手繋ぎ鬼の影を追う 触れるだけでは押さえられない。そう判断して、胸元へ伸ばした手により力を込めた。指が食い込み骨を押しわずかな痛みが胸に走る。けれど離す気にはならない。ぎちぎちと胸の内側が鳴いても、やっぱり掴むのを止められないで居た。それは、こうでもしなければどうにかなってしまうと――そんな予感がしたからだ。
もっと速く、もっと――。
身勝手な欲望が腕を引いてくる。抵抗せず速度を上げれば視界が軽く揺れ、浮かび上がる影。回る。踊る。跳ぶ。かと思えばこちらを向き――手を広げた。
待ってるんだ。
考えることすらなく解ってしまう。
あれは待っている、誰かが追い付いてくるのを。
「……いま、」
行くと言うより、身体が動くより何より先に、
「ランガ!」
「――あ」
耳をつんざく咆哮に意識の全てを止められた。
真横。音の出所を向けばいつの間に並走していたのか、なびくシャツに包まれた逞しい肉体があった。常時浮かべている彼らしい飄々とした笑みは消えきつい表情から感じ取れるのは焦り、もしくは怒り。
「聞こえてんな」
「……うん」
「スピード落とせ」
「……わかった」
名残惜しいがブレーキをかける。あまりの声が冷たかったのもだけど、全面的にこちらが悪く反論の余地もなかったから。何せ初めてでは。
「そっか」
俺、またやったんだ。
ただ思ったことをそのまま口に出せば――眼前に拳が突き出されていた。
「……能天気にも程度ってもんがあるだろ」
ぶわりと乱れた髪の向こうから鋭い視線を向けられる。
「こんな無茶を続けるようなら、次は止めねえぞ」
それは、この睫毛まで触れてしまいそうな彼の武器の話だろうか。それとも。
「うん」
「……はー……」
頷いたのに溜め息。なんで。
「そうだった、お前らみたいなのにはこれが通用しない、忘れてた。何せ前例が七年前だからなあ……」
「俺みたいなのって?」
「……生粋のスケート馬鹿ってこったよ」
どこからともなく聞こえた軽快な音。続いて額に激痛が走った。指で弾かれたのだと遅れて気付く。
「いっだ……!」
「はは。痛め痛め。教訓にして、これっきりにしろ」
とんでもなく鋭利な刃物が突き刺さっているみたいだ。責め立ててくる熱さは確かに忘れられそうにないけど、自分の筋肉量を考慮したうえでやり方を選んで欲しかった。
「何度言っても聞きやしないのが悪い。あの眼鏡すら気にしてんだぞ、どんだけ自分が危険な状態か解っていないのはお前だけだ。ランガ」
「わかってる。気をつける」
「……ったく」
ひらり、手を振られる。別れの挨拶。
「お前が一度言ってビビる素直な性格してたら良かったんだがな。例えば、アイツみたく」
「……」
「最近どうしてんだか知らんが……まあまた来いって言ってたって伝えといてくれ。じゃあな」
悪意を持ってしての発言だとは一切思わないがそれでも残された言葉はひどく厄介だ。スピードが落ちているのも良くない。不安、心配、困惑。払い落としたはずのそれらが身体に戻ってくる。
視界に入る空は明るい。あの日のような曇り空で無かったことだけが今たったひとつ救いだった。
席に着く。恐る恐る挨拶をすれば小声ながらも返してくれて、けれど。
「いかねえ」
「……わかった」
三四、いや五。正確な回数は数えていないがおそらくその程度にはなってしまった。つまりそれはもう一月以上あの場所に二人で行っていないということで、更には。
「じゃあ放課後とか。MIYAがスケジュール教えてくれて」
「しねえ。……悪いけど、頼むから放っといてくれ」
「……うん」
返事を待たず彼は顔を窓側へ、そして手探りに教科書を取り出した。まだ授業なんて始まらないのにと困惑する俺へ理由を教えるように開いたそれは、呆気なく暦の顔を隠す。明確な拒絶だった。
あの日。どことなく様子がおかしくて、帰っていないと聞いたとき無性に心がざわついた。暗くなるまで探して、待って、待って――ようやく見つけた彼は。
――ごめん。今お前と話せない。
心配だったとも言えなかった。泣いているのかすら問えなかった。ましてや、俺のせいかなんて。
考えられないなりに考えていつならいいかと尋ねれば、彼は「お前はさあ」と呆れたように笑った。どうしようもなく申し訳なかった。間違えたらしい質問も、うまい励ましの言葉ひとつ導き出せない頭も、
――明日からはいいよ。でも――――
続く頼みに、思わず嫌だと返しかけた最低な自分も。
授業が始まろうが暦は変わらず寝たまま。俺はといえば、開いたページの下に弁当とスマホを置いて教師の声をやり過ごしている。今それらを消費したところで浮いた休み時間に意味はもうない。理解しながら慣習になってしまったそれを未練がましく続けていた。
自動再生された動画の中では有名なプレーヤーが派手なトリックを決めている。魅せることを前提とした動きはパフォーマンスとして完成され、見ているだけでワクワクしてくる、試してみたくなる――そのはずなのに。
「……」
指が勝手に検索欄を開きある言葉を打ち込んだ。次々流れる検索結果は大量、けれど求めた物はひとつも無さそうだったので早々に手を止め他の動画に移ろうとして――その前に、検索履歴を急いで消した。横目で確認した暦は未だ教科書を被り、ふりだろうと夢の中だ。つまり俺の挙動には気付かれていないだろう。引き続き気付かれないようそっと胸を撫で下ろす。
彼はあの男を嫌いだと前に言っていたから、名前は勿論その姿だって目に入れたくないかもしれない。特に今は尚更。何故なら暦はしばらくスケートをしないそうなので。
――あ。違う。
最近やけに忘れっぽくて駄目だ。そうではない。
――でも、しばらくスケートはしない。お前とは。
俺とだけ、だった。
「ありがたく思ってよね」
「うん」
「付きっきりで面倒見るなんて、後輩にさえしてあげたことないんだから。すっごくレアだよ」
「暦にはしてた」
「あ、あれはぁ……!」
尻尾を逆立て威嚇したのも束の間、何故だかMIYAは顔を伏せる。
「ねぇ。……スライム、ダメだった?」
「……ごめん」
「そうだよ!早く仲直り――」
パッと上がった顔が何か言いつのろうとしたが、目が合った途端に言葉を止め再び下を向いてしまった。落ち込んでいるように見える。俺が何かしてしまっただろうか。気にはなるものの、もしMIYAにまで何か――そんなふうに考えると、とても聞けそうにない。
「……ううん。別にいい。にげるしか選ばないスライムなんてどうせ大した経験値にもならないし」
「ごめんMIYA」
「だからいいってば。あんまり言うと置いてくよ」
「え、さっき付きっきりって」
「もう……!」
地団駄を踏みながらもぶれない軸は流石だ。
「いいから黙って。とにかく滑って。でもスピードは出さないで」
「……出したら駄目?」
「駄目に決まってるだろ。一定以上出したら――」
MIYAが指差すのは俺ではなくその先。俺を挟み反対側を進む彼と、彼女。
「Cがすぐ教えてくれるから。回数分かける十、この後筋トレね」
「……聞いてない」
「当たり前だ。聞かせたらお前が逃げるとも限らんからな」
逃げたりしない。普通に滑らないかと提案するくらいだ。
「安心しろ、俺達も鬼ではない。常人程度の加速なら許してやる。つまり――」
言われた速度は、良く理解出来たわけではないけど充分速いように思えた。何だ。心配しなくて良いかもしれない。
「ちなみに最近のお前のデータだが、ほぼ必ずこれを超えていた。それも大幅に」
「え」
「やはり自覚は無しか」
はあ、と吐く溜め息は少しジョーのそれに似ている。
「危険な兆候だな、人的被害一歩手前で収まっているうちはともかくいつアイツのように――いや……」
言葉と共に伸びた手。デジャヴを感じる動作が指先を一本突きつけ止まった。
「端的に言う――迷惑だ。さっさとコントロールできるようになれ」
言うなり離れ、しかし距離はなお近いままだ。監視するような目からかかる無言の圧に唾を飲み込む。本当に気をつけなければおそらくこの後地獄を見るだろう。慎重に。
「MIYA。ランガの気を逸らしてスピードを出させろ」
「オッケー。そういうの得意」
「まじか……」
岩壁沿い、林のすぐ側を通るMIYAに迫る枝枝。わざとそこを目指しただろう小柄な身体は驚くほどするりと彼らの間を抜ける。
「できる?」
頷いて進み、真似して動く。成功した。
「……っ、」
「うわ。大丈夫?」
「うん」
頬を拭うとそれなりに赤いものが付いてくるけど、俺の体は小さくないから多少枝にぶつかってしまうのは仕方の無いことだ。そうだとしてもできると思ったからやったし結果としてできた。ならそれで構わない。
「大丈夫。解っててやったから」
「……チェリー」
「ああ。C、一回追加だ」
「うそ!?」
「速度は関係ない。俺達の癇に触ったからだ」
そんなのまであるのか。
「察知して回避、それを自分で行えないのであれば速度を抑えようが危険であることには変わらん」
「あ、ジョーにもそういうこと言われた」
「追加」
「……今のはランガが悪いよ」
それもあの大男に言われた気がするけど絶対に口にしない。固く決意した。
引き続き滑っていく。けど、先程からどうも背中がもぞもぞと落ち着かない、まるで誰かに押してほしいような――
「……」
危ないところだった。いま絶対惜しかったのにと叫ぶ隣の膨れ面が恐ろしい。
「逸らしておけと言っただろうが」
「僕のせいにしないでよね。ランガがちゃんと自分で止めたせい」
「……止めろって言ったのは二人だ」
「元はと言えばランガがそんな――!」
「MIYA!」
チェリーの鋭い叫びに口をつぐんだMIYAは「わかってる」と呟き身を寄せてきた。
「……どう。自分で止められそう? 」
「正直わからない」
「ふーん……速くなりかけたら教えてあげよっか」
「いや、いい」
そういった事は解る。これから速くなるサインも、それに気付き次第止めなくてはいけないことも。ただ頭で理解したそれを身体の動きに変換しようとすると疑問符が浮かんでしまうのだ。
「MIYAは」
「?なに」
「……いや」
「……なんなの」
「いやごめん、ええと」
「いやいやばっかり、もういい!」
猫を模したフードがどんどん近づき、弱々しいながらも拳が。
「邪魔してやる!すっごい邪魔してやる!」
「おい、趣旨から離れているぞ……!」
「うるさーい!」
乱雑にボードを揺らし腕を滅茶苦茶に振り回しながらMIYAは――ここでできた初めての仲間は叫ぶ。
「スライム共のくせに隠し事ばっかして!僕がこんなに、心配してやってるのに!」
「……あはは」
「笑うな!」
「ごめん。ありがと、MIYA」
また聞けなかった。言って理解してもらえるかどうか自信がないのだ。目の前に進めばもっと速くなれるのに、どうして止まらなくちゃいけないのか解らないなんて。
日々は過ぎ。一月あるいはそれ以上、気温の変化を肌で感じとれる程度には時が進んだ一方で俺はといえば大きな変化もなく、Sに来てはこうして。
「三九、四〇!はい次スクワットー!」
「……うう」
「嫌ならコントロール!」
「はい……」
ペナルティの筋トレに勤しんでいる。それでも初期に比べれば随分回数は減り負荷だって一つ一つは決して重くないけど、滑る度に繰り返せばそれなりにつらい。
「終わった……」
「お疲れさん。ほらよ」
「!れ――」
気安い声に思わず跳ね起きた身体は、現実を直視した瞬間耐えきれずへにゃりと力を抜いた。俺の馬鹿。朦朧としていたとはどんな間違え方だ。
「……んな残念そうな顔するんじゃねえ。俺で悪かったな」
「ホントに残念だったねーランガー。ねえシャドウ、次からは喋る前に名乗ってくれない?」
「お、ま、え、な、あ……!」
挑発にわざとらしく脅かすジェスチャーをとったシャドウは俺達の真正面に勢いよく座り込むとそれぞれへ両手を、その手の中にある冷えた物を差し出した。
「飲め」
「あ、どうも」
「ありがと。気が利くじゃん、どうしたの」
「……お前らに話さなきゃいけねえことがある。特にランガ、お前だ」
「俺?」
「落ち着いて聞けよ」
缶を渡し終えた手が名指しに身構える俺の肩を何故か押さえつけてくる。深く息を吸ったシャドウは、吐くと同時にその声の小ささに見合わないたいへんな事実を告げた。
「暦を見た」
無意識に立ち上がろうとした身体は押さえに止められて腰を浮かすだけに留まった。こうなるだろうと思ったと呆れ顔が目を鋭くする。
「落ち着け。落ち着かなきゃ話さねえ」
「MIYA、俺のこと」
「いいよ。いつもみたいに見張っといてあげる。シャドウ」
「おう」
配達の帰りに偶然見つけたパーキング。普段の練習場から遠く離れたそこに、暦は居たそうだ。
「声とかかけたの?」
「かけなかった」
身を乗り出して尋ねるMIYAの言葉を即座に否定したシャドウだが、ふと押し黙ると「いいや」と首を振った。
「かけられなかった」
「かけられなかった……?」
「どういうこと?」
「お前らには解らねえよ。ともかく――ランガ」
シャドウの目はペイントも相まって独特の迫力がある。食い入るように見られてしまえば、僅かに背筋を伸ばすほど。しかしそんな凶悪な目と雰囲気を持つ男が、その実仲間と決めた相手への気に掛けを忘れないことを俺達は良く知っていた――そこにはきっと俺と暦も入っている。
「暦はスケートを続けてる。良かったな」
「……うん」
続けてるのか。
聞いた瞬間心の内で何かが決壊した。溢れないように身を丸め、ひたすら頷く。
「うん……!」
良かった。俺もそう思う。
「わ、ちょ、ランガ、目。目!」
「目……?」
「あれ……?」
「何だガキんちょ、泣いてると思ったか?」
「だって今絶対……」
MIYAは不思議そうに目を瞬かせたりシャドウのからかいに反論したりと忙しそうだけど、確かに彼の言う通り少しくらいなら泣いていたかもしれない。それほどに今嬉しかった。暦がスケートを止めていない。それは俺達がまだスケートを通して繋がれる可能性が存在するという証だ。
「あのさ」
同時にこちらを向く二人の目からは喜びと、俺に対しての気遣いが伺えた。良い仲間達だと思う。
「……しばらくって言われてるんだ。いつかな」
「知らないよ。……まあでも、意外と早いかもね」
「とは言え楽観視しすぎんなよ。あとこれだけ言っとく。お前ら二人にだ」
いいか、絶対だぞ、と何度も言葉を費やしてシャドウは念を押す。
「暦本人にこのことは言うな。聞くのも駄目だ。探りもいれるな。待て」
「……ん。わかった」
「ふん。しょうがないやつ……わかった、待つ」
「よし」
「話は終わり?」
「ああ――っておい」
終わったらしい。ならば。
「ランガ、こら!待て!」
「ごめん!ちょっと行ってくる!!」
落ち着くのも終わりだ。
「速度!忘れないでよ!」
「解ってる――!」
振り向きもせず叫び、前方を確認。ビーフは――していないみたい。よし。ボードを放ち――乗る。
耐えきれず笑いが溢れた。
「……ふふ」
暦が帰ってくる。そう思うと温い風すら心地良い。
「そうだよね」
やめられないよな、こんなの。楽しくて、ワクワクして。
心の中友人に想いを馳せながら脳裏に浮かぶのは、今までの忘れられない体験だ。それは全ての切欠であり、それ以上を知った対決であり、そして――。
「……」
耳が捉えたのは進行方向から聞こえるざわめき。思考を中断させ、
「わかってる」
言い聞かせるように呟いて速度を慎重に下げた。
ちらほらとたむろしているプレーヤー達を、ぶつからないよう注意を払いゆっくりと避けていく。障害物に対しても同じだ。練習の成果が出ているのか、自分にも周りにも危険の及ばないまでに動きは統制できていた。まさに全て思い通りという感覚で、前よりずっとなめらかにコースを滑り落ちていく。
空を見上げれば星。そんなことに気付く余裕すら。
ああ――。
――――物足りない。
「……あれ」
今、何を。
随分機嫌が良いと言われもうすぐ仲直りができそうなんだと返した。自分のことのように喜ぶ母へ照れつつも同意し、感謝を伝えたのが夕食時の話。それから数時間経ちあとは眠るのみとなった今も喜びは消えない。
昼間の店内、あれは確か丁度見せられた来月のシフト表に首を捻っていた時だ。
「少なくないですか」
「ああ大丈夫、最近頑張ってもらってありがとな」
「でもこれじゃ店長一人に」
「ならねえよ」
声に振り向き、言葉を失った。
「……んだよ」
「……ううん」
またシャドウだったらどうしようかと思っていた。そんな風に正直に答えたところで彼には意味なんて通じなかっただろう。
「そう、暦が再開するんだとさ」
「……すんませんした」
「いーよ。その分キッチリ働いてもらうぞ!もちろん二人とも!」
「えっ」
巻き込まれたうえ、何て偶然だろうか。電話と共に店長がどこかへ走り去ったせいで、俺達は直ぐ様二人きりになってしまった。
「……」
何か切り出さなくてはとは思いつつも、そわそわするばかりでうまい言葉などひとつも出てこず、声をかけることさえ躊躇われる。学校では挨拶くらいしかしてこなかったうえ、話題を探そうにも店にはスケートに関するものが多過ぎて使えない。俺からそこに踏み込むのは間違いなのでは、いやむしろ。そうして悩む俺を気にしてかそれとも彼も待っていたのかは解らないが、とにかく。
「……ランガ」
向こうから話しかけられるのが久しぶり過ぎて一瞬息が止まるかと思った。
「こっち見ないで、聞いてくれるか」
「……うん」
「もう少しだけ待っててほしい」
もう少し。もう少しとはいつだろうか。深く聞きたいがぐっと堪える。これを止めなかった結果として彼にあんな顔をさせたことを流石に忘れてはいない。
「わかった。待ってる」
「おう」
くすりと笑い声が響き不思議な安心感が心を包んだ。そういえばこれも久しぶりだ。
「ぜってー驚かせてやるから」
「……うん。楽しみにしてる」
楽しみにしている――心からの言葉だった。
暦が何を見せてくれるのか。想像するだけで走り出す心臓を誤魔化すようにベッドを転がる。
何だろうか。俺に作ってくれたような驚異的発想から生まれたボードか、それとも観客の度肝を抜く未知の作戦か。もしくはそんなものですら無いのかもしれない。ワクワクもドキドキも超える、夢中になれる、心がたまらなくなるような。
そう、それは例えば。
「……例えば」
どこまでも速く滑れるような何か。それはあの男を追いかけられるほど、速く。
いつかの日を思い出し胸元を掴む。ぎりりと押し込めば、ここには駆る風も滑るための坂も無いがそれだけで呼吸が苦しくなった。
瞬きの度まぶたの裏で揺れる青い影。
「あんなふうに……」
手を伸ばし――
「……あ」
慌てて引く――あれは駄目だ。
いつからか呼吸を止めていたらしくしきりに喉が震えている。深く吸い、吐き、少しずつ戻しながら忘れっぽいのがなかなか治らないことに困ったものだと目を閉じた。吐いた息はひどく熱く、冷めるまでとても眠れそうにない。そのくせ頭はぼんやりと動くことをやめてしまったから空の脳内は絶好の機会を逃すまいと現れた欲望達に埋められていった。浮かんでは消えていく彼らを俺はただ眺めることしかできない。
あれが食べたい。これが欲しい。
チェリーと、ジョーと、シャドウと、MIYAと滑りたい。暦と滑りたい。
それと――。
長らく見ていなかった曇り空。天気予報が告げた通りなら今夜中にこれが大雨に変わるらしいがどうだろう。出来ることならもってほしい。何故なら今日は。
「暦が来るよ」
「…………ふーん」
どうしたことか、想像よりも断然反応が悪い。
「……で?」
「でって」
「いつごろ来るの!?」
「わからない。後からってだけ聞いてる。それで」
俺と滑るんだって。言えばMIYAは大きく口を開き「ずる」と何か言葉を漏らし掛け、
「んぐ」
自分で口を塞いで止めると今のは無しだと言わんばかりの大声を放った。
「スライムの馬鹿!!!」
「MIYAにも会いたいって言ってた」
「……馬鹿」
馬鹿馬鹿馬鹿。罵倒は止まらず、しかし周囲の小石を蹴飛ばしながら彼は間違いなくある場所に向かって行く。
「MIYA、もしかして」
「馬鹿だから迷子になってるかもしれないしあっち見てくる……ランガは」
「俺は……滑ってこようかな」
「そう。良いかもね」
そうしてMIYAは去り、俺も言葉通りに別方向へ。
ウォーミングアップのかわりなら練習場でも良かっただろうがつい坂を選んだ。ただ、これから大事なビーフが控えているのも良く解っている、抑えめに――。
「……」
気付いてしまった。
天気の関係か異様に人が少ない。ギャラリーすら殆ど見かけない。
「……これなら」
しても良いのではないか。あれを。
小さく主張し出した欲望を次々内心の植え付けられた部分が否定する。人が居て危険だから駄目だ。自分で調整できないから駄目だ。
――なら今日はどうだろう。不思議なほど人は居ない。練習はかなりの結果を出し始めている。俺自身が怯えるほど危険は無さそうに思えた。止めようと思えばすぐに止められる。それだけ心掛けておけば問題は無いはずだ。おそらく。
――少しだけ。
身体をコントロールする術を覚えてよかった。それが出来れば――逆もずっと簡単になる。
「――――」
少し速度が上がった。足りない。
更に上げる。足りるわけがない。
もっと。心が叫ぶ。
――もっと速く。
「――!」
息が熱を帯びてくる。まずい。そろそろ止めようとして――背筋が震えた。こんなにも思っているのに止め方が解らない。あれ程練習しついさっきまで間違いなく出来ていたそれのやり方を一切身体が思い出せない――いや、思い出そうともしていない。これはもう忘れた物だと脳から残酷な言葉が告げられた。
こうなれば仕方ない。加速する。
皮膚が自然と張りつめて顔全体に力が入っていくようだ。そのまま目をこらせば、やはり見えるあの日の影。揺らめきながら道を示すそれにひたすら食らいついていく。
同じ道を滑ろうとすれば繊細な動作が邪魔だった。やめた。
追い付きたいなら周りを意識するのは無駄だった。やめた。
動きを捉えるため感覚を研ぎ澄ませようとし今脳の中にある懸案事項は全て余計だと気づき、だからやめた。考えるのを。
あれもこれもとやめれば何もかもが揺らぎだす。それでもまだ足りなかった。あれに近づくには、まだ。
「……ッ」
悔しい、どうすればいい。
速くなるには――あの男と同じ景色を見るには――あと何を失くせばいい――!
「知りたい?」
「――――」
男は急に現れた。視界どころか世界に割り入ってきたかのような唐突さで。その圧倒的な存在感は瞬く間に自身の影すら消し、俺の眼前を埋める。人は――変わらず居ない。二人きりだ。俺と彼の。
「君が一人でここまで来れるとは思ってなかったな。いや?実に良いよ。とてもいい――」
愛抱夢はあの日から少しも変化していない。彼が歌うように叫ぶのは俺の理解の及ばない言葉の群れ。そして踊るようでありながら少しも乱れないそれは、どこまでも速くなる、彼の。
「随分箍を外すのが上手になったじゃないか。あの下らない練習のせいかな。感謝しなくちゃ」
練習と確かに言った。見られていたのか、あんな――。
「ここ数ヵ月ずっと君を見ていた。勿論例の練習風景も……懸命に励む君の姿はとても愛らしく――涙を誘われた。それはもう可哀想で――」
「愛抱夢」
言うべきことはひとつだ。
「どうすればいい」
「――簡単だ。愛しいスノー」
近づく彼の手は、以前一度触れた時よりか幾分強引でないように思える。
「必要ないからね」
「何が」
「気付いていないの?」
笑う愛抱夢は身を遠ざけ、必然的に繋がれた手も離れるはずだった。しかし、
「……あ」
離れない――いや違う。俺だ。俺の手が彼を離そうとしない。
「良い瞳をしている。早くこれから一切を取り除いて僕だけのものにしてしまいたい」
「そしたら」
声が震えるのは恐怖からではないだろう。
「ああ」
目を覗き込まれれば当然仮面は近づき、愛抱夢の目を僅かだが見ることができた。暗いなか際立つ赤にはあの日の極彩色。心の奥で何かが疼き考えずとも溜め息が出る。
これが見たかった。
「そのまま僕を求め続けて。そうすれば君はもっと速くなれる」
「愛抱夢より?」
「ふふ……さて、どうだか……」
速度が上がる。
「試してみたいと思わない?」
「……」
思うと言いかけた瞬間何かにそれを塞き止められた。待て、考えろ、思い出せ。真摯な言葉が訴え掛けてくる。
そういえばそうだ。考えなければいけないこと。思い出さなければいけない約束。そういうものが確かにあったはずだ――ゆっくりと冷えていく脳に戻りつつあった冷静さを、
「……なんだ」
「!」
その程度か――失望を隠しもしない声が全てかき消した。
「捨てきれないようだね。じゃあ」
「待って」
「……大丈夫、解っている」
さあ。誘いが反響する。
「捨ててしまえ。……きっと気持ち良くなれるよ」
促されるまま目を逸らせば。
「――――」
「ようこそ僕らの世界へ。たまらないだろ?」
「――は、――あ、」
「お預けを喰らった分沢山味わうと良い。……ああ嬉しいな、我慢して良かった。君をずっと待っていたんだ」
再び愛抱夢が遠ざかる。手にはおかしなほど力が入らず二人を繋いでいたそれはするりと離れてしまった。他にも手足に胴体、頭の表裏。全ての力がひどく抜けているにも関わらず、何故かこのうえなく動きやすい。これならば行けるだろうか。振り返った男、その広げた腕まで。
ひとつ言葉が放たれた。それは短く
「追いついてみせて」
俺にとって何よりも。
「わかった」
今俺は何をしているのだろう。決まってる。だけど変だ。こんなこと今日の予定にあったかな。
今日は確か――待たなければいけなかった。何を。誰を。解らない。思い出せないけど――ああそうか。愛抱夢が来るのを待ってたのか。いけない。どうにも最近忘れっぽくて。
待って。
「――今、行く」