蛇の瞳を見ると石になる。「だから俺はああするしか無かったんだ…」
「ああ、そうだな」
「裏切るつもりなんて本当になかったんだ。だけどああしないと俺は石神にとっくに殺されてた…!」
「そうだな、あんたが無事で良かったよ」
項垂れて誰に向けてなのかもわからない言い訳を面面並べ立てる男を否定する事もなく、ただ肯定してやる。
ヤケになった様子でグッと酒を煽る男の空いたグラスにブランデーを足してやれば、男は青宗へ縋るような目を向けた。
「俺を、殺しに来たのかと思ったのに、どうしてあんたは…乾さんは、そんなに優しいんだ」
「だってあんたから話を聞いてみなきゃわからねぇからな」
そう言って青宗は微笑した。
その笑みはまるで全てを赦し受け入れてくれるような慈愛に満ちたもののように見えた。
男はそれに見惚れるように惚けた様子で美しい顔を見つめていたが、グラスの中で氷の溶ける音に現実に引き戻されたように再び項垂れる。
「だけど…九井さんは、俺を許さないだろうな」
「かもな、九井は裏切りを絶対に許さない」
「…やっぱり、俺は殺されるしかないのか…」
うう、と情けない声を出しながら頭を抱えて蹲る男を先程の笑みなど嘘のように冷めた無表情で一瞥する。
自分の目の前に置いてあるブランデーに似た琥珀色の液体の入ったグラスで喉を濡らした。中身はただの烏龍茶だ。
ジャケットの内側が振動して携帯の着信を告げている。
取り出して液晶画面の表示を見れば今正に名前の上がった男からだった。
青宗は何の躊躇いも無い動きで電源ボタンを押して携帯電話をオフにすると、再びジャケットの内ポケットに戻した。
「ああ…俺は、どうしたら…」
ポタリポタリと絨毯の上を男の瞳からこぼれ落ちおる絶望の涙が染みを作っていく。
徐に青宗の手が男の膝に伸びると、震えているその手を握り締めた。
一体何だと言わんばかりに戸惑って顔を上げた男の目の前では美しい男が微笑んでいる。
「なあ、それなら逃げちまえば良い」
「…でも、あの九井から逃げられた奴なんて、居ないだろ…」
青宗からの提案に驚いて涙が止まるも、そんな事は不可能だろうと諦めた声が言う。
今まで九井一を裏切って生きていた人間なんて誰一人居ない。
そういう噂はこの業界に居れば必ず耳にする話だ。
「あんたには俺が居るだろ。大丈夫だ」
そしてその粛清を行う為に九井の駒となって従順に動くのが、今目の前に居る乾青宗だった。
彼は九井の犬とも称される程、九井の言う事しか聞かないし九井の命令であれば殺人だってどんな犯罪だって躊躇わない。
そう言われていた筈だった。
「でも、乾さんあんたは、九井の…」
「俺ももうこんな生活うんざりなんだ」
男の目は青宗を疑うように、だけど何処かで信じ縋りたいと見つめた。
視線に応えるように、ゆっくりと瞬きをすると緑がかった青い瞳で見つめ返す。
その目は深く硝子のように煌めいていて、まるで吸い込まれてしまいそうな程神秘的に見える。
「なあ、俺とあんたで逃げないか」
「…本気で言ってるのか?九井を敵に回す事になるんだぞ」
男の手を握っていて手がするりと膝の上を滑っていく。
ゴクリと男が唾を飲むとその耳元に青宗の肉厚で蠱惑的な唇が寄せられる。
「俺を連れて逃げてくれ」
それは魅惑的な囁きだった。
男は天使の姿をした悪魔に魅入られ、頷いた。
その先に待っているのが破滅だとも気付かずに、一夜だけの幻に夢を見た。
ずっと気を張って疲れて居たのだろう。
男は泥のように深い眠りについている。
その横で体を起こすと、ベッドから気怠げに抜け出した。
真っ白な肌の上に残る点々と浮かぶ痕や腰の重さに吐いた吐息には色気が滲んでいる。
伸びた金の髪を煩わしげに掻き上げると床に脱ぎ捨てたスーツのジャケットから携帯を取り出す。
電源ボタンを長押しするとスタンバイ画面が立ち上がるのを見つめながら、更にスーツのポケットを漁り煙草を取り出し口に咥える。
青宗は普段煙草を殆ど吸わなかった。吸うのはいつも決まって仕事を終えた時。
死体を前に煙を深く吸い込むと、頭がぼんやりして心地良かった。
血の生臭い匂いも、耳に残る断末魔も煙草を一本吸い終わる頃には消えて無くなっている。
背後で眠る男はまだ生きているが、どうせもうこの先の結末は決まっている。
「俺もあんたも、ココから逃げられる訳無いよな」
独り言を呟くと手の中で携帯が振動している。
時刻はもう深夜をとっくに超えていた。
着信相手は見なくても解っていたから、確認する事も無く通話ボタンを押した。
「金と証拠の入った携帯は榊山の社の一番古い祠の下に埋めてある」
相手が何か言う前に簡潔にそう告げると、深い溜息が返ってきた。
それを気にするでもなく、青宗はテーブルの上のホテルの名前が入ったライターでフィルターを燃やす。
部屋に少しずつ煙草の匂いが広がっていった。
『流石イヌピー。案外早く落とせたな』
だけど俺が名乗る前に用件を言うな、不用心だと軽く咎められたが、青宗は勿論そんな事は気にしちゃいない。
この携帯の番号を知ってるのは今通話してるココとその他幹部たちぐらいしか居ないのだから。
それなら別に相手がココで無くても聞かれて困るような内容では無い筈だ。
「それで、この後は?」
『あー…まだ生きてんだろ?』
「稀咲からは生かしておくように言われてるしな」
聞きたかった情報は聞き出したし、これ以上生かして置いてもこの男をに利用価値は無い。
恐らく生きたまま捕らえて拷問でも加えて他の者たちへの見せしめにでもするのだろう。
『今何処に、いる?』
「ホテルだ」
聞かれたから素直に答えたが、電話の向こうからは舌打ちが聞こえた。
どうせ青宗が何をしていたか見当がついてる癖に聞いておいて腹を立てるなんて無駄な事だと思う。
以前に似たような事があったからそう言ってみたが、解っててもムカつくんだから仕方ない、そういうものらしい。
『…場所は』
「インターの先の、あの城みたいなとこだ」
『お前、そこ俺と行ったとこじゃん』
「知ってる所の方が使いやすい」
『もう絶対そこイヌピーとは使わないからな』
「どうせ同じ家に住んでるんだ、わざわざホテルに行く必要ねぇだろ」
『イヌピーに情緒とか求めるだけ無駄だったわ。…15分で迎え寄越すから一人で出て来い』
「わかった」
電話を切って振り向くが相変わらず男は眠ったままだ。
本当はシャワーを浴びたい気分ではあったが、万が一男が目覚めて逃げ出すかもわからない。
迎えが来るまではこのまま見張っているか、と床に散らばっている衣服を掻き集め身に付けていく。
下着からシャツからスーツ、全てココが選んだものたちだ。
今ここに在る自分を構成する全て、細胞までもがココに作られたもので何一つ自分のものじゃないような気がする。
「…せ、いしゅう、さん…」
男が身動いで寝惚けた声で青宗の名を呼んだ。
ぼんやりしている男の隣に身を滑らせると、草臥れた黒髪を撫でつけてあやしてやる。
「まだ朝まで時間がある、寝てていい」
安心するように囁いて額に口付けてやれば男は深い隈の浮かぶ瞼をすぅ、と眠りに誘われ閉じた。
この後男の身に起きるであろう事態を思うと気の毒に思うが、それもこの男が自ら選択した事の結末なのだ。
蛇に睨まれたら石になると決まっている。
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