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    20210907 愛抱夢が気付いて焦って墓穴掘って開き直る話 テンション乱高下 一部年齢揶揄表現あり 本編やドラマCDに漂う空気が大丈夫なら大丈夫だと思う

    ##明るい
    ##全年齢

    愛の墓場でまた会おう「お気付きになられたのですね」
     ミラーに映る目元が運転中にあるまじき勢いで伏せられた。
    「その言い方からしてお前はとうに気付いていたわけだ」
    「は、はい。申し訳ありません」
     何を謝る事がある。 
     まさか言えば良かったとでも思っているのだろうか。的外れだ。飼い犬から人間様あなたの抱いているものの名前はこれですよと教わるなど、考えただけでおぞましい。それならば、その鈍さに腹が立とうとも己自身で気づきを得た方がよほどましというものだ。
     点滅する信号を前にした車がゆるやかに速度を落としていく。無難に通れそうだったが、敢えて停止を選んだのだろう。平静を装えたつもりだろう腕は命綱のハンドルを食い込むほど握りしめている。
    「どうなさるおつもりですか」
     回りくどい言い方は好ましくない。言えば犬は再びの謝罪と、これは意見ではなく言葉の選択にもあなたがそうするほど深い意味は無いのだと長い言い訳を並べる。そして最後に、
    「その、恋心の処遇をいかがしましょうか?」
     括りに付けた文章はひどく稚拙だった。そういえば自分達はこんな話をした事も無かったのだ。別に今からもう一度とは決して思わないが。とうの昔に成人した男二人のたどたどしい恋バナ、そんなインスタントな地獄はさっさと破壊するに限る。
    「どうもしない。お前も何もする必要はない」
    「……おめでとうございます。流石愛之介様です」
    「は?」
    「……告白もしくは求婚を既に済まされた、ということでは?」
    「違う」
     済んだと言えばそうかもしれないが、しかしこの朴念仁の浅い考えとはその意味が全くもって異なる。
    「埋めた」
     言えば「埋めた」と戸惑いも露骨に繰り返す。鸚鵡返しに鳩が豆鉄砲を食らった顔とは、自身を何だと思っているのか。
    「何だ、犬。何が言いたい、ほら言え、早く」
    「埋めたとは何を」
    「人間の言葉を喋るな」
     青だぞ、と信号に向け顎をしゃくれば犬は一言吠えた後車を発進させた。がっくりと項垂れた頭が肩の間におさまっている様子は雨の日の本物とよく似ている。哀れさなどが特に。 
     ――そう、埋めた。気付いた瞬間スコップを持ち、息をするより早く掘った穴にどさどさと落とせるだけ落としたのち整地のプロが羨む速度で土を被せならした。二呼吸する頃にはもうどこにもそれがあった痕跡すら残っていなかった。見事なまでの平地が広がっていた。 
     では自分が何に気づき何を埋めたかというとまあ、濡れ犬の言葉を借りるとしよう。アレだ。恋心。 
     文字にすればピンク形にすればハート。無垢な乙女の特権たるラブリーでキュートでピンキッシュなアレを、あろうことか神道愛之介三十代目前にして抱くことになるとは夢にも思わなかった。 
     ただ弁明すると生まれて初めて恋を知りました、なんてことはない。自分で言うのもなんだが幼少期から老若男女問わずモテた。眉目秀麗成績優秀名家の長男足が異様に速いと来れば当然引く手数多、特に高校時代破滅願望が上限超えたときなどは幾多の人間と同時に関係を持ったか覚えていない。今思えば自棄になっていたのだろう。どうせいつか望まない、顔も知らぬ相手と強制的に結婚させられるのだから、と――とんだ深窓の令嬢気取りだった。若気の至りとは恐ろしい。 
     二十歳を越えた頃そういう欲求はパタリと止んだ。忙しさ、スキャンダル対策、そういう面もあるが身体はともかく心の性欲が消えたのが大きい。こんな事をしたところで己の欠けた部分は埋まらないとついに理解してしまったのだ。
     デジタルタトゥーの消しにくさにうんざりしながら結局これも破壊行為の一環でしか無かったと思い知った。自分の価値を傷つけるために利用した木偶人形達。その安寧を適当に祈りながら、もうこれはいいなと心に決めた。感想がつまらなかったの一言では彼らも浮かばれまい。 
     だから恋は嫌になるほど知っている。遠い記憶として。用意された相手にまがい物を送る以外二度とする気は無かっただけ。 
     その筈だった。――なのに。 
     雷ひとつ。それで全て駄目になった。恋じゃないのかこれ、一度気付けば心にはどんがらがっしゃん鳴り響く稲光の群れで埋まっていた。 
     失った感情の再訪を自分は喜ぶべきだったのだろう。しかし、埋めた。もう即。光速を越えた。 
     恋、それ自体は少々気恥ずかしいがまあ良い。流石自分が見つけた元運命。この心に抗えない奔流を起こすことなど朝飯前というわけだ。 
     相手が彼なのも全く問題ない。むしろ彼以外だったら己を疑う。 
     問題は自分が抱いたその感情が――考えたくはないがおそらく――全くの一方的なものであることだった。
     これが愛なら何の問題もない。愛とは与えるもの、施すものだ。一部捧げる愛だって相手から愛されている自負があるからこそ贈り返すわけで、つまるところ愛は奉仕といえる。上から下への。 
     だが、恋は駄目だ。恋には戦いがあり駆け引きがあり、勝敗がある。惚れた時点でそちらの負けとはよくいったものだ。惚れた方は二人の関係が続く限り惚れられた方にかしずくこととなる。今までずっとそうだった、常に相手は自分へかしずいてきた。 
     しかし今回の相手に限ってはそうすると思えない。つまりかしずくのは。 
     彼――馳河ランガは成人も済ませていない子供だ。年齢立場社会的信用ルックスはジャンルが違うので同率一位としたいところだが人を構成する殆どの要素において自分の方が圧倒的に上回っているのは主張する迄もない。そんな自分が、恋。少年に、一方的に。惚れられてもいないのに惚れるなど――ありえてたまるか。
     なので、数年ぶりに返ってきた恋とやらには残念だが埋まってもらった。二度と出てくることはない。これで良かったのだ。
    「愛之介様。では、週末のSは」
    「?行くに決まっているだろう」
     スノーとのビーフはひと月前から決めていた大事な大事なご褒美だ。一か月間身を粉にして働いたのはこの一戦のためといっても過言ではない。
    「そういえば直に会うのは久しぶりか。待ちきれないな」
     彼の疾走を思い出す。それを食らう想像ひとつで涎が出そうだ。己を落ち着かせるためにも今夜は、前哨戦と称し彼のビーフ戦績を振り返る一人上映会でも開くべきかもしれない。
    「忠、準備を……」
     ミラーに映る顔はよく見なくとも分かるほどカッチリと固まっていた。明らかに何か言いたいのをこらえている。
    「言え」
     命じるとしばし躊躇してから犬はただひとこと、わん、と鳴いた。何だそれは。まさか本当に人語を忘れたわけではなかろうに。
     
     
     雲一つない空。無数の星が輝いているのを見るに上空は風が強く吹いているようだが、地上への影響はごく僅か。気温も湿度も穏やかな今夜は絶好のビーフ日和だ。
    「彼は?」
    「既に会場内に」
    「元気か?」
    「は……」
     謎の質問に慌てていたのは忠だけではなかった。自分は何を聞いているのか。口に出す迄一切おかしく思っていなかったのが今は不思議でたまらない。 
     場内のキャップマンと連絡を取ったのだろう。おそるおそると言った感じで忠がこちらを向く。
    「特に不調そうには見えないと……直接確認させますか」
    「いや、いい」
     こちらが真顔で答えると、安心したように肩の力を抜いた。気持ちはよく分かる。
    「……分かった。愛之介様、全員待機完了しました。いつでも行けます」
    「そうか。なら俺も行く」
     車から降り、関係者以外通行禁止の裏手を悠々と歩く。報告を聞く限り今夜もSは盛況だ。証明するかのごとく表側からざわざわと聞こえていた人の声。それが突如、耳を塞ぎたくなる程の大音量に化けた。始まったようだ。今夜の趣向は果たしてプレーヤー達に、そしてランガにうまく気に入られるだろうか。
    「……ん?」
     だからどうしてここで彼が出る。 
     疑問は解消できないまま気づけば裏の端近くまで来てしまっていた。時間切れだ、仕方なく頭から追い払う。 
     ガラクタの隙間からこっそり覗けば表は阿鼻叫喚の様相を呈していた。慌てふためくプレーヤー達の合間に居るわ居るわ――考案したのは自分で採用したのも自分だが、実際こうやって見ると気持ち悪いことこのうえない。覚えておこう。自分と同じ外見の持ち主が大量に居るのは、不快だ。 
     逃げ惑うプレーヤー達だが中には自分の偽物達へ果敢に立ち向かう者も居る。彼らが正解だ、何故ならこれは自分を探しステージまで連れて行った者の優勝、そういうゲームなのだから。まあ本物はそこに居ないし自分は今から用意された出口を通り混乱状態の会場を颯爽と抜けステージで一人勝ち宣言する予定なので全部無駄だが。えらいことはえらい。 
     端の端に人が出入りできるギリギリの隙間を見つけた。これがおそらく出口だろう。身体を柔らかくし、一息で抜ける。 
     そういえばランガはどこに居るのだろう。
    「……ふう。出られたから良いが、これは狭すぎる。今後改良を――」
    「あ」
    「――――」
     その場で気絶しなかっただけでも奇跡だった。 
     居た。そこに居た。 
     ランガは表と裏の境界にそびえる板の端に背中を預けていた。つまり隙間の、自分のすぐ傍に。 
     一人だ。どうしたのだろう、お仲間は一緒では無いのだろうか。ゲームには参加しているのか。 
     ところで何故今この場面なんだ。よりにもよって隙間の狭さに文句をつけている時でなくとも良いじゃないか。
     駄目だ、思考がまとまらない。ただ会っただけなのに。ひと月ぶりに顔を見ただけなのに。
    「……あの」
    「!」
     ああ、彼がこちらを見ている。何か言わなくては、何か――。
    「――ぼ」
    「ぼ?」
    「僕は本物じゃない」
     しまった。そうであって欲しいという願望がそのまま出てしまった。 
     これは流石に無理があると思いきや「そうなんだ」とランガはただ頷き視線をこちらから騒がしい方へ戻す。
    「……分かってくれて嬉しいよ」
     まさか上手くいくとは、いやここで捕まっては計画が大幅に崩れてしまうのでこれで良いのだが何故だろう。強い敗北感が胸を抉りまくっている。
    「あの、スノー?」
    「なに?」
    「皆に混ざらなくていいの?」
    「……流された」
     ははあ成程、納得だ。ランガは内に秘めた能力こそ高いが自身が理解できない状況に対し一度思考を止める癖がある。おそらく初めの最も混迷していた時、人の群れに巻き込まれそのまま弾き出されたのだろう。その俊敏さも四方を囲まれれば意味は無くなる。不運な子だ。 
     しかし、だとすれば。
    「……もう一度行ったりはしないんだ」
     場外は失格なんてルールは作らなかった。だがランガはこうして観客側に立っている。勝負を捨てたのだ、それくらい簡単に予想できた。
    「しない」
    「そう」
     胸がやけに痛い。
    「……何で?」
     知らない方が良いと分かったうえで逆を選ぶ。いっそハッキリランガの口から言ってしまってほしいのだ。そうすれば自分は――自分は。
    「違う!」
    「えっ?」
    「何でもない、口癖なんだ。気にしないでくれ」
    「わかった」
     本当に誤魔化せているかどうか不安になってきた。
    「……体力」
     ふいにランガがぽつりと呟く。何がか尋ねようとして彼を見た瞬間、ひとりでに喉がひゅっと詰まった。目が合う。いつからか分からないがランガはずっとこちらを見ていたらしい。
    「さっきの答え。もう一度行っても良いんだけど、体力あんまり使いたくなくて。今日この後」
     青い瞳は安っぽい蛍光灯から離れるほどきらめきを増す。
    「ビーフするから。あなたと」
     だから僕は偽物だと言っただろう。それとも本当は気づいているのか。言いたい事は星の数ほどあったが全て一等星だろうとその輝きにかき消された。仕方ない、我らが奇跡の星の色だ。
    「じゃあこんなもの、早く終わらせてしまおうよ」
    「愛抱夢?」
    「何をしているの。ステージ、行くだろう」
    「……うん」
     人が跳ぶ。走る。殴りかかってくる。全部遅いから躱して進む。ご苦労様、君たちに用は無い、こちらを偽物と勘違いしたうえで「日頃の恨み!」と叫びながらバット振り回してきたやつは後で覚えておけ。 
     ランガも多少動きはぎこちないが器用に避けていた。こちらとの距離が開く度慌てて詰めてくる、それをしようと思って出来ることがどれ程の才能かも理解しないまま。おそろしい原石。なんていとしい才能。その姿を絶えず視界の端にとらえながら、ようやくいつもの自分が戻ってきたのを感じた。 
     胸を押さえる、痛みはもうない。奥底を探る、あの場所は――よし、平地のままだ。だからさっき迄の痛みはアレではなくおそらく失望か何かだろう。そうであれ。 
     ステージはすぐそこだが偽物が多い。突っ切ってしまおうかと走りかけた身体が、くんと後ろに反れた。見れば片手が不自然に後ろへ下がっている。誰だ引っ張るとは良い動きだな相手してやる――漲るやる気と共に勢いよく振り返ったが、その一秒後にはやる気は煙のように消えていた。
    「す、スノー?」
    「愛抱夢」
    「待って、今名前を呼ぶと他の奴らに聞かれる。勘違いされかねない、僕が――」
    「勘違いじゃないだろ」
     引っ張ってきた相手には見覚えがあった。というよりも週六か七で見ている。傷だらけのグローブも、少しくたっとした袖も、その持ち主のことだって穴が開く程馬鹿みたいに見てきた。だから分かってしまう。この瞬間彼が何を考えているか。 
     ああ眩しい。いつだろうと真っ直ぐなそれは少しだけ恐ろしい。逃げられなくて焼かれてしまうから。
    「あなたが愛抱夢だ」
     どくり、と心臓が鳴って、胸が貫かれたかのように痛んだ。そして――。
    「……」
    「愛抱夢?」
    「…………」
    「え、なに?大丈夫?」
     心配そうな声が上から聞こえる。一度大丈夫だと示せば安心するだろうが、できない。まず顔をあげられそうにないし、この状態から立ち上がるのも無理だ。へなへなと座り込み少年の足に寄り掛かる姿勢を是とする気は無いが体に力が入らない、自分は今体内での戦いに全体力全神経を注いでいる。
     ――ゾンビだ。 
     埋めた筈の奴らが甦ってきた。一度殺されたからふらふらの癖にしつこく纏わりついてくる。そうして自分達を取り込み、仲間を増やそうとしているのだ。 
     繋がれたまま上に引かれていた腕がゆっくりと落ちた。離されたわけではないから、おそらくランガが座り込んだのだろう。彼の事だから無意識かもしれないが何故こちらの手でなく指先を握ったのだろう、そういう可愛いことをされると困る――まずい。早くも取り込まれかけている。
    「……愛抱夢」
    「っ」
     声は先程より随分近い。ざわざわと喧しい中で唯一やさしいそれが、自分のために彼がわざわざ作った声音だと思うと――ああ良くない。別に良いだろ素直になれよとベタベタ被さってくるそれを必死で振り払い、意を決し顔をあげた。わっ、と口にこそ出さないものの丸く開いた目が、いや何でもない。とにかく一言大丈夫だと言うだけだ。大丈夫、大丈夫。
    「……なんで僕が本物だと思うの?」
     違うだろうが、おい。
    「……あなたがそうってよりあなた以外がそうじゃなかった。だからあなたなのかなって」
    「そう、とは?」
    「視線」
     指を握っていない方の手で自身の目元近くの空にランガはくるくると弧を描く。直接触れないその動きがこちらの仮面を表していると気付くのが少し遅れたのは、体内で未だ戦いが進行中だからだ。
    「みんな俺を見ない。ちらっととかそれくらい……あなただけだったんだ。俺のことずっと見てたの」
     それを証左にしたという事は、つまり。
    「君の中の僕って」
    「いつも俺を見てる」
     脳が酩酊状態に限りなく近づいてきた。 
     見ている自覚は当然ある。後でいくらリプレイできようとやはり生の臨場感には代え難い。出来る事ならその一挙一動を逃したくないと目を凝らした、だが――意識されている自覚、これは一切なかった。その可能性すらすっぽりと頭から抜け落ちていた。 
     何故かといえば、見ていた対象が馳河ランガだったからだ。 
     この興味のあるもの以外全てをすり抜ける少年が、自分を良くも悪くも好敵手程度にしか思っていない彼が、見られているなあと気付くことなどありはしないと思っていた。ましてそれを覚え探し出す材料にするなど。 
     今は自らの落ち度を責めるか恥じるかのどちらかであってこんな感情は相応しくない。分かっているのに止まらなかった。だってこんなのまるで、彼が自分を意識しているみたいではないか。そう思って自分は――嬉しくなってしまったのだ。そんな事をすればどうなるかくらい把握していただろうに、やはり恋は駄目だった、人を阿呆にする。 
     くらりと体内の戦士たちが動きを止めた、それを見逃すゾンビ達ではなかった。あっという間に浸食は進み体の主導権も完全に奪われ、そして勝手に開いた口が。
    「……僕のこと、少し好きだったりしない?」
    「ん?」
     首を傾げられただけで良かったと思うべきか。 
     ともかくこの「ん?」で冷静になった自分はランガを連れダッシュでステージに上がるとゲームの終了を告げた。そして「少し用事があるから」と、ビーフビーフとはしゃぐランガを置いて一人誰の邪魔も入らない場所へ向かっていた。 
     何のために――当然、埋めるためだ。
     
     
    「……あ、愛抱夢」
    「やあスノー、待たせたね」
    「うん。早く滑ろう」
     いそいそとスタート地点へ駆ける後ろ姿に何も感じない。揺れる髪の端にも、いくら急ごうとすらりと伸びた背中にも心が凪いだままであることを確認し、ようやく安堵する。一先ず成功したらしい。 
     恋心だけ埋めるのは間違っていた。ランガに何かしら感情を抱く度芋づる式に甦ってきてしまうのでは意味がない。なので、今度は全て埋めた。ランガに対して感じていた思いを、良いも悪いも分けず全て纏めて二度と掘り返せない深い深い穴の最奥に封じ込めたのだ。 
     二人スタート地点に並ぼうと心はしんと静まり返っている。先程からランガがちらちらとこちらを見てくるがその真意を問う気にもならない。一等星より明るく見えた瞳にすら何も思わないのだから、今度こそゾンビどもは完全に沈黙したようだ。これでもうあのわけのわからない感情に振り回されずに済む。ランガを見る度感じていた胸の高鳴りや焼けつくような苦しみともお別れだ。加害欲を堪える事も。そのスケートにうっかり見惚れる事も。彼には負けたくないと闘争心を燃やすのも、共に高みを目指す高揚感も――。 
     いや。それは、まずくないか。
    「……っ!」
     パッと横を向き少年の顔を視界に映す。やはり何も感じない。その顔、身体、内面。そして、彼の滑るスケートに一切の興味を抱けなくなっている。 
     当然だ、全部この手で埋めたのだから。
    「……大丈夫?」
    「大丈夫」
    「本当に大丈夫?」
    「大丈夫。しつこいよ、君」
     あれ程望んだ理性ある返答は、何故か少しも嬉しくなかった。 
     大丈夫ではない。自分は今全然大丈夫なんかでは無いのだ。 
     叫びたかった、返してくれと。恋はいい。叶わなくとも、相手に知られぬまま埋葬しようとも構わない。どうせうまくいったところでいつか駄目になってしまう感情なんていくらだって殺してやる。だからそれだけは。 
     スケートの楽しさは人と滑ることにこそあるのだと、そうランガは言った。甘っちょろい子供の戯言は確かに真実だった。面倒だし物足りないが、誰だろうと他人と滑る事には意味がある。それを少しずつ自分は実感していた。 
     だが腹の底から滅茶苦茶になるような、この世がまるきり土くれにしか思えなくなるような、あの狂いの手前で踊る感覚を味わえるのはどうしたって一人だけだったのに。 
     ランガの表情は何かしらの感情を示しているがそれが何なのか分からない。拾う術はもう穴の中だ。 
     カウントダウンが始まる。反射的に体勢こそ整えられたもののうまく集中できない。相手に興味がない状況でのビーフなど何百回と戦って来た筈の身体が何故今日はここ迄切り替えられないのだろう。 
     ああそうか、しばらくそんなビーフしていなかったからだ。近頃は相手と滑るつもりで挑むことが多かった。彼が教えてくれたから。
    「――あ」
     自分は一体、何を無かったことにしたのだろう。 
     合図が鳴り響く。スタートしたくないと思ったのはうまれて初めてだ。それでも完璧に決めてしまう己が憎らしい。
     目の前には懐かしい景色が広がっている。自分の他に誰も居ない、誰もついて来ない。当たり前だった筈のそれをいやにさびしく思った瞬間、やたら眩しい何かが割り込んできた。ランガだ。わざわざこちらの前を行くとは良い度胸──と前の自分なら思っていただろうが生憎何も感じない。無視して一人のスケートを続けていると、
    「……ふー……」
     ランガは深呼吸すると同時にひとつトリックを決めた。なかなか難易度の高い技だが本番で使っているところは初めて見た、今日の為に練習しているところは山ほど見たが。まあ悪くない精度だ、練習時と比べて明らかに成長している――だがそれ迄だ。ランガ本人に思う事は何も無い。
    「無駄だよ」
    「……」
     その後いくら放置しても挑発行為をやめないものだから、いい加減声を掛けてしまった。
    「僕とスケートがしたいようだが不可能だ、諦めてくれ」
    「何で?」
    「埋めたから」
    「そう」
     まったく分かっていないだろう無表情で頷くと「どうすればいい」とランガは尋ねてくる。どうしようもない。全てはもう終わった、だが。
    「……新しい感情を君が僕へ与えたなら、あるいは」
    「感情ってどんなの」
    「何でも良い」
     どうせ出来ないのだからとまでは言ってやらない。だが正の感情も負の感情もわく余地のない人間がなにをしようと感情が生まれる事はないだろう。だから不可能だと言ったのだ。
    「驚くのは?」
    「まあ有りだろうが……僕はずっと君を見ていた。だから君が何をしようと驚かない」
    「分かった」
     言うなりランガは
    「じゃあ」
     身を突然跳ねさせ
    「今日にする」
     ――崖から飛び降りた。 
     
     もう一人が消え世界が少しだけ静かになる。そのなかで、やはり自分の心は凪いでいた。落ちるふりで動揺を誘おうとしたのか、それとも怪我でもすれば自分が反応すると思ったのかは分からないが馬鹿な真似には違いない。ごくごく僅かな嘲りを与えたかったのなら成功だが、まさか。一応安否くらいは確認してやろう。 
     崖下をのぞき。
    「――――」
     瞬間、どこかでガラガラドカンと雷が鳴った。 
     ランガは崖を滑っていた。それは確かに覚えがある。だがあの時のあれこれは状況が生んだ奇跡の筈、いやそうではなかったのか。どちらでも良い。今肝心なのはランガが滑り降りた先だ。 
     あまりに遠くて見えづらいがあれは間違いなく、最短コース。
    「――やられた!」
     何故気付かなかったのか。その理由もやはり彼に対する感情を何一つ抱けなくなっていたからに違いない。期待─そう、期待だ。次に何を見せてくれるのかとワクワクすることさえ忘れていた。これでは駄目だ。これでは勝てない。
     それは、嫌だ。
     気が付くと全力で追いかけていた。歯を食いしばり、全身の力を振り絞る。いつの間にかそう出来るようになっている事も理解せずにただひたすら前に居るだろう背中を求めた。 
     心の中で雷鳴が聞こえる。何百もの稲光が地面を揺らす。 
     そうしていつか、彼を見つけたそのとき。
    「ランガくん!」
     天地を二分する大雷が問答無用で心を叩き割った。
    「愛抱夢、良かった。来てくれた」
     そりゃ来るさ。何だあれは。いつから考えていた。 
     聞きたいのに声が出ないのは感情が無いからではなくあまりにも有り過ぎるからだ。地面が割れたら当然穴なんて意味をなさない。あらゆるランガ宛の感情は今再び解き放たれた。 
     ゾンビが来る。自分の心を染めるため動く死体が襲ってくる。 
     だがそれで良い。何度だって殺すから、何度でも甦って来い。彼の手で息を吹き返せ。それを幸福と自分達が思う限り、きっと悲しい結末だけで終わるなんて事は無い。観る者が飽きるまで何百作でも作ってやろう。それがお前たち哀れで愛しいゾンビどもを作った自分の責任だと思うから、だからせいぜいこちらの脳みそを腐らせて、愛の言葉の一つでも叫ばせろ。
    「……ねえ、君!」
     やっぱり僕の事好きなんじゃないのかと聞けば「少し」と返ってきた。どういう意味だ。絶対知りたい。勝って聞かせてもらうとしよう。 
     滑る。滑る。一瞬何かを脳がとらえた時偶然二人の目が合った。少しだけ形を変えたランガの唇を笑っているのだと理解した心の中に、ゾンビの素がまた一人。
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