愛知る馬鹿共打つ手無し 歓声はない。皆遠くにいる。カメラの姿もない。どこかではぐれてしまった。
耳を澄ます。地面が削られる音、耳朶を削ぐような鋭い風。そして共に隣を行く呼吸。彼が同じようにしたなら、かわりに自分のそれが聞こえるはずだ。獣の叫びにも似た声にならない咆哮が。
心臓はずっと速いまま身体を急かし続けている。もっと、ずっとそのままでいてほしい。そうでなければ今目の前に見える障害を気持ちよく越えられない。
視界の端、彼が構えた。自分も――行く。
「――」
勢いのまま駆け上った段差、一気に世界が自分達へ開く。重力に後押しされ谷底へ、最短ルートだ。ぱらぱらと身体を跳ねるつぶて。ああ――。
愛抱夢が腰を逸らし大きく息を吸った。吐くと同時に彼の声が青い夜に響く。
「楽しいねぇ……!」
満たされたそれは確かに彼の感情で――けれどどうしようもなく自分の物だった。捕まえなければいけない。言葉が月に飲み込まれる前に。
「――ッ」
無理矢理に呼吸を押し止めたせいか喉がズクンと痛む。だがこれなら単語ひとつ、いける。
「うん!」
通る空気が熱い。誤魔化すように笑えば、彼もまた短く声を詰まらせ歯を見せるようにニッと唇を吊り上げた。ぎこちない笑み。きっと自分もそうなのだろう。どちらだって今、滑る以外にできることなんて。
短い会話が終わり再び重力に縛り付けられた身を前方へと遊ばせる。それぞれ使える箇所を探して視線を巡らせてはいるが真に見据える先は互いにひとつ。スタートと同時に産声をあげた、どちらかに抱かれるのを待つ勝利だけだ。早く行ってあげたい、抱きあげたそれに君を求めた時間はこんなにも楽しかったと伝えたい。だからもっと彼と。スピードを。高さを。
それにしてもなぜだろう。今夜はとても――。
「おい、来るぞ……!」
モニター側から走ってきた男が絶叫した。ゴール前に集まった観客へとその興奮が一気に伝播していく。友人を迎えるため待機する暦もその例外ではない。ぞくぞくと震えの走る腕を無理矢理に押さえ付け、まだかまだかと前方を注視するその目に突如何かが侵入した。透明な液体。痛みは無いが視界が濁る。
「っ、……?」
思わずぬぐった暦はそれが汗だと気づき、今自分が異様に汗をかいていることを初めて認識した。手のひらで頬に触れればぺとりと嫌な感触と甲をつたう水滴、熱もこもっているのか表面の温度も高い。
周囲の客数人をちらりと見る。少し叫んでは水を飲む者、しきりにTシャツの襟を伸ばす者。彼らもどうやら暦と同じだ。暑がっている。
「マジか……でもそうだよな……」
連日更新される最高気温。夜などひどい熱気に誰もが悩まされているだろうに観客の中でそれらしい対策をしている者は一人も見当たらない。
皆大丈夫かよと呆れる暦もつい先程まで失念していたどころか、前日には薄着すぎないように気を付けろと友人へわざわざ忠告までするほど「この会場は寒い」という固定観念に縛られていた側だ。
その理由はおそらくこの場の雰囲気にある。ろくに照明のない暗いコース外。枯れた木々が強風にわさわさとざわめき、ゴールは墓。何か出るのではと疑いたくなるほどおどろおどろしい空間。
熱いスケートには似合わないここは、けれど先日世界一熱いかもしれないビーフが行われた場所だった。
「折角滑れるところまで戻したんだから使うべきだ」
すっかりカリスマを取り戻したトップではあったがその提案には流石に一部から疑問の声もあがり
「君達はもう一度、アレを見たいと思わないのかい?」
しかし彼ら皆、この一言で沈黙した。そもそも客全員がSを非合法なスケート場と理解して出入りし、かつそこで行われる危険なレースを見ることを目的としている「スケートを愛する愚か者」なのだから常識的な話を持ち出したとて通るわけもない。
本当のところ、愛抱夢に促されるまでもなく誰もが思っていたのだろう。またアレを見たい。アレに心を奪われたいと。
こうして旧Sはひっそりと復活した。一応の措置として許可制がとられ今まで数度無事故で使われている。全てオーナー発案、オーナー許可、対戦者は勿論スノーでどれも大盛況。異次元の滑りに魅せられた観客は彼らにしては珍しく結果がどうあろうと両者共に賛辞を送り、また愛抱夢もにこやかにそれに答えるが常だ。
盛り上がる会場、熱狂する人々の中心で軽く礼をする男を思いだし暦の顔にシワがよった。
かの男の本心を知っている暦は観客のためにこの場を復活させたS思いの愛抱夢というストーリーを到底信じる気になれない。その耳には友人の肩を抱いた男が発した「デートスポットは幾つあってもいいからね」がこびりついている。愛抱夢からしてみれば自分達は食卓からこぼれたパン屑に喜ぶ鼠なのだと決めつけ嫌悪する暦だったが、悔しいことに勝負が決まる度誰よりも早くテーブル下へ走っている自覚もあった。 仕方ないだろと内心にすら言い訳してかじるパン屑、遥か上から降るそれはおこぼれだろうと美味すぎるのだ。
ざわつきの中誰かが呟く。
聞こえる。
思わず口を閉じた観客全員がギャリギャリと憂鬱な熱帯夜を切り裂くチェーンソーのごとき走行音を確かに耳にした。来るぞ、来るぞ、にわかに誰もが騒ぎだし、そして。
「――来た!」
「同時だ!」
愛抱夢、そしてスノー。身を屈めた二人が一切速度を緩めることなくゴールへと直進してくる。残りわずか数十メートル。
「ラン――……あ?」
最後の応援だと友人の名を叫ぼうとした暦が違和感に目をすがめた。ようやく視認できたランガの表情がどうもおかしい。大きく開かれた目と半開きの口、真剣勝負の真っ最中にしてはゆるんだ、というより何処か心あらずに見える。付け加えて真っ赤な顔。あんな様子の友人を見たのは一度、確か場所は真夏の海。
「やっば……」
事を理解した暦が青ざめ、更なる事実に気づきその体温まで下げた。仮面のせいで確信はできないがランガの隣、競うように前に出た愛抱夢。いつもの衣装を着こんだ彼の頬も同じくらい、赤い。
二人が近づいてくる。やはり一切速度は――。
「――全員逃げろっ!」
水を差すなと言わんばかりの後方の視線にも怯まず暦は更に声量を上げた。
「早く下がれ! あいつら――」
時間がない。
「多分ゴールが見えてない……突っ込んでくる!」
一拍置いてわあと観客が散るのと同時に二人がラインを越えた。暦の予想通りその勢いは止まらない。おそらく彼らには自分達から逃げる観客の声も姿も、今しがた通ったゴールの存在すら認識できていないだろう。
このままだとまずいと暦が走りかけた時、事態が動いた。
「……」
おそらく愛抱夢から、もしかしたらランガからだったかもしれない。それほどに同じタイミングで両者が顔をあげ、横を向き、目を合わす。そして――これもどちらからか誰にも判別できなかったが――進行方向を無理矢理変え。
強い衝撃が空気を伝いその場の全てを痺れさす。ボードが二本跳ねあがるが観客達の目線を奪ったのはそちらではなく、より高く飛ばされた二人。すぐさま地に落とされごろごろと転がる彼らに駆け寄ることもしないまま、それぞれがちらちらと隣の客へ目配せする。
「見たか?」誰かが尋ね「見た」誰かが答えた。今目の前で起こった事は自分の見間違えではないかと目撃した全員が疑い、確かめたがっていた。
宙に浮いた愛抱夢とスノーが互いに向けてとびかかった――そんなこと直接目にでもしなければ誰が信じるだろうか。
暦もしばらく呆気にとられていたが、二人が転がった先で出た何やら不可解な叫声がその横っ面をはたく。
「……ッ、ランガ、大丈夫かランガ、おい……!」
慌てて駆けつけた先、目に映った光景に暦は再度思考を止めた。
「――――」
折り重なって倒れている。そう簡素に表現するにはあまりにも状況は混迷していた。
ライトとモニターが近くにあるとはいえ薄暗い夜更け。彼らが巻き起こした砂埃が周囲を白く曇らす。月明かりにフォーカスされた二人は防御が間に合わなかったらしく髪も顔も汚れきって悲惨な有り様だった。
下にランガ、その手足を押さえこむように上に愛抱夢。一見ぴくりとも動かないがよく目をこらすと二人とも著しく震えている。愛抱夢は押さえようと、ランガはそれに抵抗しようと、必死で力を込めているのだ。
余裕もなく互いに大きく開いた口の端、肌に着いた砂が線上に色を変え愛抱夢のそれに至っては重力に従いぼたぼたとランガの頬へ落ちた。気にする素振りも見せず上体を揺らすランガ、肘も動員させて確実に力を削ごうとする愛抱夢、赤い顔をより強く染めてじたばたと互いの手足を狙い絡み付く。
「……ッ!…………!」
「……、……、……!」
肩が上下するほど激しく呼吸しながらひたすら相手を制圧しようとする二人の様は、まさに動物の喧嘩、そしてまさに。
いつの間にか観客は誰ひとり声すらあげずただ状況を見守り始めていた。止めていいのか? そもそも何を止めるのか? その答えを知る者がここには居ない。
争いは決着を迎えようとしていた。ランガの手を身体の横に縫いとめた愛抱夢がその身を完全に伏せ、重石となって動きを止める。
両者の距離はもう無いも同然だった。愛抱夢が頭をふらりと起こす。ゆっくり移動する先は目の前の荒く息する顔。
暦のうなじを決して暑さのせいではない汗が伝う。まさか、いや。そんな。同じ予想にたどり着いたらしい声がいたるところでひそひそと静かに焦りだす。
鼻と鼻がわずかに曲がるほど二人の顔が近づきつつあった。その間にもランガは瞳孔を開ききった目で愛抱夢を見続ける。逃さないとばかりに瞬きすらしないランガの口がわずかに微笑んだ。
「――は」
愛抱夢の吐いた息――そのあまりの熱っぽさに各々が予想の的中を確信する。
更に二人が近づく、もう止められる距離ではない。せめて軽いのにしてくれと誰もが、暦すら祈った次の瞬間――愛抱夢がランガに話しかけた。
「もう一回しよう」
「いいよ」
あっさり身を起こした二人はキャップマンの元へすたすた歩いていく。
その姿が完全に見えなくなったころ、どこからともなく次々に溜め息が漏れ、ゴール周辺でこの一部始終を固唾を飲んで見守っていた全員が遅れて一斉に脱力した。一体自分達が見たアレは何だったのかと困惑が一同を包むが答えはやはり誰にも解らなかった。
何故かひどく疲れた心身を引きずり、唯一解った「再戦がある」ということだけを頼りによろよろとモニターへと向かうスケートが好きでたまらない愚か者達。その中に中々戻ってこなかった暦を見つけた実也がいそいそと走りよってくる。
「暦!……あれ、ランガは?一緒じゃないの」
「……もう一勝負するんだと」
「何それ……」
暦のげっそりとした顔と前代未聞の回答に早々と理解を諦めたらしい実也は「それでさ」と早々に話題を切り替えた。
「どっちが勝った?」
実也曰く、二人がゴールする直前いきなりモニターが暗くなったのだとか。なら直接確認しようとゴール前に向かった者が何人も「今は駄目だと」と帰って来たのも見たそうで。
「何があったの?」
心配半分興味半分で闇夜にきらめく猫の目。幼い好奇心にどう真実を伝えたものかと暦は首をひねり「馬鹿なんだよ」とだけ絞り出した。
「俺も馬鹿、他のやつも馬鹿。みんなみんな、スケート馬鹿!」
「……答えになってない」
「俺から言えんのはこれぐらい。あとは、ほら」
「え……うわっ本当にするんだ」
「あいつらが帰ってきたら聞いてみようぜ」
両者の姿を見た実也が目を剥く。
「なにあの顔!服!ボロボロじゃん!あれでもう一度!?馬鹿じゃないの!?」
つい口から出たのだろう真っ直ぐな物言いに暦は深く頷いた。
実也の言う通りだ。あの二人は特別馬鹿。暑さでやられた頭と身体が偶然こじ開けた感情が滑れば治まると本気で信じてる。見ていただけの暦だって解ったというのに当人達があの調子では。
愛抱夢とランガ。超越者たち。スケートの神に愛される代わりに何か落っことしてきた馬鹿二人。きっと一生恋心など解りゃしない、スケートへの愛とそれの違いも判別できない本物の大馬鹿野郎共が今再びスタートした。