嗚呼、愛しき工房の日々7(下)あたたかい。
ゆっくりと浮上する意識。目を覆うひんやりとしたものの隙間からわずかに見える天井と、皮膚から透ける赤。
ぼんやりとした頭で最後の記憶を辿り瞬きをすれば、閉ざされた視界が突然晴れる。
<あ、起きた>
自分が息をのむのがまるで他人事のようにわかった。こちらを覗きこむように、切望した炎が揺れている。
「……………………………ダン、テ」
家で認識阻害を切り忘れているのは珍しい。
彼の出張は五日間の予定だった。戻るのは明日の夜のはずだ。
或いは、丸一日倒れていたか。
<もう……… 。せっかく健康になってきたのに。私がいない間でまたやつれたな>
「…………すみません」
<心配したよ。今朝から既読すらつかなくなるし、電話も繋がらないし……グレゴールも急いで戻ったほうがいい、なんてメールよこすしさ>
「………………申し訳、ありません」
<帰ったら帰ったで倒れてるし。運ぶのは二回目とはいえ、大きい君をソファーまで引きずってくるのは大変だったんだからね>
ソファーの前に座っているらしい彼の指先が、とうに酸化したワックスのはりつく髪束を梳りほぐすように弄んでいる。
ちょうど眼前にあった胸へと頭を預ければ、くすくす笑いと共に彼の手が髪を撫で乱しぎゅうと抱きしめられた。
<甘えたさんめ。私がいなくて寂しかったの? ……なーんて。お腹すいたよね、私もお夕飯まだなんだ>
ぱっと離された身のあったところから熱が失われゆく喪失感。
私は、彼がいないから、寂しかったのだろうか?
仕事に差し障りのある不調の原因ならば明確にすべきかもしれない。
<うわ、全然食べてないじゃないか!>
思考に耽った途端冷蔵庫の前からの声に引き戻され、ぎくりと体が強張った。
<前に気に入ってくれたやつを作ったんだけど……失敗してた? そんなことないと思うんだけどな。でも気に入らなくたってこれしかないし、食べてもらうからね>
「……はい」
手伝おうと身を起こしたところを静止され、動き回る炎をただ眺めることしかできない。
あなたが失敗したわけではない。気に入らなかったわけでもない。
釈明するなら説明する義務がある。何一つ的確な言葉として現れない理由を追ううちに呼ばれ、テーブルを見れば既に温められた食事と食器が二人分揃っていた。
食べ始めようとしたダンテに認識阻害機のことを伝えれば、彼はうっかりだと笑いながら電源を切る。時計頭にあった炎は今日の役目を終えて姿を消したというのに、置き換わった彼の表情豊かな顔も同じように無意識のうち目で追っていた。
「うん、味は特に変わらないと思うんだけどなあ……。何が嫌だったかな」
彼の声で我にかえり、慌てて昨日食べたものと同じ食事を口に含む。
今度は、はっきりと。気に入った日、以前食べたものと同じ味がする。
「……いいえ、ダンテ。…………美味しい、です」
「本当? 嘘言ってない? ………………あ、早いね、もう食べたの。いっぱい作っていったから解凍すればおかわりあるよ」
「はい。いただきます」
ちゃんと味を感じたからだろうか。この数日間感じた中で最も強い暴食の衝動におそわれる。許可を得ながら食べ続け、気づけば出張期間のために用意されていた分を全て平らげてしまっていた。
「……お腹、空いてたんだね」
「……はい」
呆気にとられた視線が居た堪れず目を逸らす。
何故彼のいない間にはあまり食べられなかったのか、筋の通った説明はいまだに見つからなかった。全く同じ料理なのに味を感じない理由も。
ケトルからティーポットに湯が注がれて紅茶の良い香りがたちのぼる。まだ食べられるならと引っ張り出してきたらしい土産の菓子と共に、彼はこの数日の話を聞きたいという。
意気込むあまり暴走しそうになったドンキホーテをイシュメールとファウストが止めていたのを声だけで聞いていたこと。グレゴールがしたダンテの真似が全く似ていなかったこと。発表や展示会など主要な催しは昨日までで済み、最後の日は工房同士の交流会であったためロージャのはからいで帰されたこと。
興味深い話から、他愛のない話まで。彼の声に少しずつ、心の底に溜まった澱のような苦しさがとけだしていく。胸を圧迫していたその場所は、代わりに飲んだばかりの紅茶のような心地よい温もりで満たされていった。
「よかった。ちょっと顔色よくなってきたね」
頬へと添えられた温かな手をもう少し自分のものにしていたい。より大きな自らのそれを重ね閉じこめてしまえば、隣に腰掛けたダンテはにっこりと微笑む。
どうしてだろうか。彼とこの部屋を彩る色が、こんなにも鮮やかに映るのは。
形の違う制服が二着並んでかかっている。
乾かしたばかりの前髪をかき上げ、撫でつけてゆく彼の手つきが眠気を誘う。
「また頬がっつりこけちゃってる。せっかく少しは埋まってきてたのに……。仕事が辛かったらちゃんと皆に頼るんだよって言ったじゃない」
丁寧に寝かしつけられながらも小言が降ってくるけれど、その声音はとても優しい。
「……頼らなかったわけでは……ありません」
グレゴール然り。事実、工房のフィクサーたちはこちらが何かを言わずとも気にかけてくれていたように思う。デスクの上には絶えず菓子が置かれ、仕事の依頼のほかで特に用なく話しかけられる回数も多かった。
原因は、多分、それよりも。
「……ダンテ、私は」
瞼が重い。額のあたりがぼやけていく。
「…………あなたがいないことの、方が……… 」
眠りにおちるその間際。とけてゆく意識の境目から、未だ言葉の形をとりきらぬ心がするりと滑り落ちていった。
生まれた都市の巣は多くが灰色でできており、構成物の多くから異邦と定義された身であってもその外観は悪くなく感じるものだった。
羽として淡々と仕事をし、自らに与えられた役割を果たす日々を繰り返すのは当たり前のことで、その認識は他の区に移り住んだ後も変わることはなかった。無機質な世界に特に不満を抱くわけでもなく、かといって居心地の良さを感じていたわけでもない。
ただ。
いつからだろうか。
認識阻害で映しだされた彼の頭の火に照らされるところだけが、色づいていた。
灰色の水面へ一滴ずつ鮮やかなインクを落とすみたいに、世界の色が増していって。
自分でも気づかぬまま、悴んでいた手を温めていた。
関係性の名称などはどうでも良かった。結局のところそんなものは対外的な記号に過ぎない。
上司と部下でも、友人でも、恋人でも。
彼の隣で、この離れがたい時間を過ごしていけるのならば、何と呼ばれたって構わなかった。
白と黒でできた世界の中ではもう、一人では凍えてしまうのに。
あなたが鮮やかな火を私の内に灯したから。
何よりも、指先から少しずつ色の抜けていく世界で、探し求めてもどこにもないのが。慣れきったはずの異邦がじわりと心を蝕んでゆくあの感覚が一番、恐ろしかったように思う。
当たり前だったのに。その中で生きることに、特に何も困ることなどなかったのに。
わからない。
再び色の無くなった世界にとり残されたなら、凍てついた先にどうなってしまうのか。
ダンテ、あなたがいないと、私は────
きっともう、歩くことすらままならない。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
「…………あなたがいないことの、方が……… 」
「……えっ?」
言葉の意味が飲み込めず、咀嚼するのに十数秒。理解した瞬間跳ねあがった心臓を抑え言葉の主を見やれば、既に寝息をたてている。
不思議だな、とは思っていた。
同じものなのに、私がいると美味しくて、私がいないと食べられない。
眠るのも私がいないとダメ。
こんなにやつれてしまったのは私と離れていたからだなんて、そんなの、まるで。
ねえ。自惚れちゃっても、いいよね?
状況的にはまさに据え膳だ。
ここぞというときこそ臆せず押すべきだというのはロージャの教えではあるけれど。
規則正しい呼気があたる。寄せた顔の鼻先同士が触れるか触れないかというところで、ムルソーがゆっくりと身を捩った。
「………………だん、て……」
「!」
肩口に頭を擦りつけ落ち着いたらしい姿で我にかえる。この数日の不摂生で弱り眠ってしまったムルソーに負担をかけるなんてとんでもないことだ。咄嗟に思った『もったいない』への自己嫌悪を抱きしめながら、そっと前髪の下の額に口づける。
今は、これだけで我慢しよう。
カーテンの隙間から見える外の灯りはいつしか消え去って、群青が徐々に明るくなっていく。
悶々としたままで眠気などがくるはずもない。結局一睡もできなかった。健やかに眠るムルソーの横で手を握ったまま体育座りで朝を迎えることになるだなんて。
「…………ダンテ。ねむれない、……のですか」
寝ぼけた舌足らずの声の方を見れば、焦点のあわないエメラルドがほんのわずかに覗いている。
「うん。ちょっと……考えこんじゃって」
「そう……です、か」
ぐいと腕を引かれ倒れこみ、受け止められたのは大きく広い彼の胸。額にあたたかなものが触れ、今にも深く戻ってゆきそうな吐息がかかる。
また少し減ってしまったものの、会ったばかりの頃よりは随分と胸の肉づきが増している。そんなこちらの気も知らず、豆のある温かく大きな手が頭を緩やかに撫で始めた。
おもむろに止まるもまた動き出すのを繰り返すそれは明らかに私を気づかうもので、どうにか一晩抑えこんでいた欲がむくむくとせり上がってくる。
「ムルソー」
「ん…………。は、……い」
もう、いいよね?
押してしまっても。
「ムルソー。あのね」
それでも臆病なことに、今一歩踏み出せない。
だから。
「…………昨日のつづき、聞かせてほしいな」
「は………………? ………………、っ」
蕩けていた緑の目がゆったりとした数度の瞬きの後、勢いよく見開かれる。
そのまま視線が泳ぎ、しばしの硬直の後。こちらを見つめ返す少しだけ顰められた眉下がりの瞳はまるで内の心を零すのを堪えているようで、その肌はこれまで見たことがないほど綺麗に染まっていた。
その反応で確信する。
ああ、やっぱり。
自惚れても、よかったんだ。
「ムルソー……」
フットボードに足をつけて伸びあがり、大きな肩から首と枕の間へ通すように腕をまわした。そうしてつかまえた彼の頭を抱き寄せて、こつんと額をあわせ、囁く。
「ねえ、キスしても、……いい?」
真っ赤な顔の奥、彼の宝石が揺れる。
「っ、………………触れる、だけなら」
何で? と思ったけれど、なるほど。
キス自体は拒まれていないことが嬉しくて、私はさらに調子に乗った。指先をそっと滑らせ頬をくすぐれば、きゅっと眉間に皺がよってエメラルドが閉ざされる。
「ん……」
おやつをあげるとき、何度も触れたことがあるはずなのに。
重ねあわせて感じるのはわずかにささくれて薄い、だけれども思っていたよりもずっとずっと柔らかな彼の唇。
そのまま食べてしまいたかったけれど。
触れるだけ、と約束したから。
そうして。
私たちは熱い抱擁を交わしたまま、何度も何度もお互いの唇を押しつけあった。
……空気の読めない目覚まし時計が、起きる時間を告げ知らせるその瞬間まで。