大団円、それでは恋でも あ、と暦が顔を青くするのを見ていたのでいずれこんな時が来ることはぼんやりと予想出来ていた。けど数日も経たないうちにとは。
「分かるよ。僕自身驚いている。だが同時に納得もしているんだ。君のあんな姿を見せられて我慢なんて出来る筈もない、しちゃいけない」
点滅する街灯が踊る手指を照らす。
「嬉しかった。一刻も早く君に会いたくて――だからつい張り切ってしまった」
はにかむ顔を見る限り今夜の男はとても機嫌が良さそうだ。声もうきうきとまるでマンホールの上で弾んでいる足のように軽い。
「ねえ、君も僕に会いたかった?」
ぱっと浮かんだ答えは、いいやそんなに、だった。
彼とはしばらく会えていなかったけど衣装だとかボードだとかは何故かちょくちょく目にしていた。直接会って滑れなくとも彼のスケートには触れられていたからそこまで気にすることも、会いたいと思う事も無かったと言うのが正直な気持ちで、だけど「どう?どうかな?」と身体を揺らし尋ねてくる男へそのまま伝えるのはためらわれた。
「……会いたかった、かも」
みるみる華やぐ表情に心の中で息を吐く。
「そうか。やはり君も……いや当然分かっていた、分かってはいたけれど……あぁ、それでも……!」
街灯が消えて点いてする度切り替わるポーズ。心底嬉しそう。そこまでだろうか。抱いた問いの答えは求めない。少し考えれば分かる簡単な話だった。
「同じ気持ちって嬉しいよね」
言ったならぴたりと男が動きを止め、
「……ああ。本当に」
そして突然腕をこちらへ伸ばし、がしっと。
「それじゃあ行こうか!」
「え?」
「準備は済ませておいた、いつでも滑れるように開いてある、後は僕等二人が向かうだけで良い」
「何の話?」
「勿論二人の願いの話」
いつの間にか男からは街灯の数倍明るい何かが溢れ出していた。ばしばしとぶつかってくるそれらに流されるよう諦めることに決める。百パーセントの理解とか、これから自分の身に起こるだろうあれこれへの抵抗とか。
今夜中に帰れるかな。思っていたのは通じたかどうか。声は優しかったけどそれだけではとても。一部を除いて大体いつも愛抱夢の声は優しいから。
「分かっているさ。だって僕等の気持ちは同じだからね」
手を包む両手の力加減は痛くはなくけれど剥がせる気はせず、まあ丁度良かった。
蹴る。一度、二度。すると身体が坂へ進み出し、風を感じられるようになる。大気を掻き分ける感触にも慣れてきたらそこから勝負。前へ。ひたすらに加速。これならと思った瞬間片足をずらしノーズを上げる。Uターン。出来る限り小さく。成功したなら後はこれだけ。先程の片足に力を込めて。込めた。なら。
踏み下ろせ。
確認。軸ぶれてない。動きも止まってない。どうだ、今回こそ届くか――いや――。
のろ、と前へ進んで数秒もせず背後の坂に背を抓まれた。ボードと一緒に引っ張られる。このまま滑ったらどうなるだろう。そうならないよう確保されながら考えていた。
「愛抱夢は後ろ向きに滑ったことある?」
「一瞬ならよくある事じゃない?ずっとそうするのは……試す気にならないな。つまらなそうだ」
「確かに」
「ところでランガくん、今のは良かったよ。これまでで一番僕に近づけていた。ただ――」
丁寧な指摘を頭に入れつつそれまでの分と合わせて整理する。この『ただ』も今夜だけで何回聞いたことか。
「しかしこの調子なら次かその次で成功してもおかしくない。やはり君は素晴らしいね」
どうやらこの前の画像を愛抱夢はトリックそのものへの興味として受け取ったらしい。「君がそこまで望むのなら良いだろう今夜は二人きり完全再現目指して特訓だ!」と特に何も言っていないこちらへビーフコースまで開いて指導を始めてしまった。
強引だった。そして誤解だった。
けれどこちらから正そうとは思わなかった。
タイミングを伺う内に大分時間が経ってしまったので今更言い出しにくいとか、折角だしこの機会に完璧にものにして皆を驚かせたいとか、理由は色々とあげられるようで、けど根っこは皆同じなのかもしれない。
滑って初めて気付くこともある。自覚は無くてもそれを待ち望んでいたのだろう、久しぶりの愛抱夢とのスケートは楽しかった。すぐに終わらせてしまっては勿体なく感じるほど。
「それと表情。気になるなあ」
「表情?」
坂を上る間も指摘は続く。今夜の愛抱夢はいつにもまして親切かつ熱心だ。
「ラブハッグは相手を愛するためのトリック。だったら添えるのはとびきりの笑顔でなくちゃ」
「そういうものか」
「そういうものだよ。練習しよう、笑ってみせて」
「わかった」
それなりに良い笑顔が作れたと思ったのに何故だろう。突如近づいて来た両手に顔を挟まれた。ほんのり温い掌はこねるように頬を動かしてくる。
「な、なに。どこか変?」
「いいや、どこも。何一つ変わっていなかった。けどトリックに添えるには君のそれは少々きれいすぎる」
「きれいだと駄目なんだ?」
「駄目」
でも笑顔って大抵きれいなものでは。
言葉が舌の付け根で止まる。
そうだ。きれい。それだけでは言い表せない笑みがこんな夜にはあった。
「もっと激しく、いやらしく笑って。一生忘れられない記憶を相手へ贈るつもりで」
「……難しー……」
「ふふ。そうだね。愛は難しい。簡単には手に入れられないし与えられないものだ。だからこそ僕が君たちを愛してあげるんだけど」
手を離した愛抱夢は前回仮のスタート地点に定めた位置を越えても歩みを止めず、とりあえず後を追った自分と共にずんずんと上って行った。やがて辿り着いたのは本来のスタート地点。背を押されたこちらが慌ててボードを放り飛び乗れば、彼も同じく滑り出し並んでくる。
「さっきも言ったが動きはほぼ完成している。あとは細かな点と表情だけ注意して。残るは気持ちか、これは僕が引き上げよう」
言うなり次々見せられた動きを躱しもしくは止めたなら「違う」と愛抱夢は、そして。
「僕の真似をして」
「愛抱夢の真似……」
たとえばこうだろうか。限界まで近づけたボード同士が重たい音を立てる。
「いいね。もっと出来る?」
「出来るけど危ないよ」
「結構。やってごらん。君には僕を崩せない」
言葉の通り、がんがんとぶつかってくるこちらを愛抱夢はものともせず滑り続けた。流石にそのまま真似ることは出来なくても彼を意識した振り回しはかなり乱暴である筈なのに、平気で乗ってきては楽しげに身体をゆすり、これだけかと言いたげに首を傾げる。見せられる度身体の中がざわざわと騒いだ。怒りではない。どちらかというと、不思議だけど、反対の感情に近かったと思う。
いいのか。
これでも。こんなにしても。まだ続いて。終わらせなくて。
ふつふつと湧いてくる期待に似た高ぶり。
どうだろう。
もし自分があれをしたとして、まだこの人は滑っているのだろうか。
自分とここに居るだろうか。
相手から身を離して、引き寄せられるように前方へと向かう。
見てみたい。その先を。
望めばひとりでに足が動き出す。
そうして世界が回った瞬間、ボードへ足を思い切り叩き付けた。
有り得ない方向へと身体が易々進む。ぞわぞわと震える心は成功したこと以上に相手の反応が待ち遠しくてたまらないようだ。どうするだろう。思えば勝手に口角が上がる。なるほど。こういう感じか。
近付く、あるいは近づいてくる彼の隠されたそれと目を合わせ、唇を動かすだけで名を呼んだ。
形にしなかった思いが通じたかのように彼は微笑み両手を広げ――。広げ。何で。
答えを示すみたく、突き出された手がこちらの脇下を抜けていき、背に何かが当たったならたちまち足元には浮遊感。
少し高くなった視界の端、靴底と別れたボードが自分のものでは無い爪先に止められたのが見えた。取りにはしばらく行けそうにない。少なくとも背中の腕が放してくれない限りは。
「対戦相手がラブハッグを知っていたなら自ずと対策もとられる。こんなふうにラブハッグ返しを仕掛けられる可能性もあると覚えておいた方が良い」
「そんなものもあるのか……」
「一応ね。今初めて使ったけど」
「オリジナル?」
「どうだろう。先に思いついて練習した誰かが居たかもしれない。ただ、僕の前には現れなかったよ」
一度強く身体を密着させたのち腕は背から二の腕へ。足が彼のボードに乗って少しだけ距離が生まれたから顔がよく見える。
「嬉しそうだ」
「分かる?」
「うん。今日はずっと嬉しそうだったけど、今が一番嬉しそう」
「そんなに」
頷けばそうかと一層愛抱夢は表情をとかした。眉を下げて唇の端も緩ませぎみでは「困ったな」と言われても心配にはならないけど。なんとなく手を伸ばす。
頬はあたたかい。
「大丈夫」
わかってる、そう返す声もまた。
「わかっている。大丈夫なんだ、君と僕は」
聞こえるなりぐんと身体が揺れ二人乗せたまま滑り出したのだと気付くそばから胸を押された。いつ回収したのだろう。定位置、ぴたりと横に付けられていた自分のボードへ戻った足に程よく力が入る。するとそれを待っていたかのように再び引き寄せられた。
「君は知ろうとする。理解しようとする。近付き見付けて、時には同じになって」
振り回されるのもいつぶりだろうか。懐かしい気分だ。前は苦しかったけど悪くはなくて、今は何故だかそれが心地好い。
「いつだって僕の元へ来てくれる」
「皆来るよ」
言えば「そうだろうね」と彼はあっさり頷き、
「だけど遅いだろ。僕は忙しいんだ。待ってなんていられない」
こちらを巻き込みいきなり回転したかと思えば無理やり気味にボードを止めた。
足が滑り身体は背後へ、けれど一向にボードからは落ちない。こんなのもあったなと懐かしがりつつ首を戻せば愛抱夢がこちらを見ていた。少し上とても丁度良い位置にライトがあって表情はやや分かりづらいけどそれでも感じる。浮かべた笑みはあの時と似ているけど同じじゃない。
ほら。
だからさ、と囁く声だってこんなにも優しい熱に満ちている。
「君がいい」
明るい色に染められたまま言葉を贈る彼。受け取る自分。変わらない体勢も相まって、端から見たならきっと二人。何かすてきな物語の中に生きてるようだった。