この世界の人間はケーキ・フォーク・それ以外に分かれている。
自分は生まれてこの方それ以外――いわゆる普通に属しており、特に不都合もなく生きてきた。幸か不幸か腕っぷしがそこそこ強いため、フォークに襲われているケーキという現場に遭遇した際に数度助けたことがある程度の関わりしかない。
バイト帰りのいつもと変わらない夜、建物と建物の間の細い路地から悲鳴が聞こえ、そちらに足を向けてみれば案の定ケーキがフォークに襲われているという状況だった。慣れた拳でフォークをぶっ飛ばし、へたり込んでいたもう一人の手を取ってとりあえず路地裏から安全な大通りまで出る。暗いところから多少マシになった灯りの下でざっと見たケーキの彼は無傷のようでほっとした。
ありがとう、とやっと絞り出したような震える声を出す彼に、なんとも無さそうで良かった、気を付けてねと軽く声をかけてその場を立ち去ろうとした俺の腕を咄嗟に取った彼はお礼をさせて欲しいと言ってきた。
お礼なんて別にいいよと断るも、それじゃ俺の気が済まないからとしつこく食い下がる様子に根負けし、近くにあったコンビニで缶珈琲を奢ってもらった。本当にそんなんでいいのかと何度も聞いてくるので、たいしたことじゃないしと答えたが、もし俺がとんでもない要求をしたらどうするんだろうと一瞬だけ思っていたなんてきっと思いもしないだろう彼は一緒にスポーツドリンクを買っていた。
バイト帰りの疲労もあり、コンビニの外のベンチに腰をかけ煙草に火をつけてから、ありがたく頂戴した珈琲のプルタブを引く。隣いいか?と遠慮がちに聞いてくる彼にどうぞと言って、ぽつりぽつりと聞かれるまま答えているうちに会話はそこそこ弾んだ。
ケーキの彼――三井さんは、俺の高校の卒業生だった。三つ違うので入れ替わりだったようだ。今は県内の大学生で高校でもやっていたバスケを続けているという。一年の時に膝を怪我したことがあり、必要だったとはいえ治療に費やした期間が相当歯がゆかったらしく、できるだけ長くバスケをしていたいと語る彼の横顔はキラキラしていて眩しかった。
多分彼は人の懐に入るのが上手い性質なのだろう。少数とはいえ何度か遭遇したケーキの人は危険回避と自己防衛の本能が働くのか、他人から一歩引いているような印象がある。けれど彼はさっきのような危ない目に遭ってきたとは思えないほど人懐っこく、頭の回転も速いのか会話のテンポも良く感じた。
互いに手の中の飲み物が空になったところで自然と解散の空気を感じ、立ち上がって「じゃあそろそろ」と口にしかけた俺の服の裾を掴んだ彼は遠慮がちに見上げて口を開いた。
「あのよ、変に思われるかもしれねーけど、俺、もっとお前と話したりしてえなって思って…だからその、連絡先とか聞いてもいいか…?」
同性として羨ましくある長身とスポーツのために鍛えられた体躯を持つ男が上目遣いをしてきたところで俺は今まで可愛いなんて感情は湧いたりしたことはない。だというのにその時確かに感じたのは可愛いという感情に他ならなかったし、なんなら胸のどこかがきゅんとしたような気さえする。
思い返せばもうすでにこの時恋に落ちていたのかもしれない。その後自分がどうなるかも知らずに。
健全にお友達からを経て無事付き合い始めた俺たちは特に問題もなく日々を過ごしていた。けれどその日常はあっけなく崩壊する。
それは部活終わりの三井さんを大学まで迎えに行った日の帰りだった。
夜の澄んだ空気が際立たせたのか、隣を歩く彼からほんの微かに漂う香りに気が付く。
「三井さん、今日香水とかつけてる?」
「いや。なんで?」
「なんかいい匂いする」
「制汗剤じゃね?部活終わりにいつも使ってるし」
「うーん、そういうんじゃないんだよなぁ」
制汗剤によくある爽やかだったりフローラルだったりするようなものとは違うとは分かるのだが上手い例えが思いつかない。ふんふんと顔を近づける俺に「嗅ぐなよ」と擽ったそうに笑う顔はひどく愛らしかった。
思えばこれが兆候だったのだ。
異変が起きたのは突然だった。
休み時間、いつものように屋上で一服しようと煙草に火をつけ吸い込んだが、慣れ親しんだ苦みが一向に感じられない。一口だけ吸ったそれを指に挟んだまままじまじと見つめる俺の行動に、隣で同じく一服していた忠が首を傾げた。
「どした?」
「いや、なんか味がし…不味い気がする」
「まじ?風邪でもひいたか?」
咄嗟に言い換えたのは本能からの危機回避だった。三井さんというケーキの存在と常に関わっていたのも大きい。
もう一度吸って確かめるも煙を吸い込んだという感触しかない。隣にいる忠の吸っている銘柄の違うそれの香りも全く匂ってこなかった。背中を這う冷やりとした嫌な感覚を振り払うように足元に放って爪先で踏み消す。
「自覚症状はねーけどなぁ。大事取って休むわ」
「とかいってサボりの間違いだろ」
ちがいねえ、と笑って屋上を後にする。背中に投げられた四人分の「お大事に~」といういつものトーンが動揺する心を僅かに軽くしてくれた。
気のせい、気のせい、とざわざわする胸に言い聞かせながら教室へ戻り鞄を持って学校を出る。そのまま家へ帰宅するや鞄を放り出し台所に直行した。開けた冷蔵庫の中には昨晩の残りのカレー、使いかけの野菜、買い置きのビール、朝食用の食パン、食パンに塗るマーガリン、調味料各種、その他色々。味見をするかのように片っ端から一口ずつ口に運んでいく。
どれくらい時間が経ったのだろうか。気づけば空っぽになった冷蔵庫の前にへたり込んでいた。
「…はは、」
台所の床に散らばる食材の真ん中で乾いた笑いが漏れる。
―何を食べても、味がしなかった。
そこからの俺の行動といえば我ながら笑い種だった。
まず煙草をやめた。味がしないのなら吸う意味もない。当然友人達からは正気か疑われたが、「恋人がスポーツマンだからさ」と笑えば惚気んなと怒ったり、果たしていつまで続くかと揶揄ったりしながら納得してくれたようだった。
しかし仲間内にはそんな言い訳をしておきながら、当の恋人には何かと理由をつけて会わないようにしていた。もともと大学生で忙しい彼と、高校とバイトと家を往復するだけの俺では圧倒的にこちらの都合のほうがつけやすく、今まで逢瀬は彼のスケジュールに合わせていたようなものだったから、ちょっとその日は無理そうごめんねと言ってしまえば会う機会は格段に減った。
己の味覚が消えてから初めて会った時に彼から甘いホットケーキのような匂いが漂い、久しぶりに感知した匂いに刺激されたのか口内でじわりと唾液が滲んだのがはっきりと分かった。その瞬間の絶望感と自己嫌悪感といったらない。
いつか三井さんを食い殺してしまうくらいなら、きっぱり離れるべきだろう。
別れなければという決意とまだ好きなのにという未練の狭間で揺れ動いていたさ中、彼のほうから大事な話があるからどうしても会いたいと連絡がきた。もしかしたらここ最近のあからさまに避けている態度を察して浮気でも疑われるか、向こうから別れ話を切り出されたりするのかもしれない。
嫌だと反射的に思ってしまった自分に笑いが込み上げる。だってそうだろう、突如として変化してしまったのは体質だけで、彼を好きだという気持ちは変わっていない。
しかし立場が変わってしまったせいで己は彼にとって危険人物になってしまった。フォークにとってケーキは餌のようなものだ。捕食者と餌で恋愛はできない。好きという気持ちだけで捕食行動が許されたらこの世の治安は崩壊する。
嫌だ嫌だと思っていても無常にも当日はやってくる。
人目がある場所がいいと思っていたこちらの思惑など露知らず、俺の家に来たいという三井さんに最初は難色を示したが、外ではできない話だと言われてしまえば頷く他なかった。理性を保てるか自信の無くなりそうな匂いが充満する彼の自宅より己の家のほうがまだマシだろうとも思った。
部屋に訪れた時からどこか思いつめたような表情をしている三井さんに不安と心配が綯い交ぜになる。ローテーブルの前に座り込んだ彼の前に珈琲を出せば、「さんきゅ」といつも通りに笑われて少しだけほっとした。味も分からないのにカモフラージュのために自分用の珈琲を持って向かい側に座る。相変わらず美味しそうな匂いを纏っていたがテーブルを挟んでいるだけまだマシだった。隣になんて座れるはずもない。
「話ってなに?何かあった?」
「あー…」
務めて優しく聞けば躊躇いがちに数度口を開閉させていたが、腹を括ったように上げた顔はどこかさっぱりしていた。
「俺、膝またやった」
「えっ」
「多分、もう今回は完治は無理だろうって」
切り出された話が思っていたものとはだいぶ違っていたため二の句が継げなかった。三井さんにとってバスケがどれだけ大事なものか短い付き合いの中でも分かっているつもりだったし、こんな状態の彼に別れを言い出すなんてもっと無理だと思った。本来だったらすぐにでも抱き締めてやりたい気持ちでいっぱいだった。
だけど抱き締めるどころか今向かい合っているこの状況ですら彼にとって危険であることに変わりはないのだ。真実を告げようと覚悟を決めて息を吸い込むも、彼は思いもよらない言葉で遮ってきた。
「だから俺のこと、食ってもいーぜ」
「‥‥‥は?」
今しがた言われた言葉が上手く咀嚼できずに硬直する。頭が真っ白になるってこういうことなのか。動揺する俺をよそに三井さんはふっきれたような顔で穏やかに笑っていて余計に混乱する。
「お前フォークだろ」
直球で告げられた言葉に喉がひゅっと鳴る。
なんで。どうして。いつから気付いていた?
「いや、正確にはフォークになっちまった、だな」
当たってる?と不敵に笑う彼が何を考えているのか分からなくなる。知っていたならどうしてずっと変わらず付き合ってくれていた、今日だってなんで危険と分かっているこんなところまで来た。
「なんで気づいたかって顔してんな。んーと、最初に思ったのはあれだ、俺がいい匂いするとかって言ってきた時。そのフレーズ使うやつって大体すでにフォークか、フォークになる前のやつだったんだよな今までの経験上。でもそのあとも普通だったから気のせいかと思ってた。だけど段々会う機会減っていって、あーこれ俺避けられてんなってのは気付いてたんだけど、まだ確証無かったし単に俺がなんかしちまったのかとも思ってたんだよ。でもやっと会えた日とかお前ろくにもの食ってなかっただろ。腹減ってないとか言って。俺が飲んでたジュース美味いから飲んでみろって結構無理矢理飲ませたの覚えてる?あの時すげえ顔してたの自分じゃ気づいてなかったんだろうな。煙草もやめただろ。匂いがしなくなった」
淀みなく続く話を聞きながらだんだん項垂れてしまい顔も見られなくなる。いつか離れなければと思いながら、もう少し、もう少しだけと欲をかいた罰が当たったのだ。
ジュースの話は覚えている。プラスチックカップのそれは当然ストローが一本しか刺さっておらず、いつになく強引な押しに負けて口をつけたのが間違いだった。当然のように味のしない飲み物とは違って、おそらくストローの先端に僅かばかり付着していたのであろう彼の唾液の甘さばかりが口内に残った。いつぶりかも分からない味覚に身体は歓喜しているのに対し心は焦燥感でいっぱいだった。
「…ごめん」
「なんで謝んの」
胡坐をかいた己の足を見たまま謝罪を口にする姿は罪を告白する罪人のようだと思った。もちろん許しを請おうなんて思っちゃいない。
「ほんとごめん。三井さん、別れよう。つーか別れて。今すぐここから出ていって」
「待てよおい。一人で勝手に話進めんな」
「勝手も何も他にどうしようもないだろ…俺はもう、今まであんたを散々危ない目に遭わせてきたフォークになっちまったんだよ…俺が言うのもなんだけどそもそもここにいること自体危ないんだよ分かってんの…?」
痛いほどの沈黙が満ちる。早く了承の言葉を口にして、そしてここから立ち去って欲しい。
「水戸」
「…ッ」
バレてしまったことでストッパーでも外れたのだろうか。呼ばれる声すら今までないほど耳に毒だった。抑え込むように思わず自分で自分の両腕を掴む。
俯いたままだった俺には三井さんの動きに気付けず、強まった香りに顔を上げた時にはもうテーブルの向こうにいたはずの彼は己の目の前に座り込んでいた。身体の前でクロスさせていた片腕を掴まれる。「あーぁ、こんなに痩せちまって」とのんきに言ってのけたあと、その手は腕から掌へと移動して指同士を絡ませる形で繋がれた。自然とそこへ注いでいた視線は、顔を覗き込んできた彼が再度「水戸」と名前を呼んだことによって強制的に見合うことになった。
俺と違って色素の少し薄い瞳。飴玉みたいに舐めてみたい、とつい浮かんでしまってごくりと喉が鳴る。
「俺はな、お前が俺のこと食いてえって顔して見てくるたびに興奮してたし、お前にならいつか食われてもいいと思ってた」
「…は、なに、」
「まぁバスケやってるうちは五体満足でいてえから、それまで我慢して欲しいなー、してくれっかなーくらいは考えてたんだけど、まぁまたこうして膝やっちまったし」
「待って、なんの話」
「だから」
―俺のこと食えよって言ってんの。
あっさりともう一度その言葉を口にした彼の目がおかしな光で揺れていることにようやく気が付く。妖しい色でとろりと溶けそうな瞳は一見情事に誘い込む娼婦のようであったが、その実奥底は絶望で真っ黒だった。
あんなにもバスケに一途で真っすぐで、好きで好きでたまらないって顔をしてプレーしていた人が平気でいられる訳がなかったのだ。
それでも俺が欲求に任せて損なっていいような人ではない。完治はできないと言われたからといって、生きてさえいればバスケットに関われる別の道だっていくらでもあるだろう。
先ほどの言葉を拒否するように黙って首を振る俺に暫し逡巡したあと、三井さんは空いているほうの自分の手を口元へ持っていき人差し指と中指を口に含んだ。開ける時にちらりと覗いた赤い口内と指を咥える唇が美味しそうで呼吸が浅くなるのが分かる。
唾液まみれにしたそれを今度は俺の口元に持ってくると、指先で唇の割れ目を突いて侵入しようとしてくる。咄嗟に引き結び視線だけで拒否をしても彼は愉しそうに眼を細めるばかりでやめる気配はない。口を開けられないせいで鼻で呼吸するたびに吸い込んでしまう体液の甘い匂いだけで理性が焼き切れそうだった。頑なに口を開けない俺に、ふっと嘲笑うような笑みを浮かべ「意気地なし」と煽ってくる。
唾液を唇に擦り付ける動きに変わった指はしかし、一瞬の虚を衝いて鼻をつまんできた。呼吸ができなくなり、あえぐように開いた口に彼の舌が突っ込まれる。そこからはもうなし崩しだった。
鼻から外れた手がもう逃さないといわんばかりに俺の顔を固定するように頬に添えられる。舌を絡ませ合う口付けを交わしながら意識的に唾液を流し込まれているのが分かる。先日のジュースの時のような僅かな量とは違い、強制的にどんどん送り込まれてくるそれに脳がどんどん痺れていく。欲しい、もっと欲しいと腹の底から湧きだす欲求が制御を超えて際限なく膨らみ続ける。
「なぁ、洋平…」
ようやく解いた口付けに二人分の荒い呼吸が散らばった。その狭間で甘ったるい声が強請ってくる。ここで名前を呼ぶのはズルいだろ。
「俺のこと好き…?」
「…好き。大好き」
いつの間にか俺の服を掴んでいた手を掬い上げるように、今度は自分の意思で取って顔の高さまで持ち上げた。絶望をひた隠し儚く笑う顔を見つめる。
互いに視線を絡ませ合い彼の美しい指を大きく開けた口へ迎え入れながら、俺の人としての理性はぶつりと途切れた。