三井サンが引退を発表した。
所属していたチームが優勝した矢先だったから知らなかった関係者や世間は驚愕していたが、俺はといえば絶対口外しないことを前提に個人的に前もって知らされていたので、正式な発表の日に「今日だったのか」程度の感想だった。もちろん直後にひっきりなしに共通の知人や高校時代の先輩後輩から連絡が来るという対応には見舞われたが。
俺としてももったいないと思っていたけれど、チームが優勝した直後、まるで見計らったかのように彼の膝は限界を訴えたらしい。
まるでもういいよ、もう大丈夫だよとでも言うように。
引退会見まできっちり終わらせ表舞台での仕事を全て終了した途端、今度は心が彼自身に対して休息を促すかのように三井サンは深い眠りに就いた。
俺は居合わせたわけではないので後から聞いた話だが、会見が終わり自宅へ送り届けた車の中ですでに彼はその状態になってしまったらしい。運転していたマネージャーも疲労からくるただの居眠りだと思ったが、いざ自宅に着きいくら起こそうとしても目を開けない。これは何かがおかしいと上の人間に連絡を取り、救急車を待つより早いとその足で病院へ向かったそうだ。
検査の結果はどこも異常なし。本当にただ眠っているだけだと。けれどどこにも原因が見つからないとなると、診断のしようがなくいつ目を覚ますとも言えない。とりあえず様子を見ましょう。そう言われてあっさり数日が経過した。
いくらもう引退したからと言ってこんな状態になったことを大っぴらにできるわけもなく、ごく内部の者だけに状況は共有された。その中でもわりと早いうちに俺へ連絡を貰えたのは有難かった。俺と三井サンは公私共に仲が良いのは周知されていて、高校の先輩後輩ということで雑誌で対談を組まれたこともある。そのおかげで彼のマネージャーから「何でもいいからこうなった理由の心当たりを知らないか」と聞かれたというわけだ。この不可解な状況を知らされた時は酷く驚いたが、同時に納得もしてしまった。だけどそれを軽く口にするのは憚られた。
三井サンがこうなったのはきっと多分、俺だけが知っている“二人”の事が原因のはずだと思ったから。
三井サンには高校生の時から始まり大学生を経てプロになってもずっと世間には公表していなかった恋人――水戸洋平――がいた。俺は渡米中の一時帰国の時は毎回、日本に戻ってからも定期的に三井サンとは飲みに行ったりしていたので、相談なのか惚気なのか分からない話をよく聞かされていたし、飲み過ぎた彼を迎えに来る水戸に会った回数も片手では収まらない。些細なところまでは当事者ではないので知る由もないが、三井サンの話を聞く限り、また二人の雰囲気を見る感じでは順調に付き合っているように端からは見えていた。
けれどそれはある日一変する。
三井サンがプロ入りして数年目、その実力とルックスで狭いバスケ界だけではなく世間に認知され始めた頃だ。根拠の有無など二の次の下世話な醜聞を載せることで有名な週刊誌に、外で水戸といるところを撮られたのだ。どういった絵面だったのか三井サンは詳しく語りたがらなかったが、誤魔化すのは少々難しい状況だったらしい。幸い相手方とチームの間で解決金を支払うことで合意しその写真は掲載されることはなかった。三井サンは解雇通告されることを覚悟のうえで軽率だったと己の行動を謝罪をした際、チームからは好成績を残すことを条件に奇跡的に解雇は免れた。
しかし個人競技ならまだしも、己だけではどうにもならないチームプレイであるスポーツで好成績を残すというのは並大抵のことではない。だというのに彼は結果的にこうしてチームを優勝へ導いてしまったのだから驚嘆する。
その話だけを聞けば間違いを犯したとはいえ一見ハッピーエンドに聞こえるだろう。だけどその陰で三井サンはストイックを通り越して常に自分を追い込む生活を続けていた。
解雇を免れたところまでを含め一連の騒動を一通り聞いたあと、水戸とはその後どうしているのかと尋ねれば「別れた」とあっさり返ってきて一瞬言葉を失ったのを今でも覚えている。なんでどうしてと問い詰めたのは、二人が一緒にいることを俺自身、結構好ましく思っていたからだ。そもそも異性同性関係なく他人の恋愛を好き勝手に暴露する方が間違っているという怒りもあった。
三井サンは最初水戸には黙っていようとしていたらしい。しかしチーム側へ記事掲載の確認連絡が来たのと同時進行で、出版会社の記者が更なる裏取りのため水戸個人へ接触を図っていたのだ。三井サンがチーム側へ詳細確認のため呼び出されている間に水戸は全てを知ってしまっていた。
一先ずチームに残れるということに感謝と安堵を抱え帰宅したが、待っていたのは無情にも何もかも知っていた恋人だった。話し合った末に水戸から「俺がいたら邪魔になる」と別れを求められたそうだ。バスケをしている三井さんが好きだから俺のせいで辞めて欲しくない、嫌でも俺の目に入るくらいいっぱい活躍してる姿見せてよ、と。
お互い嫌いになったわけでもないのにそこまで言わせて頷く以外できなかった、そもそも原因を作ったのは俺自身だ、と三井サンは自分を戒めるように悲痛な声でそう言っていた。今度はそれを聞いた俺が頷くしかできなかったし、何もできない自分が歯痒かった。
そこからの三井サンは恋愛というものに一切見向きもせず、バスケだけに全てを懸ける生活をひたすら続けてきた。時々飯行こうと誘っても、普通に近況などの話はするものの酒は一滴も飲まず、夜更かしは翌日のパフォーマンスに響くからと健全な時間に帰っていく。
幸いにも彼のチームは騒動のあと三井サンに酷い対応をしたということはなかった。他の選手同様練習はもちろん心身のケアやサポートも当然のようにきちんと行われていたことに俺は安堵した。それは彼が選手としてチームが勝ち進むために必要不可欠な実力を持っていることを認めているということだ。裏を返せばそれだけ懸けているのだから結果を出せという意味でもあるが。
ストイックを通り越して修行僧のようにも思える、バスケ以外を一切排除する姿勢にたまらず苦言を呈したこともあったが、「俺にはもうバスケしかねーからよ」と笑うのだから何も言えなくなる。
チームが優勝するまで、数年ものあいだ、独りでずっとそんな生活を続けていたのだ、あの人は。
優勝と同時に張り詰めていた糸が切れたのだと思った。
まず膝に、そして精神に。
彼のこれまでを思えば当然の反射だとも思えたが、それでも日が経つにつれだんだん心配が増してくる。そして心配と比例して筋違いな怒りまで湧いてくる始末だった。
一刻も早くあいつを呼び出す必要があると結論付け、彼のマネージャーに了承を取って水戸を病院へと呼び出した。
病室で昏々と眠る三井サンを見た水戸は酷く狼狽え、説明を求められた俺は一から全てを洗いざらい話してやった。
「俺、そんなつもりじゃなかったのに…」
話していくにつれ項垂れていった水戸はほとんど泣きそうな声でそう零した。気持ちは分からないでもないが、俺はこの男に最後の望みを託して呼び出したのだからそんな悲愴な声で憔悴されても困る。
「そもそも三井サンが軽率な行動取ったからだろ。全部が全部お前のせいってわけじゃない」
「だけど、」
「この人思い込むと一直線に暴走しがちじゃん?俺だって止めようとしたよ。でもどうしようもなかったわけ」
「…」
「それによく言ってたぜ。“きっと水戸が見ててくれる。だから頑張りてえんだ”って」
「ッ、」
「“あいつの望む俺でいたいんだ”ってさ」
堪えきれず嗚咽を漏らして泣き出した水戸の背中をぽんぽんと軽く叩く。
「そんだけこの人が想ってるお前が傍にいりゃ、そのうち目ぇ覚ますだろ」
頼んだぜ、そう言って病室を出て行った宮城さんに慌てて礼を言おうとしたが、さっきまで大泣きしていた喉が引きつって声にはならなかった。
改めてベッドに横たわる三井さんに向き直る。ベッド脇のパイプ椅子に座って彼を見つめた。本当に眠っているだけなのかと不安になるほど静かな呼吸だった。
たまらず彼の身体にかかっている布団の中でそっと手を握る。温かいそれにまたじわりと目が熱を持った。
あの時、嫌でも目に入るくらいなんて三井さんには言ったけれど、別れた後もできる限り彼の現状を知りたくて小まめに情報収集していたのは俺の方だった。彼の活躍を目にするたび、彼のチームが勝利を収めるたびに嬉しかった。自分の選択は間違っていなかったのだと正当化を図り淋しさからは目を逸らして。
その陰でこの人がこんなに苦しんでいたことも知らずに。
布団から出した握ったままだった手を額にあてて両手で包み込む。あの頃から変わらない、美しいシュートを放つ、綺麗な手のひら。
ねえ、三井さん起きてよ。
俺あんたと話したいこといっぱいあるんだよ。
懺悔のように、祈るように、そのまま瞼を閉じる。合わさった目の淵からまた一粒雫が頬を伝った。
「ん…」
僅かに漏れた掠れたような声に驚いて顔を上げる。
彼の震えた瞼が微かに開いた。
(BGM:カナリヤ)