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    20220226 自カプ・本編分岐終暗哀行き止まりエンド 暴力と性の匂わせ 幸せだね でもこれからずっと不幸だね
    (ゆめ)(ゆめ)です こういうのは恥ずかしいくらいコテコテの方がいい!多分!!

    ##暗い
    ##全年齢

    幻想の終わりに終わらない悪夢を 探していた。ひたすらに。
     走って、止まって、見回して。見つからなかったらまた走る。ビーフ終わりの身体にはまだ少し疲れが残っていたけれど、そんなことは関係なかった。気を付けなきゃいけないのは壊れたボードを落とさないことだけ。大事なのは、見つける。それだけ。あとはどうだって、嫌な音がどこからか響いてきても、周囲が急に静かになったとしても、他の事だって全部、何ひとつ気にしなくてよかった筈で。
     でも。
    『――スノー!』
     呼ばれた。
     思ったなら足を止めていた。
     そうする必要は多分無かった。声はモニターから響いていた。自分が聞こうが聞くまいが話は続いていただろう。
     だけど呼ばれたのは自分だったから――動かないで、どこへも行かず、いつか聞いた声へただ向き合った。
    『君は』
     言葉は何て続いたのだったか。
    「どうしたの? 眠ってしまったわけじゃあ無いだろう」
     もう少し注意深く聞くべきだった。聞いて、覚えていたなら。
    「目を開けて。そうだ。僕を見て。話をしよう。君にならそれを許すよ」
     この人の考えていることが今よりかは分かったかもしれない。
    「さて――いらっしゃい、ランガくん……偶然だね?」
     偶然。帰り際キャップマンに呼び止められたのも、誘導された先で停まっていた車も、近づいた途端中に引きずり込まれたことも。引きずり込んだ本人がここまで言い切るのならもしかするとすべて本当に偶然だったのだろうか。そんな信じにくい話さえ何だか信じたくなってしまうような不思議な説得力がこの男――愛抱夢の態度と言葉にはあった。
    「偶然だとしても君が僕の元へ来てくれたんだ。歓迎しよう。とは言えこんな狭苦しい場所ではもてなしひとつ満足に出来やしないのだけど」
     自身の言葉を笑う男の背後、窓の外をけばけばしい看板が流れていく。見覚えがあった。以前にもだし、今夜だけでも何度か。
     暗くて分かりづらいなか確認した様子だと、どうやら自分達を乗せた車はクレイジーロックから少し離れたところを延々と走り続けている――ようだ。おそらく。自信はあまり無かった。急に動くのを止めたせいか車内に来てからやけに眠くて、男にも指摘されたように時々まぶたが勝手に閉じてしまう。あの看板に見覚えはあってもその前を車が何度通り過ぎたか正確に答えられる気はしない。
    「そんな顔をしないで。もどかしいのは僕も同じだ。予定ではもう少々早く……」
     言葉を途中で止め唇をにんまりと動かしたかと思うと愛抱夢はこちらの顔すぐ前にスマホをかざした。映っていたのは人もまばらなS。ステージに見えるのはセットの残りだろうか。
    「粗方行ったらしい。残りも追い出せば二人きりになる……君と、僕の」
     突如落下させたスマホを咄嗟に抱えたこちらの手ごと愛抱夢の手が掴み引き上げる。つられた身体がそちらへと。顔が突き出たせいで彼の影に隠れていたボードがよく見えた。ここまで近付いたのはあれ以来だ。否応なしに思い出す、あの夜のビーフを。
    「前哨戦しようか」
     甲を這いまわる指、それ以上の感覚が耳のすぐそばから。
    「ギャラリーを大いに沸かせてくれた君へご褒美をあげなければとは思っていたんだ。生憎君のは先程壊れてしまったようだが似た物で良ければ用意させるし二人練習用で揃えても構わない。どうする?」
     声からはやはり抗い難い魅力のようなものを感じた。だから、やめておくと一言告げるだけでも多少時間が必要だった。
    「僕と滑らなくていいの?」
    「よくない。でもトーナメントはまだ途中だから」
     スケボーを抱き締めて、今夜のビーフをあらためて振り返る。速く手ごわかった対戦相手の事を。
     殴って目を覚まさせてやりたいと語っていた。その為に勝つと。彼だけではなくきっと皆、何かしら目的があってそれを叶えるためにトーナメントへ出たのだろう。目の前の男だってそうに違いない。なんとなく信じていた。自分もそうだから。
     愛抱夢と滑る。
     それこそ自分がトーナメントに出た理由、ただひとつの目的だった。彼ともう一度あの時のようなビーフがしたい。少なくともエントリーしたいと初めて思った瞬間には確かに願っていた。
     叶えるための挑戦は続いている。自分にとっての最後の一勝負、あるいはスタート地点にこの男と立つまで。
    「愛抱夢とのビーフは勝って手に入れるよ」
    「……ああ。やはり君は良いね。ランガくん」
     仮面越しの目を見据えること数秒。唇の端を舐めた愛抱夢は指を器用に使いこちらの手からスマホを外した。今度こそスマホは落下。シートへ。一方手は離さずに己の頬へと添わす。
    「そうだ、その方がずっと良い……ほんの少しの味見より我慢した分たっぷりと味わう方が……」
     確かめるように擦り付けられる温度は痛むほどに熱く、奪われそうなほど冷たい。
    「しかし折角君を連れて来たんだ。ただ別れるのも味気ないな」
     考える素振りを見せた後に愛抱夢はこちらへもう一方の手も預けるよう求めてきた。言われた通りにすると両手首が一纏めに。続けて何かが目を覆い。
     
     それからしばらくの間、具体的には車の揺れがおさまり視界を覆われたまま運ばれ座らされるまでの記憶は全体的にうっすらとだけある。視覚って大事だ。
     覆いが取られたなら景色は一変していた。座らせられたのが柔らかいソファだった時点でそうかなとも感じていたけれど、やっぱり屋外でも外でもない。部屋だ。どこか知らない部屋に連れて来られたらしい。
     まず目についたのはテーブル。サイズにしてはあれこれと物が乗っている。フルーツ入りのバスケットと細長いケース、皿二枚にティーカップふたつ、そして何故かティーポットもふたつ。他にも端からあげるときりがない量の物を乗せたテーブルを挟んで一人掛けのソファの向こう、奥に見えるのは暖炉だろうか。その他見慣れない家具や飾り、どれもが左側からぼんやりと照らされていた。
     愛抱夢の家か自室だろうか。けどそれにしてはスケート関連のものが見付からない。天井は高く広々とした室内もスケートが出来るほどではないし、もし誘われたとしても気が引けてうまく滑れなそうだ。
    「……ここは?」
     問いかけに背後の愛抱夢が、かご、と。
    「かご?」
     写真のように整った部屋にはいまいち合わない言葉だった。唯一相応しそうな果物入りのバスケットへ目を向ければ、肩口からぬっと現れた手に顎を掴まれる。
    「そちらではなくて。見るなら、こっち」
     言葉と共に手は強引に顔を左、光の方へ。数度の瞬きで焦点が合ったなら自然と目に力を入れていた。
     光の正体は窓全体に浮かぶ光景。煤けた地面。無節操に生える木々。どれも見たことがある。まだ出会って数か月だとしても決して間違えたりしない。
    「クレイジーロック……」
     あの地が窓を隔ててすぐそこに存在しているのかと一瞬錯覚して、しかしすぐにそうではなく録画映像か何かを流しているのだと気付いた。窓の中のクレイジーロックは次々変わっていく。様々なアングルそして時間を切り取った映像はリアルタイムでは有り得ない。それに映像の多くに映っているプレーヤー――自分は今、ここに居る。
    「ようこそランガくん。ここは鳥籠。君達が羽ばたく様を見守る、僕だけの王国だ」
     声が離れると同時に鈍い足音があちこちで響き始めた。振り返れば視界の端去って行く大きく開いた脚。室内を跳ね回る動きは大胆かつ軽やか彼のスケートに似てトリッキーで、座っていては目で追うのもままならない。
    「本来は僕一人しか居られないんだよ、特別な場所だからね。だが今夜の君には相応しい……というよりこれくらいしてあげなくちゃ僕の気が済まない」
     愛抱夢はいつの間にか両手にふたつのティーポットを持っていた。その内よく分からないものが入った方へ湯気立つ方を彼が傾けると途端よく分からないものたちがふわりと浮かび上がり、流れ込んだお湯だろう液体をじわじわと目の覚めるような青色に染めていく。
    「わあ……」
     思わずこぼした声に笑みで返すと向かいのソファへ掛けた愛抱夢はテーブル、置かれた二つのカップへすっかり青くなった液体を注ぎ、うち明らか量の少ない方をこちらへと差し出した。
    「どうぞ。安心して、愛しか入れてないから」
    「……いただきます」
     少しだけ傾けたカップからふわっと香る甘さ。警戒心を解いた手が喉へ送り込んだ中身はただただ甘いばかりだった。不味くない、どころか飲みやすい。
    「聞いていた通り君好みに甘くしてみたんだ。気に入ったかい?」
    「うん。おいしい」
    「そう。ならもっとおあがり。お腹は空いている? 生憎この時間だ、こんな物しかないけれど君が良ければ幾つか剥こうか」
     果物籠の中からひとつとその横のケースを愛抱夢が取る。ケースの半分がすとんと落ち覗いたのは銀色。ナイフ、おそらく果物用の小さなそれを愛抱夢は玩具でも扱うように宙へ飛ばしては掴み、君が良ければと言っていたのに結局こちらの返事を待たず手元の果物を剥き始めてしまった。果物たちがすぱすぱと簡単に切り分けられていく。あんなに小さいのに切れ味はちゃんとしているらしい。
     それぞれが隠れないよう果物を皿に配置し終えたなら、パーティーを始めよう、と舞台上で宣言するときのように愛抱夢は声をあげた。
    「今夜一晩君は国賓だ。行儀よくしてくれればこちらも丁重にもてなそう。どうか僕等にとって今宵が夢のようなひと時でありますように」
    「あの、俺」
    「心配しなくとも朝になったら帰してあげる。夜通し出歩くなんて珍しくも無いだろう?」
    「そうでもないけど……それに、愛抱夢はいいの?」
    「いいよ。むしろ嬉しいくらいだ。君への労い、あるいは前祝いを僕が独り占めなんて。スノー」
     S外では呼ばれない筈の名が耳をくすぐる。
    「改めて本選進出おめでとう。そしてジョーとのビーフ……自ら勝利への道を切り開き皆の予想を覆す君の姿は実にラブリーだった」
    「あ、ありがとう……愛抱夢もおめでとう」
    「こちらこそ。これで僕等はまた一歩互いの願いへ近づいた。喜ばしいね」
     言葉とは裏腹珍しく薄笑いさえ浮かべていない愛抱夢から感想を求められ思わず目を逸らした。ジョーとのビーフ後はS内を主に走り回っていたので愛抱夢達のビーフは殆ど見ていない。知っているのは勝敗とチェリーが病院へ運ばれた事程度。再度問われ正直に答えれば「なら見せてあげようか。待っていて」と愛抱夢が立ち上がった。果物をつまみながら待つこと数分。横から浴びせられる光の変化を感じ振り向けば映されていた映像、これもやはり録画なのだろう。何故ならチェリーと滑っているプレーヤー、彼は窓の前に立ち微笑む男と同一人物にしか見えない。
     ビーフだ。おそらくは先程自分が見ていなかった一戦。
     フォークを置き身体を向けたのも束の間、映像を見るほどに身体がソファから浮いていき、気が付いたらしい愛抱夢に手招きされるまま隣へと進む。
     久しぶりに異常なく動いている心で二人の繰り広げる勝負を楽しむ中ある瞬間プレーヤー達が一層盛り上がっていたのをふと思い出した。あの歓声はおそらく今、チェリーが愛抱夢の攻撃を躱した時のものだろう。納得だ。
     それにしてもこの完璧にも見える滑りに愛抱夢は一体どうやって勝ったのか。そしてもうすぐ廃工場の筈だけど、確かあの時モニターに映っていたのは――。
     疑問を抱いた瞬間。映像の中の愛抱夢が動いた。
     一瞬で決した勝敗に、そんなふうに使うのまでありなのか、と呆然と思う。これでは勝負というよりも。
     ああだけど。そこに対戦相手の油断を見たなら、迷いなく選ぶだろう。Sはそういう場所。ビーフはそういうもの。この人は。
    「ふふ。実際が退屈なら映像もやはり退屈。見られたものじゃないね」
     そういう人だ。
    「そんなことない。楽しかったよ。廃工場で二人がどう滑るかも見てみたかったから、ちょっと残念なくらい」
    「僕も残念だ。もう少し心沸き立つようなビーフになるかと思っていたのに蓋を開ければひたすらつまらないだけだった。僕から幕を引いてやろうが結局変わらなかったな」
    「……すごいビーフに見えたけど」
    「技巧だけならね。だが全くもって愛は足りていなかった。皆にも伝わったのだろう。証拠に今夜は君達のビーフの終盤が最も盛り上がっていたようだったし……」
    「そうだった?」
    「まあ良いさ、分かり切っていた事だ。あれらでは僕を満たせない。僕を満たすものはひとりだけ」
     倒れたチェリーから体を反転させ画面内の愛抱夢はどこかへと話しかけている。腕を上げ手を差し伸べる、一連の動作を知っていた。
     頭の中へふっと声が響く。
    『だって君は――僕が見つけた、イブなんだから』
    「……イブ」
     溢れるままこぼした言葉を横の愛抱夢が掬い「もしかして聞いていたのかい?」と嬉しげな声で尋ねた。
    「ここだけ見た」
    「ああ、なら良かった! 対象はS内の全員だったとはいえ一番届いて欲しい相手に届かなかったらサプライズの意味も半減してしまう。見ていないと言われた時にはどうしようかと思ったよ。僕を弄ぶなんてランガくんは悪い子だね」
    「弄んではいない。ビーフは見られてなかったから」
    「どうせ余興だ、見なくていい。君にはその内比べ物にならないくらい素敵な世界を見せてあげる」
     喜びも露わに絨毯を踏みつけ愛抱夢は踊る。不規則に身を揺らしながら回る動きは先程窓の中で見せていたものとよく似ていた。嬉しい時も誰かへ力をぶつける前もこの男は同じように踊るらしい。
     あるいは同じことなのかもしれない。踊りではなく、愛抱夢にとっては今この状況が。
    「直接伝えた方が喜ぶかとも考えたんだけど僕としてはこのあたりで皆へ宣言しておきたくて。当たり前の事だろうと、いやだからこそ全員にちゃんと理解して欲しかったんだ。僕等が選ばれたアダムとイブだって」
    「……それなんだけど愛抱夢、どういう意味?」
    「……どういう?」
     繰り返される言葉は平坦だった。まるで愛抱夢にはこちらの困惑が一切理解出来ないかのように。
     違和感を覚えながら改めて尋ねた、その答えは丁寧だった。けれど全て知らない言語で話されたかのように自分には彼の言葉の一切がうまく理解出来なかった。
     イブ。愛抱夢の対になる存在。共にスケートをするためだけに現れる、彼のただ一人の運命。
    「それが……俺?」
    「ああ。君だ」
     言葉を咀嚼する間に距離を縮められていたらしい。気づけばあまりに近くに愛抱夢が居た。
     思わず引いた片足の代わりのように片手をぐいと取られ、対応しきれず爪先を滑らせる。そのまま崩れ落ちることはいつの間に腰へ回されていた腕に支えられ避けたけれど、反らされた背に不安定なままの足ではまったく落ち着けない。しかしこちらが体勢を戻そうと身体を動かそうがもういいからと声をかけようが愛抱夢はびくともせず譫言のようにつぶやき続けていた。呼んでいた。おそらくは彼の『イブ』を。
    「楽しみだよランガくん……ようやく僕は君と出会える……」
     吐いた息が顔にかかり感じたことの無い震えが身体を走る。
     あの夜最も近づいたとき以上の近さ。仮面の奥ちかりと光が見えた。この夜車窓から見たどれより目に痛く、毒々しく、そして視線を外せなくなりそうな。
     怖くなった。
     この目は自分を見ているけれど見ていない。直感でしかないけれど、おそらくこの瞬間も別のなにかを見ている。
     今はそれを理解出来ている。けれどこれほどの熱量で見つめ続けられたなら。言い切れるのか。どこかで『そう』だと勘違いしてしまわないと。
     たとえばこのままこの視線にさらされたとして、自分は自分を保っていられるだろうか。
    『そう』ではない自分であれるのだろうか。
    「……君と共に行けるんだ……どこまでも……」
    「っ……、あ、愛抱夢……っ!」
     言葉に染みる何かを微かに捉える直前、凍りかけの喉を無理に動かして彼の名を叫んでいた。
     応じるように一瞬緩んだ手から無理やりに身体を突き放す。逆方向を目指せば当然下半身に軽い衝撃、かつ踵からカーペットの毛足を掻き分ける感触。それらを充分味わってからどうにか立ち上がったこちらに対して愛抱夢は一歩退いただけ。立ち姿は変わらず一つの乱れも無かった。
     離れられたので安心、ということも無くむしろ心臓は速くなるばかり。そうなるくらいには告げようとしている言葉を自分自身危険だと認識しているらしい。
    「俺は……俺が愛抱夢の言うイブだとは思えない」
     うっすら笑われるだけでどうしてこんなにも緊張するのだろう。
    「何故?」
    「全然知らなかった」
    「自覚が無かっただけだよ」
    「そんなにすごいやつじゃない」
    「気付けないものさ、己の魅力なんて」
    「愛抱夢とは一度滑っただけだし」
    「だがその一度で充分理解出来ただろう?」
    「……俺は……」
    「頑なだね。何がランガくんをそうさせるのかな」
     愛抱夢がふいに顔を横へ向けたのにつられて窓を見れば状況がまったく変わっていた。映っているのは愛抱夢と自分。いつごろの映像だろうか。
    「実は君を労うのは今夜で二度目なんだ。一度目はこの時、君の予選後。覚えている?」
    「……あんまり」
    「そうか。まあ分かっていたよ、こんないかにも心ここにあらずというような顔をされては」
     確かに愛抱夢の言う通り彼に手を持たれながら自分はぼんやりと何もないところばかり見ている。
    「覚えてなかったのはごめん。この時はちょっと考え事してて」
    「考え事、それだけ?」
    「……なにが?」
    「いいや。てっきり僕は――彼と関係があるのかと」
     モニターがごく一部だけ別の映像へ切り替わる。出て来たのは自分と――。
    「……!」
     知っていた。あの時はっきりとこの目で見た。どれだけ探しても見つからなかったけど。必ず来ていると信じていた。だって彼はスケートが大好きだから。
    「暦……!」
    「その反応。やはりか」
     暦とすれ違った瞬間映像は停止し、どうしてと尋ねる前に手を掴まれ窓から離される。
     やや強引にこちらをソファへ座らせたなら愛抱夢はその右隣へ。そして願った。僕は質問に答えた。次は君の番だ、君と君の友人について話して欲しい――そんな風に。特に断る理由も無かった。
    「……だからこの時、暦を見て思い出せたんだ。ここの動かし方を」
     話している間愛抱夢は不思議な程静かだった。相槌さえ無かったけれど急かすことも無く、時々俯くように頷くだけで留めて。ただじっとこちらの話を聞いていた。そうされたおかげか、ゆっくりと話すなか様々な気付きと出会った。
    「あそこで暦と会えなかったらきっとジョーには勝てなかった。ううん、勝てないだけじゃない。たぶん俺は大切なことも忘れたままだった」
     そこに居てくれる。それだけで自分を元通りにしてくれる一人とどうなりたいか。考えるまでもない。
    「また一緒に滑りたいな。だって暦とのスケートは特別なんだ。わくわくして、熱くなれて」
     ああそうか。愛抱夢のイブでは無いと感じる理由のひとつが今分かった。彼とだけ滑りたいとは思えないからだ。今自分が一番滑りたい相手は――。
    「俺が楽しいと思うスケートは……」
     あの笑顔を思い出して息を吸い、名を呼ぼうとした瞬間。そっと口元を押さえ付ける指があった。
    「そこまでにしておこう。僕から願ったのに途中で止めさせられるなんて納得はできないかもしれないけれど。素直に従って欲しいな」
     頷きに指が口から離れていく。話が長かったかと訊けば彼は否定し。
    「ただ――聞いちゃあいられなかった」
     押されたのだと気付く頃には肘掛に肩が当たっていた。
     即もう片方の肩も掴まれ背は完全に肘掛へ、ソファに乗せられた脚は上から両膝が。一瞬だった。たった一瞬で自分は自らの意志で起き上がれなくなっていた。
    「愛抱夢……?」
    「知らなかったよ、ランガくん。君ってかわいいんだね。こんなに弱くて、間違いだらけで」
     肩から下りてきた手に胸を冷やされていく一方で血は流れを速めるようだ。
     かわいい、かわいいと何度も落ちてくる言葉の群れ。触れる度肌がぴりぴりと痛む。
    「でも間違っちゃいけないなあ……君はイブになるんだよ。僕以外の大事な存在など、ましてプレーヤーなんて居たら駄目だろう?」
    「だからそれは愛抱夢の誤解で」
    「誤解なものか!」
     至近距離叩きつけられた叫びに喉が詰まる。
    「君がイブだ。どこに居ても求めていた。必ず居る筈なのに見付けられなかった。探して、探して……」
     明らか途中で言葉を切ると堪えるように愛抱夢は唇を噛み締めた。どくん、と心臓が鳴る。知っている。探して、探して、その先は――けれど何処にも居ない。だ。
    「……いいや。いいや、いいや。君は居た。僕は見付けたんだ……それなのに」
     胸を擦る手つきは繊細なのに優しいとは形容できない、まるでその下にある筈の何かを探しているような――。
    「やっと現れたと思ったら僕と離れている間に雑魚共と慣れ合うのに夢中になっていたなんて。悲しくて、情けなくて、やりきれない。早く修正しなきゃ」
    「なに言って――っ……!?」
     皮と胸骨、その奥を抉るように指が押し込まれる。ぎりぎりと胸へ掛かる強烈な圧迫感と知らない類の痛み。そんな筈無いのに突き破られると思い込んだ瞬間、かち、と何かが鳴った。自分の歯だった。
    「痛い?」
     喉の奥で縮こまっていた舌をなんとか動かして、いたい、と返す。すると愛抱夢は笑った。ほっと安堵するように。
    「良かった」
     幼ささえ感じる表情は背筋を寒くさせほとんど反射のように手を動かさせた。強く当てる気は無かった、けど離れなければと焦ってはいたから。手元が狂って。
     肩口を押す筈が、手が触れたのは首近く。そして爪先に薄く肌を掻く感触。
    「…………」
    「……あ……」
     胸から離れた指が輪郭を擦れば白い線はたちまち消えた。けれど薄く残った赤みまでは消えない。何故か濃くなった笑みだって。
    「……へえ……こういうのが好みなんだ。まだまだ僕等知らないことばかりだね。それじゃあ……」
     動かせないでいた手をぱしりと取ると愛抱夢は突如姿勢を変え始めた。じんじんとまだ痛む胸に加え体の上の両膝がしきりに動くせいで下腹から腿まで不規則に圧迫され呻くことしか出来ない。何をしているのだろう。思えば、男の腕がテーブルへ伸びていることに気づき、予感に息を止める。
     膝の動きが止まり、引かれた腕には光る物。
     ケースは既に外されていた。
    「愛抱夢、なにして、」
    「ねえランガくん。どの程度の痛みなら君は学べそう?」
     ぴたり。場所を確かめるように手へ、寝かせた表面が当てられる。あの切れ味だ。そのまま起こし押すか横に引くかすれば肌なんて呆気なく裂けてしまうだろう。
    「軽いのを沢山? それともざっくり神経まで? ……ああでもそうするとスケートに支障が出てしまうかも。なら沢山だね」
     声に応じて頭の中出来上がっていくイメージ。普通なら有り得ない。けれど有り得ないことだって、目の前の男は――。
    「や、やだ。どっちもいやだ」
    「わがまま言わない。これは君の為なんだよ」
    「どこが……ッひ……!」
     愛抱夢の指がナイフの背に沿う。ほんの少し指の腹に刃が押し込まれたなら、ぐち、と幻聴が耳の奥で聞こえ。
     気付くと叫んでいた。誰か、と。
    「言っただろう? ここは籠だって。君のような可愛らしい小鳥を何処へも行けないよう閉じ込める僕だけの檻なんだ。助けを求めたところで誰も来やしない」
    「誰か、誰か……っ!」
    「叫び声もいいなんてランガくんはたまらないね。軽くのつもりだったけどそんなふうにされては風切羽を切られた君がどんな声で鳴くのか興味が湧いてしまう。ああ、いいなあ……聞いてみたいなあ……」
    「……! …………っ、……ぅ……」
    「おや、もうおしまい? 残念。もっと聞いていたかったのに」
     弄ぶように冷ややかな感触が掌を離れ触れ、繰り返す。その度喉がぐるぐると。
     やがて自分の口からうぅ、とにじんだ声が漏れたとき、愛抱夢は満足げに息を吐き。
    「大丈夫。僕が必ず君を正してあげる」
     痛みはたいしたものでは無かっただろう。薄皮一枚切られただけ。血だってごく僅かで。練習で派手に失敗した時の方が何倍も酷い。
     だというのに。喉から絞り出せたのはひとつ。かすれてかぼそい怯えだけだった。
     脳内にがんがんと鳴る音の合間、諭すように声が響く。
    「さあ思い出して。君は僕のイブ。僕と新たな世界へ行く資格を持つ唯一の存在だ」
     ぐちゃぐちゃになった頭では彼の意志を躱しきれない。けれど染みこんでしまったそれを無抵抗で受け入れることも出来ず浸食される間際逃げ出した。
     だめだ。話をいくら聞いても、むしろ聞けば聞く程自分がそうだとは思えない。内容もだけど、愛抱夢の声が。特別、運命、愛しいきみ――夢見心地のそれに相応しい存在など背伸びしたってなれそうにない。
    「君は縛られている。僕以外の誰もが君を理解しない。受け入れない。裏切り、愛を否定する」
     これだっておかしいと思う。そんなこと無い。傍に居てくれた、出会ってくれた人たち、一緒に滑った仲間が自分には居る。
     愛抱夢が自分の事を知らないのは仕方ない。けれどそうだとしてもあまりに彼の呼ぶ『君』は自分とはかけ離れていた。語られているのは自分についてだろうか。違いそうだ。じゃあイブか。それも違うと思う。なんとなく。けど、なら一体誰か。わからない。だってわからないから。
     この人が何を考えているのかも、何を思っているのかも、自分にはわからない。
     分からないが作りだした迷路の出口は一向に見つからないのに意思との距離は徐々に縮まりつつあった。このまま捕まってしまうのかもしれない。なすすべなく取り込まれるのだ、何一つ理解出来ないまま――そう思っていた。
    「君はどこにもいけない」
     あまりに近づいたせいで覗けてしまった仮面の奥。そこで待っていた彼の目を見るまでは。
    「ひとりなんだ。僕と同じように」
    「ちがう」
     変わらず出口は見つからない。けれど迷路はばらばらに壊れて、口を勝手に動かした。
    「俺はもう一人じゃない」
    「……可哀そうに」
     指先が絡められる。動けないよう固定されたのだとなんとなく分かった。そうしなければならないような行為を男がする気であることも。分かりながら、恐怖も何も後回しにした。見ることだけに意識を集中させる。眼前の光景を一瞬たりとも逃さないように。
    「余程俗世に汚されてしまったらしい。待っていて。今僕が濯いであげる。君が自分を取り戻せるまで、何度でも……」
     遠く聞こえる声は哀れみを、笑う唇は怒りを。そして瞳が表していたのは彼の心、そのすべてだった。
     目を凝らす。どろどろに煮えたぎった激情ときらきら瞬く想いが混ざり合う内、やっぱり存在していたささやかな色。気付いた当初は微かにしか見えなかったけど先程自分が一人ではないと言ってからみるみる広がって今でははっきりと視認できる。
     触れた物全部自分だって凍らせてしまうようなそれとよく似た色を知っていた。冷え切った身体を温めるさなか窓ガラスに映った目のなか、待っているうちに暗くなってしまったスマホの画面に幾度も見た。ただの空白としか感じなかったそれの呼び名はもう分かる。その色は。感情は。
    「――さみしい」
     肌に触れる寸前。ナイフが止まった。
    「さみしいの?」
    「……は」
    「俺が一人じゃないのが、愛抱夢は」
     言う程の続きも無かったけど、言葉を止めたのは自分自身では無かった。
     喉へひたりと添えられた冷たさは先程指を傷付けたものとよく似ている。つい震わせた喉から微かに、けれど確かに伝わる感触。もし叫ぶなど大きく喉を動かせば――。
     想像の中吹き出た血に冷え切った身体は動けず、近づいてくる彼から逃げることも。
    「――ぁ、――――」
     きっと唇は長いこと合わせられていた。している間、苦しくてたまらなかったから。
    「甘いな」
     離れた唇が吐き捨てる。嫌ならしなければ良かったのに。あの青い液体を、果実を勧めたのは彼だ。そうすれば甘いことなど分かっていただろう。それなのに口元を拭いもせず掴んだ腕を離そうともしないどころか男はもう一度確かめるように唇を触れさせさえする。
    「なんで」
    「ああ。僕等にこんな事が必要だとは僕も思わない。だが痛みで分からない子にはこちらの方が効くだろう」
     冷ややかな凶器を喉へ当てたまま愛抱夢は一言噛まないように告げると返事も待たず口づけた。口内へと温いものが侵入してくる。一瞬何をされているのか分からず、分かったならその事実ひとつで視界がぐにゃりと歪んだ。
     逃げかけた舌が捕らわれ思わず身をよじる。はっと怯えて数秒、あれ、と喉奥をゆるませた。動いてしまったのに痛みが来ない。もしかすると当てられているのは背の方なのかも――疑いつつ確かめまでは出来ない。そんなことをする余裕は既に無くされていた。
     息が止まりかけるまで好き勝手まさぐられて、止めたかと思えば少しだけ整った呼吸をあえなく奪われる。ぞわぞわと全身を抜ける寒気となにかこわいような、内側が熱くなるような、境の感覚。こんなもの知らない、けれど知らないだけではこうはならない筈だ。この人が自分にそれを与えようとしない限り。
     身体のあちこちが訳もなく動く。逃げるのではなくもっと何か、どうかしていることのために。
     翻弄され簡単に変えられていく感覚に置いて行かれながら出来たことなんてソファに爪を立てることくらい。
     たぶんこれから頭だけでなく自分の全部ぐちゃぐちゃにされる。けれど全部は侵させない。せめて今見つけたこれだけは。ほんの欠片だとしても、これはきっと手放してはいけないものだ。 
     
     いつからか喉元の冷たさは消えていた。ちかちかと床の一部分が光っている。落としていたらしい。身体も強く掴まれているわけではないし、今なら逃げられるかも。そう思うのだけど、動けない。ぬるい温度に支配された身体は溶けたように何も反応しなくなってしまった。
     ひっきりなしに聞こえるのはおそらく自分の声だろう。曖昧になるのは信じられないのと、出そうと思って出していない、出させられているだけだからだ。
     確かに自分には痛みよりも余程こんな、理解させずに思考を奪ってくる行為の方が効くらしい。
     ソファに預け切っていた背の下に腕が差し込まれる。ゆっくり起こそうとしてくる男の顔はぼやけていたけど何をするつもりかは簡単に分かった。身体は全部、頭の中身も殆ど。散々食い荒らしたのにまだ足りないのか。薄らいでいても一応暗い気持ちを抱く。それなのに背の腕から逃げようとは思えないし撫でられただけで喉から先程のような声が出るのだ。とても手に負えなくて、なんだかおもしろくて、何もかもが耐えられない程苦しかった。
     いいんじゃないだろうか。もう、ぜんぶ。
     爪はもう先端を僅かにソファと触れさせているだけだ。これを諦めるだけで楽になれる。別に悪いことでもないだろう。そうして欲しいなんて誰にも言われていないのだから。
     その手であばいた心臓に男が顔を寄せていく。こうして食われる瞬間を見ることだって本当はもっと早く止めて良かったのだ。
     終わりにしよう。
     思って、首の力を抜いた。かくりと上を向けば広がっていたのは仄暗い世界。歓迎するように腕を拡げた暗がりが自分からこぼれ落ちたものを次々呑みこんでいく。とはいえ大部分は男に食われてしまったから残っているのなんて今夜の記憶くらい、それも断片的なそもそもが他人の物だった言葉だけだ。
     王国。願い。風切羽。ひとり。夢。鳥籠。天井へ落ち破裂する意味を持たない言葉達。眺めても何もないけど眺めているうちは他人事のように思える彼等を追ってほんの少し身を倒す、爪が離れる――。
     あれ。
     天井の上見える窓。にじむそれにまだ映っていた自分ともうひとりを見て、疑問を抱いた瞬間。微かに動いた爪先から何かが駆け上がった。身体を巡り、息を送る。それはきっと最後の最後僅かに残っていた自分自身だった。
    「……変なの」
     言葉らしい言葉を出せたのは随分久しぶりな気がした。
     男もそう感じたのかもしれない。食すのを止め何が変なのかと尋ねてきたので、食い残しの頭を必死に動かして言葉を作る。
    「ここは、かごだって」
     彼が鳥を――多分誰か、人のことだろう――見守る場所。そして閉じ込めるための場所だとも言っていた。
     けれどそれって、おかしくないか。
    「ならどうして愛抱夢はここにいるんだろう」
    「……なに?」
    「ここは内側なのに。なんで……」
     内側に入って。映されて。これではまるで――彼も――。
     気付くと身体を自由に動かせるようになっていた。ソファに手を付いて身を起こせば世界は反転、天井に溜まっていた淀み全てが一気に落ちてくる。落ちきり混ざり合うまで見届けてから生まれたものの形を崩さないようそうっと手で払ったなら。中心に彼が居た。
    「愛抱夢」
     呼びかければ彼は口を開いた。何を言うつもりかは分かっていたけど従えそうにないし、彼にしては随分遅かったので、先に行かせてもらうことにした。
    「愛抱夢はこの部屋に何を、ううん」
    「やめろ」
    「誰を閉じ込めて――――」
     

     抜けるような青空にひとつ真っ白い月が浮かんでいる。気持ちのいい朝だ。
     坂の途中、柱の陰には見慣れた人影が立っていた。つい数日前までは見たくとも見られなかった横顔がこちらに気づき笑う。抱く喜びは、前へ前へと身体を押した。
    「おはよう」
    「はよ」
     返ってくる声がある。当たり前のことがただただ嬉しい。
     ある日粉々に砕けた現実は昨夜、よりぴかぴか輝くようになって戻ってきた。スケートをする理由。自分の望み。そして改めて知った想い。一人ではないからスケートは――。
     一人。
     体が浮く一瞬。ほんの少し近くなった空にはまだ月が見えていた。ぽつんと孤独な白はぐっと手を伸ばしたところで絆創膏付きの指先さえ触れさせてくれない。遠かった。当たり前に。
     分かっているのに落ちながらもう一度手を伸ばしたのは多分自分がそれしかやり方を知らないからだ。
     
     日が落ちても、真っ暗になっても滑り続けて、完璧に満足は出来ないけどまた滑れるなら今日はこれくらいで我慢するか――そんなところまで辿り着けたので別れることにした。暦も同じ気持ちだったのだろう。二人さっぱりと手を振って、けれどいつもと違う帰宅ルートについては当然尋ねられたので寄り道をするのだときちんと説明しておいた。
    「ちょっと確かめたいことがあって。行ってくる」
     気を付けろよ、と言う忠告は素直に受け取っておく。どれだけ気を付けたところでこれから起こるかもしれない事態すべて完璧に対処できるとは思わないけど。心構えは大事だ。
     予定時間ぴったりに男は現れた。一応人が少ない時間帯と場所を選んだけれど足りなかったようだ。いかにも変装っぽい服装で、顔も口元以外殆どを隠して、ここで会おうと約束していなければ彼だと認識することはまず不可能だっただろう。
     近づいたこちらへ放つ挨拶は速く長くおおよそいつも通り。けれどすぐに雰囲気から言葉までがらがらと崩れた。挨拶ついでにこれ返しておいてと前回帰される途中運転手からねじ込まれた封筒を取り出したことは男の気分を著しく損ねたらしい。なにかぶつぶつと聞こえない程の声量で呟いた後に、そこから多分自分宛て、それくらいもらっておけばと男は言った。どうやら受け取らないつもりのようで、しかし自分としてもじゃあもらっておきますともなれない。封筒の中身については正直困ってしかいないのだ。誰にも内緒では家族に渡せないし友達にも見せられない。受け取って良かったことといえば封筒と一緒に渡された連絡先からこうして男を呼び出すのに成功したことただ一つで。
     だから返す、と押し付ければようやく封筒は男の手へ渡った。納得いかなかったのか男は溜息を一度。その後も何度か同じように深く息を吐いた。
     一度目はともかくとして二度三度目それ以降は思わずというふうにも聞こえなかった、たとえばスタート直前息を整えるような。だからこちらも密かに息を整えていた。
     これからはじまる――もし彼がそう思っていたとして、自分だって同じだから。
     第一声は静か。かつ低く冷たかった。
     忘れたのか。
    「ううん。覚えてる」
     そう簡単に忘れられる筈が無い。記憶は途中から曖昧だけど身体には様々痕が残されていた。他人には簡単に隠せても自分は違う。指先の絆創膏を見る度に勝手に思い出すものだからあの悪夢のような一夜は現実としてこの脳内に存在し続けている。
     答えれば男はでは何故自分を呼んだのかと尋ね、それから鼻を鳴らした。金でないなら謝罪が欲しいか、あるいは恨み言でもぶつけるか。一人思いついたのだろう答えを並べ立てる男へただ否定を示した。恨みも無ければ謝ってほしいとも思わない。興味が無いし、それに――言えば否定するかもしれないけれど、彼だって分かっている筈だ。あの日傷付いたのは自分だが彼でもあり。そして傷つけたのも彼であり自分であることを。
     傷付けて傷ついた二人がすることはひとつだけだ。
    「俺と滑って」
     言った瞬間鋭い眼差しが身を貫いた。
     彼との間の空気が張りつめびりびりと肌に伝う。無言の圧に思わず喉を動かし、しかし撤回しようとは思わなかった。
    「ビーフじゃない。Sにも行かない。たとえばここから、あれくらいでも」
     指先で示した場所までの距離は歩くなら少しあるけどボードに乗れば一瞬だろう。それくらいでいいのだと願えば男は渋々といった感じで了承し、何故か身を翻した。場所を変える。言い歩き出す背を追えば車。ドアを閉められる前に自分から乗り込む。恐怖は無かった。
     今度連れて来られた場所は屋外だった。ボウルらしきものがあるけどパークでは無いようだ。グラフィティも無いし接触したら壊してしまいそうな椅子など置かれている。それらに気を付ける事と数分滑ったら終わりである事を告げると男はボードを淵へ着けすぐさまボウルを滑り下りた。淀みない動きが気持ちの良い音を響かせる。しかし男は高揚の片鱗さえ見せず、自分も見ている間もやもやが治まらなかった。
     男が上がるタイミングで下りる。こちらが上がってきたら終了にするつもりか既に男はボードをその腕に抱いていた。見た途端倍増したもやもやを弾き飛ばすように身体を動かす。ラインを描きながら淵へと近付き見えやすいだろう位置で跳び、最も遠い位置で上がったなら背後から先程と比べ物にならないほど気持ち良い音が聞こえた。振り返って今度こそ見る。彼のスケートを。
     先程自分がしたそれより速さを増させるような動きを見せ彼はまた上へ。今度はこちらが。次には。勝負のように、互いに互い以上のものを見せようと動く。少しなんてとっくに過ぎていた。気付いていて、けれど自分からは言いたくないと思っていたのは二人の内のどちらだっただろうか。きっとそれは。
     滑りながら同意を求めるような気持ちで見上げれば、男もこちらを見ていたようだ、結んでいた唇をやがて我慢できないみたく開きニッと歯を見せ――下りてきた。
    「えっ」
     避けられたのは奇跡としか言いようがない。
     代償かへたり込んだ自分の周りを男は滑りながらくすくすと声を漏らし、そして手だけで避けろと示すと強く加速するための動作を取り始めた。こちらがラインを予測して中央ややズレた所に立つや否や見る間にボードは速度を上げ一気に壁を回り上る。先の空目掛けて跳び上がる姿を見つめていた。
     跳んだ勢いで覆っていたものが外れ、こちらを向いた顔、その表情が露わになる瞬間も。
     愛抱夢は笑っていた。いつものともあのおそろしかったのとも違う笑みをその顔に浮かべていた。まるで同い年のだれかがするような清々しい笑顔は見ているだけで胸をくすぐられて落ち着かない気分になるのに、ずっと見ていたい、くすぐられていたいと思う――不思議な笑みだったから、その瞬間気付いてしまったことをほんの少し後悔した。
     ここへ来た時から先に見えていた建物。跳んだ彼の丁度背後に位置していた中央の一室。あの窓。
     丁度外からであればあんな形に見えるだろう。
    「愛抱夢。あの部屋は――」
     自分が気付いたことに気付いた彼はもう笑えなくなってしまっていた。顔を再度覆いもせずただ俯く。肯定も否定も返さない、それもある意味で答えなのだと分かっているだろうに。
    「……やっぱりそうなんだ」
     予想は間違っていなかったようだ。嬉しいとは少しも思えないけど。
    「あそこに居たんだね。あんな小さいところに」
     小さい。言った瞬間男が反応を示した。ちいさい、と刺々しい声で繰り返される。訂正しろと暗に言われているような気もした。
     けれど。
    「小さいよ」
     内に居た頃はあれほど広くて何でもありそうに思えたのに、こうして外から見たらただの部屋でしかない。ちっぽけだ。
    「スケートだって出来ない」
     当然だろうと嗤っていた男は「でも愛抱夢はあの部屋にしか居られないんだろ」と言えば口を動かすのを止めた。
     正確には違うかもしれない。あの部屋と、あの部屋の窓から見える世界――S。そしておそらくはここが彼が思うままに居られる、スケートと関われる場所。勘だけど。そうで無ければ良いと思うけど。集合時ごく僅かな距離さえも滑ろうとしなかった事実とこの何とも言えない態度からして大きく外れてはいないのだろう。ならきっと前回この人と会った夜、最後まで訊けたか定かでない問いの答えだって。
     あの部屋が鳥籠だと言うのなら。内に閉じ込められた鳥は――。
     考え込むうちに時間が経っていたらしい。こちらを呼んだ男は元通りの表情でもういいだろうと言い、それから何故か困ったように問いかけた。
     何故君がそんな顔をする。そんな、悲しそうな顔を。
     あなたがしないからだ――言いたくて、けれどそれは自分の勝手な感情だと分かっていたから飲み込んだ。言葉が喉を伝い胸へと落ちる。ずきずきと痛んで、苦しい。
     どうして。スケートはいつでもどこでも、世界全部で出来る。自由な筈なのに。
    「……ひとつ訊かせて欲しい」
     トーナメントに出た理由。自分と滑るその先に何を願ったのか。あるに違いないと思うだけだったそれが今は無性に気になっていた。
     また沢山願わなくてはいけないかと思っていたのにすんなり男は受け入れた。むしろ話したかったかのようにいきいきと語るさまにその理由を悟る。それは夢だった。大切に温められた、けれど孵りそうにない、彼だけの夢。
     イブと出会い共に行く。あの虹走る世界へ。スケートしか存在しない、それ以外何もない世界をただ滑る。
     語り終えたならこちらへ顔を向け楽しそうだろうと、おそらく同意を求めた。
    「……スケート以外何も見えないんだよね。だったら一緒に滑ってる相手のことは?」
     第一声が同意で無かったのが不満だったか素っ気なく肯定し時には見えなくなるだろうねと言葉を添え、そして表情あたりからこちらの感情を読み取ったのだろう、より不満げに男は眉間へ皺を寄せる。
    「それじゃあ楽しいけど楽しくない。だって見えなかったら居ないのと同じだ。スケートは、仲間と滑るから楽しいのに」
     言えばすぐさま言葉が返ってきた。スケートを楽しむのに仲間は必要ない。大声では無かったけど響きには明確な拒絶と警告が含まれていて、声が引いた一線へうかつに触れればまた自分は傷付くかもしれないと理解した。理解したうえで踏み込んだ。
    「なら何で愛抱夢は笑ってたんだ」
     顔を上げ何の事だと男は尋ね返す。分からないふりに思えた。顔には明らかに力が入っていたし何より自分自身のことだ。最初あんなにつまらなそうにしていたのに誘った途端再びボウルへ跳び込みその後も滑り続けた、その時の気持ちもそうした理由もきっと彼が一番分かっている。
    「笑ってたよ。俺がトリックを見せる時もそっちから見せた時も楽しそうにしてた。あれは一人じゃなくなったからじゃないのか」
     男について詳しく知っている訳では無い。けれど先程見せられたあれが彼の心からの笑顔で無かったとは到底思えない。
    「愛抱夢はどう? 俺と滑ったとき、楽しくなかった?」
     やや間を置いて返されたのは肯定に似た否定だった。スケートは楽しい。ただそれだけのことで仲間が居ても居なくても変わらない、関係ないと。しかし「本当に?」と視線を合わせ問えばたちまち目はいびつに形を変えた。
    「今も、あの夜も。あなたは楽しそうだった」
     自分が彼へ――彼のスケートへ近づいた瞬間。必ずこの男は楽しそうに笑ったのだ。
    「本当は望んでるんだ。会いに来る誰かとのスケートを。一人から抜け出すことを――」
     顔めがけて打ち下ろされた手をどうにか手首で止め、そのまま腕を掴んだ。
     離せ。
     吠える声に返す。
     離さない。
    「さみしいのだって一人で居るのが嫌だからだ。俺を一人にしたがったのもあなたが、っ!?」
     しまった。掴んでいない方の片手を忘れていた。振りかぶったそれをギリギリ躱す所まで読まれていたらしい。届かなかった筈の手で襟元を掴み上げると、男は呟いた。
     ちがう。
     僕は仲間なんて求めていない。君だから。君はイブだから。僕の唯一の、僕とあの世界で永遠に、君は――。
     自身の異変に気付いていないだろう。手の力はみるみる弱まり、声もかすれていく。目は暗く曇っていて見えるのはあのささやかな色ばかりだ。
    「……愛抱夢」
     また傷つけてしまうと分かって覚悟を決めた。
     傷付けても、傷ついても。この想いに向き合いたい。それはきっと自分にしか出来ないから。
    「俺はあなたの待ってた『だれか』じゃない。だからあなたの思い通りにはなれないし夢も叶えられない」
     襟の手から力が抜けた瞬間。こちらも腕から手を離し。
     そして、抱きしめた。
    「でも俺は、あなたと滑っていたい」
     互いに無言のままゆっくりと時間が流れていく。やがて手の温度が彼の背中のそれと交わり、ほとんど変わらなくなったころ。耳の近くで声が聞こえた。
     どうして。
     小さな子供が尋ねるような素朴さから今度こそ本当に分からないのだと伝わって、そんなことが少しだけおかしくて、切なくて、どうか届けと願うように答えた。
    「だって愛抱夢はすごいプレーヤーで、愛抱夢とのスケートは楽しくて」
     それに。
    「俺も同じだったから」
     失った自分。待っていた彼。対象も掛けた時間も違うだろうけどひたすらに探していたのは同じだから。ずっとさみしいのも、見つからないことで徐々にすり減っていくのも、だとしても諦められないのも全部わかる。
    「愛抱夢。俺がイブじゃないとしてあなたはどうするんだ。また探すのか」
     彼は答えない。探すとも探さないとも言わない、それが答えなのだろう。
     自分は二度大切なものを失っている。一度目は戻せなかった。前を向けたのは新たな大切と出会えたから。二度目こそ取り戻せたけれどそれは相手がまだこの世界に、自分の前に居たからだ。
     この人は未だ一度も出会えていないであろう、もしかするとこの世界のどこにも居ないかもしれない誰かを待ち続けるのだという。居ない現実も来ないから居る夢を見続けられるなんてうそぶいて。あんな狭い場所でたった一人きりになるとしても待っていたい、その気持ちだってわかるから止めることは出来ない。けれど思うのだ。止められなくても、この人を――。
    「……だったらさ。今度は一人ではやめようよ」
     言うと同時に両腕を持たれ身体を引き剥がされた。触れあっているのが嫌になった訳では無いらしく腕の手は離れようとしないし距離は未だ近い。だから彼の目が揺らいで、揺らいで、ようやく自分を見たのもよく見えた。
    「……うん。俺が居る。一緒に行けはしないけど、滑るとか、隣に居るくらいはできるよ」
     彼は戸惑っているようだ。口を必要以上に動かして、君は自分が何を言っているのか分かっているのかと言葉を作る。どうかなあと考えながら片手を腕の手へ重ねた。
    「俺だってずっと愛抱夢とだけとかは思わない。したいこともあるし滑りたい相手も居る。だからここまでって決めておく」
     それは、いつ。
     問いかける声は震えていた。
    「愛抱夢がさみしくなくなるまで」
     本心からの言葉なのに嘘を吐いているような気分になる自分を変だとは思わない。だってわかっている。なんとなくでも、何故終えられたのか分からなくとも。既に理解は終わっていた。
     その日は来ない。彼がさみしいと思わなくなる瞬間、彼自身が作った籠から彼を解き放つただ一度の機会は今夜失われる。自分が間違えたから。
    「それでもよければ一緒に居よう。俺はあなたをひとりにできない」
    「……ランガくん」
     でも、じゃあ、この手を離して、彼を置いていくのが正解なら。
    「ありがとう。僕はこの日を一生忘れない」
     ――だめだ。
     どうしたって、選べないや。
     
     
     息を潜め二人、こっそりと彼の籠へ帰った。二人きりの小さなお茶会を開き、少し話して、手を引かれまた別の部屋へ。開いた扉の隙間から見えた室内だけで彼が何をする気か分かったけど身体全部が部屋に入るまでは何にも分からないふりをしていた。上手くは出来ていなかったみたいで、扉を閉めこちらを抱き寄せた彼にはすましていても頬が真っ赤だと笑われてしまったけれど。
     前と比べるとこわくなるほど気遣われたけどされていたことは正直あまり変わらなかっただろう。それでも当たり前に受け入れられたのは自分からも触れられるようになったのと、多分気付いたからだ。
     痛みのようで苦しみにも似た、よろこびに最も近くあたたかい涙を溢れさせる、心を掻き乱す触れ方がこの人のせいいっぱいなのだと気付いてしまったらあとはもう消えてしまう前に抱きしめるしかなかった。それが自分にできるただひとつのせいいっぱいだったから。
     触れ合うさなか彼は何度もこちらを呼んだ。応じるまで繰り返し呼び続けた。目の前に居るのに、それでも確かめないと気が済まないみたいに。
     てっきりそういうときはそうするものなのかと学んだつもりでいたけど、しかし。
    「ランガくん」
     こうして二人すっかりきれいになってベッドでぼうっとしていても訊いてくるのだから、ただの彼の癖かもしれない。
    「なに」
    「いる?」
    「いるよ」
     小さなランプで見え辛いなら照明を点けるなどしてあなたが頭を乗せている膝の持ち主がそうだと確認させてあげるべきか。けど見え辛くとも彼が、彼でなくたってそんなことが分からない筈無いし。もしくは眠気のせいとか。ううん、わからない。
     悩むのはやめて手頃な位置の頭を撫でた。確認ならこれで出来るだろう。
    「……そう。そこにいるんだね」
     元々伏せ気味だったまぶたは更に伏せられいつ完全に閉じてもおかしくないだろう。隠れかけの瞳もいかにも眠たげ。それなのに規則正しい呼吸の合間声はまた自分を呼ぶ。理由も何も分からないけどそれでも呼ばれたから、聞いて、返事をした。
    「ランガくん」
    「なに」
    「どこにも行かないで。僕が眠るまで」
    「行かないよ。眠るまでも、眠っても」
     自分がどうしたいにせよこのまま眠られたらどこへも行けないけど、とは言わない。気持ちよさそうな彼をそのまま寝かせてあげたいし、なによりもう決めたから。
    「ここにいる。あなたがさみしくなくなるまで、ずっと」
     子どものように笑うと、ゆめみたい、と呟いて彼は目を閉じた。
    「ううん」
     現実だ。
     指先から落ちていく髪の触り心地も。互いの体温も。
    「夢じゃない」
     ふたたび結べた友情も。元通りになる筈だった日常も。
     今夜重ねた手。交わした約束。間違いの果て辿り着いた結末も。二人きり、出られない鳥籠だって。
    「夢じゃないんだよ、愛抱夢――」
     夢ではない。夢ではないから、覚めることもないのだと。そんな現実へ抱く感情の名前もわからないまま朝に焦がれる。夜の終わりに。
     月明かりさえ入らないこの部屋に救いの光が届くことは無いだろう。分かっている。けれどその瞬間を想像するだけで涙が出そうなほど幸せになれた。
     ああ。あなたもこうして夜を越していたのか。
     先に眠りについた彼へ想いを馳せ、目を閉じる。
     追いつけるだろうか。追いつけると良い。もしかして待っているかも。それならきっと。
     追いつけたなら二人隣で同じ夢を見よう。
     いつかさみしくなくなるまで。永遠に。
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