あ、駄目だ止まらねえ。
もはや出発点を失った喧嘩は落としどころを見つけられず、口から出るのは自分でも解るほど理不尽な詰りだ。頭の片隅にほんの僅か残る理性がやめろと静止を促しているのが分かっていても、知らず知らずのうちに内部に積もっていたストレスは言うことを聞いちゃくれない。
バスケ以外の慣れない仕事や人間関係、いずれバスケ界のためになるとは分かっていても、プレイだけをしていたいというフラストレーション。無理をしているつもりはなかった、まだ頑張れると思っていた、これくらいなんて事はないとこなしていたはずがいつの間にか許容量を越えていたらしい。自分をコントロールできない情けなさも手伝って感情の暴走を抑えられない。制御できないことにまだ苛立つ。負のループだ。
もしかしたら喧嘩とすら呼べないかもしれない。水戸はさっきから黙ったまま静かに俺の癇癪を聞いている。その沈黙が怖い。癇癪、そうだこんなの癇癪でしかない。これ以上続けたら水戸に愛想尽かされる、分かっているのに止まれない、何か言えよ、あぁもう感情がぐちゃぐちゃに絡まり合って解き方が分からない。どうしよう。
乱高下している俺の勢いが一旦落ち着いた隙を見計らっていたのか水戸は、ふぅとひとつ溜息をついた。身体が小さくびくりと跳ねる。目頭がじわりと痛んだ。
「三井さん、疲れてるでしょ。俺今日は帰るから、ちゃんと食べてちゃんと休んで。この話の続きはまた今度にしよ」
俯いてしまっていた顔を慌てて上げれば予想に反して水戸はいつもの優しい笑みを浮かべていた。てっきり呆れた顔をしていると思っていたのに。
何か言わなければ、と口を開くも言葉が出ない俺を待つことなく水戸は玄関へ向かってしまい、次いでドアの開閉音が響いた。痛いくらいの静寂が部屋に満ちる。途端に力が抜けてしまいその場に座り込んだ。
おいかけなきゃおいかけてごめんっていわないとせっかくきょうとまりにきてくれたのにおれのせいでおれがあんなこといわなければあぁでもみとがまたこんどにしよっていったからいまおいかけてもめいわくかもみとみとみとはあとなんていってたっけちゃんとたべてちゃんとねろってじゃあそうしなきゃせめてみとのいったこときいておかないとこんどこそきらわれるかも
なんのまとまりもない思考がぐるぐると頭の中を回る。水戸に最後に言われた言葉が益体もない脳内の端っこにかろうじて引っかかり、つられるように立ち上がりキッチンに向かった。
疲れすぎていて何も食べる気がしなくても一日動き回った身体が空腹ではないはずがないので、なんでもいいから適当に腹に入れようと冷蔵庫を開けると、おにぎりと卵焼きにウィンナーが乗った平皿がラップをかけられ置かれていた。そういえばと、朝は何も無かったはずのガス台に乗っていた鍋の蓋を開けると野菜で具沢山の味噌汁が作られている。
「…ッ」
急いで居間に戻って鞄からPHSを取り出す。わざわざ電話帳なんて開かなくてもワンプッシュで出てくる発着信履歴からすぐに水戸の番号を押す。出てくれなかったらどうしよう、と一瞬過った不安は数コール後に聞こえた声によってすぐに杞憂に変わった。
「水戸っ、」
「どうしたの?」
「い、今、どこ…」
「もうすぐ駅だけど…」
「…」
ごめんとかありがとうとか言わなきゃって思えば思うほど喉が詰まって込み上げた嗚咽が漏れそうになる。電話をかけたきりろくに話せもしない俺に「三井さん?」とか「大丈夫?」という水戸の困惑した声が雑踏の音混じりに聞こえてくる。
「今からそっち戻るから待ってて」
最終的にかけられたその言葉にだけかろうじて「ん」と答えた声は届いたらしい。水戸は「じゃあ切るよ」と念を押すように言うと通話は切れた。
だいぶストレス溜まってんなぁというのは分かっていた。
ちょこちょこタイミングを見つけて会ってはいたけれど、二人揃って翌日休みということで今日は久しぶりに家にお邪魔してそのまま泊まる話だった。
俺は別に喧嘩したつもりもなければ怒ったわけでもなかった。ただあまりに三井さんが限界のようだったので、こういう時っていうのは誰だってとりあえず休むしかないものだ。ちゃんと食べてゆっくり寝る。少し回復してちょっとでも余裕ができて、その時に改めて俺が必要だってなったならすぐにでも駆けつけてやるつもりで、だから一旦帰ろうと思っただけだった。
電話をかけてきた三井さんは二言三言言ったきり黙ってしまったけれど、よくよく耳をすませば何かを堪えているような呼吸音が聞こえてきて、自分の判断は誤りだったのかと彼の状態が心配になる。通話を切ってすぐにユーターンすると全速力で夜の空気を裂くように駆け出した。
貰ってあった合鍵でドアを開けると、てっきり居間にいると思っていた予想に反し玄関あがってすぐの廊下の壁に背を預け、抱えた膝に顔を埋めて座り込んでいる三井さんがいた。
音で気付いているだろうに一向に動きがないことにまた心配が募る。急いで靴を脱いで三井さんの前に膝をつくように座って向かい合う。
「三井さん」
やっとちょっとだけ上げて見せてくれた顔は迷子の子供みたいな表情をしていた。自分は迷子になんかなってない、親がどっかに行ったんだって言い張っている感じの。不謹慎だけどそれが可愛くて微笑ってしまいそうになるのを我慢する。
まだこっちを見てはくれない三井さんの頬を包むように手を滑らせる。おずおずといったように見上げてきた彼とやっと目が合う。
「ごめんね」
できるだけ優しく笑ったつもりだったのに、きゅっと顔を顰められてしまった。あ、これは泣くかもしれないと思った瞬間、胸にどんっと衝撃が走る。びっくりして見下ろした先に三井さんの後頭部があった。胸を額でぐりぐりされると痛くすぐったい。背中でシャツを握られる気配を感じながら同じように、だけど柔らかく背に腕を回した。
なんとか居間に促したあと、おそらくまだ何も食べてないんだろうという予想の元、冷蔵庫を開ければ案の定自分が作ったものがそのままになっていた。温めようと皿を取り出したところで、ソファにでも座って待ってるように言っておいたはずの三井さんが背中にくっついていた。一応「どうしたの」と聞いてはみたけれど、返ってきたのは無言と腹に回された腕の力が強まっただけだったので好きにさせておく。多少動きづらいことは否めないけれど、細かい作業をするわけではないから問題はない。皿を電子レンジに放り込んでスイッチを押し、その間にコンロの火をつけて味噌汁も温めなおす。
三井さんが甘えるように肩に顎を置いてきたので、俺は腹に回された手の上に自分のそれを重ねて優しく撫でた。電子レンジの回る音とガスの燃える微かな音だけが鳴るキッチンで互いに無言のままご飯が温まるのを待っている。
湯気と共にふわりと鍋の中身が香ったところで二度手をタップしてそこから離れ、お玉と味噌汁用のお椀を出してなるべく野菜が多く入るよう意識してよそった。ちょうど鳴った電子レンジの扉を開けて皿を取り出し、お盆に両方乗せたところでそういえば飲み物がない、となる。
「汁もんはあるけど、他になんか飲む?」
「ん」
「麦茶でいい?」
「ん」
再び冷蔵庫を開けて作り置きの麦茶を出し、さっき走った自分も喉が渇いていたので二つ出したコップに注ぐ。最後に箸を出してそれら全部を乗せたところで振り返り、「運ぶから一旦離れて」とお願いすると一瞬唇を尖らせてから踵を返して居間へ向かっていった。可愛い。
「みと」
「ん?」
「そこ座って」
「うん?」
居間のテーブルに手の中のものを置く俺をすぐそばで立ったまま見ていた三井さんは、屈んでいた身体を起こしたタイミングでソファを指した。理由がよく分からないものの言われたとおりに座ると、三井さんは俺の脚の間を陣取るとカーペットに腰を下ろした。
後ろ姿だけでも手を合わせてからご飯に手を付ける様子が分かる。少しだけ前かがみになってテーブルから自分の分のコップを手に取ってから背もたれに身体を預けた。
一緒にご飯を食べる時はいつも向かい合わせだったから、食べている最中の表情なんかもさりげなく見ることができるけれど、今日は背中しか見えなくてそれが少し淋しい。これだけじゃちょっと栄養的にどうなんだと思っておにぎりの中身は焼き鮭の身を大きめに入れてみたんだけどどうだろう。普段なら「美味しい?」って聞いたりできるけれど、疲れてる時ってちょっとした会話も億劫になるしなぁ。
形の良い後頭部を眺めながらちびちび飲んでいた麦茶が無くなる頃、三井さんも最後にコップの中身をあおって完食したようだった。首だけ捻ってこちらを見上げてくる。
「みと」
「なぁに」
「美味かった」
「…そう、良かった」
なんでこう欲しい言葉をくれるんだろう。エスパーみたい。
上体を倒してコップをテーブルに避難させてからそのままぎゅっと抱き着いた。今度は俺が三井さんの肩に顔を埋める。側頭部をすりすりと寄せてくる仕草は小動物みたいで可愛いけれどその動きはどこか緩慢で彼の変化に気付く。
「三井さんもう眠いんでしょ。風呂入ってきなよ」
ただでさえ疲れているのにお腹がいっぱいになれば次にくるのは当然眠気だ。けれど三井さんはむずがるように小さく唸るばかりで動こうとしない。
キッチンで引っ付いてきたことといいさっき指定してきたこの体勢といい、俺が帰ってしまうと思っているのかもしれないとここでようやく思い至った。少しだけ顔を離して肩越しに覗き込むように首を伸ばすと、それに気付いた三井さんも顔を傾けてくる。やっぱり瞼がちょっと重そう。
「待ってるから、一緒に寝よ」
ちゃんと視線を合わせてそう伝えると、やっと渋々立ち上がって浴室の方へふらふらと歩いていった。
本当はついていって頭洗ったりもしてあげたいんだけどそれはまた今度にしよう。三井さんが上がってくる前に洗い物済ませちゃいたいし、少しでも早く寝かせてあげたい。その代わりドライヤーはやらせて貰おう。
ちなみに俺はそもそも泊まるつもりで来ていたので、何時に仕事が終わるか分からなかった三井さんが帰ってくる前に飯も風呂も済ませてある。
テーブルの端に置きっぱなしだったお盆に空の食器とコップを纏めて乗せて流し台へ運ぶ。大した数でもないのですぐに終わってしまう。当然三井さんが戻ってくるまでにはまだかかる。この隙に一服してしまおうと、俺専用だと置いてくれている灰皿を持ってベランダに出た。
安定する場所が他に無いのでここで吸う時は定位置になっている室外機の上に灰皿を置いて煙草に火をつける。さっきこの部屋を出た時より気温が下がっているような気がした。
吐き出した紫煙が夜空に溶けていくのを眺める。
今日の一連の流れを思い返しながら、もっと力になりたいのに上手く立ち回れない己の力量不足に歯痒くなる。例えばあんなに溜め込む前にできたことがあったんじゃないかとか、そうすればあそこまで感情が洪水を起こすこともなかったんじゃないかとか、そのせいで彼が自己嫌悪に陥ることもなかったのかもとか。
たらればは言っても仕方がない、反省点は次に生かそうと思ってはいるけれど、さっきの「美味かった」だって俺ばっかり嬉しくさせられているのはフェアじゃないじゃないか。
二本吸ったところで室内に戻ると洗面所のほうから物音がした。タイミングよく三井さんも風呂から上がったようだ。
頭をタオルで拭きながらどこか伺うような表情で部屋に入ってきて、目が合うとほっとしたような顔になる。待ってるからって言ったのになぁと心の中だけで苦笑する。
「三井さん、さっきのとこ座ってて」
クエスチョンマークを浮かべながらもご飯を食べていた時と同じところに座った彼を視界の端にとらえつつドライヤーを持って戻る。自分も先ほどと同じく後ろに回り、彼を脚で挟むようにソファに座ってスイッチを入れた。頭皮を優しく撫でることに気を遣いつつ温風をあてていけば短い髪はすぐに乾いていく。最後に冷風を使うのも忘れない。
なんだかもう半分寝てるような三井さんを横目にドライヤーを片付けて戻る。
「寝よっか」
かろうじて、といった風に頷いた彼の手を取って寝室へいく。先にベッドへ入らせて壁際へ追いやってから隣にお邪魔すると、もうほとんど目の開いてない三井さんが胸の中に潜り込んでくる。回された腕に幸せを感じながら同じように背に回した手で優しくそこを撫でた。
「みとぉ…」
「んー?」
「ありがと、おやすみ…」
「うん、おやすみ三井さん」
また明日。