あなたに残して欲しい桜の痕跡温かい……
そう思いながら朝日奈唯が目を開けると、いつもとは違う天井が見えた。
目を覚ますと強い力で抱きしめられているのを感じる。
え、何!?
そして、ここはどこ?
そう思うものの、羽交い締めにされているため身動きが取れず、そんな中、記憶を探る。
昨日は確か学校で友達とテストの話をしていた。するとマインの通知が来て、それが御門からのものであり、誘われるがまま京都に来た。
夜の御門の家に来るのは初めてで、窓から光が見えない光景を新鮮に思った。
そして、案内されるがまま離れに来て、そして彼の父親ー衣純の盗作の真相や、御門自身の父親との思い出に耳を傾けた。
そして、おそらく彼が久しぶりに奏でたであろうピアノ。その透明感ある旋律に心打たれていると窓から雪が降っているのが見えた。それはまるで御門が父に呼び掛けたことに呼応するかのように。
そして御門がに肩を抱き寄せられ、その温かさにほっとしていると、彼も同じ気持ちであることが伝わってきた。
すると「このまま朝を迎えたら」と言われ、その意味を考えて頬が火照ったことも覚えている。
いつも涼しい顔をしている御門であるが、彼も清廉潔白な人間でないことはこの数ヶ月の間に学んだ。
頬に触れてくる吐息が自分のことを求めているような気がして、自分たちの関係が一段階上がることを感じてドキドキした。
一方で御門となら「そういうこと」をしてもいいと思って頷いたことも覚えている。
そこまで考え、唯はひとつの可能性に気がついて青ざめる。
この状況は、自分が覚えていないだけで御門と「そういうこと」をしたのかもしれないということに。
確かにシャツやズボンのボタンが外されている。
そして、その可能性をさらに肯定に近づけるのは、逞しい身体に抱きしめられているという事実。
自分の身体を離すまいとする強い意思を感じ取り、唯は簡単に動くことができない。
そして、状況から察するにこの腕の持ち主はただひとり。
するとそのとき、耳元に寝言とも寝息とも区別のつかないものが聞こえてきた。
「ん……」
無意識に出ているもののはずなのに、色香が含まれる声は間違いない。昨日間近で聴いたのと同じ声色。
ということは自分を抱きしめているのは、つまり……
「キャーーーーー!!!!!」
唯は思わず無意識に叫んでしまった。
その声に反応したのだろうか。唯への拘束は解け、自由の身になる。
そして、唯が振り向き様に見つけたのはやはりというべき御門の顔。この世に存在するのが不思議なくらい秀麗な顔ではあるが、その微笑みは真っ直ぐ唯に向けられていた。
そして、さきほどまで覚醒していなかったとは思えないほどはっきりした声で話し掛けてきた。
「おはようございます」と。
「オハヨウゴザイマス……」
昨夜の記憶が曖昧なためどうしても堅い返事となる。
布団の中で向かい合うような形になったし先程唯が大声を出したにも関わらず、御門はそんなこと気にせず涼しい顔をしている。
そして、その美しく整った唇から言葉が漏れてくる。
「昨日は己をさらけ出してしまい、申し訳ございません。冷静になってみると恥ずかしいものですね」
その言葉を聞いて唯は背筋が凍るのを感じる。
……やっぱり「そういうこと」をしたんだ。覚えていないだけで。
「いえ、大丈夫ですから」
と言ったものの、正直記憶にはない。
自分はどんな反応をしたのだろう。
こういうことをしたのは初めてとはいえ、彼が満足するような行動はできていたのだろうか。正直自信はない。
すると、御門が唯の頭をくしゃりと撫でてくる。
「昨日も思いましたが、本当に可愛らしいお方だ」
彼の表情は相変わらず切なげなものが含まれていたが、やがてそれは今まで見たことのない晴れ晴れとした表情に変わるのを見て、唯はそっと安堵の溜め息をつく。
きっと、記憶にないけれど、昨夜の自分は彼を満足させたのだろう。少なくともこのような表情をさせる程度には。
ただ、せっかくのことなのに、それも初めてのことなのに記憶にないのが寂しい。
そう思っていると、御門は布団から出てシャツのボタンを締めながら唯に話し掛けてきた。
「朝餉にしましょうか。お客人、しかもこんな可愛らしいお嬢さんがいらしたと知り、フキも腕によりを掛けて用意したそうですから」
🌸
母屋に向かうと、そこではまるで旅館の朝ごはんを思い出させるようなメニューがテーブルいっばいに並べられていた。
「嬉しいですわね。浮葉様がこんな可愛いお嬢さんと朝を迎えるなんて」
「ええ。でも、母上には秘密ですよ」
この家に来る度に顔を合わせ、すっかり顔馴染みとなったフキであるが、今日はいつも以上に嬉しそうだ。
そして、いつもは本心を探ることができない御門も今日は柔和な笑みがこぼれているような気がする。
彼をこんな表情にさせたのが自分であるとすれば素直に嬉しい。
だけど、メニューの中にお赤飯があるのを見て唯は気恥ずかしくなる。
フキはっきりと言ってこないが、自分が御門と「そういうこと」をしたと察して、お祝いしているつもりなのだろう。
本当ならたくさんのメニューで喜ぶべき朝食であったが、複雑な心境になりながら箸を進めるしかなかった。
🌸
勢いよく京都に来たが、その日は幸いなことに土曜日であった。
学校は休みであり、テストが近いためスタオケの練習もない。
だけど、せっかくならもう少し御門の傍で過ごしたいと思うものの、現実に帰らないといけないのも事実であった。
離れに行き、荷物を整理しながら唯は溜め息を吐いていた。すると、背中から御門の声が聞こえてきた。
「本当はあなたとこの街をもう少し堪能したいところではありますが、そろそろ横浜に帰さないといけませんね」
やはり彼も同じことを考えているらしい。
名残惜しい気持ちで思わず御門を見つめると、彼はそっと唯に近づき両手で頬に触れながら見つめてきた。
「でも、私も東京に帰らなければなりません。もしよろしければ新幹線で一緒に帰りませんか?」
「本当ですか!?」
あいにく京都でともに過ごすことは叶わない。
だけど、もう少しだけ一緒にいることができる。しかもそれは彼の要望で。そのことが唯の心を喜ばせる。
「ええ、離れがたいのは私も同じですから」
🌸
「昨日はあまり眠れなかったでしょう? 私も仮眠を取りますから、気兼ねせずお休みください」
新幹線が京都駅を出るなり御門にそう言われる。
顔には出さないが、彼もおそらくよく眠れていないための気づかいかもしれない。
二人が座っているのは二人掛けのシートのため、周りの目をあまり気にすることはない。
すると唯は朝に感じることはなかったけれど、疲労が迫ってくるのを感じる。そして、身体のあちこちが痛いことも。
御門の言葉に頷きながら目を閉じると、彼が手を握ってくるのがわかる。
「本当に可愛らしい方だ。昨日もそうであったように」
もしかすると唯に聞こえないように呟いたつもりだったのかもしれない。
だけど、そっと漏れ聞こえてきたその言葉が唯の心を歓喜に引き寄せた。
新横浜までの道中はあっという間だったかのように思える。
途中何度か目を覚ましたものの、その都度隣に御門が瞼を閉じている様子がうかがえ、つながれた手は相変わらず温かい。そして、彼の存在感を示す香りが鼻を掠めた。
新横浜駅の到着を告げるメロディを寂しく思いながら聞いていると、御門がそっと唯に告げる。
「では、またお会いしましょう」と。
次いつ会えるだろう。確実ではない約束。
だけど、一夜をともにしたからだろうか。
そう告げる御門の瞳がいつもより艶めいている気がした。
🌸
「ただいまー」
スタオケの練習は休みであったものの、菩提樹寮は特に予定がないメンバーがラウンジで思い思いの時間を過ごしていた。
勉強するものや、音楽を聴いているもの。そして一方ではスマホやPCを見るもの。
帰寮の挨拶をすると、そこにいるメンバーが一斉に唯の方を見てきた。そして、その表情から唯はみんなが何を考えているのか瞬時に察する。
「ほう。これは」
「先輩。こんなに見せつけられると照れるな~」
反応も予想通り。
はっきりと口にはしないけど、御門と「何かあった」と思っているのだろう。
確かにまったく何もなかったわけではないし、それをわざわざ否定するのは、逆に「何かありました」と言っているようなものだから、唯は口を噤むことしかできない。
だけど、自分が口を開くまではいつも通りの和気あいあいとした空気であったが、自分が来たことで好奇の視線が飛び交うのを感じる。
「ほら、コンミスを困らせないの」
居たたまれない気持ちになった唯に対して助け船を出してきたのは香坂であった。
唯は昨日、新幹線の中から彼女に京都に向かっている旨のマインを送ったことを思い出す。
そして、そのときの「わかったわ。気をつけてね」という簡潔な返事がこの先輩らしく安心したのを思い出す。
香坂の言葉は牽制と受け取ったのだろうか。他のメンバーはそれ以上何も話すこともなかった。
そして、唯は香坂に食堂に促された。
「昨日はあなたの話でもちきりだったのよ。実は駅に向かうあなたを目撃したメンバーもいたし、噂になっていたのよ。御門くんと何かあったのだろうって」
香坂が用意したミルクティーに口をつけていると、彼女はおもむろに口を開いた。
それを聞いてやっぱりかと思う。
自分では大事にならないように行動したつもりでも、誰かかれかの目に触れた以上、話を持ち出さずにはいられないのだろう。しかも高校生の男子となればなおさらのこと。
「でも、竜崎くんが『破廉恥だ』と一喝したり、弓原くんが呆れたりしたから、そこで会話は終わったけど」
そんな報告を聞きながらみんならしいなと思ってしまう。
そして、不可能だとわかっていながらも、その場にいない自分を寂しく思う。
すると、唯は香坂が寂しげな目で自分を見ていることに気がつく。
「あなたから漂ってくるのは御門くんの香りね。すっかり彼のものになってしまったのね」
言われて気がつく。
御門から漂う伽羅の香り。
それを傍で嗅ぐのが心地よかったのに、いつの間にか自分もその匂いを纏っていることに。
それはまるで自分が誰のものであるか御門が牽制のためにマーキングしているかのように思えた。
🌸
横浜に帰ってきた唯がやるべきことはたくさんあるけど、何をするにしても気分を一新する必要があるため、シャワーを浴びることにした。
昨夜から徐々に移ってきた御門の匂いは一瞬にして消えてしまう。
彼を感じとるものがなくなることを名残惜しく思いながらなんとなく自分の肌を眺めていると違和感を覚える。
もしかして……
唯の中に生まれたひたつの可能性。
だけど、あくまでも可能性の域で、確実なこととはならなかった。
そして、自分ではいくら考えても答えが出ることはなく、直接御門に確認するしかない。
ただ、彼は多忙となり、会うことが容易ではなかった。
唯はあることが気になりつつも、機をうかがうしかなかった。
🌸
『御門家の桜がそろそろ満開を向かえます。よろしければ一緒に花を眺めませんか?』
御門からそう連絡が来たのは、少し時間が経った3月下旬のこと。
春休みのため時間に余裕があるはずであったが、スタオケの練習との兼ね合いで、その日も結局唯が京都に着くのは夜になってしまう。
「ようこそ、いらっしゃいました」
御門に迎えられ、そして離れに案内される。
彼がここで自分のことをさらけ出した日のことを懐かしく思う。
あの日は雪がふたりを包み込んだが、今日はそれが桜に変化している。
窓から映る桜を眺めていると御門が優しく引き寄せるのを感じる。
「あの日と同様、あなたの身体は温かく、そして優しい……」
溜め息混じりにきこえる声に心地よさを感じていると唯はひとつのことを確認したいと思うようになった。
これから先、彼とともに過ごすのであれば確認しておかなければならないひとつのことを。
「御門さん、教えていただけますか? この間、この部屋で過ごしたときの私の様子を」
背中から抱きすくめられているため、直接表情をうかがうことは叶わないが、窓に映る彼の姿から唯が何を聴きたいのか把握していることがうかがえた。
「これを話して信じるかもしれないですし、信じないかもしれませんが……」
そこで一回休む。
そして窓越しではなく、唯の瞳をはっきりと見て話してくる。
「あの日は何もなかったのですよ」と。
御門の言葉を聞いてやはりかと思う。
慣れない環境で寝たためか身体がギシギシいうのは感じたが、下半身に違和感はなかった。
「ただ、あなたもご存知のように同じ布団に入っていたため、そういう意味で『何もなかった』と話すのは説得力がないかもしれませんが」
そう言われて思う。
自分も御門と同じ布団に入り、そして彼に抱き締められていたから、彼と「何かあった」と勘違いした。
「私に導かれるがまま床についたあなたでしたが…… 前の日もテスト勉強で夜遅くまで起きていらしてのでしょう? そのせいか、あのあとすぐにぐっすり眠ってしまったのです」
そう話され、内心唯は頭を抱える。
いくら長距離の移動疲れがあったとはいえ、あんな叙情的な場面で眠る自分の色気のなさに。
だけど、御門は気にしていないのだろう。クスッと笑って唯を見つめてきた。
「ただ、私としては、自分の状況を差し置いて私の元に来て下さり、しかも私の話に耳を傾けてくださったあなたのことが本当に愛おしくて…… それでつい抱きしめてしまったのです」
「そうだったのですね」
御門の言葉を聴いて納得する。
横浜に帰ってシャワーを浴びたときに覚えた違和感は自分の肌に何一つとしてその証拠がなかったこと。
すぐに消えてしまう香りよりも彼はもっと確実な痕跡を残しそうなものなのにそれがなかった。
そのとき唯は自分の顎がくいっと持ち上げられるのを感じる。
すると、御門が真剣な眼差しで唯を見つめていた。
「それにあなたのことが大切だからこそ、感情のまま抱くのではなくのはよしたいと思いました」
その言葉を聞いて唯は心の中に温かいものが流れるのを感じる。
あの雪の日、勢いに任せて夜を過ごすこともできたのかもしれない。
だけど、そうではなくあらためて機をうかがうのが御門らしいと思った。
「よかった…… 初めてのことで、しかも御門さんが相手なのに、忘れていたらどうしようと思っていたから」
すると御門は唯の頭をくしゃりと撫でてきた。
見上げると彼が優しく自分を見つめていることに気がつく。
そのとき唯はひとつのことを思い出す。
「でも、スタオケのメンバーもみんな私が御門さんと『そういうこと』をしたと誤解しているんですよね……」
すると、御門は珍しくいたずらっ子のように目を輝かせる。
「そうだったのですね。でも、あなたはスターライトオーケストラの中でも人気者でしょう? 彼らへの牽制にはなったかもしれませんね」
その言葉から滅多に本心を見せることがない彼の独占欲がうかがえた気がする。
そんなところが可愛いと思ってしまい、唯は自分から御門に身体を近づけ、そしてその体躯を抱き締める。
以前布団の中で抱き締められたときも感じたが、一見女性的な美しさを持つ彼であるが、やはり身体の逞しさは男性特有のものであった。
「雪の中ともに夜を過ごすのも素敵だと思いますが、桜の中はもっと素敵かと思います」
唯のその言葉で御門が息を呑む気配が伝わってくる。
誘われるがままこの家に来た時点で彼の中で期待したものはあったのだろうが、それでも唯の口から聞くとまた気持ちも違うだろう。
そして、唯も彼が自分を求めてきていることを感じて胸がいっぱいになる。
「そして私の肌に残していただけませんか? 桜の痕跡を」
「よろしいのですか?」
「もちろん」
その言葉を合図に御門が唯に顔を近づけ、そしてそっとくちびるを重ねてくる。
彼もやはり慣れていないのだろうか。動作がぎこちなく感じる。
だけど、ともに過ごしていれば、そんなこともなくなるのだろうか。思わずそんなことを考えてしまう。
くちびるを重ね合わせながら唯は以前この家の庭を案内されたときのことを思い出す。
この家の庭は四季の変化を楽しむことができるという。
これからも彼とともに変わりゆく景色を眺めることができるのだろうか。
やがて唯は御門に導かれるまま布団に横たわる。
窓から見える桜がひらりひらりと散っていくのが印象的だった。