続々・二人次第 梅雨の匂いに人々が慣れた頃。
コーン……ココン……と、木槌を振るう音がアトリエに高く響く。普通の話し声なら簡単に遮る音に対して、作業していた青年のひとりが声を張り上げた。
「応星先生! お客さんですよ!!」
「……ああ?」
作業を中断された「応星」と呼ばれた男が、青年――彼の生徒――を睨みつけ、更にその隣の景元に舌打ちをした。
「追い出して塩撒いとけ」
「丹楓と同じこと言うようになったなぁ、君」
「あっちは口癖。俺は本気だ」
「あははは」
若白髪の目立つ頭が振り返ると、眉間に皺を寄せた友人が立ち上がった。手には木槌が握られており、なにかの作業中だと思われる。それが何かは景元は専門外で分からなかったが、応星は若くして著名なアーティストだということだけは知っていた。きっと作品作りの途中だったろう彼の手を止めてしまって、素直に悪いと思った。まぁ本当に都合が悪い時は友人は一切外界に反応しないので、今日はマシだが。
「――休憩だ。茶を頼む」
「はい!」
生徒が部屋を出ると応星ものっそりと歩いてくる。彫刻刀で表面がガタガタにえぐれている卓の前に腰掛けている景元の正面に彼も座った。
「ほら、注文の品」
「ありがとう」
壁に備え付けられている棚から小さな箱を取り出すと、景元の前に静かに置いた。
半年前に応星に頼んでいた仕事を受け取る。手のひらにすっぽり収まる箱を開けると、中には花を模したピアスが一対、上品に天鵞絨のベッドに寝かされていた。
「彫金は専門じゃないからな、文句は受け付ける」
「まさか。流石、いい出来だ」
ちょうど出された茶に礼をいいながら景元は大満足で鞄に箱を丁寧に仕舞った。音を立てて応星も茶を啜る。
「結構なブツだぞ。誰かにやるのか?」
「まさか。次の仕事で使うだけだよ」
モデルの斡旋業を経営している景元は、社長であると同時に彼らのために衣装や装飾品を手配するスタイリストやマネージメントの役目も担っている。頻度はそう多くはないが、こうして応星にもその相談をしにアトリエに訪れることもあった。
熱い茶は猫舌の景元を拒否する。冷ますように何度か息を吹きかけ、濃い茶を堪能した。それは最近、丹恒に分けてもらった甘い茶に慣れた舌を痺れさせるような味だった。
「そういえば最近、丹楓に家には行ったかい?」
「あ? ……いや、無いな」
その答えに内心喜ぶ。自分は二回も行ったのだと自慢したい。いや、自慢しよう。
「私はね、この間――」
「会ってはいるがな、あそこの家の次男と」
「――二回もお邪魔して……うん?」
ほくほくと最近の報告をする景元の耳に、とんでもない情報が届いた。目を見開き正面に座る友人の顔を見る。相変わらず眉間の皺が消えない、頑固者の顔だ。
「丹恒と……君が?」
何故、と呆然と呟くと、お前こそなんだと片眉を上げられた。
「引っ越したお前以外は、ガキの頃はずっと近所で付き合いがあったんだ。当然だろ?」
「白露とは」
「いつも菓子を強請られてるよ」
とんでもない盲点だった。湿気で膨らんだ髪を束ねているポニーテールがガックリと俯いた景元の横面をペシッと叩く。
同い年の幼なじみ五人は、物心ついた時から家族ぐるみで共に遊び、今でもお互いに連絡を取り合い、月に一度は自然と集まる親友であり腐れ縁の関係だ。幼なじみというからには各家も近い。大体歩いて五分程度の場所に実家はあった。
成人し、それぞれ独立した今は住む場所も遠くなった者もいるが、その中でも応星は丹楓宅に近い場所に住宅兼アトリエを構えていた。
「どうした?」
「いや、思った以上に自分が浮かれていたんだなぁって、急に思い知って……」
「さよか」
崩れ落ちる景元に、しかし旧い付き合いの親友はその旋毛を眺めながら茶を飲み終えた。
「お前が早とちりして浮かれるのはいつもの事じゃねぇか」
「そんな事ないよ……」
そう否定しつつ、すぐに自分で「いや……」と続ける。
「丹楓の弟くんに、私はどうにも嫌われていてね。それもきっと浮かれすぎたんだろうね……どうしたものか……」
「丹恒は真面目なやつだ。お前みたいなチャラチャラした男が普通に嫌いなんだろうよ」
「そんな、見た目で判断する子には見えないけど」
礼儀正しく、さらには見ず知らずの男と猫を身を張って助けてくれる好青年だ。偏見かもしれないが、そんな子が見た目どうこうで人を嫌うとは思えない。
ため息をつくと、濃い緑色の水面に波紋が広がった。
「ただ挨拶をして……彼を好きになったからね、告白したんだ」
「……ん?」
「その証に指先にキスを。うん、やっぱりキスは浮かれすぎたかな?」
「いやいや――……は??」
パッと手を広げて「でも、何も不思議はないだろ?」と言ってみせる親友に、応星は絶句した。コイツは何を言ってるんだ。この世の常識はいつの間にか自分が知らないうちに変わってしまったのか。そんな言葉が顔につらつらと流れ出る。
「そんなに驚かなくても」
親友の能弁な顔色に、景元は少し眉を寄せて見せた。
整った顔が困る様は、妙に人に罪悪感を与える。しかし応星はそんなもの蹴り飛ばして、景元に卓を挟んで顔を近づけた。
「お前がいくらフランス帰りって言っても、ここは日本だぞ。男子高校生にそこまで迫るなんて……犯罪だろ」
「まだ迫ってないよ。告白と挨拶をしているだけじゃないか」
「指にキスとかエグすぎるわ」
「それはもう癖で……でも洋画とかで今どきの日本人も慣れてるだろう?」
「慣れるか! ……たく、丹楓が知ったらどうなるか」
「もう知ってるよ」
服の下は打ち身だらけだ。怪我はしてないがそのギリギリまでしごかれた。
フランス系クオーターの景元は一〇歳の頃、両親の仕事の事情で祖父母の住むフランスへと引っ越した。そこで煌びやかなプラチナブロンドにエキゾチックでハンサムな顔が服飾ブランドの目に留まり、モデルのアルバイトなどをして華やかな世界を知ることとなる。
そんな環境で育った景元は大学を卒業するタイミングで日本に戻ってきたが、それでもやはりこちらの常識に疎いところがあった。
今、応星が信じられない顔をしているのもそれが理由だろう。
「お前……日本に戻ってきてから何年経つんだ」
「完全には二年かな」
まだフランスには両親がいる。実家の家業も手伝っていたらなかなか日本に定住は難しかった。定期的に元の幼なじみに会えるようになったのは、ここ最近のことだ。
応星は顔に「面倒臭い」と書きながらも、それでも友人のために忠告してやった。
「冗談でも諦めろ。あいつのブラコンシスコンっぷりは分かってるだろう」
この間も酔った丹楓の弟妹自慢に一晩付き合わされたのだ。あの時は部屋中が酒瓶だらけになって畳の目も見えなくなっていた。
応星の言葉に景元は、それでもと何かを考えるように顎を撫でた。ボソリと小さく独り言を吐く。
「でも丹楓も……口では牽制してくるけど何だか見守られているような感覚で……」
「何だって?」
「いや……」
「まぁ、まだ丹楓に殺されてなくて良かったよ」
そう言い捨てて応星が立ち上がった。作業再開か。生徒は途中で「お疲れ様でしたー」と声を掛けて帰っていった。景元も茶の片付けくらいはしようと二人分の湯のみを手に取った時、アトリエの入口に細身のシルエットが現れた。
「?」
「来たか」
応星がニヤリと笑う。
「応星、約束してた煮物を持ってきたんだけど……!?」
「え、丹恒?」
アトリエに入ってきた人物は、さきほどまで話題になっていた渦中の人だった。
大きな青灰色の目が見開かれる。Tシャツにジーパンというラフな格好をした少年がエコバックを肩に立ち竦んでいた。
「え、なん、で」
辿々しい言葉が迷子みたいだ。相当驚いているのだろう。
丹恒のスニーカーが少し後ずさるのを見て、景元は慌てて口を開いた。
「写真、見ただろう? 応星とも幼なじみだ」
「……」
景元も迷うように応星に視線を動かすと、仕方ないというふうにアトリエの主は少年に近づいて、肩のエコバックを受け取る。
「今は面倒な客だがな。腐れ縁ってやつだ」
「……そうか」
なんとか理解してくれたようだ。
応星が丹恒の袋を覗き込む。中にはタッパが入っていた。煮物の良い香りが景元の鼻をくすぐる。
「お、筑前煮か」
「初めて作ったから味は保証しないぞ」
「いや、いい匂いだ」
しかめっ面が多い応星の笑顔に丹恒も表情を和らげる。完全に警戒されている自分とは対照的で、景元も流石に少し寂しくなった。
「えーと。じゃあ私はお暇しようかな」
「あ? 食ってけよ」
当然のように応星が聞いてくる。普段なら会話の流れで普通に食事を共にするのだが、今夜のおかずは丹恒が作ったものだ。非常にご相伴に与りたいところだが、彼は嫌がるだろう。
「暫くは丹恒にお前から近づくな」そう丹楓に二週間前に釘を刺された身が痛い。
持っていたままの湯呑みを流しに置き、営業スマイルで断ろうとした。しかしその前に丹恒が口を開いた。
「あの、食べないのか?」
応星と見比べて、戸惑いがちに景元を伺ってくる。
心にジン……としたものが広がったのを感じる。そうだ、この子はこういう子だ。礼儀正しく、優しい子だ。この状況だったら警戒してようが景元でも誘ってくれる。あの時だって夕飯に誘ってくれた。
義務感だろうけれど親切だなぁと、大人の意地の悪さと罪悪感を持ちながらも、全身がほわりと暖かくなった。
「良いのかい?」
「量は……十分あると思うから」
「じゃあ、いただこうかな」
営業用ではない笑顔で礼を言うと、丹恒は目を逸らしながらもこくんと頷いた。
今日は白露は、丹楓に連れられて同じく幼なじみの鏡流と白珠と遊園地に行っているらしい。帰りも夕飯を食べてからとのことで、丹恒も景元たちと同じ卓に着いた。
筑前煮の他にホッケのみりん干し、金平ごぼう、枝豆と豆腐のサラダが並ぶ。
(私から近づいた訳じゃないから、許されるかな?)
と今頃妹と夢の国を楽しんでいる丹楓に嘯きながら、料理を皿に盛り付ける丹恒の手伝いをした。
ヤカンのお湯が湧いた。お茶を淹れてくれる丹恒に、そう言えばと景元は口を開いた。
「あの時いただいたお茶、美味しく飲んでるよ」
「! そうか。口に合ってよかった」
綺麗な眉が少し下がる。良かった、話かけるのは許されるようだ。
「でもどうしても香りが飛んじゃってね。君が淹れてくれたほどじゃないんだ」
「熱湯を掛けてないか? 玉露は温い湯でゆっくり抽出するんだ」
「なるほど」
思ったよりも和やかな雰囲気で会話が進む。その穏やかさを心地よく思っていると食卓も整い、三人で暖かい夕食を囲んだ。
「いただきます」
「いただきます」
「召し上がれ」
両手を合わせて、食事をいただく。
煮物の人参は甘く煮られ口の中でコロっと崩れていく。ホッケの身もほくほくで、白米が進んだ。
「とても美味しいよ、丹恒」
「そうか、良かった」
手放しで景元が褒めると、丹恒の顔も綻ぶ。ガツガツと箸を動かす応星も無言で頷いた。
「料理が得意なんだね」
「丹楓にまさか料理はさせられないし。うちは炊事は俺が担当なんだ。これはお手伝いさんから教わった」
丹楓の料理は壊滅的だ。フランスに居た時はしょっちゅう「学校の調理実習室が半壊した!」と、彼の恐ろしい料理の腕を友人たちにメッセージで聞かされていた。
甘辛く煮た金平ごぼうの香ばしさに舌鼓を打つ。引き続き丹恒に警戒されず景元は幸せのうちに夕食を終えた。
食卓の話題が互いのことから最近景元が飼いだした子猫に移ると、食休みをしていた応星に「もう遅いから帰れと」とアトリエから二人揃ってつまみ出された。
木造の家が多い住宅街に二人で連れ立って帰る。丹恒は家に。景元はその先の駅に。
「君を家まで送り届けられて良かったよ。もうすっかり暗いからね」
「俺は子供じゃない」
ムッとした顔が夜目に映る。初めて会った時も同じ会話をしたなと思い、景元は思わず笑ってしまった。
「笑うな」
「うん、ごめん。そうだね、君は立派なカッコイイ男の子だ。あの時もしっかり私を受け止めてくれたし」
「まぁ、あれくらい……」
男の子? と引っ掛かりはしたが少年はすんなり褒められてくれた。全く、あの丹楓の弟とは思えないほど素直で真っ直ぐな子だ。
しばらく学校の近況を聞いたり、みーみーの可愛い様を話したり、白露がアイスに喜んで毎日夕食前なのに強請ってくるとため息をついたりとお互いに会話に花を咲かせていると、すぐに丹恒の家に着いた。まだ家の明かりは点っていない。
「じゃあ、ここまでで」
「うん。お兄さんたちが帰ってくるまで鍵は閉めておくんだよ」
「ふふっ、分かってる」
思わず過保護になった景元のセリフに、初めて丹恒が声を出して笑った。
景元の喉がぐっと詰まる。
今まで向けられた表情で一番柔らかいそれに、優しく垂れる眦に、薄闇に景元の心臓を打った。急かされるようにして一歩足を踏み出す。
「丹恒!」
「ん?」
夜の閑静に景元のよく通る声が僅かに響く。振り向いた丹恒の目に真剣な眼差しの男が映った。
「君が好きなのは、本気だよ」
「――!」
「この間は驚かせてしまったね、ごめん。ただこれだけは誤解してたなら解いておきたくて」
それ以上は近づかないというように踏み出した足を元に戻す。少年が肩を震わせる。景元の一挙手一投足に丹恒は敏感に集中していた。
(まだみーみーの方が怖がらないな)
そんなことを頭の別のところで思う。
「……とう、に?」
少し震えたか細い声が鼓膜に僅かに届く。門を背にエコバックの持ち手を握りしめ、丹恒がこちらを下から見上げるように見詰めていた。
「本当に、言ってるのか?」
深呼吸する。ここから言葉を間違えては元の木阿弥だ。
「……本当だよ。君が好きだ。私と付き合って欲しいな」
「会ってすぐだぞ、誰にだって言ってるんじゃ」
「言うわけないじゃないか、こんなこと」
「一〇歳以上も歳が違うんだぞ! しかも俺は未成年だ」
「子供扱いするなって言ったのは、君じゃなかったかな?」
ああ、しまった、これは意地悪すぎた。
案の定、丹恒の目は険しくなり口元は硬くなってしまった。先程までの和やかな会話が懐かしい。
「ごめん、意地が悪かった」
「……」
完全に頑なにさせてしまった。これは今日、誤解を解くのは無理だと景元は判断して、パッと両手を上げて苦笑した。
「もう行くよ。そろそろ丹楓達も帰ってくるだろうし」
「……」
「今日も嫌な思いさせちゃったかな……すまない」
素直に、彼を怖がらせて申し訳ないと思う。勿論こんなはずじゃなかった。もっとスムーズに誤解を解き、改めて告白するチャンスを得たかった。だが、時間は戻せない。
古い街灯がカチッカチッと二回点滅した。車の音が路地の向こうからやってくるのを感じる。
「じゃあ、またね」
景元は踵を返した。駅の方へ歩きながら、小さくため息をついて自分の失敗を激しく悔やむ。
その耳には「嫌なんかじゃない」という少年の声は、残念ながら届かなかった。