【ふみ天】「雨の夜の夢」　天彦は、即座にこれが夢だとはっきり悟った。
　そうでなければ、父と、母と、兄と、こうして夕食を囲んでいるはずが無かった。もう十年以上前に棄てたはずの景色だ。父と母は記憶の中と大差ないが、三歳上の兄はやけに幼く、まだ大学生のように見える。ふと、天彦は自分の姿を確かめた。学ランに身を包んでいる。高校の制服だ。
　窓の外はとても暗く、雨の音が響いている。三人は黙々と料理を食べ進めていた。天彦も同じように食べようとしたが、なぜか身体が重く、手が進まない。目の前には美味しそうな料理が並んでいるのだが、夢だからか、やはり匂いはしなかった。天彦は俯いたまま、透き通ったスープを見つめた。高校生の頃の自分が映っている。
似た状況は、確かに記憶の中にある。もう忘れたい、嫌な記憶だ。
　天彦、と父に名前を呼ばれ、はっと顔を上げた。
「進路はどうするんだ」
　そう声を掛けられて、天彦は言葉を詰まらせた。隣では兄が怪訝そうな表情を浮かべており、向かいでは、父と母が厳格な表情でこちらを見ていた。あの時も、確かにそうだった。
　天彦はズボンを手で握りしめ、俯く。
「……やりたいことがあるんです。だから……」
　口が勝手に喋る。言うべきではなかったと思ったが、出て行った言葉は戻らない。それは、夢の中でも同じことだ。
「……だから、医学部には行きたくありません」
　隣で兄が息を呑む声が聞こえた。あの時も同じ反応をしていただろうか。それとも、天彦が作り出した虚構なのだろうか。
そんなことを考えていると、父に頬をはたかれた。じわり、と痛みが広がる。身に覚えのある痛みだからなのか、痛みもリアルだ。
「お前には、失望した。もう顔も見せるな」
　父の声が脳に響く。
視界がぐにゃりと歪み、いつの間にかラブホテルの一室に変わっていた。雨の音はまだ響いていた。
頬を抑えたまま、天彦は誰かを見上げていた。顔はぼやけて良く見えないが、それでもなぜか『先輩』だと直感した。『先輩』は天彦を見下ろしてくる。
「お前みたいな変態を好きになる奴なんていねぇんだよ」
『先輩』はそう吐き捨てて、勢いよくドアを閉めて出て行った。

　はっと目を覚ました。
　冷や汗で全身がべとついている。雨が二〇五号室の窓に打ち付けていた。そのせいであんな悪夢を見たのだろう。落ち着いてくると、頬にふみやの手が当たっていることに気が付いた。隣ではふみやが丸くなって眠っている。天彦は寝返りを打つと、彼に身体を寄せた。シャンプーの香りがする。
今日は天彦のシャンプーを勝手に使ったのだろう。独特な、蜂蜜のような香りがする。
「……ふみやさん」
　縋るように、小さな声で名前を呼んだ。天彦は汗ばんだ手をシーツで拭い、頬に触れたふみやの手を取って、両手で握りしめる。
「……ねむれないの？」
　雨の音に紛れて、眠そうな声が投げかけられた。暗い部屋の中で、ふみやの瞳だけが煌めいて見える。
「……雨が降っているから……嫌な夢を見てしまって……」
　呟いて、見たばかりの夢を思い出す。父に勘当された時のこと、関係を持った『先輩』から見捨てられたこと。そうして……そんなことを積み重ねているうちに居場所を無くしたこと。
「ふみやさんも……天彦のこと嫌いになりますか」
　口から勝手に言葉が出て行った。まだ夢を引きずっているせいなのだろうか。言ったことはもう戻らない。天彦は慣れてきた目でふみやの表情を確かめる。彼は特に気分を害した様子は無く、いつものような仏頂面だった。
「……ならないよ。お前がここにいてくれるなら」
　ふみやは言いながら、口許を緩めたように見えた。次いで、くあ、と欠伸が聞こえてくる。
「朝には雨も止むよ。それまで寝てよう」
　もそりとふみやが身を寄せた。天彦も彼に身体を寄せて目を閉じた。
　窓の向こうでは、雨音が弱まっていた。

END