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    20210907 本編後の冬応募した覚えのないカナダ旅行に当選したランガが現地で知り合った親切な日本人シンドウと一緒にちょっとした問題を解決する話もしくは愛抱夢考案二人きり楽しいカナダ旅の筈だったドタバタ騒ぎ
    CP薄 モブ出張る +っぽい、しかしこの先絶対くっつく二人が会話したり理解できなかったり気付いたり カナダ描写はふわふわ
    イベントの会議があればどこにでも現れる愛之介が面白くて書きました

    ##明るい
    ##全年齢

    3+1の誤算 二月某日。最高気温八℃最低気温三℃、天気は曇り。寒さ厳しいこの季節、バンクーバー国際空港内を移動する客らも皆ふくふくと着膨れている。
     二つに分かれたゲートの片側。比較的さらさらと機械を操作する居住者達の中で一人、あからさまなほど指先をこわばらせながらタッチパネルを押す少年が居た。
     なんとか機械に吐き出させた長細い紙を手に持ち、慎重な歩みで少年は入国審査官の元へ進む。間違いなく初心者だろう動きにベテラン審査官の態度も多少和らぎ審査はつつがなく終了した。
     無事新たな書類を手にしてようやく、カナダに帰ってきて初めて馳河ランガは深く呼吸をすることができた。
     生を受けてから一六年間、父の死を切欠に母の故郷である日本に渡るまでランガはこの国で暮らしていた。だが住んでいたのはもっと山側、人気の無い地方だ。空港のような大量に人の行き交う場所にとんと縁が無かったランガの身体が勝手に緊張するのも無理はなかった。
     一応昨年日本の空港で類似の手続きをしたはずなのだが当時の記憶を現在ランガはほぼ有していない。丸きり抜け落ちているわけではなくとも全体的に薄ぼんやりと霞がかり「悲しかった」「疲れていた」という"なんとなく"の感情程度しか思い出せないのだ。それ程ランガにとって父オリバーの死は衝撃的な出来事だったのだろう。
     両親が愛し、ランガ自身も愛した故郷は当時の感情を否応なしに呼び覚ます。だとしてもランガがここへ来た理由。それもまた父のためだ。
     
     ランガの母である菜々子へ一通のメールが届いたのは数週間前のことだ。送り主は亡き夫オリバーの友人を名乗った。
     ――オリバーから預かっているものがある。取りに来てくれ。
     菜々子がランガを連れ日本へ移り住んだことをメールの送り主は知っているらしくカナダまで品物一つ取りに来るのは面倒だろうと二人を気遣う素振りを見せつつも、捨てるにはかなり高額の品であること、結果的に遺品になってしまったことなどから何としてもオリバーの愛した家族に受け取ってほしいのだと強く訴えた。
     その情熱はともかく提案自体は魅力的な物だったのだが、受け入れるにあたり馳河家には幾つか問題が浮上する事となった。
     まず時間だ。カナダへ行くなら最短でも四日はかかる。一月以内に来てくれれば良いと送り主は言ったがその一月以内でまとまった休みをとることが菜々子にはどうにも叶いそうに無かったのだ。
     「なら俺が行くよ」
     意気揚々と手を挙げたランガは父の遺品と聞き完全に心を動かされていた。
     学校はどうするのか。一人きりで大丈夫か。
     そう尋ねても「何とかする」としか答えなくなった息子に、母は天国の夫へ一人祈った。
     行く人数が決まれば、次に悩ましいのが旅費問題だ。
     日本からカナダまでの飛行機代は一人分でも高い。加えて泊まるならホテル代。底無しの胃袋を持つランガなら食費も無視できないだろう。軽く計算しただけでも旅費の総額は母子二人が一月必死で働いて手に出来る額をあっさり超えていた。
     貯金を崩せばどうにかと予定外の出費へ立ち向かう母の背中へ、ランガは声もかけられなかった。力になりたくとも高校生の稼げる金額などたかがしれている。
    「何とかならないかな」
     たまらずランガが友人達へぼやいたのは、その目の前に思いがけない幸運が訪れる二日前のことだった。
     
     カナダに着いたらすぐ目的地へ向かう予定だったランガは理由あって未だ空港内を彷徨っていた。
    「お腹空いた……」
     限界だった。
     片手に持った小型のキャリー、肩にかけた小型のバッグ。なるべく軽くした筈の荷物も今のランガにはひどく重く感じる。
     食べ物を求めて進むランガに背後を気にする余裕などない。その耳には歩幅を合わせぴたりとついてくる革靴の音は届かず、ふらつく肩の近くでわきわきと動く手にも当然一切、気付く気配すらなかった。なので肩を叩かれたランガが多少すっとんきょうな声をあげたとしても仕方のないことだ。
     振り返ったランガの視界いっぱいを濃色の布地が埋める。ぎょっと一歩退いたことでランガは、布地がコートの一部であり視界が埋まったのはそれを纏った者が自分のすぐ側に立っているからだと知った。
     濃色のロングコートの持ち主は青年だった。ランガに視線を合わせにこりと人の良い微笑みを浮かべた青年は、つられてランガが辿々しく笑うのを確認すると口を開く。
    「こんにちは」
     突然の挨拶へランガは無意識に「こんにちは……」と返した後、その違和感にはたと動きを止めた。
     日本語だ。
    「驚かせてしまっただろうか。申し訳ない。……こちらの方が無難かな」
     真摯な謝罪はまたも日本語だったが続く言葉は即座に英語へと切り替わった。思考が追い付かず混乱状態から抜け出せないランガへ青年は言葉と物理どちらもの距離を詰める。
    「嬉しくなってしまったんだ。もしかすると僕と同じ、当選者ではないかと」
    「……あ、あなたも?」
    「ああ。やはり君もそうなんだね。これも何かの縁だ。良ければ少し話でも」
    「えっと……」
    「ドーナツは好き?」
    「好きです」
     問いかけをランガが肯定した途端、青年は彼を連れエスカレーターへ。
    連れて行かれたとランガが気付いた頃には既に二人は空港内にあるカフェの柔らかいソファに座っていた。
     逃げるべきか――混乱も解け悩み出すランガだったが。
    「どうぞ。足りるかな」
     その前にどんと置かれたドーナツの山が彼のあらゆる思考を再び無に帰す。
    「お近づきの印に。良かったら食べてほしい。僕が喜ぶ」
    「い、いただきます……」
     おずおずと山の頂点からひとつドーナツをランガは取り口へと運んだ。瞬間、懐かしいチェーン店の味がその緊張をほぐす。代わってわいた食欲に急かされ次々ドーナツを胃袋へ入れるランガ。彼がようやく正気を取り戻したとき、ドーナツの山はその半分ほどを失っていた。
     急激に食事のスピードを落としたランガへ青年が声をかける。
    「もう食べられない?無理はしなくていい」
    「いいえ。ただ残りは大事に食べたくて。改めてありがとうございます、えっと」
    「僕はシンドウ。よろしく」
     青年の顔で姓がシンドウとまでくるとある程度政治を知る者であれば「ああ、政治家の」と気付くだろう。ニュースを見ている者、沖縄県民ならば県紙に目を通す者でもいい。青年――神道はそれくらいの知名度の持ち主なのだが、生憎ランガはどれにも当てはまらなかった。
    「ハセガワです。よろしく……シンドウ、さん」
     挨拶に何か一言添えることもなく黙々とドーナツ収穫へ戻るランガに、しかし神道は眉ひとつ動かさない。
    「それにしても当たるとはね」
    「そうですね」
    「驚いた?」
    「驚きました」
     ――この度はご応募くださり誠にありがとうございまたした。厳正なる抽選の結果馳河ランガ様には一等『二泊四日カナダの旅』を……つきましては……
     ランガ宛にそんなDMが届いた日、馳河家では緊急家族会議が開かれた。
     怪しさは感じるものの旅費諸々全て負担という響きには牽かれてしまう菜々子と同封されていた日付指定のチケットを片手に行く気満々のランガ。会議は連日続いたが最終的に担当者と直に電話で話した菜々子が折れる形で閉会した。
    「――へえ、それじゃあお父様の為に?えらいな」
    「えらくはないです、俺が来たかっただけだから」
    「いや十分えらいと思うよ。僕なんてどう満喫するかばかり考えていた、はは……」
    「……ふふ」
     ランガから見た神道は不思議な男だった。壮年の紳士のように話したかと思えば同年代の少年のようにはにかむ。その笑いに何故かつられてしまう自分を、ランガは楽しんでいた。
    「満喫って例えば?」
    「探し物とか」
    「探し物?それ、楽しいの?」
    「楽しいよ。見つけた瞬間が堪らないんだ」
    「へえ……見つかりそう?」
    「ああ」
     山は僅かに麓を残すのみとなっている。ランガの満足げな顔を見つめながら「もう見つけた」と神道は呟いた。
    「ごちそうさまでした。じゃあ……」
    「待った。ダウンタウンに行くのだろう?丁度僕も向かうところだ、交通手段を決めていないなら相乗りしよう」
     答える隙は与えられず、やや強引にタクシー乗り場へとランガは移動させられた。
     待機していた貸切タクシーの運転手が予定通り現れた"二人の客"に深々と頭を下げる。静かに発進した車のなかで神道とランガは言葉を交わした。
    「来てみてどうだい。懐かしかったりする?」
    「いえ。こういうところはそんなに来たことないから懐かしいともあまり……正直別の国みたいだなって思います」
     タクシーが進む中心街は賑わっている。その町並みも、沿道を歩く人々もランガには何一つ見覚えがない。
    「……でも」
     だが窓越しに見る空はいつかオリバーと菜々子、そしてランガの三人で眺めたものによく似ていた。微妙ながら日本では見られない色味だ。
    「ここに来れて良かったです」
    「嬉しい?」
    「嬉しい」
     景色に夢中になるランガは敬語が崩れていることにも、横の神道が笑みを濃くしたことにも気付かない。
    「そう。それなら何よりだ」
     二人を乗せたタクシーは中心街へ。ランガが事前に取得していた目的地の位置情報に近づくと、都合が良いことに一度タクシーが路肩に止まった。
    「あの」
    「降りる?」
    「はい……ありがとうございました。さよなら」
    「ああ。また会おう」
     閉まったドアの向こう側でランガが歩き出す。土地勘が無いのが丸分かりの背中を神道は注意もせず見送った。その必要は無いと知っていたからだ。勘の良いものなら気付くだろう。ランガの左右前後二M前後に一人ずつ、間隔を空けながら付いていく影が居ることに。
     タクシーは再び音もなく発進し、神道は誰に聞かせるでもなく踵を鳴らした。弾むような鼻歌がそのまま彼の機嫌の良さを表している。
     苦悩するランガを突如救ったDM――そんな物がただの幸運である筈がない。
     全ては神道愛之介、この男の仕込みだった。
     神道の長年の日課に自宅の巨大スクリーンを使っての鑑賞会がある。映す物は、以前は様々だったが一年ほど前からある一人の少年の映像ばかりになった。
     少年の名は、馳河ランガと言う。
     "偶然"ランガとその友人が話している映像を入手した神道はこれまた偶然会話の内容を聞き、ランガの悩みとその仔細を知るとすぐさま叶えることにした。やりようは色々あったが最も分かりやすい『ランガを呼ぶ』を神道が選んだその決め手は自身のスケジュールだ。
     二週間後神道はカナダでの会議を控えていた。
     なお、こちらは真実偶然である。本来面倒でしかない長時間移動を伴う仕事が神道にとって喜びそのものに変わった瞬間だった。何せ邪魔者が現れる心配をしなくていい。完全に二人きり、どうやったって二人きりだ。
    「会議が終わるのがこの日……ならそこでランガくんを呼べば……多めに見積もっても一日あれば彼の用事は済むだろうから、あとはずっと……ふふ、ふはは……!完璧だ……!忠!」
    「お呼びですか」
    「三連休を取るぞ」
    「はい……はい?」
     流石に三連休は実現しなかったが死ぬ気で二人働いた結果なんとか会議終了後一日分の空きはもぎ取れた。それ以外も休憩の合間を縫えばランガと会うことは可能だ。先程のように。加えて、
    「さて、と……」
     神道が取り出したスマートフォンには大通りから曲がるランガ。別れている間もこうしてリアルタイムで中継は続いている。
    「良い旅行にしようね。ランガくん」
     きょろきょろと辺りを見回す顔を指先でなぞり、神道は笑った。好青年らしからぬ笑みだった。
     
     大通りから一本横に逸れたやや狭い道をランガは歩いていた。片手で引くキャリーを観光客狙いのごろつきが狙っているのも、それらを密かに処理する男達にも気付かず路地を踏む。やがてその足が木製の看板を下げた店の前で止まった。
     道に風が吹き込む度ギイギイと看板は鳴る。客を追い払いたいのかと疑うほど店先は手入れが行き届いていない。
     マトモに営業していないようにも見えるが、看板と同じく古い扉を躊躇の一欠片も見せずランガは開く。
     店先が乱雑なら店内は雑多だ。カウンターの奥には数脚のテーブルと椅子がありそれだけがバーとしての体裁を成り立たせている。あとは酷いもので隅には像、折り重なった板、仮に外の看板が新品同様に変わったとしても客足は増えないだろう営業意欲を感じさせない店内だった。
    「なんだ、誰だ……?」
     カウンターで伏せていた男が、ランガを目にした途端バネのように身を起こす。
    「まさかお前ランガか? オリバーの息子の」
     ランガが頷くと「よく来たなあ」と立ち上がり男はきびきびと動き出した。扉に閉店の札が下げられる。
    「長旅ご苦労。まあ座ってくれ。何か飲むか? 一杯迄は奢る」
     棚から瓶とグラスを取り出した男は手早く中身を注ぐ。もてなしよりランガには優先すべき事、ここへ来た目的があったがそれはそうと喉は乾いていた。
     ランガが一口飲むのを待ってから、カウンター越しに男が手を差し出す。
    「はじめましてランガ、私はマスター。ここの店主だからマスターだ。分かりやすいだろう?」
    「よろしく、マスター」
    「……うん。本名は何だなんて聞かれたら追い出すところだった。詮索しないのは良いことだ。お前は賢い」
    「はあ」
     感動ぎみのマスターにランガは生返事しか返さない。敢えて詮索しなかったわけでない。ランガにとって目の前の男は父の友人でしかなく、その名前や人となりに関心を持てないだけだ。今のランガの興味はひとつのみ。
    「父さんの荷物を取りに来ました。どこですか」
    「ああ。持ってくるから少し待っててくれ」
     店の奥へ入るマスターを見送り、ランガはしばらく一人さびれた店内でジュースを啜っていた。氷とストローが独特の音を鳴らすなか、退屈ぎみのランガの背後。閉店札のかかった扉が開く。
    「なんだ、客が居るじゃねえか」
     のっそりと入ってきたみすぼらしい男は当然のようにランガの隣の席へ掛けた。
    「見ない顔だな。兄ちゃん何処から?」
     気安くランガへ話し掛けながら男はカウンター裏の酒を我が物顔で漁り出す。古びた店内より更に年期の入ったジャンパーに染み付いた安い煙草の臭いにランガはこっそり口呼吸へ切り替えた。
     それから数分後、店奥から戻ってきたマスターはまずカウンターの惨状を見て顔をしかめた。
    「ジョン、お前また勝手に……」
    「ようマスター。悪いね、閉まってたから入っちまったよ、勝手に、けけっ」
    「すまんランガ、こんな男と二人きりじゃ怖かったろう」
    「ランガァ?まさかお前」
    「紹介する。こいつはジョン。うちの常連でオリバーとも何度か会っているし滑った事もある。ジョン、彼はランガ。オリバーの息子だ。ほら、あの」
    「……おお、あの!へえ随分デカくなったなあ、おい!」
     煤けた指先を伸ばしジョンはランガの肩を叩く。
    「お前のことは知ってる。オリバーとは親友だった。アイツは良い奴で、その……残念だ」
    「……はい」
    「そうかしこまるな、オリバーの息子なら俺らの息子みたいなもんだ。飲めるか? 飲めるよな。マスター、俺の奢りでランガに一杯!」
    「まだランガは何も答えてないぞ。それに奢るくらいならツケを払ってくれよ、ジョン」
    「へへ、それもそうだ」
    「まったく、調子のいい。ランガ。これがそうだ。この中にオリバーの荷物が入ってる」
     四方二〇cm弱のケースは半透明で中の品はぼんやりとしか見えない。だが、
    「ゴーグル?」
    「ああ。よく分かったな」
     ランガにはそれがスノーボード用のゴーグルだとすぐ分かった。カナダでの生活の殆どをランガはスノーボードと共に過ごしていたのだ、脳が勝手に感知する。
    「オリバーに頼まれて預かっていた。次にこっちに寄る時取りに来るからと、だが……」
     その日を迎えることなくオリバーは死んだ――言いかけた言葉をマスターは喉のきわで止めた。
    「まあこれ自体は本当に素晴らしい代物だ。持っていくと良い、というよりも」
    「見てると換金したくなるから早いところ他所へやってほしい、だろ?このごうつくばりめ」
    「よせよ、ランガの前で」
    「おいオリバーの息子。金にされる前にさっさとコイツを持っていくんだな。試運転はこっちでするか?ボードは持って来てるだろ?」
    「ううん」
    「何だ忘れたのか。よし貸してやる」
    「要らない」
    「遠慮するな、ほら行くぞ」
    「おいジョン!無理強いは――」
     ジョンはランガの腕を掴むと店から出ようとした。その歩みを止めるためマスターは叫びかけ、だが。
    「スノーボードはやめた」
    そうランガが言った瞬間言葉を詰まらせ「――何だと?」代わって呟いたそれはあまりにも小声だったゆえランガ達には届かなかった。気づかないままジョンはランガの肩へ肘を乗せる。
    「やめた。へえ、そりゃどうして?」
    「引っ越し先は雪が降らないんだ」
    「つまらんだろう」
    「今はスケートしてるから、つまらなくはない」
     さらりとジョンの腕を払うとランガは改めてマスターへ向き直り告げる。
    「貰っていいですか」
    「……」
     無言を了解と受け取りガラスケースを開こうとしたランガの手を開口部に付いたダイヤル錠が阻んだ。
    「マスター、番号は?……マスター?」
    「……お、おお。すまない。番号だったな。ええと……」
    「おいおい、まさか忘れたわけじゃないよな?」
     しどろもどろのマスターをここぞとばかりにジョンが囃し立てる。
    「……実はそうなんだ。忘れてしまった」
    「えっ」
    「すまんランガ、お前が日本へ戻るまでにはどうにかする。何泊予定だ?」
    「二泊……」
    「よし、二日だな。任せてくれ」
     マスターはカウンターに置いたグラス類を片付けながら「考えなくちゃいけない、だから今日はこれでお開きだ」と解散を告げる。店奥へしまわれていくガラスケースを見つめるランガの胸中は複雑だ。
    「とりあえず明日また来てくれ……泊まるアテはあるよな?」
    「ある」
     旅行の担当者から聞いたホテル名をそのままランガが口に出すと二人はじろじろとランガを上から下まで観察した。そして揃って同じ言葉で、普段着の少年へ問いかけたのだった。
    「その格好で?」
     何とも言えない顔の二人に見送られ数十分。目的のホテルへ辿り着いてからランガは自身の目を疑い続けていた。メインストリートの端、やや静けさのある立地にでんと立つ巨大なビル。ガラス張りの正面から見えるだけでも豪奢なシャンデリアに果てしないカーペット。にわかには信じがたいが、これが今夜から二日ランガが泊まるホテルだった。
     他の宿泊客が中へ進むなか、長いことランガは一人ホテル前から動けずにいる。入ろうとすればボーイや通りがかりの"親切な人"にやんわりと止められ、かと言ってここ以外に泊まる宛もない。
     はやどうすればと悩むランガの背後に車が停まった。
     静かに開いたドアから音もなく降り立ったのは仕事終わりに連絡を受けた神道だ。空でも歩くように軽やかな足取りでランガに近づき、無防備な肩を触れるか否かの距離でかすめる。
    「……ハセガワくん?」
     クエスチョンマークが浮かびそうな程大袈裟に驚いて見せるのも忘れない。神道は慎重な男であり、かつ役への没入を快楽とする類いの役者でもあった。
    「君もこのホテルだろうとは思っていたが……ああ、なるほど」
     神道は軽く頭を下げ、ランガに視線を注ぐ。近づいた襟元の白さにランガは思わず身を引いた。彼も自分がこのホテルにいかに相応しくないか教えてくるのかも――そう恐れる一方で、空港であれだけ親切にしてくれた彼ならば何か助言をくれるのでは――そんな甘い考えもまたランガの頭をよぎっていく。
     無意識にランガが発したサインを当然目ざとく捉えた神道は異国の地まで来た甲斐があったと心を踊らせた。今少年の助けになれるのは己だけであり彼の運命を自分が握っているのだという自負、そして計画が順調に進みつつあることへの喜びが神道を次の"予定"へと急かす。
    「だが不思議だな。君にも届いていたのだろう?」
    「え?」
    「スケジュールだよ。チェックインの前に店に寄るように、と書いてあった。覚えていない?」
    「知らない」
     ランガの言葉は一見いつもの注意不足に聞こえるが実際はそうではない。馳河家へ届いたDMにはスケジュールが記された紙など一切同封されていなかったのだ。
    「……ふむ」
     神道は口元に手を当て悩むふりをするとスマートフォンを取り出した。「もしもし」何の音も流さない受話器口に耳を傾け「はい……はい、ありがとうございます……」とさも会話しているように見せかける。どこかしらに電話をしてるのだと素直な少年が信じきったタイミングで神道は架空の電話を切り、目配せした。
    「あちらの手違いだったらしい、対応してくれるそうだ」
    「対応?」
    「ああ」
     唐突に車へ歩き出した神道は、慌てて後を追ったランガを闘牛にそうするようするりと車内へ追いやってしまった。ランガが事態を飲み込む前に自身も乗り込んだ神道の合図で車が発進する。
    「まず洋品店に向かおう。僕も行くつもりだったし、それに君一人じゃ連絡もままならないようだから一緒に居てあげてくれと頼まれたしね」
     目を白黒させるランガへ、神道は"担当者からの連絡"を伝える。勿論そんなもの有りはしないが。
    「それとも僕とでは嫌かな?」
    「ううん。ありがとうございます、シンドウさん」
     嫌も嫌でないもランガには無かった。渡りに船だ。
     
     
     服屋でホテルに入るどころかパーティーのひとつにでも行けそうな衣装をランガに揃えた神道はこれもスケジュールに載っていたからと少年をレストランへ連れ出していた。
     レストラン内の荘厳な雰囲気に身を強ばらせながら、ランガは神道が望むままに今日一日の顛末を語る。
    「へえ。それはまた、不運な目に」
    「不運、ですかね」
     不運に違いないだろう、と神道はメインディッシュへナイフを近づけた。その淀みの無い動きを、ランガもちらちらと見つつ真似る。だがカトラリーは慣れない冷たさでランガを焦らせ、磨かれた表面が下手くそなナイフ使いでソースにまみれる様子は胃に悪い。しかしカトラリーのみ意識すると今度は袖を忘れそうと、ランガは四苦八苦していた。連れて行かれた洋品店に並ぶ品がどれも良い物であったことは誰の目にも明白だった、うっかり汚して良いものでないとランガさえ薄々感じている。
    「お父様の、結果として形見なわけだろう?すぐにだって欲しかったのでは」
    「それは……そうだけど。仕方ないです」
     納得したふりをしながらもランガはどこか浮わついた気持ちを持て余している。その事に神道は気付いていた。今夜のランガが皿を空にするスピードは健啖家を自称する一般人程度。それが異常な光景であると理解できるのはこのレストラン内に一人、神道だけだ。
    「本当に?良いんだよ、僕はその店主ではないのだから。君が言いたいことを言ったところで傷付かない」
     皿に乗せられた食事を神道は美しく切り分けていく。
    「言ってごらん」
     食べやすくしたそれを神道が口に運びかけたところで、ランガが首を振った。
    「いいえ、言うことはありません。でもありがとう」
     そう、と笑いかけ食事に戻った神道は心中で溜め息を吐く。悪態の一つでもランガから聞けたならそれはそれで興味深い体験だと思っていた神道だったが、そのもくろみはあえなく破れた。
     父親の話をする時のランガは、ドローン越しでも確認できなかった表情を神道に見せる。そういうものなのだろうか、そういうものなのだろう――らしくない曖昧な結論で思考を止める神道は、深追いするより受け入れてしまった方が傷が浅いと悟っていた。そもそもランガの持つ父親へのやわらかな情を理解する素養が神道には根本から無いのだ。
    「とりあえず明日、またお店に行ってみます」
     意気込むランガの瞳は輝いている。彼はきっと父親を愛しているのだろうとそれこそ絵空事、別世界の出来事でも覗くような心地で神道は眺めた。ランガが今している表情を己が一生作れないことはともかく、その感情を真に知れないことは少々不満だった。
     
     チェックイン時に説明が要るからと神道に言われランガはロビーに立っている。客がすれ違いざまに目線を送って来るのに、ここまでしても泊まれないだろうかとランガは汗をかいていたが、事実はその逆だった。目の肥えた男が選んだ衣服を纏い巨大な柱の影にひっそり佇む、闇に咲く花のような男を、はて何者かと彼らは気にしていたのだ。
     記入を終えた神道は自身の飾った華が値踏みされている様子に優越感からの笑いを溢した。本当ならば共に座りたかったが書類の内容などから疑念を抱かれる可能性もある。苦渋の決断だったが結果として良い物が見られた。
    「ハセガワくん」
     わざと遠くから呼べばランガは顔をあげいそいそと近付く、それが神道には堪らない。
    「荷物は後で持ってきてもらおう。構わないね?」
     部屋に進む途中でホテルのルールを神道はランガへ語った。簡単なものからグレードの高いホテル特有の暗黙の了解まで並べた後ランガの手に膨らんだ布包みを握らす。包みはランガが振るに合わせてチャリチャリと鳴った。
    「二日間ならこれくらいで充分かな」
     そこでようやくランガは包みの中身がチップ用だと気付いた。服や食事はともかく、会社側がここまでしてくれないこと程度はいくら鈍くとも理解できる。
    「用意していないだろう? マナーは守るべきだよ。大丈夫、沢山あるように見えるだけさ」
     ランガが拒否する間も無いよう喋り続けていた神道は、ある一室の前で足を止めた。
    「着いたよ。ここが君の泊まる部屋だ。そして」
     数歩平行に動いた足が再びぴたりと止まる。
    「ここが僕の部屋。明日は午後まで出掛けているが夜には戻る、何か相談したければノックを。君なら歓迎するよ」
    「シンドウさん!」
    「大声は出さない……それじゃ、おやすみ」
     部屋に入られてしまえばチップを突き返すことは出来ない――慌てて近づきかけたランガを神道は一言で制し、ひらりと手を振って別れとした。
    「気にしないで。年長者面するのは楽しいんだ」
     それは日頃老人達から年齢だけを理由にそうされる鬱憤晴らしか、はたまた自身が育てた果実ほど食らえば甘く蕩けるのだと知っているからか。ともかく神道の言葉に嘘偽りは無かったのだが、ランガには分かる筈もない。
     閉じたドアに返却を阻まれた少年は諦めを連れ、与えられた部屋へと入る。室内の広さに知らず息を吐きながら、普段使っているものよりふた回りは大きいベッドに勢い良く倒れ込んだ。ホテルの壁は高い防音性能を誇りランガの耳に外の喧騒も隣室の鼻歌も届かせず、静かな暗がりは眠気を運ぶ。数呼吸もしないうちにランガは安らかに寝息をたてていた。
     
     
     どんよりと曇る空は日光を通さず、地は冷えている。通りを歩くランガの格好は奇妙だ。昨日与えられたフォーマルでホールを無事抜けたランガは、ホテルを出るなり持参したダウンジャケットを上から着こんでしまった。武骨な上着から覗く上質な生地はひどくミスマッチな印象を与えるが本人は寒さを凌ぐこと以外興味もなく、どうせ道行く人に見られるだけだしいいかと安穏に考えている。仕方ない、遠く離れた施設からも目撃されていると予測しろなどという方が無理な話だ。
    「失礼します。機材のトラブルで少々開始時間が遅れるそうです」
    「分かった」
     スマートフォンを注視する神道は報告に来た秘書に顔も向けない。これから重要な会議を控えているにしては随分不真面目な態度にも見えるが、本は脳に入れたシミュレーションも終えたならば後は鋭気を養うだけだろうと神道は真面目に考えているし実際パフォーマンスは上がるので秘書も何も言わない。
     時折身をすくめる少年が不憫で神道は目を細めた。今日この会議をもってカナダでの神道の仕事は一通り終了する。そうすれば明日の夜の便までは自由だ。脳を埋めるメンバーリストスケジュール質疑応答用文章その他諸々をほんの僅かに押し退け少年の体躯に似合うアウターを早くも考え出した神道の手元、スマートフォンが中継する映像内では、丁度ランガが昨日の店へと入っていくところだった。今夜は良い思い出話が聞けそうだと顔を無意識に綻ばせていた神道へトラブルの修正が告げられる。「今行く」中継を切った神道は最後の仕事へ、それゆえコンマ数秒後に中継先で起きた事態を知覚すること叶わなかった。揚々と進む背中は、後にあともう少し機材が直らなければと己が延々後悔することを知らない。
     
     ランガが店先に着いたのと同時に、
    「おい、待て……!」
     店内から叫び声が聞こえ、ひときわ大きく鳴った扉から男が一人飛び出してきた。その顔付きから昨日会った男だと気付きランガは頭を下げたがそれを無視して男はそのまま通りを走って行く。目で追うランガを店内からマスターが呼んだ。
    「ランガか、すまないが助けてくれ。腰が抜けた」
     駆け寄ったランガの腕に縋るマスターは顔を青ざめ、がっくりとうなだれている。
    「ああ大変だ、参った、オリバーに合わせる顔がない」
    「父さん?父さんがどうかしたの?」
     マスターが震える腕をカウンターへ伸ばした。向けた指の先には件のケース。だが。
    「ジョンのやつ、目を離した隙に鍵をこじ開けて中身を持っていった。きっと今頃自分の寝床に向かってる、もう私達には手が出せない」
    「どこ?」
    「……チャイナタウンから一本外れた――――と言えば分かるだろう?あそこにお前を近付かせるわけにはいかない。一先ずは……」
    「わかった!」
    「!?ランガ、待て……!」
     最後まで話を聞かず店を飛び出したランガをマスターは慌てて止めたが、既に店先からその姿は消えていた。
     大通りには丁度発車する直前のバスが停まっていた。その行き先すら確認せず、閉まりかけのドアへランガは滑り込む。偶然チャイナタウンへ向かうバスだったから良かったものの、ランガの行動はあまりに考え無しだった。だが持って行かれたのは父の所有物でそのうえスノーボードという父子と深く関わりのあるスポーツの道具だ。黙って横取りを許せるようなものではない。
     焦ったのはランガを見張っていた男達だ。少年の大胆な動きを予想しておらず置いていかれた彼らは、一先ず雇い主に連絡を取ったが、雇い主は更にその雇い主のサポートに奔走しているところだった。
     こうしてランガの所在はいとも簡単にロストした。
     自身を守るものが無くなった事など知らないままランガは案内をたよりにそれらしい場所でバスを降りる。瞬間、ホテル周辺は勿論メインストリートとも全く違う雰囲気をその肌は感じ取っていた。物見遊山の観光客を歓迎する空気は無く、早くもランガの格好から持ち物まで値踏みが始まっている。それでも物怖じせず進みかけたランガへ、
    「おい、オリバーの息子!探し物はこれだぞ!」
     声をかけたジョンは見せつけるように両手を掲げた。その手の中のゴーグルにランガは見覚えこそ無かったが、父の物に違いない。
    「……返して」
    「嫌だね。だが条件次第では考えてやらんこともない」
    「条件?」
    「勝負だ。お前が勝てば渡す」
     一も二もなくランガは勝負をのんだ。
     ゴーグルを包んだうえで手元の鞄にしまいこみ、「まずは移動だ」とジョンはチャイナタウンと逆方向のバス停へ歩きだす。
    「ちょいと時間がかかるからバスで行くとしよう。我慢してくれ、車も免許も俺には贅沢品だ」
     ジョンの先導でランガはもう一度バスに乗り込んだ。先に乗車していた客達がみすぼらしい男から目を背ける。気にしない素振りで空き席に座ったジョンだが、平気で隣にランガが座ってくるのには顔色を変えた。
    「他の席に行って良いぞ」
    「そんなことして、もしジョンが父さんを持って走り出したら?俺は多分追い付けなくて、後悔する」
    「そんなことはせん。俺は勝負事からは逃げない」
    「本当に?」
    「ああ。そのせいで借金が嵩む一方だ」
    「…………」
    「そう困るな。軽口だ」
     おろおろと反応に困る少年を笑い飛ばし、ジョンは口の中でそうじゃなくとも逃げんさと呟いた。
     
     日も暮れかけの頃、バスをいくつも乗り換えた二人がようやく辿り着いた"目的地"は、見渡す限り白かった。
    「まさか」
    「そのまさかだよ」
     ジョンがランガに提案する勝負とは、つまり。
    「スノーボードだ。お前は滑れると、父親が言ってたぞ」
     返事を待たず、ジョンはランガを麓の小さな店へ連れていく。若い店員はジョンを快く迎え入れた。
    「コイツは親戚だ。俺の家はちょいと物を置くには物騒だからな、預かってもらってる」
    「代わりにディスプレイしていいって言うからね」
    「それでもお前は俺の恩人だよ。心から感謝してる」
     おだてに弱い店員はそれだけで今日もジョンの頼みを快く受け入れたが。
    「彼、酷い顔色だね。気分が悪そう」
    「緊張してるだけだ、久しぶりなんだとさ。いつぶりだ?」
    「一年以上」
    「結構だなあ。それでいきなりこれは少し厳しいんじゃないの、ジョン」
    「本人が望んでる。なあ?」
     ランガも頷けば部外者から言えることは無い。渋々ながら店員が持ち出したウェア一式とブーツ、そしてボード、後ろ二つにランガは違和感を覚える。
    「古いけど良いものだよ。このオジサンが昔使ってた、坂を早く下りたいならこれがいい……ブランク明けで使うには少し危ないけど。頑張って、でも無理はしないでくれ」
     リフトに乗り込んだところでランガはギアが足りていないと訴えたが「それで良いんだ」とジョンは滑るには不要なバックパックを擦り、スタート地点に着くやいなやファスナーを開いた。
    「ゴーグルならここにある」
     ほら着けろと渡したそれにランガが手を伸ばさない見たジョンは少年の頭を片手で掴む。
    「着けてほしいのか?知らんかったな、オリバーがそこまで息子を甘やかす質だったとは」
     拒否する間も無くランガの頭にゴーグルが装着された。
     もうこうなれば勝負など反古にして今すぐ谷を降りてしまえばそれはランガの手に戻るのだがランガはそれに気付かず、また気付いたとしても実行できなかっただろう。スタートを前にランガは動けずにいた。理由は分からない。だが絶え間なく小刻みに震える足が、ひどく冷えた内蔵が、彼をそこに縫いとめ逃がしてくれなかった。
    「ゴールは……あの木と木を結んだ線にしよう。分かるだろ」
     タイマーをセットするジョンは前ばかり気にして対戦相手の異常に気付いていない。
     ランガが見据える先には懐かしい山に似た傾斜があり、白い景色を視界に入れるだけで彼の心臓は燃えるように熱くなった。落ち着こうと息を吸うのは逆効果で、どこか覚えのある匂いと味が肺へ広がる。
     スノーボードとそれに纏わる全てが父との思い出に満ちていた。この一年目を逸らしてきた一切がランガの心中をひどく乱していく。
     タイマーが鳴った。ジョンが飛び出す。追わなければいけない。急ぎ準備を整える間も脳内では封じ込めていた記憶が当時の感情と共に這い出てランガを惑わしてくる。
     密かに限界を迎えつつあるなか、ランガは無意識に"今までそうしてきた"ように、ゴーグルを目元に当てた。
     脳は遂に臨界点を越え最も忌まわしい記憶をその眼前に引きずり出す。即ち別れの記憶だ。父と二度と出会うことはないのだと真に理解したあの雪原。
     そこにランガは“居た”。
    「――――」
     速くなった呼吸がいつの間にか止まっている事も、白い視界の原因は雪でなく酸素不足である事にも気付かないままその場に崩れ落ちながら見た幻覚は去り行く父親、届かない背中。それは辛うじて繋ぎ止められていたランガの意識を奈落へ突き落とすのに充分な絶望だった。
     
     ランガが次に目を開けた時も周囲は白かった。だがそれは雪の白と違い黄みがかっていたのでそれが天井であり、ここは昨日泊まったホテルに違いないと彼はすぐに気付いた。
     近づき病状を尋ねた看護士に対しランガは真っ先に「ゴーグルは」と尋ねる。その身には当然父のゴーグルは着いておらず、更に服装もウェアからホテルを出た時の状態に戻っていた。
     体調についての質問全てに問題ないと答えた結果、ランガは早々と医務室から出ることとなった。心から自身に異常はないと思っていたその脳が、意識を失ったことやその前に起きた様々なトラブルを思い出したのは扉を閉めた後だったので、結局彼の真実を医務室の人間は誰も知らない。
     腹の底で渦巻く不安に追いたてられるよう、早足でランガは部屋へ。一歩進むごとに足取りは重くなる。
     全身を使いやっとの思いで扉を開いたランガが見渡した限りやはり部屋にもゴーグルは無い。身から力を抜き乱暴に寝転がったランガは美しいベットメイキングを乱しながら感情の行き場を探していた。
     丸一日使って成果がなかった、失敗した自覚がじわじわとランガを苛む。
     暗い感情に飲まれかけていた心を引き留めたのは扉から響く短音だった。こつこつと小さいながら執拗なそれにランガの心は音をあげ、ふらふらと扉を開く。
     来訪者の顔を見た瞬間ランガは無意識にほっと溜め息を吐き、だがすぐに表情を引き締めた。昨日出会った相手に裏切られた衝撃は、ランガの身体を本人が思うより強く蝕んでいる。
    「シンドウさん」
    「こんばんは。ハセガワくん」
     夕刻。つつがなく終了した会議、そして後の歓談という情報戦も終えた神道は秘書から衝撃の報告を受けた。
     馳河ランガの居場所が分からない。
     言葉を失う主に対し秘書は「……現在探させています」と目を伏せた。つまり少年の位置をロストしてから継続して指示を出せる程度の時間は経っているのだと解釈した神道は秘書に蛇の如き眼光を向けたが「帰る」と告げるのみにとどめた。準備に急ぐ秘書への仕置きも忘れ震える手で開いたスマートフォン、繋がる筈の中継は途切れていた。神道の脳内が何十もの可能性に走り出す。ランガの風体は地元民に見えなくもないが動きだせばそうでないことは一目瞭然だ。家出、宿無し。ともかく"そこで消えても誰も気にしない存在"だと思われれでもすれば。脳の大部分が停止するなか単調な悪態しかつけない神道は余裕の現れとして組んでいた手を、いつの間にか額に押し当てていた。
     似合わない祈りまで捧げた甲斐はあったらしくランガは見つかったが、何処に居たのか問えば分からないと言うしなら今はどうしているか問えばなんとホテルの医務室に寝かされているのだという。聞いた瞬間、己の心臓がきっかり一コンマ確かに停止したのを神道は感じた。手足の先から自身がぼろぼろと崩れていく感覚は二度と御免だ。
    「連絡ですか」
    「まあそんなところ」
     半日弱神道が見ない間にランガは随分疲れ果てている。一日の経緯を根掘り葉掘り尋ねたいところだが、ここで神道は敢えて何食わぬ顔を作った。
    「……あれ。顔色が良くないね」
     血の気の足りていない頬の温度を確かめたい欲をこらえ至極不思議そうに首を傾げる。状態に関し先じてホテル側から説明されたことなど忘れた顔には親切な同行者の仮面が貼り付いていた。
    「どうにも具合が悪そうだ。トラブルでもあった?それともホームシック?」
     ずいずいと顔を近付ける仕草はやや雑だったがランガは抵抗を見せない。予想通りだと神道はほくそえむ。雑じり気の無い善意は無下に出来ないものだ。それが心身共に弱っている時なら尚更。
    「話してくれないか」
     君が心配なんだと締め括り眉を下げるのも忘れない。完成された笑顔は庇護欲と安心感を同時に擽る、その筈だった。
    「平気です。じゃあ」
    「――ルームサービスを頼みすぎてしまったんだが一緒にどうだい?」
     ランガの腹が主人より先に同行の意思を示す。結局己がいかに策を練ろうとこの少年にはこれが一番効くのだ、気の抜けた溜め息を神道は飲み込んだ。
     
     事のあらましを聞いたところで百戦錬磨の男からしても掛けられる言葉など無く。
    「きみ、本当についてないなあ」
     バッサリと切り捨てられたランガだが言葉に乱される様子はない。神道がせがむまま話す以外、全ての時間をテーブルにところ狭しと並べられた料理へと注ぐのに夢中なのだ。
     それらを口に入れ初めて己の空腹にランガは気づいた。食べ物はからっぽの胃を埋めると同時にひどく落ち着かない自我の形を安定させるのに役立つ。もっと、と求めるまま飲み込むようにランガは食事を進めた。
     膨らんだ頬を興味深く見つめる、神道の頬はうっすら赤く染まっている。料理には頼んでもいないグラスが二杯添えられていた。サービスだろうそれを神道は飲むつもりはなかった、ランガの手があっさりグラスを掴むまでは。万が一に備え両方一気に飲みほせば少々酔いも回るというものだ。
     大胆な食事の誘いは結果としてランガを助けたわけだがランガ本人にも神道にもその意識が無い以上彼らの間には感謝のやり取りも無く、話題はただ二人が今最も気になる方へと。
    「どうするつもり?」
    「明日、もう一度会ってきます」
    「宛てはあるの」
    「ありません。でも探すから大丈夫です」
     ランガはすっぱりと言い切ったが明日一日で回りきるにはこの街は広過ぎる。更に道順も分からないパークや何やを含めると発見の確率は絶望的だが。
    「とりあえずマスターの店に行って、ジョンが居そうな所を聞いて……うん。いけそう」
     あまりに楽観的すぎる予想に頭をくらくらさせながら神道はスマートフォンを操作した。三コールもせずに出た通話相手は主人の命令をすんなり受けいれる。
    「……とりあえず明日七時半に待ち合わせよう。しっかり睡眠を取っておくと良い、体力仕事になる」
    「……何の話?」
    「勿論君の宝探しの話だよ。僕も協力しようと思ってね、いいだろう?」
     ――空はようやく明るくなりつつある午前八時。不思議なほどぐっすり眠ったランガだが、その顔は渋い。七時半、言われた通りランガが部屋を訪れると、神道はランガを攫うようにタクシーに放った。そして案内したのがこのカフェだ。開放的な店内には客がひっきりなしに押し寄せている。それだけの人気店、二人がただの旅行者ならば何も考えず朝食に舌鼓を打っていたことだろう。
     ランガは青い目を向かいに座る神道へじっと向けていたが反応がないことに耐えきれず口を開く。
    「あの、シンドウさん」
     何故自分達はここに居るのかと訴えようとしたが、タイミング悪く店員が皿を置きに来た。バターの香りは彼の胃からあれほど食べた夕食をきれいに忘れさせる。
    「…………」
    「食べながら話そう」
     それならばとランガはパンケーキを切り分け口に入れた。
    「そのまま後ろを見て。窓が見えるね?映っているのがチャイナタウン、そこから数本外れた通りに君の探す男は根城にしているそうだ」
    「……!」
     立ち上がりかけたランガをテーブルの下、その太腿を押さえることで阻止した神道が「こうなると思った」と息をつく。
    「まだ話は終わっていない」
    「でも場所が分かってるんですよね、なら早く」
    「……ハセガワくん」
     神道はただ名前を呼んだだけだ。だがその穏やかな声音から、教師が説教をする前並みの緊張感を感じ取ったランガの身体は容易く凍った。
    「その通りというのが問題なんだ」
     地域の中でも一二を争うほど治安が悪く一般市民は近付かない半無法地帯。薬物中毒者が普通に歩き犯罪が蔓延する、観光客が入るにはあまりにも危険な場所がこの明るいカフェから歩いて行けるのだから恐ろしい。
    「昨日の君が辿り着かなくて本当に良かったよ。痛い目を見るなんてものじゃあ済まなかったかもしれないからね」
     そんな場所を男が根城にしている理由を薄々察している神道は、ランガが通りへ近付くどころかその男にも会うことも可能ならば止めたい。だが決めた以上ランガは絶対に意見を曲げないだろうとも理解している。なので簡単な策を講じた。
     神道のジャケットの裏、スマートフォンが鳴る。
    「……ああ」
     朝の挨拶もそこそこに部下が告げた報告は神道を十分満足させる物だった。
    「良い知らせが届いた。食べ終わったら行こうか、その男のもとへ」
    「え、でも通りは」
    「危険だよ。だから、あちらから来てもらった」
     不可解ながらもランガは急ぐ。詰め込むように丸くなった頬を小動物のようだと笑う神道も常人より遥かに食べるのは早く、みる間に消える食事に近くの席の客達は密かにざわついていた。
     食事が終わった二人は近隣の一番安く雑多な服屋で一式揃えた。すぐ行くと言われた手前納得のいかないランガへこれは必要なことなのだと神道が言い聞かす。
    「その通りほどではないけれど今から向かう場所も治安が良くはないからね。僕らが旅行者であることは隠した方が無難だ。顔もあまり見えないように」
     実のところ変装しなければならないのはランガより神道の方だ。彼には立場があり、対面がある。歓楽街も近い地へふらふら行っていたことが明らかになると大変まずい。
     自殺点になりかねない選択をそれでも神道が選んだのは、あらゆる面白そうな事象に乱入せずに居られない生来の好奇心のせいであり、ランガを素直に心配しての親切心であり、
    「会うのが楽しみだ……」
     少年との愉快な観光地巡りをたのしみに仕事を終えた男の、このうえない八つ当たりでもある。
     
     迷いなく朝の街を進む背中に付いて歩いていたランガは、自分達が向かう路地裏の先を見ると前を行く神道の袖を引いた。
    「……人が居る」
     怯え混じりの表情をひとしきり堪能した神道は「大丈夫」と明らかにおかしな人数の屈強な男達がたむろう地へ平気で進む。一瞬躊躇したランガだがやはりその後を追った。親切な同行者を置いて逃げることなど少年には思い付きもしなかったのだ。もっともランガが心配する必要は無かったのだが
     男達は突如近付いた神道をジロジロと不躾に見たが、それが自分達の大本の雇い主であると気付き途端に腰を低くした。深夜容赦なく叩き起こされた顔は総じて暗い。対象の少年を日中見張るだけの簡単な仕事だと聞いていたのに今から外に出ろというのか――正気を疑う注文だったが彼らは従う他無かった。前払いの報酬は簡単な仕事に釣り合わない相場を大幅に上回る金額であり、そのうえで少年を見失った彼らに逆らう権利はない。昨夜己の体たらくを恨みながら彼らは自らを吹きふさぶ風の中へ追放した。指示通りに。
    「噂を流すまでもなく、通りへ出てうろついているのを幾人にも目撃されていました。自分等が見つけた時も、わかりやすいところで立ってました。まるでいかにも……」
    「……お仲間か?増えても構わんが何人がかりで脅そうと渡さんぞ、これはなあ」
     男達の中心で一人座り込む人間がまくしたてる。バックパックを腹側で抱きしめ、神道へ食ってかかった男は後方から現れたもう一人――ランガの姿を見た瞬間目を丸くした。
    「ジョン」
    「ランガ?お前何でここに。今すぐ帰れ、ガキはこんなところ来るもんじゃない!」
    「そう思うなら、彼にその中身を返しては?」
     互いに近付こうとするジョンとランガを制するべく割り行った神道、謎の闖入者へジョンは怪訝な目を向ける。
    「失礼。僕は彼の……まあ、相談相手です。あなたが彼から奪い取った物を返していただきたい、今すぐ」
    「嫌だね…………おいお前ら、なんで近付いてくる?やめろ、離せ!」
    「荷物には触れるな。……さあどうぞ、ハセガワくん」
    「え?」
    「取ると良い」
     神道はランガの手を引くと、膝を付き両手をあげられたジョンの前へ連れて行った。身動きを取れなくされたジョンがそれでも必死に地面と丸まった身体の内に抱えたバックパック。それを奪えと男は少年へ促す。
    「最初にあちらが奪ったんだ。奪い返す権利が君にはある」
    「……」
    「手を汚したくない?どんなやり方でも成功さえすれば安泰だよ、逆に言うと失敗したらそこまでだ。何も手に入らないまま君の旅は終わる、それで良いの?」
     ランガが眉根を寄せ苦悩する、その表情の変化ををを少しも見逃さないよう神道はひたすら見つめていた。
     神道はランガの隙を愛している。その短絡的な思考を。足りていない思慮を。それら全てこそランガの精神が俗世に汚染されていない証拠であると信じているからだ。
     だが同時に自分の醜さで、汚さでランガを染められたなら――そう思うことも止められない。
    「お母様と、亡きお父様を悲しませたくないだろう。手段を選んでいる暇はあるかい」
    「……ない」
    「ならば――」
    「それでも、やだ」
    「――は」
     あまりにハッキリと突きつけられた拒否に神道は乾いた笑いをあげるしか出来なかった。
    「父さんの物は欲しい。こんな風に奪われるのは納得いかない。でもだからって無理やり奪い返すとか、誰かを傷つけるとか、そんなやり方を父さんは望まないと思う」
    「それはそんなに大事なこと?もう君のお父様は――」
    「……それでも、父さんが許してくれなかったら俺はきっと悲しい」
    「……他人を傷付けた君を、お父様は許さない?」
    「いいえ。俺が傷つくかもしれないから」
    「――」
     傷付いたらいけないのかと言いかけた口は、その異常さに己で気づいたがため、何も言わずぱたりと閉じ。
     数拍の間を置いて再び開かれた。
    「ああ、そうか」
     父子の情というものは本来このように芽吹くものなのかと、存在から構造までその全てがあまりに信じられず男は呆れを超え最早感心していた。
     名家の嫡男は生まれながらに宿命を背負わされる。神道愛之介もそうだった。ただの赤ん坊には一度もなれず"次期当主"という生き物、神道家の所有物であり家を発展させるための礎として彼は扱われた。
     血の繋がりこそあれど、神道愛之介とその父は父と子ではなく次期当主と現当主であったので、父が息子に向けたのは肉親を見守るそれでなく己が次に作動する予定の機械が上手く組み立てられているかどうかを精査する視線だった。しかしそれを神道は特に悪だと思ったことは無い。人にはそれぞれ決められた生き方があり、自分にはこれが割り振られた。ただそれだけの話だった。
     だが――あまりにも眩しく理解しがたいものを見た瞬間、人はそれまでの一切を忘れ没頭するものだ。
    「そういう……何だそれは、そんな物が本当に……いや、すごいな」
    「……シンドウさん?」
    「いや、何でもない……謝罪しよう。君の心を理解していなかった、君は……」
    「腕を離せ、いい加減折れそうだ!」
    「……彼をどうしたい?」
    「とりあえず離してほしい」
     神道の合図で男達が早々と拘束を解く。ジョンは顔から地面にぶつかりながらもバックパックを潰しまいと必死で身体を上げていた。
    「……ジョン。どうしたら父さんのゴーグルを返してくれる?」
    「……昨日と同じだ。俺と滑って、勝て。そうしたらすぐにでもこれはお前に返す」
     答えはあまりに非情だ。昨日のランガを目前で見ておきながらそう言うのかと神道は憤ったが、
    「わかった」
    「……!?」
     ランガ本人があっさり了承するものだからそれどころでなくなってしまった。
    「やろう。勝負」
     衝撃に立ち尽くす神道の横を抜け、同じく口を開いたまま動かないジョンへつかつかと近付くと、恐れ知らずの少年は男の腕を躊躇なく引く。
    「昨日の場所知らない。案内して。シンドウさん色々ありがとう、俺行ってきます」
    「ラ――ハセガワくん、一旦落ち着こうか!」
     
     ちらほらと雪の降るなかを一台のジープが進んでいる。後部座席にはランガと、あれこれドライバーに指図するジョン。向かうのは昨日のパークだ。
     二回り以上年下の少年へ声をかけるやり方を息子など持たないジョンは知らない。組んだ指ばかり見ながら臆病に口を開く。
    「質問していいか」
    「うん」
    「滑れるのか?」
    「……分からない。昨日は久しぶりだったから」
    「久々だろうとああはならん。事情は知らないが滑れんのだろう?勝ち目の無い勝負を何故飲んだ?」
    「でも勝てば返すんだろ」
     じっとバックパックを見続けるランガの瞳は真っ直ぐすぎる程真っ直ぐだ。そこに込めた強い意思にはランガ自身さえ勘定に入っていない。
    「欲しいんだ。だから戦うし、勝ちたい」
    「……なるほど」
     目の前の子供とかつての飲み仲間が親子であることをジョンはようやく納得した。何か一つに目を向けるとそれ以外を忘れる。成る程まさしく息子だ。"見た"ままだ。
    「だがどうしてそれを俺に訴えない?」
    「……?言ってる」
    「そうじゃなくてだな……だから、それだけ欲しいのなら何故あの男がしたみたく権利を主張しないかと聞いとるんだ。本来これはお前の物だぞ」
    「……それ、ジョンが言う?」
     あまりの正論に返す言葉を失った窃盗現行犯は、わざとらしく話を逸らす。
    「質問を変える。あの男は誰だ?」
    「シンドウさん」
    「名前はいい。日本人だな、お前が連れてきたのか?」
    「ううん。知らない人」
    「知らないだと?こんなに甲斐甲斐しく尽くしてくるのにか?この車、運転手、それに今だって助っ人を連れてくるとか何とか……ここまでされる理由に心当たりは?」
    「いや……同じ当選者のよしみ、とか言われたけど……」
    「当選?」
     おおまかな話をランガがすると「何だそりゃ」とジョンは眉を歪めた。
    「けったいな話だな」
    「そう?」
    「お前を日本からの旅行者だと思って声をかけただって?言っちゃ悪いがお前……」
     己の発言の危うさに気付いたジョンはそこで言葉を止めたが、ランガの容姿が明らかにカナダ人の父寄りな事は変わらない。ここにジョンが知らない事実を足すとランガは国籍をカナダに置いたままなので通ったのは居住者側だった。例え同じ便に乗っていようと日本から帰って来た旅行者と見る方が普通だろう。そうではないと一目で判断できる者が居るとすれば、おそらく二種類に絞られる。カナダでのランガを知る人間と、日本でのランガを知る人間だ。
    「……これは勘だが、向こうは間違いなくお前と関わったことがあるぞ。ランガ、本当にシンドウと何処でも会ってないと言えるか」
    「会ってない……はず……」
     己が断言できない理由を分からずランガは視線を揺らした。この迷える若者を救ってやろうとジョンは「耳をかせ」と近づく。運転手は先ほど神道の命令に従っていた者達の一人で、ジョンを取り押さえた男だ。聞こえればそのまま内容を神道へ流されかねない。
    「確認すべきだ」
    「……どうすればいい?」
    「コツを教えてやろう。いいか、一呼吸、一動作に人間ってのは出る。だから、あれを見るときは常に脳内の記憶と照らし合わせろ。似ている奴が居ないか炙り出すんだ。多少神経を使うがお前の集中力なら出来る」
    「知ってるみたいに言うんだな」
    「……そりゃ知ってるからよ。俺達はずっとお前を知っている」
     お前の親父から聞かされたと語るジョンの顔は過去の思い出にやわらかく染まっている。
    「どういう意味」
    「……知らん。俺は寝る。お前も寝ろ。滑るなら体力を温存した方がいい」
     自分から話しかけたにも関わらず話を強引に打ち切ったジョンは、運転手に数個指示を出した後さっと眠りについた。置いて行かれたランガの目が、変わらず男の腕が包むバックパックへ留まる。盗んだ品への扱いにしては丁寧すぎる手付き。そこに抱いた違和感の真実にたどり着く間も無くランガもまた眠りに落ちた。
     
     目を開けた二人は如何ともしがたい現実にまだ夢の中でないかと疑っていた。
    「ここ、本当に同じところ?カナダ?」
    「ドライバーにはちゃんと伝えたぞ。間違いなくカナダだ」
    「じゃあ、」
     ランガが差した先に一人立つ影。
    「何であの人が居るの」
    「ははあ、"アレ"もお前関係か。なんだあの仮面は、何故あんな変な物を着ける」
    「確かにいつものと違う気がする」
    「いつも……おい息子よ、今後関わるなら父親に似た男をすすめるぞ。アレは」
     論外だと言い切ったジョンだが、その時影が目を合わせてきたように感じ唾を飲み込んだ。
     影はゆっくりと手をあげる。ひらひらと揺れるそ
     れで対面の二人を誘っているのだ。
     得体の知れない風貌の謎の男。雪山で見る幻覚にしてはハッキリとしているが現実だとも思いたくない、遠巻きに眺めるに限るとうん十年分の勘がジョンに告げている。その場に留まった臆病な男、その一方少年はすぐさま影へと近付き、その名を呼んだ。
    「愛抱夢」
     某県に存在する今は閉鎖された鉱山、そこを舞台に開かれる秘密の催し――"S"。スケート愛好家達が集いしのぎを削る地のオーナーでありプレーヤー、そしてゲームマスターとも呼べる男。それが愛抱夢だ。
     困惑気味ではあるものの正直に言ってランガはこの邂逅を喜んでいた。カナダに来て初めての見知った顔だ。数日使わなかっただけでひどく久しく感じる日本語は舌に乗せれば冷たい空気と良く混ざった。
    「寒くないの?」
    「雪山限定仕様さ」
     素材が違うと差し出された手を、好奇心溢れる少年は遠慮無く掴む。
    「本当だ。少しふわふわしてる」
    「この裏も工夫されてるんだが確かめてみない?」
    「へえ」
     影が広げた片側のマントへ顔を入れようとするランガ。彼からすれば更なる探求だが、端からすれば影へ身を寄せているように見える。血相を変えたジョンはランガの身体を影から慌てて引き剥がした。
    「お前、こいつには怖い父親がなあ……!」
     ジョンが怯えつつ放った威嚇を意に関せず、愛抱夢はただ首をかしげる。その目論見通り、言葉が通じないのかと解釈したジョンはランガへ通訳を求めた。
    「何しに来た?」
    「……何しに来たのかって聞かれてる」
    「君の代わりに滑ろうと思って。聞いてない?僕が」
     助っ人だ――そう言いきり愛抱夢は胸を叩く。
    「おいランガ、何だって?」
    「……俺の代わりに滑るって」
    「はあ!?ダメだ、ダメだダメだそんなの!」
     烈火のごとくジョンが怒り出す。それは一見勝てる勝負をひっくり返されかけた男の焦りだが、
    「ランガ以外が俺に勝ったとしてもゴーグルは渡せん、ランガだけだ」
     念押す姿には不可解な必死さがあった。愛抱夢の脳が違和感を捉える。敏い闖入者はわめき散らすジョンの手をむんずと取るとランガから距離を取るように死角で停まっている車へと連れ出した。顎で指図すると察した運転手は手元の小さなアタッシュケースを開く。そこに並ぶ札束に、うお、とベタついた感嘆をジョンが溢した。
    「僕に勝てば全て渡す。どうだろう」
    「……喋れんじゃねえか」
     ジョンの目は既にアタッシュケースにしか向いていない。ぐらついた心をしかし男は押さえつける。この勝負は、ランガとでなくてはいけない。意味はそこにあるのだ。
    「これでも足りないなら……」
    「い、いや。分かった。やる。やるよ……」
     だが金の魔力を前に正しさは無意味だった。
     愛抱夢から話を聞いたランガは比較的あっさりと受け入れた。父にまつわる品を欲するあまり意固地になっていただけで、本来のランガはアスリートとしての意識を強く持ち、体調管理もままならないものには立てない舞台がある事もよく理解している。愛抱夢と顔を会わせたことで冷静なプレーヤーとしての己を一部取り戻した今のランガが気にするのはひとつ。
    「愛抱夢、スノーボード出来るの」
    「まあね」
    「……ちょっと来て」
     野生の勘が働いたかランガは自分の知るあらゆる知識から使えそうなものを全て愛抱夢へ伝える。それは以前愛抱夢がランガにそうしたのの逆でもあり、いつか親と子がそうしたときのようでもあった。
    「わかった?」
    「ああ」
    「なら」
     ランガは愛抱夢の身体を反転させ、その背を押す。
    「お願いします」
    「……任せて」
     声は世にあまねくどの命令より愛抱夢に力を与えた。
     既に勝利したような心持ちで足を進めながら、愛抱夢は仮面を手持ちのゴーグルへ付け替える。当然スタート地点で待つジョンは、その顔をしかと目撃していた。
    「お前……」
    「彼には秘密にしてくれよ」
     愛抱夢――圧倒的強者の謎に包まれた正体を神道愛之介その人だと知る者は限りなく少ない。
     日本を救うと声をあげながら裏で非合法スケート場の運営するリスキーな生活を神道が送ってきた目的は一つ、彼の求める完璧な、スケートのみで構成された世界――即ち"楽園"に共に踏み込む相手を見つけることだった。
     十年近く続いた無謀な挑戦は昨年万感と共に果たされ、しかし紆余曲折の末派手に崩壊。彼は楽園と長年抱いた夢を遂に手放した。――そして。
     横に並ぶジョンへ愛抱夢は「全力で来てくれ」と告げる。
    「手を抜けばすぐ気付く。そういうときだけは鋭いんだ」
    「いいのか」
    「何が」
    「勝つぞ」
     ジョンはここ十年は毎シーズン滑り続けている、対して相手はブランク一年の少年から土壇場で指導を受けている有り様だ。難なく勝利できるに決まっているが、いいのか――その問いに何らおかしい点は無い。当たり前の話だった。だが。
    「いいや。僕が勝つ」
     表と裏、二重の舞台において妙計奇策を用いその"当たり前"を破壊する事こそがこの男の真骨頂なのだと知っていたならば。ジョンは決してこの勝負を飲まなかっただろう。知っていたならば。
    「本当にやりやがった……」
     数分後悠然と笑う男を前に敗北者として立ち尽くすこともなかったのだ。
    「どうだいランガくん、君に捧げる勝利だよ」
    「ありがとう」
    「ふふ」
     その意識は無いだろうがランガの礼はあからさまにおざなりだ。しかし愛抱夢はそれが見たかったとばかりに笑った。ランガが身に飼う闘争心を一つ上の世界から見る男は、それが牙を剥くさますら愛していた。
    「では僕はこれまで。少々そこのとお喋りしていて」
    「もう帰るの?」
     欲を理性で堪え「また会える」と愛抱夢は――男は踵を返す。
     スノーボードだろうと滑りに関してのランガの敏さは発揮されるだろう、小さな癖でも見つかる危険性を重視しこのような形を万が一に備え準備しておいたのだが、その"一"が来るとは。少年の運命力が己を遠いカナダまで引きずり出した――じわじわと沸き上がり心をくすぐる快楽に、男は密かに身をよじる。
     楽園の神も驚いていることだろう。生きがいを失い脱け殻になるどころか己が生き甲斐になり得ないと判明した少年へ、男は未だ思いを寄せたまま。この世を謳歌することを僅かたりとも諦めていないのだから。
     
     一方見送る側の彼らはといえば。
    「ほらよ」
    「あ、うん。…………」
     受け取ったゴーグルをランガはしげしげと眺める。真顔のままの少年へ「もう少し喜んだらどうだ」とジョンは悪態をつく。絶対的優位を失ったにも関わらず説教じみたしゃべり方は止められそうになかった。
    「喜んでる」
    「笑うなりなんなりしないことには分からん。お前がそんな態度じゃ、折角働いたヤツが浮かばれないな」
    「……愛抱夢のこと?」
    「それ以外に誰が居る……ああ、うん。そう、そっちだ」
     恐ろしい話だがランガからすれば候補は二人居るのだ。
    「お前、あの男をどう思ってる?」
    「すごいスケートをするんだ。見てて楽しい、あと速い」
     ひっそりとジョンは瞠目する。質問の意図すら察していないすこぶる無慈悲な答えだった。
    「……愛抱夢、カナダ来てたんだな。驚いた……」
     独り言のように呟くランガへいっそ教えてしまおうか。危うい考えがジョンの頭にちらついたが、そうした場合己の身がどうなるか分かったものではない。だが放置というのも男には耐えられなかった。
    「覚えてるか、照らし合わせだぞ。相手をよく見ろ。答えはお前の中にある」
    「わかった」
    「頑張れ。この先どう転がるにせよお前が気付かなけりゃ何も始まりゃせん」
    「?わかった…………あ」
     愛抱夢が去った方向から代わって出てくる影があった。せめて別側から来るものだと思っていたジョンはギョッと横の少年を見たが。
    「助っ人……愛抱夢が代わりに滑ってくれて、勝ちました。シンドウさんもありがとうございました」
    「……これマジか?」
    「あえて君の言葉を借りるなら"マジ"だ」
    「同情する」
    「要らない。だが納得したろう?」
    「ああ、これなら俺に負ける暇なんて無いわな、けけ」
     悔し紛れに皮肉を送ると敗北者は踵を返す。
    「じゃあな」
    「一緒に行かないのか?」
    「店に寄るだろ?マスターに合わせる顔が無い。俺はここで、しばらくバスでも待つとするさ」
    「君の寝床にはまだ数人待機中だ。車は見つけていないが、望むなら持って来させるくらいは――」
    「……わざとなら、本当に性格が悪いよ。お前」
    「――は?」
     諦めと羨望の入り交じる一瞥に、不意を突かれた神道が止まっている間にジョンはさっさと立ち去ってしまった。代わってランガが「ジョンは車持ってない」と伝えるがそれは神道をなおさら驚かせるだけだ。
     神道の優秀な部下が謝礼を匂わせれば、昨夜ランガを預かったボーイはすぐさま名乗り出た。チップに機嫌を良くした口がは実になめらかにその一部始終を語ったという。曰くランガをホテルへ届けたのは男が一人、そしてその男は
     ――まず車が停まったんです。
     運転手だったそうだ。
     ――前側のドアが開いて男が一人出てきました。肩でお客様を担いだままホテルの前を右往左往していたので声をかけるため近付いたところ、お客様を無理に抱かせてきました。一応声もかけましたが車は速く逃げられてしまい……。
     それから代わる代わるに数人見ていただけのボーイがチップ欲しさに情報提供を申し出たが彼らの証言の信憑性を疑う必要は無かった。全員細かな表現は違えど見た物は同じだったのだ。汚れた中型のワゴンから降りる――。
    「……そう。運転手だった。これがどういうことか分かるかい?」
    「……俺を運んだのは、ジョンじゃない?」
    「ああ。あの男には協力者が居る」
     神道が一応調べさせた結果としてやはりジョンは車を所持しておらずまた彼が使えそうな貸車方法も無かった。別の人間がランガを運んだと考える方が妥当だ。
    「でも誰だろう」
    「それを知るためここへ来た。行こう」
     車から降りた二人が見つめる先では生臭い風が壊れかけの木製看板を揺らしている。
     
     
     開いたドアへ「悪いが今日は――」と怒鳴りかけたマスターは、入ってくる影が友人の息子であると気付き走り寄った。
    「マスター、ジョンが」
    「すまなかった、ヤツとは私が話す。ともかくお前が無事で何よりだ。……それは」
     酔っぱらい回りきらない舌で体調などしきりに尋ねていたが、ランガの持つ大きな包みに目をとめる。
    「滑れたんだな?……ああ、良かった……」
     ランガの返事も聞かず、その両腕にすがり付いたままずりずりとマスターは踞った。感無量といった様子で呟く。
    「本当に良かった。これで……」
    「――彼は滑っていませんよ」
     店内へ響き渡る声。充満していた幻想を断ち切られ我に返ったマスターが顔をあげると、侵入者はすぐそこに立っていた。
    「初めまして、マスター?」
    「は、はじめまして。ランガの友人か?」
    「まさかそんな。僕はただの同行者、彼の道行きを見守る者です。あなた方と同じくね」
     神道が見せる端末には中型のワゴンが映っている。
    「この車はあなたの?」
    「……?ああ、私のだ」
    「そうですか。ところで昨日の夕方から夜、何をしていました? 店を開く時間が遅かったらしいですが」
    「……私の店の営業時間を私が決めてはいけないのか。昨日は客を待たせたかった、それだけだ」
    「なるほど。ちなみにご存じですか? 昨夜」
     背中を引き、ランガを腕に納めた神道はにこやかに問いかけた。
    「彼、運ばれたんですよ」
    「……知らないね」
    「ならあなたは随分心配性だ。彼がただ店に来なかっただけでそこまで顔を青く染められるなんて」
    「……連絡方法が無ければ、そりゃ心配もするさ」
    「いいや。心配していたのはそこではない。でしょう?」
     背の後ろにランガを回し、神道は一歩ずつ前へ進んでいく。目の前の男の行き場を無くすようじりじりと。
    「あなたは言った。"滑ったのか"と。何故?……知っているからだ。彼とジョンがゴーグルを賭け何で争おうとしたかを」
    「……さっきジョンから連絡が来た。ランガに負けたと。だから――」
    「それはおかしい。勝利したのは僕――ああいや」
    「愛抱夢。勝ったのは俺じゃない。愛抱夢だ」
     墓穴を掘り掛けた神道は言葉を区切り、代わって背後のランガが顔を出した。二人のやり取りに一切追い付けていなかった少年にもその連絡内容とやらが間違っている事は明確だ。
    「俺は滑れなかった。だから、代わりに愛抱夢が滑ってくれたんです」
    「だが、電話では」
    「ゴーグルの所在しか尋ねなかったのでは?」
    「あ……」
    「やはりそうですか。あなたから尋ねた。そもそも電話を掛けたのもあなたからでしょうね。そうやって連絡できる状況にあり、事情も知りながら――」
     一歩ずつ、一歩ずつ。神道はゆっくりとマスターを追い詰めていく。
    「あなたは二人が合流した事を知りその勝負方法を知りその顛末も知り――しかし昨夜の事だけは知らないと言う。片寄り過ぎじゃありませんか。マスター。改めてもう一度尋ねます」
    「…………」
    「昨夜は何を?」
     最後の一歩。油っぽい床を擦る革靴から逃れるため退いたマスターはカウンターへ強かに背を打ち付けた。身を丸めるマスターへ神道が更なる追い討ちをかける。
    「既に車は詳しく確認済みです。ボーイ達から出た証言と特徴が一致しました。彼を運んだのは間違いなくこのワゴン、あなたの車だ。運転手の特徴も聞きますか? 監視カメラの映像は?」
    「……いや。いい」
    「では認めますか。あなたはジョンがゴーグルを盗み出せるよう協力を――いや」
     対峙する男達には理解していた。あと一度言葉を交わせばやり取りは終わる。つまらない追求劇は何の変哲もない短い自白と共に幕を下ろすのだと。
    「ジョンに命じましたね、ゴーグルを盗めと。直接手を汚さなかっただけでこれは充分あなたの犯罪でした。あなたは協力者ではなく――共犯者だった」
    「認めるよ」
     会話を始めた時からこうなる事が決まっていたように向き合う二人の面持ちは冷たく、そして安らかだ。その一方彼らとは対照的に、
    「……どうして?」
     ランガはひたすら困惑していた。
     マスターはオリバーの友人であった筈の男だ。遺品を渡すために呼んだ筈の彼が何故自分からそれを奪おうとするのか、ランガには一分たりとも理解できない。
    「本当にお金に換えたかったの?」
     記憶を必死に手繰りランガが出した答えは、しかしその一切が間違っていた。
    「違う!」
    強く叫んだマスターはその身をかい抱き首を振る。
    「そんな事は絶対にしない。それはアイツとの約束の品だ。私は……」
    「アイツ?……父さん?」
    「……そこの。もう分かっているんだろう」
    「ええ、まあ」
    「じゃあランガに説明してやってくれ。喋りは苦手なんだ。多分アンタの方がずっと上手く話せる……」
    「……分かりました。君もそれでいいかな」
    「お願いします」
    「ではハセガワくん。説明の前に、まず君に問おう。彼らの目的は何だと思う?」
     ゴーグルを手に入れる、とランガは答えたが
    「手に入れて、それで?」
     重ねて問われたそれには思わず言い淀んだ。
     換金は先ほど他ならぬ本人が否定した。貴重な品を渡したくない、横取りしたいのならわざわざ知る由もない家族へ連絡しないだろう。
     ランガがこの地に居る状況で行動を起こす、その理由が彼らには存在しない。
    「それが答えだよ。彼らの目的はゴーグルではない。目的は――君だ」
    「俺?」
    「順を追って話そう。ハセガワくんがここを訪れた時。この時点では、本当にゴーグルは君へ渡される予定だったんだ。だがここでマスターは有り得ない事実を知った」
    「ありえない、事実」
    「君がスノーボードをやめていたことだ」
    「――」
    「理由は一先ず置いておこう。ともかくそれを認めることが出来なかった彼らはこの盗難騒ぎを起こした。ただ君にもう一度、スノーボードをさせるために」
     犯人二人に初めから盗みを成功させる気など無かった。それはあくまでランガを焚き付けるための手段であり、真の目的のためのカモフラージュに過ぎなかったのだ。
    「言ってくれれば」
    「プレーヤーには"同じ"でなくなった者が分かる。彼らは熟練者だ。君がそう簡単に滑る気が無いことくらい一目で察せたに違いない」
    「そんな……」
    「おそらく本来の予定はこうだ。まず君の目の前でわざとゴーグルを盗んで見せる。直接取りには行けないと君が思い込んだところでスノーボード勝負を持ちかけ、選ばざるをえない状況を作る。そして適当に、多少手加減してでも君を勝たせ、ゴーグルを渡す」
    「それだと結局、一回滑るだけなような」
    「一回でも滑らせれば良いんだ。それだけで君が意識を変えると、本気で信じていたのだろう」
     プレーヤーとはそういう生き物だ。自分達の競技に誇りを持ちその力を過信する。
    「……オリバーは」
     顔を手のひらに押し付けたままマスターは語った。
    「よく動画を見せてきた。私達は皆呆れたふりをして、本当は楽しみにしてたんだ。何年経とうと変わらず滑る親子の姿を」
    「……父さんと、俺?」
    「アイツが言ってたよ。お前はもっともっと良いスノーボーダーになる、自分は一番近くでそれを見るんだと。なのにあっさり死んで、お前は……」
     指の隙間から、視線が少年の身体へ刺さる。そこに渦巻く感情をとらえきれずランガはビクリと震えた。
    「ランガ……どうしてスノーボードを止めた、何故だ?こんなにも楽しい物を、何故――」
    「そこまでだ。彼が怯えている」
     楽しさで全てを帳消しに出来ると他者の真実さえ知らずに思い込む厄介な人間はどのスポーツにも居るらしい――やりきれない思いを振り払うように神道は拳をかかげた。二人に見せつけながら、指を開いていく。
    「……話を戻します。急ごしらえの計画には当然次々誤算が生じた」
     まず一本。
    「一つ、彼がすぐ犯人を追いかけた事。さぞ驚かれたでしょう。数回言葉を交わした程度では分からなくて当然だが、この見目にして結構彼は向こう見ずで無鉄砲なんですよ。大人しくて聞き分けの良い子とでも聞かされていましたか」
    「……親の欲目を鵜呑みにするものじゃないな。まさかあそこで走り出すと思わなかった。慌ててジョンに連絡したよ」
    「懸命な判断でした。迎えが来なければおそらく彼はあの悪名高い通りへも平気で向かっていた」
     ぞっとしない想像に肩をすくめ、神道は二本目の指を立てる。
    「二つ。彼が果敢に勝負を受け入れ、しかし破れたこと。これも全くの予想外だった筈だ」
    「ああ、随分素直に受け入れると思ったがいやまさか、負けるとは……てっきり何か勝算でもあるのかと……」
    「あるわけがない。彼にとって策は滑りながら練るものだ。困った話ですが」
     ランガは一人蚊帳の外だが、雰囲気の変化を感じ取っていた。徐々に二人が落ち着いてきた一方で何故か非常に居づらい。いたたまれない。
    「そして三つ目」
    「また俺?」
    「いいやこれだけは違う。マスター、彼が昨晩も滑っていない事はご存じですか?」
    「は――いや、知らない。本当に知らない」
    「でしょうね。あなたの誤算は共犯者にまで及んでいた。まあつまり、あの男はあなたを欺いたんだ」
    「ジョンが嘘をついたと?だがそんな事をすれば」
    「借金を返してやれなくなるのに?そこですよ」
    「……そうか、逆か」
    「はい。あなたから命じられたのはハセガワくんとの勝負に敗北しゴーグルを返却すること。そのどれかひとつにでも不備があれば報酬を多少減額されるかもしれない。焦ったのでしょう。だから嘘をついた。そして再戦のためストリートをわざと目立つように歩き回った、おそらく彼に見つけてもらうために」
    「実は今朝からさっきまで持たせてた端末に繋がらなかった。止められるのを警戒してだろう、馬鹿だな」
    「止める気でしたか」
    「そもそも二度目の勝負をさせる気さえ無かったよ」
     昨晩マスターに電話をかけたジョンはひどく焦っていた。ランガが滑り終わった途端気絶した。どうすればいい?――電話口から縋ってくる声を宥めながらマスターも必死で車を走らせたのだ。
    「長時間の移動で体力を使い果たしていたのだろうと――そんな状態で再戦は酷だ。ゴーグルは今朝のうちにジョンから取りあげて、何かしら理由をつけてランガへ渡そうと思っていた」
     しかし現実、ジョンとの連絡手段は失われ。いざ繋がったかと思えばゴーグルはランガの手元へ既に戻ったと言う。ならば勝負をしたのだろう、そこに辿り着いたマスターは震えて待つしか無かった。五体満足でランガが店へ来るまで、ひたすら。
    「昨日ランガを見たとき生きた心地がしなかった。滑っていなかったのは本当か?ならばどうして、あんな」
    「それは彼の口から直接聞いてください。そうしなければあなたは真に悔やまない」
     店から出ていく神道へマスターは慌てて声をかける。
    「おい、肝心なことを伝えてないぞ」
    「それも僕でなくあなたが相応しい。友人だった、あなたこそが」
    「……いちいち嫌になるね。さようなら異国の人。アンタが現れたことこそ私の最大の誤算だよ」
     四つ目の誤算が去った店内で「話してくれ」とマスターはランガへ促す。滑る以前に気絶した一連の経緯をランガが説明するうちにたちまちその顔色は青を越して黒ずんだ。
    「悪かった、許してくれ」
    「頭をあげてください。俺は……」
    「知らなかったんだ。映像のお前はいつも楽しそうにしていたから。まさかそれほどスノーボードを苦痛に感じていたとは――」
    「――ちがう」
     否定は、紛れもないランガの本心だった。
    「スノーボードが嫌なんて一度も思ったことない。……続けられたのは楽しかったからだ。忘れたくても忘れられないくらい、思い出そうとしなくてもいつだって思い出せるくらい」
     疎ましいほど離れてくれず、苦しかろうと愛している。まばゆい幼年期の象徴。一生の宝であり一生残る傷。それがランガにとってのスノーボードだ。
    「好きだった。ずっとしてたかった。でもそれは、父さんとするスノーボードだったんだ」
     日本だろうとカナダだろうとランガの心を動かす光景は二度と生まれない。永遠は既に失われていた。
    「……そうか。じゃあ駄目だ」
    「最初に言えなくてごめんなさい」
    「いいや、それが当たり前だ。そんな大事な気持ちを誰彼構わず伝える必要はない。お前は正しい」
     マスターはランガの目を改めて見つめ「本当によく似ている」と不器用に微笑んだ。
    「ランガ。お前に言っていなかったことがある。聞いてくれ」
    「うん」
    「そのゴーグルは……オリバーの物じゃない」
    「あ、うん」
    「……気付いてたか。いつ頃だ?」
    「さっき」
     ランガは父のゴーグルをそっと両手で持つ。そのひびのないフレームを。つやめくレンズを指でなぞる。
     勝負後すぐのことだ。手渡されたゴーグルを隅々まで眺めたランガはうっすら思った――気持ち悪い。昨日と違いその目は冴え、脳は冷静だった。自身の身体が発するぼんやりとした拒否反応。その理由をランガはすぐさま悟ることが出来た。
     父が使っていた筈のゴーグルには、真新しい小さな汚れしか見当たらなかったのだ。
    「そんなのあり得ないんだ。一度でも使えば跡はできる。それなのにどんなに探しても、このゴーグルには昨日の跡しか残ってない」
     つまり昨日まで一切ゴーグルは使われていなかった。
    「一日会わないうちに随分賢くなったな。そうだ、それは買ってからずっとケースの中にいた。出したのだって昨日が初めてだ」
    「……買った人は」
    「オリバーだよ。それはオリバーが買った。お前のために買ったんだ。それはお前の物だ」
    「父さんじゃなくて、俺の……」
    「ああ。少し遅くなったが代わりに言わせてくれ。ランガ――誕生日おめでとう」
     
     少年が去っていく。
     彼は知った。父親の意思を。願いを。父の友人が何故こだわったのかを。それら全てを知り、その想いが詰められた物を胸に抱きながら、暗い店から出て行く背中に迷いは無い。
    「すまん、――――」
     その謝罪が誰宛てか探る者も嗚咽混じりの声が呼んだ名に答える者も存在しない店内。客の入れない奥の奥、再び押し込まれた空のケースにはただ喪失が眠っている。
     
    「大事なことは話せた?」
    「はい」
    「タクシーを呼んだ。乗るだろう」
     誘いを疑いもせず神道に付いて行くランガの顔は実に晴れ晴れとしている。
    「ホテルに戻ったら荷物をまとめてまたすぐタクシー、最後の食事を済ませ、そして空港、と」
    「忙しい」
    「本当に。こんなスケジュールになるとは思ってなかったな」
     ランガと二人きりでの旅行――目的こそざっくり達成したものの、神道の立てた計画は面白いほど思い通りに進まなかった。思いの外ランガの探し物に時間がかかるわ、隙は見せてくれないわ、あまつさえ短い時間だとしても姿を見失うなど。あの店長の事を言えやしない、自身もまた誤算だらけのなか奔走していた一人だと神道は失笑した。
    「シンドウさん、あの」
     ランガが「これ俺のでした」とゴーグルを抱きしめる。
    「誕生日プレゼントだったらしくて、それで、俺……、…………」
    「聞かせて」
    「……そう聞いた瞬間。あんなこと言ったのに、いつか滑れたらいいなって思ったんです。何でだろう」
    「そんなものだよ、誰しも」
     もう二度とと思いながら希望が見えれば望んでしまう、その浅ましく人間らしい精神構造を誰よりも深く理解する男は先達として言葉を掛ける。
    「僕らが"それ"から逃げ切れる日なんて来ない。けれどそうだとして何がいけないの。失ったものを愛しながら、いつかと願いながら、なお今を生きていく。僕はそう決めた。君もそうするといい」
    「……うん」
    「殺すも救うも結局のところ、愛だよ」
    「うん……、ん…………?」
    「頑張りたまえ。ランガくん」
    「…………?」
     背後でランガがぴたりと歩みを止めた事に、神道はまだ気付いていない。
     ランガは底抜けに鈍い。彼と知り合った人間の誰しもがそれを――無論神道も――理解している。
     だがしかしランガのそれは外を知らぬゆえの鈍さ、卵の鈍さだ。周囲の環境次第でいくらでも成長する可能性の塊。それを伸ばすなら、例えば見知らぬ土地で単身あり得ない状況に放り込まれ続けるなど最高の環境ではないだろうか。
     この三日間ランガは神経を研ぎ澄まし続けていた。良く見ろと言われれば良く見る。考えろと言われれば考える。慣れない作業は彼に疲労を、そしてその感覚に僅かな変化を与えた。
     今や卵には無数の小さなヒビが入り内側へほんの少しの光を入れようとしている。
     だが神道はその事を知らない。結果としてそれが男に油断を呼んだ。あまりにも鈍過ぎるランガを前にするうちに、張り付けた仮面がある程度緩んでも、神道はさほど気にしなくなっていた。どうせ見られていない。注目されない、気付かれない。高を括った男が犯した致命的な失敗。
    「戦いを、勝利を……分かり合うことだって決して諦めなかった君を、僕はずっと嫌いじゃないんだ」
     それは笑顔だった。何千何万と繰り返した善人らしい表情を"なんとなく"神道は止めたのだ。そして代わりに浮かべた笑みは実に彼らしい――。
     後頭部から少しだけ覗く口の端の吊り上がり具合。それが視界に入った瞬間、卵に大きく亀裂が走った。
     注意深く見る。照らし合わせる。記憶が――合致する。
     気付けばランガは暗い夜の中に居た。そして男もまた、そこに居た。同じように唇の端を吊り上げて笑っているその男をランガは知っていた。
     誰にも知られぬままひっそりとこの瞬間のために育まれていた小さな情緒が、産声をあげる。
     ランガが伸ばした手は見事目の前の背中、その袖を掴むのに成功した。力強く引き、ランガは無理矢理に神道を振り向かせる。驚きに見開いた神道の目を注視するその顔は常と変わらない。だから神道は覚悟もせず――真正面から"それ"を受け止めてしまった。
    「――愛抱夢?」
     声を聞き取るのに数秒。"呼ばれた"と理解するのに更に数秒。遅れた反応の代償はあまりに重かった。あれらだけでなく自分にも誤算がもう一つあったのだと、男が気付いたところで後の祭り。もう何もかも間に合わない。
     母音程度しか発せない" "を、真っ直ぐ、眩しく、そしてどこまでも諦めの悪い瞳が今、完全に捉える。もう一度名を呼ぶために。
     こうして彼らは遂に真の対峙を果たした。帰りの便までは残り数時間と少し。二人の距離をもう一歩縮めるには充分な長さといえるだろう。
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