今は交わらない音色だけど……5月のまだ完全には覚醒しきってはいないが、強くなってきている太陽の光の下で、朝日奈唯はヴァイオリンの演奏をしていた。
スターライトオーケストラの次回演奏会では、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏する。
ソロの箇所は十分にさらったつもりだが、やはり本番の空気に呑まれると何が起きるかわからない。
そこで人目を意識するため、あえて人の多い場所で演奏することにした。
ここは水族館が近くにあり、平日にも関わらず人が多く通る。
大抵のものは唯の存在を無視するか一瞥するだけで終わるが、ときには熱心に足を止めて聞き入るものもいる。
演奏会に比べてクラシックに詳しいものが少ないため、反応は如実に現れる。一音一音の反応を確かめながら唯はコンチェルトを弾ききった。
まばらであるが拍手をもらい、中にはヴァイオリンケースに投げ銭をしていくものもいた。演奏会のチラシも何枚かなくなっており、多少の宣伝効果はあったのかもしれない。
そう思いながらヴァイオリンを片付けようとしたそのとき、唯は観客の中に見覚えがあるものの存在を見つける。
唯が驚いた顔をしたことに向こうも気がついたのだろう。そっと近づいてくる。
「お久しぶりです。朝日奈さん」
「御門さん……!」
京都で出会い、それから幾度も別れと再会を繰り返している目の前の青年。
運命が交わったと思うものの、あくまでも一時のものであり、ともに過ごすことは許されない。そんな相手。
ほんのりとした憧れの気持ちは心の中に残っているが、彼の状況、そして、そもそも彼自身が自分のことをどう思うかを考えると、この想いを貫く勇気が持てない。
だけど、唯のそんな憂いを気にする素振りもなく、浮葉はいつもの本心を読み取ることのできない笑みで話しかけてくる。
「演奏は終わりですか?」
「ええ。御門さんはなぜここに?」
「黒橡の仕事で水族館に用がありまして。ちょうど終わったところなので、歩いていたらあなたの音が聞こえてきて」
それを聞いて唯はなるほどと思う。
浮葉はクラリネットのケースを大切に抱えている。
そして、服装も質素なものではなく、奇抜ともいうべきデザインのものを着ている。
「朝日奈さん、このあとのご予定は?」
「特には……」
今日はスタオケの練習は休み。
このあとは近くのショッピングモールを散歩しようかなと考えてはいたが、特にはこれといった予定はない。
「でしたら、水族館のチケットをいただいたので、よろしければご一緒しませんか?」
意外な申し出に唯は思わず目を見開いてしまう。
そして、水面のように透き通った浮葉の瞳を見つめていると唯は吸い込まれそうになってしまう。
夢のような申し出を断る理由はない。自分はこの人に憧れているのだから。ただ、想いを貫く勇気が持てないだけで。
「はい」
引き込まれるように唯が頷くと浮葉が笑みを浮かべる。
その様子がどこか嬉しそうだったのは気のせいだろうか。
「では、こちらです」
そっと手を差し出されたかと思うと手をつながれ、そして導かれる。
彼がこのような動作をしてくることに唯は思わず期待で胸が高まってしまう。だけど落ち着かなければいけない。そう自分に言い聞かせながら唯は水族館の入り口へと向かっていった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「誰も御門さんのことに気づかないのですね……」
学校で黒橡のことを聞かない日はないし、電車に乗っているときにふと隣の者のスマホ画面を見ると黒橡が映し出されていることも珍しくはない。
だけど、それだけ世間で話題になっているものの存在にも関わらず、まわりの者は浮葉の存在に気がついていないようだ。
「ええ、みなさん、魚を見るので忙しいですから……」
浮葉はそれだけを答える。
そうなのかもしれない。
ここにいるものは、家族であったり、恋人であったり、友人であったり、大切な者たちと魚を見るためにここに来ている。
隣にいるものが誰であるか気にも留めないだろう。
唯はふとそのことに安心する。
まわりに人はいるが、誰も自分たちを気にかけない。そう、ざわめきは気になるものの、ここにいるのは自分たちふたりだけのようなもの……。
「海に馴染みがないからでしょうか、新鮮に感じます」
ゆっくりとふたりで館内をまわっていく。
ここに入るときにつながれた手はいまだに解かれることはない。そして、そうされると寂しいと思う自分がいることに唯は気がついていた。
「意外と暗いのですね」
魚たちに配慮してか、確かに照明はある程度落とされている。
大型水槽の前を通るとちょうど餌やりの時間だったらしい。
水槽の中に散らばっていく餌に魚たちが飛びつく様子をまわりの者たちは興味深げに見つめている。
「魚も大変ですね。食事の時間すらエンターテイメントの材料にされるのですから」
その声色に憐れみすら感じるのは、彼が自分の状況と魚たちを重ねているからだろうか。
食べることに困らないものの、その他の自由は失った生活。それは一概には幸せだとは思えない。
唯が黙り込んだことに気づいたのだろうか。
浮葉はつないでいる手に力を込める。
「さ、行きましょうか」
先ほどのひとり言は忘れてほしい。そう言わんばかりに。
やがてふたりは深海魚のコーナーにやってくる。
光が届かない海で暮らしているものたちのため、照明もかなり落とされている。
だけど、時折光の屈折の関係なのか、自分たちの様子が水槽に映し出されている。
水槽に映る浮葉を見て、あらためて綺麗な人だと思う。
その隣にいるのが本当に自分でいいのか思いつつも、ここに来ることを誘ってきたのは浮葉だ。だとすればせめて彼にふさわしく自信を持とう。そう思って背筋をピーンと伸ばすと、水槽の中の浮葉と目が合う。
はっきりと見ることは叶わないが、どこか遠くを見つめるような、そんな目つきだ。
「あなたを私の色で染めたい気持ちがないと言えば嘘になりますが…… あなたは光のもとが似合っているのでしょうね」
一瞬のことで、唯の耳からその言葉がこぼれ落ちそうになる。
……なんだかとんでもなくすごいことを言われたような気がする。
思わず隣の浮葉を見つめるが、彼は何事もなかったかのようにいつもの本心がわからない笑みをした。
そう、まるで先ほどの言葉が幻であるかのように。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「眩しっ……!」
水族館を出て太陽のもとへ出ると光が強く感じる。
思わず手で光を遮りながら唯はそう呟いてしまう。
そんな唯を浮葉は寂しそうに、でも一方で温かみを感じる眼差しで見つめる。
「あなたはやはりこちらの方が似合っていますね」
そう言いながら唯の髪を一筋触れてくる。
「先ほどの演奏、素晴らしかったです。技術もさることながら、あなたらしい優しく、それでいながら感情を揺さぶる音色でした」
浮葉の言葉に唯は心が温かくなるのを感じる。
初めて会ったときに聞き入ってしまったクラリネット。それを奏でる人から褒められると、自分の中で自信となる。
そんな唯に対し、浮葉は伏し目がちになる。
「ただ、残念ながらあなたの音色を聞きすぎてはいけないのでしょうね。私はまだ黒橡にはなりきれてはいない。あなたの周りの者をも変えてしまう音色を聞いていると、自分が演じるべきものがどのようなものであるか忘れてしまうでしょうから」
銀河だっただろうか。誰かに言われたことがある。
自分は決して上手いわけではないが、まわりの者をうまくコントロールし、そしてそれを導く力がある、と。
だとすれば、彼自身すら気がついていない側面を存分に出す黒橡で活動するにあたっては、自分の音色は危険に違いない。
そして、自分自身にとっても、彼の音色を聞きすぎると、おそらく自分の持っている良さを失ってしまう。
まだ互いに自分の音色を追い求めている段階。確固たるものを見つけ出すまではきっと近寄り過ぎてはいけない。そう直感が告げていた。
だけど……。
「もう少しだけ一緒にいていただけませんか?」
唯は思わずそんな提案をしてしまう。
今日ともに過ごしてあらためて実感した。
この人に、浮葉に惹かれる気持ちは止めることができないと。
長い時間ともにいると相手の色に染まってしまい、おそらく互いの個性を打ち消すことになるだろう。
だけど、少しの間なら刺激となり、互いに高めるきっかけとなるに違いない。
もっともそんなことは口実に過ぎないとわかっているのだが。
「ええ、では、あちらはいかがでしょうか?」
唯の心に確かに根付く恋心を見破っているのだろうか、浮葉はくすりと笑いながらそう提案してくる。
彼が指差したのは水族館に隣接した施設にある観覧車。
「あそこならふたりで語り合うことができるかと思います」
唯はその言葉に頷く。
水族館もまわりのものたちは自分たちに気を留めかったが、ざわめきが気にならないと言えば嘘になる。そして、誰かに見られているかもというほんの少しの不安も。
だからこそ、限られた時間とはいえ、ふたりっきりになれる時間が貴重であり、嬉しい。
そっと浮葉が手を差し出してくる。
日差しは傾きかけているが、その手が変わらず温かく、そして思いの外力強いのが印象的であった。