「入間さん。こんど、友人を家に呼んでもよいでしょうか」
先輩と会ったその日の夜に、神宮寺がそう切り出してきたので、銃兎は思わず「彼女ですか?」と尋ねてしまった。
「彼女?」
「あ、いえ、何でもないです」
「クラスで一人、仲良くなれたひとがいるんです。彼が、私がどんな勉強をしているか興味があるというので」
神宮寺は楽しそうに微笑んでいる。まだ学校に通い始めてひと月も経っていないのに、もう家に招くほど仲の良い友人ができたのか。銃兎には少し意外だったが、彼の学習能力の高さを思えば、「友人関係」というもの自体に慣れるのもそう苦労はしないのかもしれない。
「いいじゃないですか。いつ呼ぶんですか?」
「そうですね、今度の金曜日か土曜日に」
銃兎は自身の勤務スケジュールを思い出す。金曜は夜勤で、土曜は非番だ。同居している説明に困るので、彼の友人とは顔を合わせないようにしよう、と銃兎は思った。その直後、神宮寺は「ああでも金曜だと、入間さんがいませんね」と表情を曇らせる。
「入間さんがいてくれた方が、いいと思ったんですが」
「ええと、向こうの親御さんが、保護者不在では駄目だと言っているんですか?」
神宮寺はただ首を振る。「入間さんに、いてほしいんです」と語る口調は、相変わらずやたらと素直だ。きっと、自身の要望を口にして断られたためしがないのだろう。そんなに世の中甘くねえぞ、と思いつつ、友人関係を築き始めたばかりだから不安なのだろうかとつい気を回してしまう。
「……来週の木曜なら、私は休みですよ」
助け舟を出すようにそう言ってやると、神宮寺はぱあっと顔を明るくさせた。「木曜に来てもらいます」と決定事項のように告げて、その友人に連絡するためなのか、スマートフォンに何かを打ち込んでいる。まあ、一瞬リビングで顔を合わせるぐらいならいいだろう。曲がりなりにも成人した国家公務員として、あるいはこの少年の養育者として、未成年の子どもを見守る監督義務もあるのだろうし。そう勝手に自分を納得させたところで、銃兎はふと気になって、尋ねてみた。
「そういえば、ご友人に、私のことはなんと言って説明しているんですか?」
神宮寺はスマートフォンに目線を向けたまま、なんてことのないように答える。
「親戚です。遠い関係の」
戸籍上は、たしかにそうなっている。どこかの何かの権力によって、一応ふたりは、遠縁の親戚ということになっているのだった。見た目が似ていないことも、苗字が違うことも、その理由でおおむね説明がつくのだろう。「なるほど」といって会話を打ち切りかけたところで、神宮寺が今度は目線を合わせて質問を返してきた。
「なんと言えば、よかったでしょうか」
カウンセリングの際、夢野は「素性は隠しましょうね」と言っていた。銃兎としても、その方がよいと判断していた。だから神宮寺寂雷は、中学まで海外にいた帰国子女で、高校進学を機に単身で日本に帰ってきたのだという設定になっている。けれど彼にとっては、それが嘘をついているようで、あまり気に入っていないらしい。身を守る嘘もあるのに、と銃兎は思っていた。夢野にいたっては、「嘘は吐いた者勝ちですよ。たとえば小生はギャンブラーのヒモを囲っているので素寒貧なんです」など真顔で嘘を吐いていたが。そこまで突拍子のない嘘を吐けとは、誰も言っていない。
「……親戚、というのは、無難な答えだと思いますよ」銃兎は曖昧に言葉を濁した。彼が何と答えてほしかったのか、その正解も掴めていない。子どもと暮らすと、こういう、答えに窮する質問を投げかけられる瞬間が不意に訪れるのだ。
「わかりました」
神宮寺はそう言うものの、いまいち納得できていないような表情だ。何かを考え込むように指先で頬を軽く叩いて、それから「こんど来る友人には、兄がいるそうなんです」と唐突に切り出した。「だから、兄、というものが欲しかったと思っていたのかもしれません」と目線を下げ気味に語っている。
なるほど、と銃兎にはそこでようやく話の繋がりが見えた。はじめて「兄弟のいる友人」というものができて、自分には無いものが羨ましくて、だから銃兎が兄であってくれればよいと思ったということか。
くすぐったい気持ちに胸の内を占拠され、銃兎は口を開いたまま、返す言葉を見つけられずにいた。神宮寺はそんな銃兎をさして気にせず、「自分の気持ちに整理がつきました」と自己完結している。
「では、木曜ですね」
「はい。十六時過ぎに来て、彼は夕飯前に帰ると思います」
「わかりました。……楽しみですね」銃兎がそう言うと、神宮寺はにっこりと笑って「はい、とても」と答えた。
神宮寺が友人を連れて帰って来たのは、約束の日の十六時二十分のことである。ホームルームが終わって、すぐに学校を飛び出したのだろう。リビングにちらりと顔を出したその少年は、「天国獄です」と軽く頭を下げた。右目の下の泣きぼくろが印象的な、甘さのある顔立ちの少年だった。彼のゆるいウェーブがかった鈍色の髪は耳にかけられるほどの長さで、やはり校則の厳しくない学校なのかな、と銃兎は推測する。思い返せば、交番の近くを通りがかる彼らと同じ高校の生徒たちはみな、それなりに好きなように制服を着崩していた。
「こんにちは。ゆっくりしていってくださいね」
銃兎ができる限りのにこやかさを見せて挨拶すると、天国はぼそりと「……どおも」と頭を下げて神宮寺の部屋へと引っ込んでいった。あれが、「普通」の高校一年生の態度なのか。妙に感慨深く、銃兎はひとりで「ふうん」と唸ってしまった。
特にリビングに居座る意味も無かったので、銃兎も自らの部屋に入ることにする。廊下を歩くと、神宮寺の部屋からは愉快そうな会話が聞こえてきた。
「ハァ!? 寂雷、お前これ全部読んだのか?」
「うん。入りきらないので、図書館で借りたり、売り払ってしまったりしたものもあるけれど」
「参考書は? 何使ってんだ?」
「中学校の教科書をいただいたので、それを使って勉強しました」
「そういう意味じゃねえよ!」
「獄はしっかりしているね。ねえ、兄というのは、こうやって色々と教えてくれるのかい?」
「お前みたいな弟なんて絶対いらんわ」
賑やかでテンポの良い会話が、銃兎が部屋に入っても聞こえてくる。どうやら天国という少年は、神宮寺を過剰に持ち上げるようなこともなく、対等な友人としてあれこれと世話を焼いたりツッコミを入れたりしてくれているらしい。銃兎にはちょっとした感動であった。どこか感覚のズレている神宮寺が高校の中で馴染めているのかと不安だったが、ああいう友人が隣にいてくれるなら安心だ。
彼らが神宮寺の部屋に入ってから、会話と笑い声はほとんど途切れることなく続いていた。少年たちの喋り声は、どういうわけかあまり耳障りには感じられない。銃兎はあたりが暗くなるまで、小さなデスクに向かって自身の調べ物とメールのやり取りに集中していた。やがて、コンコンと控えめに銃兎の部屋の扉がノックされる。
「はい?」
「入間さん、そろそろ獄が帰るというので、外まで送っていきます」
「ええ、お気を付けて」
銃兎がそう言うが早いか、神宮寺は「外まで送るよ」と玄関口にいるらしき天国に呼びかけている。「いらん、女じゃあるまいし」と無下にされても神宮寺は一向にこたえないようで、「でも駅までの近道があるんだよ」と後を追って、そのまま外に出て行ってしまった。ふう、と銃兎は感慨のこもった溜息を吐く。あの神宮寺が、敬語を使わずに話しているのを、銃兎はこの数か月ではじめて聞いた。やはり、十以上も年の離れた自分には気を遣っていたのだろう。良い友人ができて何よりだ、と銃兎はひとり頷く。子供の成長を見守るのは、たとえそれが赤の他人でも、悪い気分はしないものである。
天国を見送って帰ってきた神宮寺は、にこにことしながら「楽しかったです」と素直に感想を述べた。
「それは良かった。笑い声がずっと聞こえていましたからね」
「そう、獄がね、面白いんです。私が部屋を見せて、どうやって勉強しているのか事細かに説明しても、まったく信じてくれなくて」神宮寺はくすくすと思い出し笑いをしている。
「彼は、神宮寺さんの勉強方法が知りたかったんですか?」
「ええ」と、神宮寺はまっすぐな微笑みを浮かべる。「彼、中学までずっと一番の成績だったらしいので」
その瞬間、ぞわり、と背筋を何かになぞられたような感覚が銃兎をおそう。理由がわからず「そうなんですね」と曖昧に返した直後、銃兎は自らが感じた嫌な気配のわけに気が付いた。神宮寺は、おそらくその生育環境のせいで、人の嫉妬心にどこか無頓着なのだ。
天国が中学まで一番「だった」ということは、高校に入ってすぐにその座が奪われたことを言っているのだろう。神宮寺寂雷という、神の申し子によって。きっとさぞ悔しかったはずだ。けれどその悔しさを上回る向上心で、天国は己から一番を奪ったライバルの家に敵情視察に来ていたに違いない。だというのに神宮寺本人は、嫉妬とか悔しさとか、そういう負の感情など世界に存在しないかのように、ただ「友達が家に来てくれて嬉しい」と笑うのだ。
カウンセラーである夢野が、先月の面談で「これからが難しいですよ」と予言していたのは、こういうことだったのか。天を仰ぎたくなる気持ちをぐっと抑えて、銃兎は「じゃあ、晩御飯にしましょうか」と持ち掛けた。神宮寺はまだ楽しさの余韻が抜けないのか、「はあい」と珍しく間延びした声で返事をしている。リビングに入ると、大きな窓から満月がじいっとこちらを見つめていた。銃兎が彼をどう育てるのか見張っているような、そういう表情の月であった。