、とそう名乗った。
言葉を交わしてR社の凄惨な事実に驚いたのも束の間、すぐに実戦での試用が始まる。
ウサギのヒースクリフが息巻く後方で離れた敵を睨んだまま、肝心の彼は動かない。
「………………」
<ムルソー?>
よく見ればそびえるような肩は小刻みに震えている。
<どうしたの。怖い?>
「…………失敗は許されません。成果を出せなければ、また……」
経験してきた孵化場での地獄は、ただ一人となった今もなお彼を苛み付き纏っている。
肌のところに直接触れて安心させてあげられたらよかったのに。ダンテは背中に隠れため息をついた。もともと体格の良い彼がさらに大きなスーツを着ているものだから、手を伸ばしたってあの黒髪には届かない。
代わりに腰へ腕を回し、金属越しにもわかるようにこんこん、と軽くノックをする。
<大丈夫。もう戻らなくていいんだ。だから……リラックスして、戦おうね>
「はい。…………私が前に出ます。お下がりを」
「は…………、は…………」
敵を突き崩し、そこに味方がたたみかける。作戦も、役目も、成功していた。
ただ一つ、化け物の爪の一撃が、装甲の胸を貫いて。自身の生還が叶わないであろうことを除けば。
まだ戦っている仲間の声が遠ざかってゆく。ムルソーは濁った空を見上げたまま、もう言葉にもならない声で、だめだったか、と呟いた。
必死で抑えこもうとしていた恐怖と絶望がもう動かない体へと満ちていく。
次に目が覚めればまたあの孵化場で、再び自らを握り潰す地獄が始まるのだ。
燃えるような痛みの中でどうしてか頬だけが冷えている。意識の途切れる瞬間、何かがそこに触れた気がした。
規則正しい時計の音に、顔と手の甲を撫でる風。
目を開ければ視界に入ったそれが管理人の顎、つまりは下から見た厚みのある時計のそれだと理解するのにムルソーは僅かながらも時間を要する。
彼がいるならばここは孵化場ではない。
「……ダンテ」
<あ、ムルソー。よかった、気がついたんだね>
黒い手袋がこめかみや首をぺたぺたとさわる。
頭を乗せているのは彼の膝だと気づいた瞬間、驚きで身がこわばった。
<頑張ったね。君があいつの足をタックルでへし折ってやったから、体勢が崩れて……もう終わるところだ>
遠くからウサギの雄叫びが聞こえる。
<苦しいだろうと思ってさ。それから引きずり出すの、結構大変だったんだよ?>
傍にはスーツと手甲が転がっていた。
胸の痛みも、傷も、それがあった痕跡さえ綺麗さっぱり消えている。
治療も、介抱も、なぜ。
「……途中で脱落しましたので、私は恐らくまた孵化場に戻されるでしょう。なぜ、このようなことを……?」
<ばかいわないの>
むに、と頬がつままれる。
<説明したでしょ? もうそんなことしなくていいんだ。私は『今の君』を知って、上手く指示が出せるようにならなきゃいけないんだから……新しいムルソーになってしまったら、困るよ>
「……ほんとうに?」
もう、あんな日々は来ない?
<うん、本当>
知らず知らずのうち、ムルソーは自分のものよりはるかに小さなダンテの手を捕まえて、縋るように頬をすり寄せていた。
<だから、安心していいんだ……。私を信じて、ムルソー>
「……はい。…………はい、……っ」
雲の切れ間から覗く空が滲む。見下ろしていた時計の文字盤も、揺らぐ炎も、全てが形を失っていった。
<怖かったね。もう大丈夫だから……>
戦い終えた仲間達が意気揚々と戻ってくるまでの時間。黒い指に慰められながら、大きな子供は静かに、大粒の涙をこぼして泣きじゃくっていた。