愚者の観念 異様に狭く電波は繋がらずマトモな家具がベッドしかない部屋に少年と二人。顔を見合わせ少しだけ肩を落とす。最早溜め息さえ吐く気にならない。
「また?」
「そのようだ。まったく、飽きないものだね」
こちらはとうに飽きているのだが。この突如出現しては何やかんや自分達を閉じ込める現代怪異ときたら幾度こじ開けられようが壁に大穴抜かれようが諦めるつもりは毛頭無いらしい。某高校生を想起させるその根性だけで憎たらしいのに、
「安心していいよランガくん、こんな事もあろうかと準備は万端だ。すぐに出してあげる」
「えっ」
「……そうではない。大丈夫だから。そういう準備では無いからあまり距離を置かないでくれ。何かあった時君を守れない」
それに輪を掛け許せないのがこの部屋が出してくる「条件」だ。あの手この手で切り抜ける毎に注意書きこそ増やすものの特段条件自体を変更しないのからは絶対に自分達に"させる"という強い気概を感じる。だからこそこちらとしても絶対にするつもりは無かった。
「いつも言っているだろう?君にそんな真似は出来ないよ」
「あ、うん。ごめん」
「気にしないで」
香りなどの猪口才な演出達を止めながら、君が謝る事など何もないのだと口のなかで繰り返す。一瞬ランガの頭をよぎっただろう光景を実のところ自分は心より望んでいるのだから。だがそれを知られる事だけは回避しなければ。知ってしまったランガ、まだ色々と未熟な彼へ「とてもしたいけど絶対にしない」が通じるかどうかは正直怪しい。毎度脱出のため創意工夫を凝らす自分に若干負い目を感じているらしい少年がパッと一回してしまえば良いのではと提案しようものならもう終わる。理性とか。自己制御とか、遵法精神とか。自分と彼をこんな部屋にあんな解放条件で閉じ込めるなら二人の関係がとても繊細なバランスの上に成り立っているという事が何故理解出来ない。今度という今度は堪忍袋の尾が切れたここを出たら絶対に部屋自体を破壊、いや解体してやる――気合いと共に動物の交尾映像熱源タンバリンの三点セットを取り出し判定機器のあるだろうベッド付近へ向かいかけ、しかし気づく。
「愛抱夢」
「ああ……分かっている」
こちらを呼ぶランガの視線も、全く同じ場所へ注がれていたに違いなかった。
開かない扉の少し上いつも通り掲示された「条件」。その字が違っている。
――愛し合わないと出られない部屋――
無茶を言うな。
「愛抱夢!?」
「大丈夫大丈夫。悪いがもうしばらく待っていてもらえる?何とか破壊するから……」
「いや無理だろ」
力の限り扉へ叩きつけていた拳に少年の手が被さる。彼の肌に傷を付ける訳にはいかない。何とか寸前で止めれば思いの外真剣になっていたらしく全身にどっと血が通い出した。肩を上下させつつ何とか声を吐き出す。
「……すまない……驚かせたかな……」
「まあ、うん。でも俺よりあなただと思う」
拳をさらりと撫でたランガは少し顔を上げ目線をこちらへ向けた。おそらく年齢に応じて態度を変える事に慣れていないのだろう。友人へするように。子供へ訴えるように。目を合わせ両の手で拳を握りながら少年が告げた言葉は素朴で、しかし心へ嘘のように染みた。
「駄目だよ。痛いだろ」
こうして何か、どうにも捉えにくい温かさに触れる度より強く実感する。
「……優しいなあ、きみ」
痛いよ。そう言えたならどれ程心は軽くなることか。君が現れてから痛くなくなって、君を知ってしまってからずっと痛いままなのだと――この胸の内を明かせてしまえたら。けれどそんな事をして困らせ最悪共に滑れなくなってしまえば痛みでは済まないから、やはり言えそうにはなかった。
「だけど僕は平気。問題なし。鍛えているからね」
まだ不安げな顔に見えないだろうが片目を閉じ、場違いな程明るく声を発する。
「それよりここから出る方法だ、一から考え直さなきゃ」
無事気を取られてくれたようだ。今の問答など忘れたようにランガは目を閉じた。安堵しつつこちらも考える、ふりをする。先程はあまりに気が動転していたのでつい暴力で解決しようとしてしまったが冷静になればこんなもの。逆に簡単かもしれない。
「……そうだ、閃いた。これが良い」
わざとらしく打った手にランガが目を開く。ターコイズブルーから覗く期待に心をくすぐられつつ声を発した。部屋全体へよく響くように。
「ランガくん。君は愛とは何を指すのだと思う?」
「何……好き、みたいな。父さんと母さんとかの」
「では君の御両親が君へ注いだのは?愛ではない?」
「ううん。それも愛だ」
すぐさま言い切れる精神は自分には無いものだなと感心しつつ頷く。
「その通り。愛とは性愛……相手の性的魅力に由来する愛だけではない。誰の目にも明らかなものから本人すら気づけない程些細な、欠片のような愛まで。そのどれもが確かに"愛"、だからね」
部屋が僅かに軋み出した。どうやら気づいたらしいが解放条件を途中で変えられはしない事はとうに把握済みだ。
「新たに生み出す必要は無いんだよ。僕らは気づくだけ、欠片の存在を認識するだけで良い」
こちらを自主的に行為へ及ばせるためわざとそうしたであろう曖昧な命令を逆手に取らせてもらった。次はもう少し考えてから作るがいい。もっとも次があるかは知らないが。
つまりどうするんだと問いたげな視線から離れベッドへ。言葉を区切ってしばし待てばこちらの不可解な行動にランガが露骨に戸惑いを見せる。表情は写真におさめたい程、一秒でも引き伸ばしたくなってしまう程愛らしく、おかげでマットレスを叩く手すらこんなにものろい。
「と、いうわけだから。さあランガくん」
お喋りしようか。言えば簡単にすぐ隣が埋まった。
「何を話す?」
率直な質問へそうだねえと回答を悩むふりで見上げてくる視線から目を逸らす。騙すつもりは無いが目的ひとつ提示されただけで先程まで距離を取っていたベッドへあっさり乗ってくるなど大丈夫なのか。これだから彼へ自分の得意分野で攻めるのを躊躇ってしまう。言葉は効かなくとも問題だが効きすぎるのもまた問題なのだから。
「君の話にしよう。君が覚えている、君と僕の話」
話せそうか尋ねれば首は縦に。何も覚えていないと言われたらこの時点で作戦失敗だった。幸先が良い。
「良いけど。どうして?」
「君が僕へどんな感情を向けていたか知りたいんだ。想いは本人には見えにくい。探すにしても手助けは必要だろう?その点僕は役に立つ男だよ」
「そっか……でもそれ、俺だけするの?」
「ああ愛?勿論僕からも必須だが……しかしその必要はないかな」
「何で?」
決まっている。自分は既になかなかのサイズ感と重みのあるそれを自覚し彼へ向け続けているからだ。言わないが。
「僕は皆を愛しているし愛せるからだよ。同じように君の事だって愛しているし、気付いた君をすぐさま愛せる」
「へえ」
吐息のような相づちでは彼が納得出来たのか分からないがわざわざ確認するのもおかしいだろう。
「俺が覚えてる、俺と愛抱夢。か……」
「何でも良いよ。言ってみて」
期待をしていないと言えば嘘になる。けれど本当に何でも良かった。真実愛でも掠ってすらいなくとも。小さな感情ひとつ貰えたなら自分はそれを丁寧に飾り付けこれこそ愛だ扉を開けと押し切り、彼をここから連れ出せるだろう。それ以外今大切なことなど。
「……ん、ん」
唸り声が聞こえれば何故か下からゆるく衝撃。
思考に没頭しているのかまた目を閉じ、そして背をベッドに倒しランガは唸った。天井へ伸ばした手をすっすと揺らしているのは何の意味が。分からない。彼の事だけはどうにも。
助け船でも出してやるべきかと思ったその時、触れたくなるほど大きく睫毛が震えほんのりと目蓋が開かれた。わかった、と混じりの無い声が広がる。
「背中」
背中。
背中とは身体の部位の、あの背中か。いや他である訳もないだろうがしかし意外だ。話す際は目を合わせられるよう対面ばかりだし時折偶然会ったついでにデートする時も後部座席に並ぶから真横。今だって隣に居る。それなのに背中。
「……変?」
「ああ……いいや、変ではないよ。ただ気にはなる。どうして背中なの?」
「沢山見た」
起きてくる身に合わせ腕は天井から前へと。その間もランガの視線はそのまま伸ばされた腕の先に固定されていた。いつの間にか瞳が変わっている。冷たく伏せられたそれから光走る透明へ。ごく僅かに輝きが足りていないのは仕方ない事だ。ここには風が無い。
「あなたの背中はすぐそこで、届きそうなのに難しい。少しの距離をどうすれば縮められるか俺には分からなくて。遠ざかられると焦ったり、嫌な感じにドキドキしたり、して」
「……それだけ聞くとあまり見たい物ではなさそうだけど」
「うん」
指先が動く、何かを掴もうとするかのように。
「でも見なかったら消える気がしたんだ。だからずっと見てた」
「消える。ふふ、僕が?皆の前から一瞬にして姿を消すと?」
「そうじゃなくて……なんだろう。どっちかって言うと、俺の前かも」
言ってランガは唐突に手を下ろした。手の甲へ、ひたりと人間の温度が触れる。
「まあ届いたからいいか」
こちらがはぐらかそうとしていた事もその口から出た言葉で絶句しかけた事にも気づかずに淡々と話す彼へ何と返すべきだろうか。迷う暇は与えられなかったようだ。見上げてくる目は既に元の不思議と心地好い冷たさを取り戻していた。
「どう?愛抱夢。これって愛?」
返答が喉の奥で詰まる。何を言われても肯定するつもりだった。けれど彼の言葉を聞いてからどうもその気は失せていて、ああこれはいけない。それが愛かどうか真剣に悩みたくなっている。
「どうだろう。ランガくんはどちらだと思う?」
「さあ」
「さあって……」
拍子抜けして笑おうと思ったのに、それもまた出来そうになかった。答えを求める子供と目が合ってしまったから。
「教えて」
「……背中と言ったね。君の中の僕は後ろでも横でも無く君の前で、君へ背中を向けているんだ。何故?」
はぐらかされたと思ったのかランガは少し不満そうに、または困ったように眉を動かし、それでも素直に口を開き。
「だって横とか前とか……見る?」
今度こそ笑ってしまった。
確かにそう、その通りだ。前と比べれば横も後ろも全く見ない。そんな事をすれば遅くなる。勝てなくなる。
首に埋まる不満に寄った顔。あの中には自分達を繋ぐよすがなど一つしか存在しないのだろう。つまらない日常ではなくあの喉を痛め付ける空気を駆け抜ける瞬間だけしか。
「すまない」
すぐそこに背中があれば追い付きたくなり、追い越せば忘れ、けれどまた目の前に現れるから思い出し、そうして再び身を急かす。
先程の言葉の意味をようやく理解出来たかもしれない。見なければ消える。だから見る。それはつまり、このまま逃がしてなるものか、だ。
甘くも美しくもない自分本意な激情。しかし。
「断言出来るよ。君のそれは、それこそが僕らの愛だ」
「……そう。良かった」
扉が物々しい音をたててそれはもうゆっくりと開き始めた。往生際が悪いと思いつつさっさとしろと尻を蹴飛ばす気にはならない。噛み締める時間が欲しいのも本音だ。
嘘を吐かずともあった。彼はともかく自分にとっては間違いなく尊い愛が、ささやかなどと呼べない量彼の内にあったのだ。
ここまで良いものを貰えると想定していなかったせいで若干心がゆるんでいた。だからまあ、触れられても気付けなかったのだろう。
力強く腕を引く手があった。
抵抗も忘れ立ち上がった自分を先に立っていた少年は扉へと連れていきつつ背から声を発する。あのさ。
「さっき僕らって言ってた。愛抱夢も俺みたいに思うの」
やはり心はゆるみきっていて、思うよと考えもせず告げていた。
「君の背は、あまり見たことが無いけど……それでも目の前にあればきっと追ってしまうだろうな」
まだ人一人通れない扉の前に二人立ったランガが「そうなんだ」と呟く。
横顔を見た。抱くものを心へ行き渡らせるように一度深く閉じられたまぶたを。そしてまぶたが開き。顔がこちらへ向けられ横顔ではなくなり、合わせられた瞳が強く輝くのも。
「愛抱夢」
名前を呼ぶ唇の動き。
うっすら作られた笑顔らしき表情も。
「なんでだろう。俺今すっごく、あなたと滑りたい」
扉の開き具合はまだ一人出入りできるかどうかで、しかも自分の方が近いので彼はまだしばらく出られない。だがあと数分もしないうちにその身体は扉の向こうへ。そして自分と滑り終える頃にはこの部屋の事も自身が告げた言葉も忘れる。自分の愛が何であったかなど彼は気にしないから、自分達は今まで通り何も変わらずに仲間あるいは対戦相手として付き合っていくのだろう。この先も自分はこのまま。小さな愛に喜び稀に与えられる情を慈しんで、それだけで。
どうしてこんな事を考えているのか、どうして僕もだとすぐ言えなかったのか。分からないことばかりだ。
それなのに選ぶのか。この愛だけで満足出来る筈だ。苦しめたくないと言った。あれは嘘だったか。
違う。全部本当だった。本心だった。
それでも、これが欲しい。
「ランガくん」
呼び止めた声は震えていた。実際に彼の耳がどう捉えたかは定かでないが自分は震えていると疑わなかった。
言いたかった、言えなかった、どうすることも出来ず封じ込めていた言葉が胸の奥から姿を現す。伝えなければ。今、今。居なくなってしまう前に。
ああ。扉が開く。
「――僕は、君のことが」