月の井戸「足元が悪いから気を付けて」
「景元、本当にどこまで行くんだ?」
「秘密だよ」
身内だけでの、星穹列車の訪れを歓迎するちょっとした食事会。長楽天での宴は気の良い金人港の人々とも交わり、その場限りの宴が始まった。穹やなのかなど列車の一行に、景元たち親しい友人たち、そして名前も知らない現地の彼らとの語らいが心地よくて、丹恒は珍しく杯が進んでいた。景元が普段とは違う穏やかさで笑っているのを見て、多忙な彼が、自らが守護する羅浮の明るい街を楽しんでいることが嬉しかった。
酔いが程よく回る。喧噪をふわふわと眺めていたら、突然視界が奪われた。何事だと酒精を消しかけたが、よく知る声に一瞬強張った身体の力が抜けた。
「こっそりついておいで」
頭から被せられたらしい布を取ると、それは普段羅浮で顔を隠すのに丹恒が被っている笠だ。酔っぱらった丹恒の頭に背中から目隠しするように被せた景元が、ウィンク一つで促した。
いつもと違う青年らしい彼の、珍しく子供めいたその表情に興味を惹かれる。丹恒は雲の上を歩く足取りで差し出された掌に、素直に自分のものを重ねた。
そのまま手を引かれ、景元に任せるまま歩を進める。
次第によく聞こえていた人々の陽気な歌声が遠くになった。宴の席から大分歩いたのか。月夜の明かりに映える街並みの色が、記憶の中の紙上の過ぎた故郷と重なる。街の広場の噴水を通り過ぎ、細長い通りを歩き、さらに小さな花園の中へ。
差し出した手は強く握られ、丹恒をしっかりと導く。果実酒に酔わされフラフラと足元がおぼつかない丹恒の歩調に合わせて、景元は本当にゆっくり手を引いてくれる。
あぁ、優しいな。
「どこに行くんだ?」
もう一度問う。また笑って誤魔化される。
「まだ内緒だよ。でも丹恒殿も、絶対気に入るだろう」
精悍な顔が子供のように楽しそうに目を細める。整った顔だと思う。友人の贔屓目でなくても、まるで彫刻のような完璧な造形の青年だ。だが、彼の魅力は顔だけじゃない。将軍という地位でも、もちろん無い。それ以上に穏やかで優しい心根が愛おしいと思う。本当に、心惹かれずにはいられない、素晴らしい人だ。
普段から何気ない表情が、仕草が、言葉全てが絵になり、丹恒の中で温かいものを育んでくれる。列車が旅を続けている今、丹恒とは自然とすれ違い、会う回数は多くはなかった。
けれど、寂しいと感じてはいけない。景元が丹恒を想ってくれていることを、彼は何度も何度も、深く示してくれていたから。
コツンと爪先に何かが当たった。足元に丸い石がきらりと光る。硝子みたいな石に気を取られた所で、前を行く背中が丁度止まった。
「景元?」
「着いたよ。ほら――」
夜に映える、真銀の月。
「すごい……! こんな、きれいな、」
「だろう?」
花園の奥にあつらえた東屋で、目を丸くして夜空に見入る隣で景元が得意げに胸を張る。連れられた先で丹恒を待っていたのは、宴の席で見たものよりも鮮やかな月だった。
店や街の明かりが無い分、何も邪魔されずに思う存分輝いているのだろう。海の中の真珠のような月に丹恒の目を一気に奪った。
「こんな場所、アーカイブにもない」
「私以外きっと誰も知らないよ」
確かに手入れを忘れられた東屋は人の気配が全くしない。鬱蒼と茂る木々に隠れ忘れられた場所のようだ。朽ちた大理石のベンチに腰かける。視線は夜空に惹かれたまま、感嘆の吐息が丹恒の口から漏れた。
「はあ……貴方にはいつも驚かされてばっかりだ」
「それを君が言うかい? 君こそ、私の心をかき乱してやまないのに」
素直に景元を称賛すると、茶化される。そんな内容の無い会話が楽しい。隣に座る人が笑ってくれるのが本当に好ましいと思う。
初めて会ったのは、光も届かない牢獄の中。そして追放者と逃亡者。数奇な事件に巻き込まれ二人で力を交わした。それから彼に対して複雑な想いを持ちながらも、丹恒は再び仲間たちと旅立ち……。
景元と二人きりでこうして過ごすようになったのは、いつからだろうか。
穏やかな気持ちで彼の隣にいれることが、こんなにも嬉しく思う日がくるなんて思ってもみなかった。とてつも無い幸福感が足元から体を包んでいく。月に飲まれる。
(あぁ、幸せだ)
ふんわりとした感覚そのままにコトリと隣の逞しい肩に頭を預けた。酔いすぎだ、調子に乗り過ぎだ、明日になれば絶対に景元にニヤニヤとからかわれる。そんな理性の言葉は隅に置いておく。
「景元」
「眠かったら、寝てもいいよ」
置いたままの荷物とか、穹たちはどうするんだ? と何処か冷静なところで笑っているか、それでも心地よい眠りに身を委ねたいのも事実だ。景元の言葉に甘えたい気持ちが睡眠欲を大きくする。が、それよりもなにか伝えたいことがあった。
なんだろう? その言葉の意味を認識することが、もう難しい。
「……景元」
「うん」
「貴方が、誰よりも好ましいと想う」
「!?」
「愛してる」
素直に口が動いて言葉が舌をなぞる。
(うん、良い気分だ)
なんの打算も世間体もなく、愛しい者に愛しいと伝えられる。何て良い気分なんだろう。過去の罪を数えるだけだった子供に救いの手を差し伸べてくれた彼への親愛の情と、普段は自分すらも気づかないほど、抱え込んで溢れた恋情。
こんな夜くらい、口にしても良いだろう。自分の尊名を冠する月が、一層美しい夜なのだから。
「……丹恒殿、大分酔いが回っているね?」
「酒より……茶の方が好きだ……」
「はいはい……。そんなに酔ってしまうと、今の告白も明日になったら覚えてないと言い訳されてしまうかな」
「?」
彼の肩の乗った頭をやんわりと撫でられる。柔らかい、優しい感覚に、素直に彼の肩に頬を擦り甘えた。間近でくすりと微笑む吐息がくすぐったい。
「丹恒殿」
「うん?」
寄せた頬を離し、景元を見上げる。綺麗な琥珀玉が真っ直ぐに丹恒を見下ろす。吸い込まれそうな綺麗な目。
その宝石に触れたくて、そっと手を伸ばす。カサついた唇。滑らかな頬。長い睫毛。自分の、槍と戦いに荒れた指が触れてはいけないような、そんな背徳感を覚えながら指の腹が彼に吸い付いて離れない。
「君の指は綺麗だね」
そんなわけはない。
「爪も綺麗な形だ。もっと触っておくれ……」
手を取られる。もっと触るように言ってくるくせに、触り心地の良い顔から引き離された。なんて意地悪だろう。チュッ…と音を立てて指先に口付けられた。
「丹恒殿、さっきの言葉をもう一度言ってくれるかい?」
「……茶の方が好き」
「それは私よりも、かな」
唸るような低い声で抗議される。
一体この青年は何を強請っているんだろう? そんな眉を顰めた顔をしないでほしい。せっかく二人でいるのだから。もう一回、と催促するようにもう一度指先に唇が触れられた。
「?」
「丹恒殿、早く」
「……貴方を、誰よりも大切に想ってる?」
「――ただの友人として?」
「それは……」
そんな訳がない。
この擽ったい、苦しい、甘い、渇くような想いは。
「……違う」
捉えられた指を振りほどく。あっさり離されたことに少し不満に思いつつも、そのまま手をもう一度景元の頬に当てた。
「愛している、景元。これが今、目の前にいる貴方に対する想いだ」
「っ!」
一言ひとこと、本心からの気持ちを言葉にする。彼は知らない前世の自分を見ていたが、今は丹恒自身を見てくれているのに気付いた時の喜びは予想以上だった。短い期間で少しずつ言葉を交わし、かけがえのない友人以上の存在になった。
そう、友人だ。
しかし視線を交わす熱が熱すぎた。隣に寄り添う期間が長すぎた。そのせいか、丹恒の心にはすっかり友人ではない景元が棲み着いた。
それからは、もう見て見ぬふりはできなかった。羅浮の将軍としての彼に背中を押され、助られながらも、一人の人間として目で追ってしまう毎日。いつか悟られてしまうのではないか、いや、いっそ気づいて欲しいと思う日々。自分からこうして告げるつもりは全く無かった。
ただ、月があまりにも綺麗だったから――
「愛してる……」
眼の前の腕の中にそのまま身を倒す。すぐに強い力で抱きしめられた。
「あぁ……。私もだ、丹恒殿」
今度はつむじに口付けられる。その口付けは、抱きしめられる力に比べてずっと弱々しくて、彼が今どんな顔をしているのか簡単にわかってしまった。
「泣いているのか?」
「……ちょっと顔を見ないでくれるかい」
「ふふっ」
「笑わないで……」
今、心臓止まりそうだから。そんな子供みたいにイジける彼が、可愛らしい。頬に触れていた手を、今は抱きしめられて見えない白銀色の髪に伸ばし、ポンポンと撫でた。
ふと、自分の中の不安を見つける。たわいもないことだが、気づいてしまってはもういけない。ここは口に出してしまおう。抱きしめられてるのを身を捩り少し顔を出す。
「貴方はいつまでも俺を『丹恒殿』と呼ぶんだな?」
拗ねるように、下から睨みつけてやる。ポカンと一瞬間の抜けた顔をみせた景元は、その瞬間破顔した。
「私も愛してるよ、丹恒!」