やさしいみらい「おまえのスケートはマジでスゲーよ。悔しいけどワクワクする……でもやっぱ気に入らねー! いつかブッ倒してやるかんな!」
――うるさいな。いつでも来なよ。
「オジサンって自信家ばっかだよね、永遠に自分が一番速いって思ってる。そうやって油断してると可愛い猫に引っ掛かれるかもよ?」
――確かにそうかもね。子猫に負ける気はしないけど。
「オマエよお、速えしうめえんだから対戦相手のことだってもう少し考えられただろ。それこそアイツにしてるみたいにすりゃ怪我人だって……」
――君の吐ける台詞かな、自称S界のアンチヒーローくん。潰した人間の数でも競うかい?
「おいお前、お前というやつはどうしようもない阿呆だ。だが俺はそんな阿呆に惹かれたからな。お前がどんなに阿呆で薄情で友人甲斐がなくとも絶対にもう二度と離れてやらんということをよく覚えておけ」
――何回アホって言えば気が済むんだ。勝手にすればいいさ。お前なんて。
「おまえさんがどっかで元気にやってんならいいなんて考えはとうに捨てちまった、何てったって……おい、自分は違うみたいな顔してんなよ、大馬鹿野郎! 大人になれねえ者同士馬鹿やろうぜ、三人で、な!」
――一緒にするな。大体お前らはいつも誘い方が雑なんだ。
「愛之介様は素晴らしい方です。昔も今も」
――そうか。
「愛抱夢って優しいよね」
「やさしい」
思わず繰り返した上空で昼下がりの陽気に似合うとぼけた小鳥の鳴き声がした。
いくら春の日差しが気持ちよかろうとこんな時間に散歩なんて、昨年の彼に出会っていない自分なら考えもしなかった暢気さだ。人通りの少ない平日、珍しく二人揃っての午前休だからこそできる贅沢。ランガは下級生の健康診断で自分はまあ、偶然だ。ぐったりと横たわった犬を思い出す。アイツが偶然棒に当たった結果休みが生まれた。運の収束というやつだ。
「僕が?」
「うん」
自分が優しい。素直に受けとるかどうか、検討する気にすらならない褒め言葉だ。理由はひとつ。そんなわけがないから。
自覚を持って言おう。自分と優しさは対極の位置にある。特にランガが知る自分の大部分を占めるだろう愛抱夢という男。身勝手で他人に縛られない傲岸不遜な排他的主義者、その優しさから程遠い人格は、自分自身が数年かけて調整した物だ。他人を傷つけても何も感じないように。自分が傷ついても何とも思わないように。必死だった。
作りあげたペルソナを被り、わざわざ蘇らせた俗世のしがらみから逃れるための箱庭で、することといえば他人を使ったストレス解消。それしか方法が無かったとはいえまともな良心が備わっているとは思えない。
だからそんな風に言われるのは、絶対におかしい。
「優しいよ」
横を歩くランガが繰り返す。彼独特のやわらかな声質で言われるとふわりと受け入れてしまいそうで危ない。
普段ならこんな違和感しか感じられない言葉はSの愛抱夢として軽く流すか神道愛之介として握手のひとつくらい交わして、どちらにせよ一瞬で忘れて終わりだろう。だが今自分を優しいと表現したのは他ならぬランガだ。捨て置くわけにはいかなかった。
「……君にってことかい」
これなら理解できる。血も涙もない自分でも彼には、彼だけにはうんと優しくしようと思える。多くの愛を受け、返してきたはずのこの身が真に欲していた暖かさ、それをくれた彼になら。
幸福なことにランガに優しくするのはたいへん楽しい。目覚めかけのまぶたにかかる一筋の髪の毛をはらうことも、眠りにつくその額にまじないのキスをおくることも。この世にここまで夢中になれることがあったのかと驚愕するほど全ての体験が喜びに溢れている。だからなおさら多くの優しさを彼に捧げてしまうわけで、ランガが自分を優しい人間だと誤解するのも無理はなかった。
しかしそういう訳でも無いらしい。ランガの首が左右に振られる。
「俺以外にも、あなたは優しい」
「そんなこと――」
無いと否定するのを一度止め「……どうしてそう思うの?」と尋ねてみた。理由は解らない。ただ彼の言葉をあっさりと切り捨てたくなかったか。それとも何か。
「さっきのおばあさん」
「……ああ」
「喜んでた」
「……別にあれくらいのこと、誰だってするさ」
数分前出会った老婆のことだろう。何やらキョロキョロと周囲を見回しては画面が暗いままの携帯を見つめていたので声をかけた。話を聞けばただの迷子だったので道すがら案内した。それだけだ。
「俺は気づかなかった」
「君はあの時前を見てた。僕は横を見た。それだけの話だよ」
そうだ、それだけの事だ。大した話ではない。それなのにランガは再び首を振った。
「俺が横を見たっておばあさんが居るなって思っても困ってるかどうかまでは確認できなかっただろうし、声をかけられたかも解らない。でも愛抱夢はできた」
こちらを見るため軽く上を向いた顔が陽光に輝く。
「だから愛抱夢はすごい。すごくて、優しい」
目をすがめた。細くなった視界にはそれでもちらちらと白い光が瞬いている。
ああ――眩しい。痛いほど。
「……ありがとう。惚れ直した?」
ほれ、と口ごもったランガがひとつ息を吐いて穏やかに笑った。
「うん。俺もあなたみたいになりたいと思った」
「僕、みたいに」
思わず彼の頬に両手を沿わす。ぬるく温まった肌は迷うこともなくこちらに身を預けた。
真っ直ぐな瞳は原初の水、明度の高いどこか遠くの海。俗世へ堕ちる代わりに手に入れた最後の楽園。自分がいつか還るべき場所はいつだろうと美しい。
手の甲をするりと撫でた前髪に年甲斐もなく胸が逸る。彼の目に自分が映った。呆れた、なんという弱り顔だ。
怯えるな。知っているだろう。
自分が踏み込もうと彼は決して汚れない。
「本当に?」
ランガの手が真似るようにこちらの頬を撫でる。三度目の首肯は縦だった。
「あなたみたいな優しい人になりたいよ」
「――――」
喉がひくつく。声よ出てくれと願った。張り裂けてもいい、叫びたかった。
違うんだ。
例えば先程の状況を見たのが車窓からであれば。自分は何もせず、興味すら感じなかっただろう。ただ今は徒歩で、時間に余裕があって、自分は何者でもなくて――隣にランガが居た。
酷いやつだと思われたくなかっただけだ。他の人間が自分に抱く印象を、君に持たれたくなかっただけ。後から気づいた君が心を痛めないように。優しい君の目の前で、優しくないことが起きて欲しくなかっただけなんだ。
自分のそれは全て彼の優しさの上に成り立っている。そうとも知らずにランガは、優しい優しいと無邪気に繰り返すのだ。騙しているかのような後ろめたさ、君に何が解ると沸き上がる激情。そしてそれらより遥か強い、どうしてこんなにもと思うほどの。
「うれしい」
「よかった」
肌を撫でる手がやわらかく目尻をなぞる。
「ほんとに、すっごく嬉しそうだ」
「……生まれて初めてだからね」
何千回と聞いた言葉はあれほどセピアだったのに、彼の声に乗せられたそれはたちまち世界を彩った。
この色彩をずっと待っていた気がする。
「あれ、そうなんだ」
「ああ……おっと」
「……?」
「何でもないよ」
頬の手をさりげなく取る。
「帰ろうか。少し眠って、それから別れよう」
繋ごうとすると迎えるように彼が手を軽く広げた。無意識だろうが、許されているようで気分がいい。
「今ならきっと良い夢が見れる。そんな気分なんだ」
「わかる……」
暖かな日差しをたっぷり浴び既に眠気でいっぱいのランガは手首の違和感に気付くこともないようだ。繋いだ手をゆらゆらと動かしながら、彼には申し訳ないがやはり自分は優しくないなと思う。少なくとも昨夜までは確定だ、恋人の手首にあんな痕を残す優しい男がいるものか。今は手を繋ぎ袖を下ろすことで誤魔化しているが登校前には間違いなく知られてしまう。恥ずかしがらせず「二度とあれはやらない」なんて言われない伝え方。悩みものだ。
「……やっぱり僕は、君だって彼女のことを気づけたし助けられたと思うよ。タイミングが悪かっただけで」
「そうかな。俺ボーッとしてるってよく言われるけど」
「ランガくんはそこがいいんだ」
「何それ」
そうしようなんて思わず、探さず、けれど目の前に孤独な誰かが居れば自然に手を差しのべる。あの日自分を救ったのだっておそらく彼の美徳が起こした偶然で、そんなふうに皆が彼自身も知らない内に彼に救われて、いつか自分もと願うのだろう。
優しくなりたい――君のように。
「ボーッとしたまま優しいのが君だろう」
「だから、優しいのは愛抱夢だって」
「……わかったよ。わかったから……」
そんなに何度も言わないでほしい、中毒になりそうだ。ランガからその称号を貰うためなら何相手にだって親切にしてしまうような、そんな馬鹿な男になったらどうしてくれる。
それとも敢えてなってしまおうか。目に映る全てが自分を優しいと称えるその時、ランガは隣でどんな微笑みを自分にかけてくれるだろう。ああ何だか想像したらたまらなく意欲が湧いてきた。方法はハッキリとしないがともかく自称他称問わず優しいやつを全員薙ぎ倒せばいいんじゃないか。それは自分が最も得意とする類いのやり方だ。任せてほしい。
「僕も優しくなるからさ。君も君のままで居てよ」
そうして世界で一番優しい二人になろう。優しさとは愛であり、愛は自分の専売特許。傍らに彼まで居るとなれば、この世の誰にも負ける気がしない。