【忘羨】甘えたがりの甘やかしたがり「なあ藍湛~。思うんだけどさ、お前ってあんまりにもいい子すぎないか?」
今夜も道侶の晩酌に付き合っていた藍湛は、突然そんなことを言われて茶に伸ばしかけていた手をふと止める。
目の前に座る魏嬰は片方の肘を卓につき、もう片方の手で飲みかけの天子笑を持ったままじっとこちらを見つめている。その顔はいつもより少し赤みが差しているから、彼には珍しく酔っているのだろうか。そういえばと周囲に視線を向ければ、先ほどからご機嫌で飲んでいた空の酒瓶がいつも以上の数で床に並んでいる。
「魏嬰、飲み過ぎだ。そろそろ止めなさい」
「えー? 大丈夫だよこのくらい、まだまだ飲んでも問題ないって。それより、さっき俺が言ったこと聞いてたか?」
「聞いていた。でも君が急にそんなことを言い出した理由がよく分からない」
彼が突然思いがけないことを言うのはよくあることだ。とはいえ、これまでの話の前後にまるで関係なく急に“いい子すぎる”だなとと言われてわずかに困惑を覚える。そもそも、“いい子”と言われるには藍湛は随分と年齢を重ねすぎている。
しかし魏嬰は藍湛の戸惑いなど意に介さず、むしろ何故分からないかとでも言いたげな顔で小さくため息をついた。
「分からない~? なら教えてやるよ。あのなあ、俺は寂しいの!」
「……寂しい?」
予想外の言葉にますます困惑が深まる。再会してからというもの、自分なりに出来うる限りの愛情を毎日注ぎ込んできたつもりの藍湛にとっては、最愛の相手にそんな想いをさせてしまっていたという事実は衝撃が大きかった。もしも本当にそうならば、きちんと理由を知って今後はそんなことがないようにしたい。そう思い真剣さを滲ませた声で「何故」と尋ねると、魏嬰は癇癪を起こしてむずかる幼児のように眉をしかめ大きく首を振る。……いつもよりも幼い感じのこの行動を見ると、やはり酔っているのかもしれない。
「もー、だからさっきから言ってるだろ。お前がいい子すぎるから俺は寂しいの! これじゃ全然俺がお前を甘やかしてやれないだろ!」
「……うん?」
「いいか藍湛、俺は甘やかされるのが好きだけど誰かを甘やかすのも好きなの! 昔は江澄がいたからそこで甘やかし欲を補ってたけど、雲深不知処じゃ皆きっちりぴっちり真面目ないい子ちゃんすぎて全然甘やかせない! 思追や景儀じゃ遠慮されちゃうし兎や林檎ちゃんだと甘やかすのとはちょっと違うし! となれば、俺の欲求を満たせるのは夫であるお前だけだろ? なのに藍湛、お前と来たらまあ品行方正、才色兼備! さらには明眸皓歯、仙姿玉質の美しさときたもんだ。これじゃまったく俺が甘やかしてやれる隙がないじゃないか」
「……」
「いつも俺ばっかり甘やかしてもらうばっかりでさ。これじゃ世間に名だたる含光君の道侶として面目が立たないよ。輝かしい含光君の相手には相応しくない、出来損ないの夫だなんて陰口を叩かれちゃうかも」
「……君にそんなことを言う者がいたのか?」
つらつらと言い立てる魏嬰の言葉を藍湛は黙って聞いていたが、その瞬間だけ思わず声に剣呑な色が混じる。それに気付いたのか魏嬰は瞬間口を噤み、それから慌てて言葉を続ける。
「ああ待て待て、そんな怖い顔するな。言われてないよ、ただ俺が自分でそう思っただけ。もっとも、言われたところで事実だから腹を立たないけどさ」
「……私は腹が立つ。君はこの世の誰よりも素晴らしい人だ」
「はは、買いかぶりすぎだ。俺はそんな大層な人間じゃないぞ」
「君が分かっていないだけだ。いつも伝えているのに、私の言葉を疑うつもりか?」
「そんなつもりじゃないって。悪かった、俺が藍湛を疑うわけがないだろ。それにしても……ふふふ、お前は本当に俺が好きだなあ! ん? 言ってみな、俺がこの世界でいちばん可愛いって思ってるだろ?」
「うん。魏嬰が世界でいちばん可愛い」
事実その通りであるから正直に頷けば、魏嬰は自分で言っておきながら驚いたように目を見開き、先ほどよりも少し赤みを増した頬を扇のように広げた手で仰ぎながら視線を泳がせる。
「藍湛、そこはたしなめてくれてもいいんだぞ?」
「だが本心だ。私の道侶はこの世の誰よりも可愛いし素晴らしい」
「うー。あのなあ藍湛、自分で言うのもなんだけど、俺って伴侶としては不出来だと思うぞ? 師姐みたいに優しくて包容力があるわけでもなきゃ料理だってそう上手いわけでもないし、いっつもいい加減でぐーたらだし」
「君の師姐が尊敬すべき女性だということは知っている。だが私にとっては君が最良の相手だ」
「最良? こんな大酒飲みなのに?」
「問題ない。少し体は心配になるが、君が楽しそうなところを見るのは好きだ」
「お前の言うことを全然聞かなくても?」
「君の性格は充分知っている。あまり素直すぎても不安になる」
「本当にいいのか? こんなにやりたい放題でわがままな奴なんだぞ」
「そこも可愛い。第一、君が安心してわがままを言うのは家族だと認めた相手にだけだと知っている。その枠の中に私を加えていてくれるのは嬉しい」
「えっとじゃあ……」
「魏嬰。何を言おうと不満なところはない。もう諦めなさい」
「もう、藍二哥哥~! お前は本当に俺を甘やかしすぎ! たまには俺に甘やかさせてくれよぉ。俺だってたまにはお前の素直なわがまま聞いてみたいんだよ」
「……君には、既にいつも甘えさせてもらっている」
「ん?」
「君は全て受け入れてくれているから、そうと気付いていないだけだ」
魏嬰と出会って、藍湛は自分が存外欲深くわがままな人間であると知った。彼のはつらつとしたまなざしが他の誰かに向けば胸裏が嫉妬で熱く焼けついたし、快活な声が自分以外の名を呼ぶのを聞けばすぐさま彼の唇を塞いでその声ごと奪ってしまいたかった。
自分でもおぞましく思えるほどの独占欲と執着心、けれど目の前の相手はそんなどろどろとした醜い感情も全て笑顔で受け入れてくれる。そうして受け入れてもらえればもらえるほど貪欲さは増していく。時折、自分の中は彼への愛慕と煮えたぎるほどの執心だけで満たされているのではないかと感じるほどだ。
さすがにそんなことは言葉に出来ず口を噤んだ藍湛を、魏嬰はしばしじっと見つめる。それから不意に酒瓶を手放すと藍湛の膝の上に移動した。膝上にまたがり向かい合う形で座ったかと思うと、そのまま藍湛の首裏に腕を回し、酔いのためか少し目元を染めた顔でにやりと笑う。
「ふうん? じゃあさ、俺にもっとお前のわがまま聞かせてよ。他の奴じゃうんざりしちゃうけど、藍湛のわがままなら大歓迎だ。さ、言って?」
後ろに回した指で抹額を弄りながら、緩やかに弧を描いた唇が蠱惑的に囁く。それに誘われるように小さく唾液を飲み下し、藍湛の薄い唇がわずかに開いた。
「……君に、ずっと傍にいてほしい。他の誰でもなく、私だけの傍に」
「ふふ、分かった。いつだってお前だけの傍にいてやるよ。それだけ? 他にはないのか?」
「……私以外の人間を見ないで。考えるのも私のことだけにして」
「お、なかなかわがままになってきたな! いいぞ、そういうのが聞きたい。他には?」
「他には……、……もっと君が欲しい」
「へえ? 毎晩あんなに貪ってくるくせに?」
「足りない。いくら求めても全然足りない」
「ふうん。……ふふ、んふふふふ」
「魏嬰?」
突然笑い出した魏嬰に驚き見つめると、楽しそうな笑顔に見つめ返される。揺らめく灯りを映してきらきらと輝く瞳はわずかに潤んでいて、体を重ねているときの恍惚としたあのまなざしに少し似ている。
「はははははっ! そうかそうか、お前は思ってたよりも欲しがり屋だな」
「……わがままを言ってよいと言ったのは君だ」
「そうだよ? 俺はお前のそういうのが聞きたかったんだ。ふふふ、可愛い可愛い。俺の美人ちゃんは本当に可愛いな」
魏嬰は機嫌の良い笑みを零し、両手を前に戻すと藍湛の頬を包む。それから陶磁のごとく滑らかな肌の手触りを楽しむようにふにふにと押した後、自らの唇を藍湛の髪や額、頬に寄せた。花に蝶が止まるような軽い口づけの雨をいくつも落とし、最後に深く唇を塞ぐ。
舌が絡み、先ほどまで魏嬰が飲んでいた天子笑の味が唾液を介してほのかに藍湛の口内にも移る。一口飲めばすぐさま眠りに落ちてしまうほど酒には弱いが、与えられたのはかすかな後味だけで幸い軽い酩酊感を味わっただけで済んだ。
やがて唇はゆっくりと離れたが、魏嬰の笑顔はまだ鼻先が触れるほどの近さで咲いたままだ。ふふふと笑う吐息は酒の香りと混ざり合い、いつもよりも一層甘やかに匂い立つ。
「よぉし、素直に言えた甘えん坊はこの魏哥哥が目一杯甘やかしてやろう。阿湛、お前が満足するまでいくらでも欲しがっていいからな」
「……本当に?」
「本当だ。今夜は可愛い可愛い阿湛をいっぱい甘やかしてやることに決めたからな。だから……ふふふ、ほら、俺を寝台まで運んで。優しく抱っこで運んでくれよ」
「……魏嬰、やはり酔っているな?」
そう尋ねても魏嬰は陽気に笑い続けていて、酔いが回っていることは間違いなさそうだ。しかしだからと言って先ほどの言葉を聞かなかったことにするつもりは毛頭ない。
「言ったのは君だ。今更後悔をしても聞かないから」
くすくすと笑みを零す柔らかな唇に口づけて、藍湛はその体勢のまま魏嬰を抱き上げると彼の望み通り寝台へと足を向けた。
――そうして翌朝、散々求められた結果寝台から起き上がることも出来なくなった魏嬰を藍湛がいつも以上に甘やかしてあげたのはまた別の話。