揺れる想いは雪に閉ざされて※ラストは公式展開を捏造しています
プロローグ
「ふう」
すっかりクリスマスのムードで溢れている銀座の街。
その一角のカフェで朝日奈唯は小さくため息をついた。
「また思い出したのかい、京都で会った彼のことを」
向かい側に座る仁科諒介が優しげで、それでいながら切なげに唯を見つめてくる。
「ごめんなさい」
何度も繰り返してきた光景。
彼と初めて会って間もないときから、唯はため息をついては仁科に心配をされた。
「いいよ」
こう返されるのも数えきれない程になる。
その言葉が彼の本心だとわかっているからこそ、余計申し訳ない気持ちになる。
それが彼ー仁科諒介と出会い、親しくなってから定期的に繰り返される光景だった。
窓から見える風景はすっかり日が落ちている。
イルミネーションで彩られた銀座の街は気温とは裏腹にどこか暖かい感じがする。
それに包まれながらふたりは横浜の菩提樹寮に帰ることにした。
1.冷たいみぞれをあとにして
「はー、スタオケバスに乗ることになったのは、源一郎くんだけか~」
南乙音の寂しさを隠しきれない声がスタオケバスの中に響く。
京都でひょんなことで知り合った御門浮葉と鷲上源一郎。
もともとスターライトオーケストラに憧れていた源一郎に対し、浮葉はスタオケに対してどこか一線を引いた感じであった。
彼がスタオケに入らないことはどこか予感していたものの、うっすらとした期待もあった。
そして、源一郎ほどではないものの、スタオケのメンバーとも楽しく過ごしていたようにも思える。
「いや、鷲上さんが来てくれるだけでもすごいことだと思うぞ、俺は」
疾風は励ましているのか事実を述べているのかわからないことを話す。
「そうだね、僕たちと初めて会ったときは、演奏家としてではなく、観客として音楽祭に来ていたもんね。そのときのことを考えると、招待されて演奏されただけでも成長したといえるよ」
「そうだね。鷲上さんもこうしてスタオケに入ってくれたし」
疾風の言葉に納得するポラリスのふたり。
確かに。
唯は心のどこかで納得する。させるというべきか。
スタオケが発足したばかりの頃は知名度は限りなくゼロで、路上ライブで何とか名前を覚えてもらっていた。
そして、依頼演奏なんて夢のまた夢であったし、せっかく依頼演奏があってもグランツと間違えられたなんてこともあった。
それを考えると今回はスターライトオーケストラとして依頼を受けて京都の土地を踏みしめることができた。
それだけでも進歩かもしれない。
ましてや、こうして新たな仲間もできた。
だけど、浮葉は自分を選ばなかったのは事実。
彼の、ときには試しているのではないかと思う言動。
それは思っていたのではなく、事実だったのかもしれない。
スタオケに入るべきか否か。
名誉、将来性、金銭、それらを天秤に掛けた上で、彼はグランツの演奏会衣装に身を包むことを選んだのだろう。
ふうっとため息を吐く唯だったが、後ろの席の刑部が冷静な声で語りかけてくる。
「我々に足りないものは見えている。だとすれば、それをひとつひとつ潰していくしかない」
「おっしゃー、横浜に戻ったら練習するぜ、コンミス」
桐ケ谷も刑部の言葉に同意している。
浮葉がスターライトオーケストラに加入しないことで、それぞれが自分に、そしてスタオケに欠けているのが何であるのか見えてきたのであろう。
確かにスタオケは温かく優しい。
だけど、高みを目指すにはそれだけではいけない。浮葉が暗に指摘してきたのはそのこと。そして、他のメンバーはそのことを理解したのだろう。
だけど、やはり彼に拒絶されたことはつらい。そして、苦しい。
それは彼に恋心に近い感情を抱いていたからだろうか。
はっきりとした理由はわからない。
ただ、つらいという感情を胸に京都をあとにしたのであった。
2.北海道の風も冷たくて
「さむっ!」
休憩のためスタオケバスから降りた朝日奈唯は思わずそう呟いた。
横浜から大洗港まで高速、大洗港から苫小牧へはフェリーで移動し、北海道に上陸したスタオケバスは札幌を目指す。
札幌は初雪が降ったとは聞くが、融けたのだろうか。車窓から見渡す限り、雪と思われるものはなかった。
しかし、そのことに油断したのがいけなかった。
トイレ休憩ということで立ち寄ったサービスエリアでバスから降りるなり、肌を突き刺すような寒さに唯の身体は冷え込んでしまった。
まだ京都での傷を抱えているせいだろうか、風の冷たさが刃のように突き刺さってくるような気がする。
お手洗いは目の前だからとコートをバスの中に置いてきた自分を恨みつつ、用を済ませる。
「あら、コンミス、寒いでしょ」
女子トイレから出てきた唯を迎えたのは怜。彼女は準備万端にコートを着ている。
そして、手にしている小さな紙袋からは湯気が立ち込めている。
「早くバスに戻って一緒に食べましょう」
香坂が渡してきたのは肉まん。
すっかり冷えた身体に暖かさが染み渡る。
成宮は気を利かせたのか自販機で買ってきたココアを持ってきた。飲もうとしたが、舌が火傷しそうなので冷めるのを待つ。
そうこうしているうちに窓からは雪と思われしものが空を舞っているのが見える。
横浜でも雪が降るのは見たことあるが、やはり雪質が異なるのだろう。
横浜で見たものよりも軽やかに舞っている気がする。
一方、京都で過ごしたあの夜、御門と鷲上が戻らなかったあの日のみぞれの冷たさは忘れられない。
そして、翌日の鷲上の何か大きな絶望を感じ、そして、諦めと覚悟を持ってスタオケに入ることを決めたときの表情も。
源一郎がスタオケに入ってくれたのは素直に嬉しい。
やはり実直でありながら可能性を感じるオーボエの音色。それらは今のスタオケにないもの。
一方で御門浮葉はグランツを選んだ。
おそらく金だけではないのだろう。今の自分が、そしてスタオケが未熟だから。
自分たちは楽しいことを前提に音を奏でている。
しかし、それは甘い考えなのかもしれない。
その事実が唯の心におもりのようにのしかかる。
窓はいつの間にか曇って外が見えなくなる。
唯は窓を指でこする。外は見えるようになるが、窓越しに感じる冷気に改めて驚く。
これから訪れる地はこれ以上の厳しい寒さが待ち受けると聞いている。
自分の運命もやはり厳しいのだろうか。
それともときには小春日和のような陽気が少しは訪れることを期待していいのだろうか。
すっきりとしない気持ちを抱えたままスタオケバスは札幌へ着いた。
3.札幌の雪は暖かくて
浮葉のことはやはり心にしこりのように残っている。
認めたくないけど、それは事実。
そして、それは演奏にも現れている。それも紛れもない事実。
先ほどの練習ではエキストラとして参加している笹塚創が去っていった。
唯に「あんたの演奏は空っぽ」、その言葉を残して。
練習を終えるとみんなはスタオケバスに向かう。ホテルは目の前にあるが、この時期の札幌の夜道は凍っている。「慣れていないお前らが歩くと滑るし、最悪ケガしてホテルにたどり着けなくなるぞ」という銀河の言葉が妙に現実的に思えたのもあるのだろう。
しかし、冬道を歩いたことがある唯は、銀河に一声掛けた上で歩くことにした。もう少しだけひとりになって考え事をしたかった。この空気の冷たさなら少しは頭を冷ますことができるだろう。そう思えたから。
すると、ロビーでスマートフォンで通話している男性が目に入る。
その姿に見覚えがあり、記憶を探る。
確か笹塚と同じくスタオケに協力している高校生で、名前は確か仁科諒介。
いつの間にか電話は終わったらしい。そして、唯の存在に気がついたのか、軽く目を見開く。
「君は確かスターライトオーケストラの……」
話し掛けられたので悪い気はせず、唯は答える。
「はい、コンミスの」
そこまで言ったものの正直迷う。
確かに自分はポジション的には紛れもなくスターライトオーケストラのコンサートミストレス。だけど、その地位にふさわしい実力の持ち主かはっきり言って不明だ。
そんな唯の迷いが見えたのだろうか。仁科が唯の目を真っ直ぐ見て話し掛けてくる。
「ふうん、何か迷いがあるみたいだね。メンバーでないからこそ話せることもあると思うんだ。よければお茶でもしない? お茶と言っても高校生同士だからファーストフードになるけど」
出会ったばかりの人と気軽にお茶をしていいものか迷う。特に彼は浮葉とは違う意味で人を惑わすオーラを持っているような気がする。
……浮葉。
札幌に来てからできるだけ意識しないようにしてきた存在。
だけど、ヴァイオリンを構えていると無意識に思い出す存在。
グランツに勝ち、浮葉をぎゃふんと言わせたい。
それは事実。
だけど、好きの反対は無関心。
自分がその域に達するにはまだ先のこと。
そう感じながらも唯は仁科の後ろを着いていくことにした。
仁科が案内したのはスタオケメンバーが泊まるホテルから程近いところにあるファーストフード店だった。
喫茶店でもカフェでもなくファーストフード店を選んでくれて正直助かったと思う。
ホテルのまわりは格式が高い店が多く、今の服装で入ったところで浮くのが目に見えている。ましてや高校生となれば店員の怪訝な眼差しを受けることは避けられないだろう。
場所も一緒にいる人も違うが、横浜でもたまに入るファーストフード店が慣れ親しんでいることもあり、肩に力が入らずに振る舞える気がする。
「ふうん。京都でそういうことがあったんだ。だから、君の演奏はギスギスしていたんだね」
隣に座った仁科はそう言いながらハンバーガーにかじりつく。男子高校生らしく一気に食らいつくが、どこか洗練された雰囲気があるのが彼らしいと思ってしまう。まだ出会ったばかりにも関わらず。
「やっぱりそう聞こえましたか……」
「うん、まあね」
唯もポテトをつまみ、コーラを喉に流しながら答える。
音に感情が出る。ときには性格や生き様すら。
特に京都から帰ってからの自分はムキになっている自覚はある。しかし、そのこと自体は否定しない。そうでもしないとグランツには勝てないから。
そして、グランツより弱いままだと浮葉はスタオケに見向きもしてくれないから。
そんな唯に対して仁科はくすっと笑う。その笑みは一歳差だということを忘れさせる余裕あるものであった。
「朝日奈さん、その人の感情と立場、それをごっちゃにしてはいけないよ」
え?
「俺はその彼と会ったことないけど、彼は守らないといけないものがたくさんあるようだね。そうなると、個人の感情だけで立ち行かないこともある。それはわかるね」
唯を見つめる仁科の瞳は優しかった。
そして、その言葉も凍りついていた唯の心を融かすようにすんなりと入ってくる。
……この人と話していると暖かい気持ちになる。
おそらく彼は誰に対してもこのような態度を取るとはわかっている。
だけど、今はその優しさが嬉しかった。
「仁科さんって、モテるでしょ?」
思わずそんな言葉が出てしまう。
「ん、まあ、モテないと言えばウソになるかもね」
仁科は否定もせずそう答える。でも、そこで嘘をついたり、誤魔化したりしないのが彼らしいと思う。
「でも、彼女はいないよ」
その言葉を聞いて安心する自分がどこかにいる。
そして、この人ともう少し一緒にいたいと思い始めている自分も。
だけど、浮葉と同様、目の前のこの人もいつかは去っていくのだろう。
そう思うと唯はどこか寂しい気持ちになった。
その日は練習開始まで自由行動とのことで唯はガイドブックを見て悩んでいた。
スタオケに入ることで全国を旅するようになったが、ここ札幌は京都に次いで見るべきもの・訪れたい場所がたくさんがあり、そしてグルメに関しては今までとは比較にならないほど興味深いものがあった。
迷ったときはやはり地元の人に聞くのが一番。
そう思い、唯は仁科にマインを送ってみることにした。
すると、返事はすぐ来た。そして、予想していたとも言えなかったとも言える言葉も添えて。
「よければ俺が案内しようか」
申し訳ないと言ったが、それは却下される。
「じゃあ、札幌駅のミスド前で。もし迷ったら連絡ちょうだい」
そう言って通話は切れる。
そのまま練習会場に向かうことを想定し、楽器も持っていくことにする。
服装は手元の数着しかないが、それでも仁科の隣に立って恥ずかしくない服を選んでいる自分がいる。
「あ、朝日奈さん!」
地下鉄を降り、流れについていくと人がごった返すJR札幌駅の改札が見えてきた。
待ち合わせの場所はその向こう側。
唯がきょろきょろしていると、知っている声が耳に入ってきた。
声の方を向くと、仁科の笑みが見えてきた。
優しいけど、でも、どこか心の奥底までは見せない、そんな笑み。それを見ていると、京都で似たようなことを感じて心がズキンと痛むのを感じる。
「慣れていない土地なのに、ここまで来させてしまってごめんね」
仁科の言葉に唯は首を横に振る。
スタオケに入ってから全国を旅することが増えたため、むしろ新しい土地を歩き回るのは楽しみのひとつとなった。
札幌中心部の交通網は充実しているし、地下街も発展しているため、冬の寒さを意識せず移動できることに驚いた。
「そう、君はずいぶんアクティブなんだね」
仁科の瞳の優しさの奥に驚きがあることに唯は気がつく。そして、どこかそのことに誇らしい気持ちになる。
「全国を見てきた君がお気に召すか自信がないけど……」
そう言って仁科が案内したのは、札幌駅から程近いホテルだった。
展望階は回転式となっており、ふたりは時間によって異なる札幌の街並みを楽しみながらケーキとさりげない会話を楽しむことにする。
視界に入ってくる山が雪の影響なのだろうか。白地に木々のこげ茶色が模様のように描かれており、既に山には冬が訪れていることを視覚から認識させられる。
「チャイコンが憧れなんです。あれを自分の思うように弾けるようになれば素敵だろうな」
「ああ、あれね。俺もたまに練習しているけど、確かに自分のものにするには手ごわい曲だよね」
同じ楽器ということもあるのだろう。
仁科とは想像以上に話が弾んだ。
ヴァイオリンという楽器はオーケストラの中では一番人数の多い楽器ではあるが、ピアノや吹奏楽の楽器と比べると演奏者は多くない。
それでも今まで入ってきたオーケストラや、星奏学院の音楽科に弾いているものはいたが、オーケストラでは年齢の違いからか話が合わず、音楽科の生徒にはやはり壁を感じることが多く、自分から近づくことはなかった。
スタオケでは朔夜がすぐそばにいるが、彼は芯は強いところはあるものの、表面上は唯や銀河たちに合わせる部分が多いようにも思える。
だからだろうか。今まで自分は無意識のうちにヴァイオリンのことを話すことに飢えていたような気がする。
だけど、仁科相手だとそんなこともすっかり忘れ、盛り上がっている自分がいた。
すると、隣にいる仁科が無口になっていることに唯は気がつく。
それを不思議に思いながら仁科を見つめると、彼も自分を見つめていることに気がつく。
「君は綺麗な人だね」
「え……」
仁科が何気なく発した言葉に唯は言葉を失う。
「ああ、例の彼も同じことを言ったんだね」
仁科もそのことに気がついたのだろう。そして、唯の沈黙が何から来るのかも気がついたのだろう。
「彼の言葉の真意はわからない。だけど、君はまっすぐで純真で、素敵な人だと俺は思うよ」
それをこれからも持ち続けてほしいな。
仁科の瞳に札幌の少し早い夕方の陽が差し込む。
唯はそんな彼の瞳から目が離せないでいた。
札幌での演奏会は成功したと思う。
自分でもそう思ったし、指揮者の銀河をはじめとしたスタオケメンバーの晴れ晴れとした表情、何よりも割れんばかりの拍手がそれを証明しているように思えた。
「朝日奈、音がよくなったな」
演奏会後の打ち上げで朔夜がポツリとそう話す。
今回演奏を行ったのは音楽専用ホールとして作られたこともあり、音響の良さは今までのホールとは比べ物にならない。
だけど、それだけではないのだろう。
ひとりひとりが個人練習を積み、レベルアップの底上げをはかったこと。
そして、仁科はもちろん、笹塚も人となりを知ることで、ひとつの団体としての音がまとまっていくのを感じた。
「だよね。俺は君ほど朝日奈さんの音を知らないけど、札幌にきたときに比べて、透き通った音になっていると思うよ」
仁科はそう話すが、初めて聴いた音だからこそ印象に残る部分もあるだろう。
そして、その彼が「変わった」と話すということは、やはり自分はどこか変化したのだろう。
寒さが厳しい土地でどうなるのだろうとふさぎ込む気持ちもどこかにあった。
だけど、気がつけば心の中の氷はすっかり融けていることに唯は気がつく。
「さ、次会ったとき、御門さんにあっと言わせる演奏でもしようぜ」
そう疾風が話しかけてくる。
だけど、その言葉を唯は軽く否定する。
「ん、そうだね。でも、それだけでないと思うの」
札幌に来たばかりのときに感じていた相手を打ちのめしたい気持ち。それはどこかに消え、ただ自分たちにできる最上級の演奏を求める気持ちが今は大きかった。
この気持ちがいつまでも続けばいい。
そう思いながら唯は札幌の街を後にした。
4.銀座にて
笹塚と仁科、ふたりがスタオケに加入し、また本選も近づいていることもあり、他のメンバーと同様、菩提樹寮に暮らすこととなった。
仁科は意外にも横浜はもちろん東京にほとんど来たことがないらしい。
唯もほぼ東京に来たことがないが、念のため予備の弦を買っておこうと話がまとまり、慣れない乗り換えを駆使して銀座の楽器店を訪れた。
「唯ちゃんは弦何使っているの?」
「私はE線とA線がラーセンで……」
「やっぱり」
「仁科さんは?」
「俺も同じ。ただ、ガット弦を使いこなせるようになれば格好いいなと思っているんだ」
「あ、わかります。あれを使いこなせると玄人って感じがしますよね」
札幌でも感じたことだが、同じ楽器だとこういう楽しみもある。
「次演奏するのは、ブラ1だっけ。CD見てもいいかな?」
「もちろんです」
本選で弾くのはヴァイオリン協奏曲であるが、それとは別にレパートリーを増やすためにスタオケではブラームスの交響曲第1番、通称ブラ1も練習することになった。
ベートーヴェンの9番に続く交響曲ということでブラームスが20年掛けて完成させた壮大な曲である。
冒頭の規則的なティンパニの音は彼が作曲しているとき肩に力を入れていた印象を感じ、実際、唯も演奏していると気が引き締まる感じがする。
既にCDは菩提樹寮にも何枚かあるが、仁科は他の指揮者やオーケストラが演奏するものも欲しいのだろう。
ふたりは階段を下りて移動する。
すると、CD売り場に唯は意外とも言うべき人物を見かけた。
「ふーん、スターライトオーケストラのコンサートミストレス様とこんなところで会えるとはね」
彼-堂本大我は唯の存在に目ざとく気がつき、そしてわざわざ話しかけてくる。
堂本はどこまで知っているのだろう。
でも、唯が御門の屋敷を訪ねていたのは目撃しているから、唯自身が見えていない感情に気づいていてもおかしくはないだろう。
「まあ、御門の坊っちゃんには言わないでおくよ」
不遜とも言うべき態度でそう話してくる。
おそらく仁科に対してもビミョーな感情を抱いていることは見透かしている上での態度だろう。
ほんのわずかの時間でここまで察する彼の勘の良さが正直嫌になる。
思わず固まる唯に対して堂本はニヤリという笑いを見せる。
「おっと。俺自身はお前が二股掛けようと、乗り換えようと、気にしないぜ。人生一度キリだ。見向きもされない男に固執する必要もねーと思うぜ」
彼らしい言い方。思わず京都で再会したときに女性を泣かせていたことを思い出す。
「ただ、木曜日にそのお坊っちゃんがテレビに出るぜ」
唯は思わず堂本の顔を覗き込んでしまう。
確かに彼はニヤニヤするものの嘘を言っているようには見えなかった。
そして、唯は思い知る。
北海道の雪に封じ込めてきたつもりの感情だけど、やはり浮葉のことは気になる、と。
肩にかけられた仁科の手が優しく、でも重く感じた。
5.一方的な再会
堂本の言葉は正しかった。
唯がネットでテレビの番組表を確認すると、朝のワイドショーの特集に浮葉が登場するらしい。
録画予約をし、学校から帰ってきてテレビを占領しやすい時間帯に唯は見ることにした。
憂いを秘めた中性的な美貌の持ち主で売り出し中でもあるクラリネット奏者・御門浮葉。
父親は日本における現代音楽作曲家としての第一人者であり、オーケストラの総監督を務め、最期は疑惑の渦に呑み込まれた御門衣純。
その後の苦難と、そしてグランツに入り活躍する一方、ソロ活動やアンサンブルも精力的に行っており、CDの発売予定がある。
という内容であった。
そして、コーナー最後にアナウンサーがテンション高く話す。
「そんな御門浮葉さんが明後日、コンサートを行います!」
するとそこに表示されたのは四ッ谷のホールの名前。
デビューしたての新人が到底立てるとは思えない場所。おそらくリーガルの力が相当動いているのだろう。そして、それだけの出資をしても見込みがあると踏んでいるのだろう。
「普通にクラシックのコンサートなんてやっても儲からないから、マスコミを使うのはありがちだけど、あからさますぎて引いちゃうよね」
「そうだね」
いつの間にかポラリスのふたりが帰ってきていたらしい。テレビも見ていたのか、凛と流星はそれぞれ突っ込みを入れる。
「姉らしいやり方ですね」
ほぼ同時刻に成宮も帰ってきたと思われ、イヤそうな顔をしながら呟く。
「ま、お金のことを考えると、管楽器でソリストになるのは考えない方がいいよね。ほとんど目が出ないし、お金にならないから。でも、僕たちがアイドルを目指したのはそういう理由でないとわかって欲しいけど」
現実的なことを凛が話してダイニングに消えていく。
唯は浮葉のライブが気になり何人かに声をかけたものの、あいにく同行者が見つからない。
浮葉と同じクラリネットの流星はポラリスの活動があり、源一郎も浮葉の現状が気になりつつも剣の稽古があるという理由をつけられて丁重に断ってきた。
「コンミス、沈んだ顔をしているけど、どうしたの?」
唯に話しかけてきたのは仁科。
理由をかいつまんで話すと仁科はうんうんと頷く。
「じゃあ、土曜日行ってみようか、紀尾井ホールに」
あっさりと提案してくれる。
そのあっさりさに救われつつも申し訳ない気持ちもある。
だけど、今はその優しさに浸っていたい。
そう思った唯は仁科と土曜日に浮葉のコンサートに行くことにした。
「ふうん、ここが紀尾井ホールか」
帽子をかぶった仁科がキョロキョロあたりを見渡す。その様子は明らかに慣れていない感じがして、唯は微笑ましい気持ちになってしまう。
「ああ、おのぼりさんだね、俺。北海道に住んでいると東京に出て来る用事があっても、なかなかコンサートを聴く余裕まではまではなくて」
それはわかるような気がする。
唯も、横浜に来たとき、もう少し東京の演奏会に足を運べるかと思っていた。
しかし、実際は思っていた以上に東京は遠く、そして普通科でありながら音楽の道を進もうとするのは時間的にも厳しかった。
目の前の仁科は事情は違うのだろうが、東京に来ることがあっても、飛行機の時間を気にしながらせわしく移動している様子が目に浮かぶようだった。
ふたりは目的の場所までたどり着く。
ロビーにはリーガルの名前が記されたスタンド花が置かれており、よく見ると月城慧の名前がある花も置かれていた。
その名を目にすると、改めて御門浮葉という存在が自分とは隔絶された世界に足を踏み入れたと思わされる。
やがてステージに光が灯され、下手からひとりの影が移動するのが目に見える。
その姿は紛れもなく本日の主役、御門浮葉であった。
唯の席からは表情まではとらえることはできないが、記憶よりもさらに憂いさが増した気がする。
それは彼がより一層この世を儚んでいるのか、それとも戦略としてそういう雰囲気を醸し出しているのか、唯にはわからない。
ただ、クラシックにおいては限りなく新人であるにも関わらず、彼が作り出す世界観は一流アーティストに引けをとらないと感じた。
それにしても、自分はクラシックに関しては無知に等しいなと浮葉の演奏を聞いて思う。
ヴァイオリンを習ってからそれなりに演奏会に足を運んだつもりであったが、やはりオーケストラやヴァイオリニストの演奏会が中心だったため、クラリネットに関しては有名な曲もほとんど触れずにいた。
そして、その楽器が作り出す表情の豊かさ。
もちろん、オーケストラでクラリネットの音色は聞いているが、ソロともなればより一層それが強調され、さらに浮葉の超絶技巧で引き込まれていくのを感じる。
それにしても……
すべての演奏が終わったあと、唯は放心状態となっていた。
最後に吹いた曲が柔らかく吹きながらも、どこか人の感情を大きく揺さぶる。
そんな印象を持つ曲だった。
曲も素晴らしいが、それを操る浮葉の技術と雰囲気にも圧倒された。
「御門衣純の、だね」
隣の仁科がボソッと呟く。
意外に思いながら唯が彼の顔を見つめる。
「笹塚の家にあったんだ。彼のCD」
その言葉を聞いて唯は納得する。
いくらクラシック界の重鎮とは言え、やはり現代音楽、それも日本人作曲家ともなれば、好むものの人数は限られる。
仁科の心にも浮葉の演奏は響いたのか、彼もいつも見せる笑みとは異なり、どこか魂が抜けている、そんな感じの表情を見せていた。
それにしても……
こんな演奏をするなんてずるい。
それが唯の本音だった。
見に来た自分が一番悪いことはわかっている。
だけど、諦めようとしていた気持ちがどこかにあった。
それなのに、心を揺さぶる演奏をしてくるなんてずるいし、憎たらしい。
彼は自分には関心がないことはわかっている。
だけど、彼の演奏はそんなことに関係なく自分の心に彼の存在を刻んでくる。
「確かに、君が彼にとらわれる気持ち。わからなくもないよ」
隣から仁科の声が響いてくる。
優しさに包まれながらも、絶望を覆い隠している。唯はそんな気がしてならなかった。
6.揺れる想い
待ちに待ったコンクール本選。
世界への切符を掛けたグランツとの戦い、いや今のスターライトオーケストラの実力ではグランツから切符を奪う気概でないと勝ち抜けない戦いがいよいよ始まった。
自分たちの演奏は終わり、現時点で出せるものは出し尽くした感はある。
興奮冷めやらぬ気持ちはあるが、結果発表までは時間がある。
そこで唯は会場付近を散歩することにした。
広葉樹はすっかり葉を落としているが、それはまるで春に備えてエネルギーを蓄えているようにも見える。
一見寂しいように思える光景だが、幸い日差しがあるため、そこまで寒い感じもしない。
すると、そのとき唯の耳に聞き覚えのある音色が飛び込んできた。
この哀愁漂う音色は……
それでありながら、人の感情を揺さぶってくる表現力。
……あの人しかいない。こんな音を奏でるのは!
唯は思わずその音色に向かって走り出していた。
「浮葉さん……」
「お久しぶりです」
やはりというべきだろうか。
音をたどった先にいたのは、御門浮葉の姿であった。
グランツの出番までもう少しあるから、さらっていたのかもしれない。
ゆったりとした口調は自分の記憶通り。
そして、どこか距離を置こうとしている様子も。
唯自身、ここに来たものの、彼と会ったところで何をするべきなのか正直わからない。
会いたかったのは事実。
だけど、その先に望んでいるものが何であるか見えなかった。
「先日はありがとうございます」
しばしの沈黙が流れる中、先に破ったのは浮葉であった。
『先日』。一瞬、何のことであるか考えるが、おそらく浮葉のコンサートを見にいったことだろう。それしか思いつかない。
見られていたんだ。
しかも、隣にいたのは仁科。
彼とは特別な関係ではないが、スタオケメンバーの中では懇意にしているのも事実。
浮葉から見て、自分たちはどのような関係に見えているのだろう。
焦る気持ちを抱えながら、唯はなんとか平静さを保とうとする。
そんな唯に浮葉は穏やかに話しかける。
「あなたの音も聞きました。随分、変わりましたね」
意外だと思いながら唯は浮葉を見つめる。
彼は自分の、そして自分たちの力不足を感じてスターライトオーケストラに入らなかった。
それが唯の認識である。
そして、彼が自分たちの実力を認めることがあればスタオケ加入についても検討してくれるのではないか。そんな期待がどこかにあった。
だけど、浮葉の口調からはそのような情熱を感じることはない。
ただ、唯の音色が変わったという事実を淡々と述べる。それだけであった。
「秋風は 身をわけてしも 吹かなくに 人の心の 空になるらむ」
「え?」
季節外れとも言うべき秋の歌。
あいにく自分は和歌に詳しくはない。
だけど、彼の、浮葉の諦めが入った口調から察するに望ましい状況を告げているわけではないことはわかる。
そして、気づきたくないのに気づいてしまう。京都で彼が自分と心通じ合っているように感じていたが、それは唯の思い上がりにすぎないということが。
みじめ。それ以外の表現が思い浮かばない。
そして、これ以上彼の前にいることに耐えきれなくなり、唯は思わず走り出してしまった。
「唯ちゃん!」
さすがに建物の中に入ると走るわけにもいかず、唯はとぼとぼと控室に向かって歩き出していた。
懐かしさを感じる声に振り向いたところ、そこにいたのは仁科であった。
「仁科さん……!」
札幌で出会ってから何かと一緒にいることの多い相手。
だけど、今の今まで存在を忘れていた相手。そのことを想い知って唯は愕然とする。
唯は気がつくと涙がこぼれていた。
それがどんな気持ちから出るものなのか自分にはわからない。
「あの人のことは好きなんです。あの人は私の望む言葉をくれるわけでもないのに!」
ひどいことを言っていると思う。
札幌で出会ったときから、浮葉に対する心の傷を仁科で癒そうとしていた。意識的にも、無意識にも。だけど常に浮葉のことが頭から消えることはなく、そして、これだけ彼は優しくそばで見守ってくれたのに、唯が出した答えはこれだった。
そんな唯に対し、仁科は唯を抱き寄せながらそっと頭を撫でてくる。
「でも、君は彼と一緒に歩きたいかと言われると違うんだよね」
仁科の言葉に唯は言葉を失う。
同じ空間に生きていながら別の次元にいる。そんな人。
逃げ水のように近づくと消えてしまうそんな存在。
だからこそ惹かれているが、だからこそ浮葉とともに過ごす未来は想像つかない。
仁科は小さくため息を吐きながらそっと呟く。唯に聞こえるか聞こえないかの声で。
「恋と憧れの違いを君に教えてあげられたらな……」
え?
彼がときおり放つ意味深な言葉。
今もとても深いことを言ったような気がする。
だけど、その真意はどこにあるかわからない。そして、その言葉が本当に意味することも今の唯には理解できなかった。
「もし、何かあれば連絡して」
その言葉を残して仁科は唯の目の前から去っていく。
ただそれは投げ出すような言い方ではなく、優しさに包まれている。そんな言い方であった。
7.新たな動き
「グランツと合併?」
「ま、正確に言うとちょっと違うが、グランツは解散することになって、何人かはスタオケに来ることになったってよ」
「何人かって、弦楽器は半分以上はグランツの人間になってしまうだろ」
「それを言ったら、人数に限りある管楽器はスタオケのメンバーが残れるかあやしいよ」
年が明け、唯の耳に入ってきたのは衝撃を通り越した内容であった。
リーガルレコードの社長・成宮小百合の失脚。
その影響は多大なものであり、グランツの解散もそのうちのひとつであった。
ただ、裏でどのような力が動いていたのかはわからない。
グランツは個人としては優秀な実力を兼ね備えたものも多く、自分たちのあずかり知らぬところで希望する者はスタオケへの加入を認め、そのメンバーで世界大会で戦うことが決まったらしい。
まるで遠い世界の言葉を聞いているかのような気持ちになりながら唯は銀河から渡された移籍を希望しているものの一覧を見る。
コンミスとして見るべきなのは全体のこと。
だけど、やはり真っ先に見てしまう、クラリネットのメンバーを。
『御門浮葉』
その名前を見て、唯は言い様のない感情が身体をめぐるのを感じる。
浮葉がスタオケに来る。
去年の秋にあんなに望んでいたこと。
だけど、事情が事情だからだろうか、それとももっと別の理由があるからだろうか。
今は嬉しいとは思えない。
むしろ疎ましくすら思う自分がいる。
「今さらだよね」
別に意地になっていたわけではない。
ただ、浮葉が来なかったことでスタオケのメンバーは自分たちに欠けているものを各々見つけ出し、技術を磨いてきた。
今さらやってきたところで、彼のことを異物のように受け止める自分がいる。
唯はふと仁科のことを思い出した。
正月はこちらで過ごした彼だが、「そろそろ雪かきのために帰らないとね」。そう言いながら札幌の自宅へ帰っていった。
彼はグランツの合併を知っているのだろうか。
おそらく篠森か銀河が連絡を入れているのだろうが、彼はどう思っているのか知りたい自分もいた。
すると、唯のスマホに通知が来た。
以心伝心なのだろうか、仁科からのマインだった。
「こっちはすごい雪だよ」
その文字とともに仁科の自宅からなのだろうか、背丈ほどの雪が降り積もっている写真が送られてくる。
でも、これは毎年のことで、明日にはやむとのこと。
そして、昨日ネオンフィッシュのライブが無事終わったことを伝えてきた。
唯の脳裏には札幌で初めて仁科と出会った日のことを思い出す。そして、その日の温かい気持ちも。
札幌に行けば何かつかめるのかもしれない。
そう思うとヴァイオリンケースとキャリーケースを取り出し、唯は反射的に羽田空港へ向かった。
「ごめんなさい、急に来ちゃったりして」
「いや、いいよ」
急に新千歳空港に降り立った唯に対し、仁科はイヤな顔ひとつしないで迎えてくれた。いた。
飛行機を降りた時に漂う冷気に唯は震え上がる。
「冬だから観光できるところは限られているけど、どこか行きたいところはある?」
新千歳空港駅から快速エアポートに乗ると仁科がそう話しかけれてくる。
以前は車で移動したが、今日は雪の量が多いため控えたとのことだった。
確かに仁科の言葉通り、車窓から雪が降る様子が見える。それも大粒の雪が視界を遮る程度の。札幌近郊ではありふれた光景なのだろうが、横浜では滅多に見られない光景のため目を離すことができない。
それにしても。
横浜も冬季は営業時間を短縮しているところはあるが、雪で入ることができないというのはやはり札幌だと思う。
「特にないです。仁科さんに会いたかっただけだから」
仁科は一瞬、真顔になる。
しかし次の瞬間にはいつもの柔和な笑みを見せる。
「そう。それは嬉しい言葉だね」
たわいもない会話、グランツの解散について切り出すことができないまま、電車は札幌駅に到着する。
電車から降りたとき、突き刺さるような空気が唯を襲ってきて、あらためてここが氷点下の世界であることを実感する。
エスカレーターを降り、改札をくぐり抜けると仁科が案内してきたのは駅近くのホテルの展望レストラン。
そう、初めて仁科と出会ったばかりの頃に行った場所。
雪のせいかさほど混んでおらず、ふたりはすぐに席に案内される。
窓から見える景色は雪で覆われており、この間見ることができた山を臨むことは叶わない。
それどころか、目の前のビルですら視界が遮られて見えないくらいだ。
物珍しさも手伝い、唯はガラス越しに雪が降る様子から目が離せないでいた。
やがてホットコーヒーが運ばれ、仁科が口をつける。そして、呟く。
「北海道に住んでいると珍しいことではないよ。札幌都心はそこまで大変でないけど、少し遠くに行こうとするとそれはもう大変だよ」
以前、ネオンフィッシュのライブの移動に付き合ったとき、雪道特有のハンドル操作が大変そうだと思っていたが、それだけではないらしい。
札幌が晴れているからと言って油断して遠出をしようとすると、天気が急変し、地吹雪におそわれ、1メートル先も見えない。そんなこともあるらしい。
「それでも電車は雪対策がしっかりされているから、札幌近郊から電車通学しているヤツは雪を理由に遅刻することはないけどな」
確かにこんなに降り積もっているにも関わらず電車は平然と動いていた。
同じ日本なのに、こんなに生活環境が違う土地があることに今更ながら気がつく。
すると、仁科が唯に視線を向けてくる。そして、そっと言葉を紡ぐ。
「君にとっての御門くんも、雪に覆われているようなもんじゃないかな」
え?
仁科の言わんとしていることがピンと来ず、唯は彼の顔をまじまじと見つめてしまう。
すると、彼は唯から視線を移し、虚空を見つめる。
そして、思い出したかのように話す。
「北海道もこんな天気の日もあるけど、6月の澄んだ気候は本当に素晴らしいよ」
今はこんなに厚い雲が空を覆っているのにね。仁科はそうつけ加える。
6月。
横浜では梅雨時でどんよりした空とまとわりつくような湿気が鬱陶しい頃。
そんな中、ここ北海道では青空が広がっていると言われてもにわかに信じられない。
「状況が変われば彼への見方も変わるかもしれないし、彼が君に向けるものも変わるかもしれない。これこそ、君が雪のない札幌を知らないようにね」
札幌に初めて来たときも、今回も雪に覆われている。
1年の半分は雪が降る地域であるが、逆に言えば残り半分は雪のない季節で、唯はまだそんな札幌の景色を見たことがない。
浮葉も似たようなものなのだろうか。
出会ってからともに過ごした時間は短く、理解せぬまま別れの時が来た。
もっといろんな表情を知れば、彼に対する気持ちは変わるのだろうか。それが良い方向に進むのか悪い方向に進むのか、今の唯には見当がつかないが。
レストランから出て、仁科とは入り口で別れることにする。
唯さえよければ仁科は明日も案内してくれることを申し出てくれたが、丁重に断ることにした。
もう少しこの雪に覆われた街でひとりになって考えてみたいと思ったから。
「わかった。君の気持ちを尊重するよ。でもまた札幌の雪が見たくなったらおいで」
「でも、仁科さんは……」
仁科は東京の私大に推薦入学が決まっている。
その話をしたとき「雪のない冬を過ごしてみたくてね」と冗談めかして話していたが、案外それは本気だったのかもしれない。
ほんのわずかであるが、冬の北海道に足を踏み入れた唯はそんなことを思ってしまう。
「そうだね、春からもっと君の傍にいられるね」
軽い口調で話しているが、冗談には聞こえない。
そして、上京という道を選んだ男が、自分の故郷に案内するというのは深い意味が隠されているように思えてならない。
だけど、その言葉の意味を唯は考えないことにした。
「では、横浜で待っていますね」
その言葉を残し、唯は仁科に背を向ける。
スタオケの練習に御門が参加する日も近いうちにやって来るだろう。
その結果、自分の心にどんな化学反応が起こるか、今は知る由もない。
ただ、一度心を真っ新にしたかった。
この白い雪たちが心を無にしてくれることを願いながら、唯は雪の降る札幌の街を歩きだした。