バイトを終えて帰宅した水戸はいつも通り居間の電気をつけた。居間といってもワンルームなので他にあるのは狭い台所と風呂トイレだけだ。高校に上がると同時に始めた一人暮らしは自分だけの城で、バイトへ行く前と何一つ変わらず水戸を迎えた。
少し前からの癖でちらりと壁にかけられたカレンダーを見やる。どこかの会社の名前が入った貰い物のシンプルなそれは色味も物も少ない部屋に馴染んでいる。何もかもが見慣れたいつも通りの自室の中、カレンダーにつけられた赤丸だけが浮いていて、視界に捉えるたびにそわそわとした。
そもそもこれを書き込んだのは水戸ではない。
前回水戸の部屋に三井が来ていた時のことだ。進学した大学でもバスケを続けている三井だが、その日は体育館の点検だか学校の何だったかで(要は忘れた)部活が休みになり、突然湘北のバスケ部に顔を出した。習慣で友人たちと見学をしていた水戸は、せっかく休みなのにバスケしてたら休みにならねえじゃん、と心の中だけで笑いながら後輩たちと楽しそうにプレイしている三井を眺めていた。
部活を終えた三井は当然のように「一緒に帰ろうぜ」と言い、翌日の講義が遅い時間だから泊まっていくと言い出したのだ。俺がバイトだったらどうするつもりだったんだよと思ったことは口に出さずにおいた。
帰宅して夕食を食べ終えると、水戸は食後の一服のため窓際に腰をかけ、三井はのんびりテレビを眺めていた。バラエティ番組の合間にケーキ屋のCMが流れ、窓際で細く開けた隙間から煙を吐き出していた水戸へ視線を移した三井が口を開いた。
「そういやお前誕生日いつなの」
「誕生日…?あ、もうとっくに終わった」
「は!?」
三井の問いかけに一瞬壁にかけられたカレンダーを見て月を確認した水戸はあっけらかんと言い放った。
「言えよ!」
「聞かれなかったから。別にたいしたことじゃないだろ」
「俺にはたいしたことあるんだよ!」
はぁ、と気の抜けた返事を煙と共に吐き出す。そんな水戸の言動にもめげない三井は投げ出してあった鞄を手繰り寄せると、中から取り出した手帳を開いて正確な日付を聞き出そうとするのでなんとか記憶から引っ張り出した己の生まれた日付を返してやった。言い方的に何ヵ月も前のことではない気配を感じていた三井だったが、聞いてみれば実際そう前のことでもなかったので益々眉間の皴を深くすることになったうえに、日付のあとに「多分」と付け加えられたせいで「ちゃんと確認しろ」と更に一悶着起こすはめになった。
「俺、来月誕生日なんだけどよ」
「へぇ、おめでとーございます」
「おい早ぇよ」
「忘れないうちに言っておこうと思って」
「そういうやつだよお前は」
じとりとした視線を受けて水戸は口端だけで笑って見せた。
水戸が三井と付き合いだしたのは三井の卒業式に告白されてからだった。
真っ赤な顔で告げられた想いにこれは茶化してはいけないやつだと悟る。だったらこちらも本音で返すのが筋だろう、と三井さんのことは好きだけどそれはあくまで人としてであって恋愛的なものではない、そもそも自分は人を好きになったことがないからそういう性質なんだと思う、と正直に話した。
黙って最後まで聞き終えた三井は、誰も好きになったことがないならもしかしたら俺のこと好きになるかもしれないだろ、お試しでいいから付き合ってくれないか、とやや強引に押してきた。普通だったら諦める流れだろうに、その強気がなんだか面白くなってしまい、お試しでもいいなら良いよと返したのだった。
「忘れねーように書いてやる」
「は?」
鞄の中から更にペンケースを取り出した三井は赤いマジックを持つと立ち上がり、カレンダーの前に歩み寄る。ぺらりと一枚めくってから「22」の場所を丸で囲むと「よしっ」と満足げにペンの蓋を閉めた。
後ろ姿を見守っていた水戸を振り返り、「これで忘れねーだろ」と笑った三井があまりに無邪気だったため、一瞬面食らったもののすぐに平静を取り戻してから「あんまり期待しないでね」と返しつつ煙草を灰皿に押し付けた。
互いの間に温度差があるのは三井も気づいているだろうと水戸は思っている。加えて水戸は記念日だとかそういったものに頓着しない。もっと言ってしまえば他人以前に自分に関しての興味が薄かった。
親から誕生日を祝われた記憶は無い。いつから居ないのかも分からない父親の顔はとうに忘れ、ろく帰って来ない母親に代わって自分のことは自分でしなければならない幼少期だった。時々世話をやきにきてくれていた祖母から「お誕生日おめでとう」と入っている留守電で自分の誕生日に気付く、ということを毎年繰り返していた。
しかしクラスメイトの会話やCMで流れるイメージなど、いやでも目耳に入る情報のせいで誕生日というのは世間一般ではおめでたいものだという認識だけはある。友人たちとつるみだしてからは流れで祝ったり祝われたりしたこともないわけじゃない。だけどそういうものだというだけで、それ以上でも以下でもなかった。
この赤丸が書きこまれてから日は進み、三井の誕生日まであと数日になっていた。
不思議と三井からの連絡は無かった。一番頻繁だったのは高校を卒業してから大学に入学するまでの休みの期間で、大学生になってからは講義だ部活だと何かと忙しくなるにつれて頻度は減ったが、それでも合間を縫って電話がかかってきたり突然会いに来たりということはあった。
便りが無いのは元気な証拠の例えではないけれど、大学生がどういうものか知らない水戸は、忙しくしてるんだろうと思うくらいしかできなかった。
三井の誕生日を翌日に控えた夜も恙なくバイトを終えて帰宅する。
電気をつけ、少ない荷物である煙草や財布をテーブルに投げてごろりと畳に仰向けに寝転がった。照明が目に痛い。
ふと三井の無邪気な笑顔を思い出した。三井の明るさを、水戸は太陽みたいだと思っている。こんな作り物の明るさなんかじゃなくて。
目を背けるように横向きになる。カレンダーが目に入った。存在を主張する赤い丸。
なんだか声が聞きたいと、初めて思った。
一瞬の迷いの後、勢いよく起き上がって玄関から続く廊下ともいえないスペースに置いてある電話へ向かう。心臓がわずか鼓動を速めていることも、三井の家の番号を押す指先がほんの微かに震えていることにも、気づかないふりをした。
しかしそんな状態を嗤うかのように、根気強く待ってみたが聞こえてくるのはコール音のみでやがて留守録に切り替わる。何か残そうかと思ったけれど言うべき言葉も見当たらなくてそのまま受話器を置いた。
もし三井が電話に出ていたら何を言うつもりだったんだろう。
会いてぇな、と今度ははっきり思った。声が聞きたいだけではなく。
居間に戻って時計を見る。まだ電車は余裕で動いている時間だった。放ったばかりの財布と鍵と煙草を掴んで玄関へ向かう。自発的に行ったことはないが三井の家は知っていた。
電話に出ないということは家に居ない可能性が高かったが、それでもいいと思った。部活が長引いているのかもしれないし、チームメイトと飲みに行ってるのかもしれない。会うたびに色んな話をしていたけれど、それだって三井が話すのを水戸は相槌を打ちながら聞き手に回るばかりだったせいで、予測する材料が乏しいことが歯痒くて、そんな自分に驚く。
三井の家に着く前にどこかでケーキを買っていこう。そして帰ってくるまで待ってみよう。
春特有の温い夜の中へ駆け出しながら、水戸は微かに口端を上げた。