The Summer Ends 「他人事の記憶」というものが自分にはある。
よくできた小説や映画を見ているのとも夢を見ている感覚とも似ていて、しかし少しずつ違う。その時抱いた気持ちや掌に残る感触、食べていたものの味、話していたことまでハッキリと— なんなら不自然にも感じられるほど明確に覚えている。ただ一点だけ違和感を残すのは、『自分はその日その時間に別のことをしていた』という事実だけだ。
例えば、ゲームに参加した最初の週、その7日目。尊敬していた人物から偽の情報を流され、のちに死神であったと知る大柄な男から強烈な一撃を加えられて地面にのびていた、その日その時間。俺は北国の感じのいい涼しさを全身に受け、風にそよぐ牧場と牛たちを眺めながらソフトクリームを舐めていた。透き通るような筋雲が空を流れ、草を食むホルスタインは時折重たげな頭をもたげて「ぼぉう」と鳴いた。
来年はオープンキャンパスも共通模試も忙しくなるでしょうし、家族旅行は最後になるかもしれないわね、という母の一言を受け、家族4人 - 父さんと母さんと従兄弟と俺、で3泊4日のドライブ旅行で北海道を訪れていたのだ。牧場に併設された物販店で、フレットに何かお土産を買おう、と悩んだ挙句に夕張メロンの生クッキーを買った。嵩張らず、溶けてしまう心配もなく、食べればなくなってしまうから迷惑にもなりにくい。
しかしその一方で俺は確かに別のことをしていたはずだった。念能力の刃で狼や烏や敵対者を切り刻み、渋々ながらも「ツイスターズ」のリーダーとして渋谷を駆け回っていた。硬く握られた大きな拳が図体に似合わないスピードで自分の前に迫り、衝撃を覚えた次の瞬間には固いアスファルトに体重を預けていた。何かを考えようとするたびに、脳内に舞う星が思考の邪魔をする。聞き慣れた声が何かを叫んでいるのが聞こえるが、意味しているところは分からない。
どちらかというとこちらの記憶の方が部分的にぼんやりしている。それでも全体を通して見れば、『渋谷にいたはずの世界』も確かに筋道立っている。ショウカもフレットも死神ゲームのことをきちんと覚えているし、未だにビイトさんやネクさんと連絡を取ることができるのもあの出来事の証拠になっている。
だからおかしな気分になる。互いに矛盾する二つ目の記憶がいつ俺の頭の中に忍び込んだかは分からない。”死神ゲーム”が終わって2日後、何気なく母さんが朝食に添えて出した鮭フレークを目にし、それを買った土産物屋の少し寂れた風景までが鮮明に脳裏に蘇った。その異常さに気づいた時には愕然とした。
俺は家族と北海道旅行に行き、同じ時間で渋谷を這いまわっていたことになる。
「リーンドウ」
黙々と教科書を繰っていた手が止まる。ページの上では預言者とその代理人たちがアラビア半島の荒野を駆け回っていたが、相手の呼びかけで砂埃の空想は中断させられた。おおよそ1400年程度の時間の隔たりを一気に飛び越え、昼下がりのファミレスの賑やかな空気に思考を馴染ませる。急に焦点が変わった視界が少し覚束なく揺らいだ。
「そろそろ休憩しよ」
「んー……」
少し疲れたような笑みを浮かべた彼に誘われるように俺も息を大きく吐き出した。真昼の空気はコーヒーとデザートの甘い香りに満ちている。目の前のミルクティーのカップをそっと手に取り、唇を湿らせる。
「フレット、もうギブか?」
「もうってそろそろ一時間なるんだけど」
スマホの画面を立ち上げるとデジタル表示が2時40分を示していた。
「あれ、もうそんな時間か」
「リンドウ相変わらず集中するとスゴいよね」
くはぁ、と大きな欠伸をする彼の手元にも自分と同じ世界史の教科書とノートが大きく広げられていた。あまり綺麗とは言えない字で所々にメモが取られているほか、肖像画には髭や頬紅が書き足されていた。見る人が見たら怒るだろう。
「フレットが気持ち散り過ぎなんだって」
「なんか面白くするコツとかないの?」
「コツ……かどうかは分かんないけどさ」
持ち上げたスマホの検索ボックスに思いついた言葉を投げる。返されたのはいくつもの尖塔とドームのような丸屋根の建築物だった。そのうちの一つ、細やかな唐草模様のタイルで一面を覆われた礼拝堂を指先で拾って画面に映し出す。相手に見せるとおぉぉ、と感激したような大袈裟な声を上げていた。
「スゲ、めっちゃキレイじゃん。どこここ?」
「モスク。イスラムってこんな感じ、とか調べると面白いだろ」
「いつか行ってみたいわ〜」
「俺の話聞いてます?」
「聞いてる聞いてる!んでどこココ?エジプトとか?」
フレットは“面白くするコツ”の部分を完全にスルーしてキラキラと目を輝かせている。彼にも暗く深く真摯な部分があることは十分に分かった。だがそれはそれとして即物的で快楽主義な彼も確かに存在するのだった。そこに自由に旅行に行くのにはそれなりにオカネもかかるし、そうしたければ就職、そのためには受験……といった物事の順序が、おそらくは欠落している。
「……イラン」
「ってどの辺だっけ」
「そのくらい自分で調べろ」
いい加減にしろ、と言葉を切るとフレットは不満そうに唇を尖らせた。自分のスマホを取り出ししばらく何かを入力しては、ほぉほぉと楽しげに読み入っている。お互い軽く自分の世界に浸ったところで、フレットは徐に呟いた。
「……俺さ、夏休みハワイ行ったのよ」
自分の黒いスマホを差し出してくる。その中には椰子の木と海、そして夕暮れの紫色に染まる空が映し出されている。あからさまなほどに分かりやすいハワイだった。彼にもらったパイナップル型のクッキーの味が舌の上に蘇る。
「知ってる。貰ったクッキー美味しかった」
「リンドウは北海道?だっけ。夕張メロンもウマかったわ」
「なら良かった」
口に合ったなら何よりだ。……本当に食べたのなら。俺も、彼も。
「なーリンドウ。北海道、本当に行った?」
「本当に行った……と思う」
「でも俺ら渋谷にいたよね?」
「それは絶対そう」
「悔しいよなぁ」
「……ショウカもそんな感じのこと言ってた」
「ショウカちゃんが?」
俺は説明する。先週渋谷で再会して、それからポケコヨついでにカフェに寄って軽く話をした。家族も家も高校もしっかり用意されていて、不思議なことに父母の名も友達の顔もよく見知っている『ことになっていた』のだ、と彼女は告げる。なんかまぁ、ありがたいんだけどちょっとブキミよね、と複雑そうに俯いていた。それを聞いてしまうと、フレットは半分ほど残ったアイスコーヒーをストローでぐるりと掻き混ぜた。氷はとっくに溶けてしまっている。
「俺らの夏休みもさ、あったことにされてんじゃん」
「いや、あったことはあっただろ」
「そうなんだけど!……コレ、覚えてるっしょ?」
そう言って相手は再びスマホの画面を差し出す。薄暗闇の河川敷を映した写真は少々ブレていたが、その中には見慣れたクラスメイトの顔ぶれとともに俺とフレットも確かにいた。
「……クラスで花火行った時のやつ」
「レンレンがバケツの水こぼしてズボンびしょ濡れにしてた」
「それでサトが乾かしてやろうかとか言って花火2本持ってふざけてた」
「レン、本気にして逃げてたのオモシロかったよな」
思い出を探るようにニコニコと上空を見ていた目線が、スッと落ちて俺を見据える。
「んで、その日俺ら何してたっけ」
「……ディジーズノイズ。渋谷シンドローム」
顔を見合わせて、げんなりと溜息をつく。二つの記憶が同時に頭の中に存在している、というのは非常に違和感のあるものなのだ。言って分かってくれる人は物凄く少数派だろうけど。
「花火も旅行も海もなかったのに帰ってきたらすぐ考査とかさ、超損してるわ俺たち」
「まぁ、授業も出てたことになってて分かるのだけはありがたいよな」
「いやそりゃ、リンドウは分かるかも知んないけどね……」
急に項垂れた相手に、笑いがせり上げるのを抑えることができなかった。
「ぷっは……フレット、それは自業自得」
「そうだけどぉ〜」
「まぁテス勉見張るくらいなら手伝うって」
お節介にならない程度の助け舟を出してやると、不貞腐れていた相手の顔はぱあっと明るくなった。彼の表情は猫の目のようにコロコロ移り変わる。
「まーじ!?助かるわリンドウ先生」
「教えるとかではないからな」
「うへー」
先回りして断りを入れてやると、相手は何とも言えない呻き声を漏らした。そう甘いものではない、人生も俺も。しかし彼はメゲることなく食い下がってくる。
「じゃさ!考査終わったら二人でやり直さない?」
「何を」
「夏。……夏休み」
「それは無理だろ」
すでに季節は8月の最終週を迎えている。9月の初週に考査があって、それが終わる頃にはもう十五夜とかのイベントが始まる時期。どう考えても、秋だ。
「せめて花火だけでもさぁ」
「まぁ売ってたら、やるか。花火」
「やろーよ、だってなんか悔しいじゃん」
絡みついてくる相手の声に小さく頷いた。確かに、微妙に悔しい。家族と旅行に行き、クラスメイトと花火を上げて遊んだことになっている。いや、実際遊んだのだが、遊んでなどいないのだ。支離滅裂な記憶の錯綜を、とりあえず俺とフレットは了解している。
やり直せるものなら少しでもやり直したかった。もう俺にそういう能力はないけれど。
その日の帰り道、ハシゴ3件目となるコンビニで花火の売れ残りを見つけた。季節が悪いだけなのかシケっているのかは知らないが2割引のシールが貼られたそれを、フレットがひっつかんでレジに持ってゆく。既に教科書やノートが場所を塞いでいる鞄になんとか突っ込もうと、俺に教材類の一時預かりを強制してくる。
「フツーに手に下げて帰れば良いだろ!」
「だって親になんか気にされたら嫌じゃん」
言われてみれば、確かに2週間前に花火大会を楽しんだばかりなのだ。しかももう夏休みも終わろうとしているタイミングで、ちょっと怪しいと言えばそうかもしれない。仕方ないな、とぼやいて二人分の教科書を鞄に仕舞い込む。
「一個じゃ足りないだろーし、リンドウも買い足しといてね」
「ハイハイ」
そうして定期考査が始まり、終わるまで、散歩のついでのように家の近くのコンビニを物色して回った。安っぽい大判の紙に張り付いた花火たちは、時期を逃したことを申し訳ながるように棚の隅に縮こまっている。行き場をなくした彼らを探しては引き取るように買っていくと、既に逝ってしまった夏の後片付けをしているような気分になった。
————
「ほい、リンドウ」
「ん、ありがと」
二つに割ったパピコの片方をひょいと手渡される。キャップをパキリと割って、小さい方の受け口に詰まった氷菓を舐めとった。仄暗い堤防に吹く風は、9月とはいえまだ真昼の生暖かさを残している。口の中のコーヒー味がジャリジャリと涼しく、心地よい。
「あの日もさ、みんなでアイス食ったよね」
「あの時は帰り道じゃなかったっけ」
「確かそう」
フレットはプラスチック容器の首の辺りを齧り、くっきりとした空虚な記憶を辿っている。彼の背負った大きな鞄は花火とバケツでパンパンになっていた。その上でコンビニで買ったお菓子と缶飲料の袋を手に提げているから結構な重労働にも見える。実際にそう重くはないことは、同じ格好をした俺にも分かっているが。
「あん時はさー、河川敷もっと人いっぱいいたよね」
「みんな花火とかキャンプしてた」
「うん。なんか秋になったら静かってか……人気なくて寂しい感じ」
9月の河川敷は背の高い青草に覆われていたが、所々が干からびて枯れた色を帯びていた。その間で鈴虫がリリリ、と鳴き交わしている。時折堤防を夜ランやサイクリングの人々が通り過ぎてゆくが、階段を降りた下の道には殆ど誰も居なかった。
「二人きりって感じになっちゃったな」
まだ冷たいプラスチック容器を手で揉んでいると、フレットのふは、という気の抜けた笑い声が聞こえた。
「そういうこと言っちゃうんだ?リンちゃん」
「何だよ?」
「別に?二人きりですねーってだけ」
「言っただけだし変な強調されても困るんだけど」
冷たいな相棒、とヘラヘラ笑っているフレットを尻目に、とっとと河川敷に出る階段を下っていく。アスファルトの道までイネ科の細い草が伸びて覆いかぶさっていた。少し濡れた地面に出て、階段から少し離れた辺りの開けた川辺に荷物を下ろす。
夏の名残だろう、焦げた薪の組み跡が残っていた。
「ここで良いか?」
「良いんじゃね」
フレットもしばらく乾いた草地を探したのち無造作にリュックを下ろした。中からバケツを取り出し、早くも川から水を汲んで二人の間に据えている。自分も固形燃料を取り出してライターで炙り、ツナの空き缶の中に据え付ける。
花火にふさわしい、緩くて風のない良い夜だった。準備の一仕事を終えて息をつく。着火剤の小さな火に照らされ、フレットの顔もゆらゆらと気色を変えるように見える。柔らかな、緩んだ笑みを浮かべていた。
「遅くなっちゃったけど……考査お疲れ」
「ん、フレットもお疲れ」
何だかんだでフレットも真面目に取り組んでいた。放課後の自習室や図書室、休日にはファミレス、それから毎晩ラインでやり取りしながら勉強時間に付き合ってやっていたが、俺から観測できる限りサボることなく勉強に向き合っていたように思う。
「良い結果になるといいな」
「そだねー、結構リンちゃんに付き合わせちゃったから」
「別に、それくらいならいい」
この子の自主性を重んじて、俺は勉強の中身にはあまり口出ししていなかった。頑張ったのはフレット自身。その間俺も自分の勉強に没頭していたので、まぁお互い様とも言える。
「次の考査の時も頼んでいい?」
「いいよ」
「やった」
フレットは新聞紙の上に広げられたススキ花火を一本手に取り、くるくると弄っている。
「リンちゃんが一緒なら頑張れるって気がするわ」
「そりゃどうも」
自分も細い手持ち花火を一本摘み上げて、ひらりとした赤い導火紙を着火剤の炎で炙った。薄い赤紙はあっという間にすっかり焼け落ちたが、花火の光はなかなか吹き出さない。
「……やっぱシケってたかな」
相手が何かを言おうとしたタイミングで、シャア、と白い光の筋が花火の先から吐き出された。突然の勢いに少し退けぞってしまい、尻餅を突きそうになる。何とか後ろ足を踏みとどまった俺を見てフレットはケラケラ笑い声を上げていた。
「楽しそーじゃん、リンドウ」
「いや、いきなり来ると結構ビックリするって」
「それはそうかもね」
フレットもススキ花火を火にかざす。先端の紙が焼け落ちて本体が炙られ始めても、すぐには動かそうとせず本体に熱が伝わるのをじっと待っている。二番手はこういうところが狡い。やがて彼の手持ちからも緑色の光の筋が吹き出した。おぉ点いた、と当たり前のことを言いながら、上の方に持ち上げて炎で緩い弧を作る。本物の「ススキ」のようにも見えた。
「フレイムサークルぅ〜」
「アレそんな綺麗な火じゃなかっただろ」
「そだっけか、俺あんま使わなかったし覚えてない」
真紅のバッジが導く念能力を思い出す。意識を統一してそのあたり、と狙いを定めると、鳥のように炎がその空間を飛び回って敵の身体を焼かんとする。自分で制御できているから頼もしくも感じられるが、身体を焼かれる苦痛に歪む動物や人間の顔を見るのはあまり愉快な物でもなかった。火ぃつけてくるオオカミとかいたよな、と二本目の花火を取り出そうとしたフレットのすぐ側から、異音がした。
ぼぉん。
「ひっ!?何、何なに!?」
「ふ、不審者!?」
「逃げるぞリンドウ!」
答えも聞かずにひっつかまれるようにしてその場を離れる。火を点けたままにしてしまったことが頭の隅に引っ掛かったが、下草に足が縺れないよう全力で走ることに気を取られてそんな思いもあっという間に叢の間に置き捨ててしまった。物凄い勢いでサイクリングロードまで出て、それでもしばらく走ってから、止まる。ゼイゼイと荒い息を吐きながら二人で膝に手をついて息を整える。
「……だ、誰か追っかけてきたりとかは?」
「してない……、っぽい」
振り返る。道にはおかしな人影は……それどころかランナーや自転車も、誰一人としていなかった。河原の方にも、人がいるらしき気配はない。
「……戻ってみるか?」
「危なくない?」
「ヤバそうだったら諦めて逃げよう」
花火の残りとお菓子、それから定期入れごとリュックを置いてきてしまっていた。スマホには渋Payが残っているが、特に定期を無くしてしまうと親への説明が大変である。抜き足差し足で再び草むらを踏み分け、着火剤の小さな火が照らし出している辺りを探った。
開けた焚火跡に出る。
人影の代わりにそこに居たのは。
「……ウシガエル、だ」
イボだらけの図体を太々しく光の前に晒し、大きな喉を膨らませてぼぉう、ぼぉうと二度鳴き声を上げている。俺たちを見ても逃げる様子もなく居座り続けている。
しばらく見つめあった。蛙の湿った目がこちらを見るともなく見つめていた。そんな沈黙が5秒ほど続いたのち、どちらともなく笑いが溢れ、やがて爆笑に変わった。何だよカエルじゃん、不審者かと思ったわ、と腹を抱えてヒィヒィ笑い合ったのちにフレットはススキ花火を二本火に翳し、悪餓鬼のように光を蛙の方向に軽く向ける。ギョッとしたかのように蛙は足に一際強く力を込め、草むらの中にぴょんと跳ねて消えた。
「フログ退治〜」
「やめろフレット、動物虐待!」
「本気で焼くわけないじゃん」
悪びれもせずに軽く返した横顔を二本のススキ花火の青白い光が照らしていた。
フレットが持ってきていた大きな吹き出し花火を手に持って光の柳を作り、打ち上げ花火を川面にぶつけて遊んだ。火薬の光は川面に二・三度跳ね、それからパチンと音を出して弾けた。そうして大きな筒を大方片付けてしまってから、俺が持ってきていた手持ち花火に次々と火をつけていく。
「……北海道の話、聞かせてくんない?」
緑色の芯が新聞紙の上に重なり始めたタイミングで、フレットがぽつりと強請る。
「面白くはないと思うけど」
「いいから」
促されるままに俺は話した。札幌の時計塔が噂通りの地味さだったこと。小樽に足を伸ばし、運河沿いのレストランでジンギスカンを食べたこと。そこまでの行き帰りの電車から北国らしい黒い海が見えていたこと。車を借りて、新しく出来た民族博物館を見に行ったこと。フレットは時折顔を上げてニコニコと俺を見ていた。花火の光がチラチラとその笑顔を照らしていた。
「面白いじゃん」
「そうか?」
「面白いよ」
フレットは次の花火を着火剤の炎の上に翳す。芯だけの緑の山はだいぶ嵩を増やしていたが、散々買い込んだ手持ち花火はまだまだ尽きそうもない。
「俺ら、死神ゲームでずっと一緒にいたじゃん。それなのにリンドウはそんな遠くにいたんだよなって、なんか変で面白い」
「そんなこと言ったらお前もだろ。……おまえは、ハワイで何してた」
乞われるままにフレットもとつとつと話した。海に降りていく桟橋、通り雨とその後の虹。日帰りで島に出かけて、マグマがふつふつと流れ出る活火山を目にしたこと。その眩しさと、麓のビジターセンターで絵葉書を買ったこと。左ハンドルのレンタカーを父が運転して、島を一周したこと。聞いているだけで、南国の色鮮やかな風景が心に浮かび上がってくる。確かに面白かった。本当に彼はハワイで遊び回っていたのだ、と信じそうになる。
それから話は渋谷で過ごした三週間のことに移り変わった。黒いコートを靡かせた男が自分たちを助けてくれたこと。乙女ゲームが好きな眼鏡の少女を仲間に引き入れたこと。自分たちの目の前で、気弱そうなチェックセーターの青年が消えていったこと。ノイズや死神と戦ったこと。
金策をしては食事を詰め込み、馬鹿みたいに服を買いまくったこと。SNSもアプリのメッセージも消えて、まるで最初から自分たちなど居なかったことにされたような不安を胸に抱いていたこと。
とりとめもない、切実な与太話だった。
ふと、幸せだな、と思った。この不思議な二重の記憶を語り合える相手がいるということ。そしてそれが、ずっと一緒に走り続けてきたフレットであること。何だか二人で世界から追放されているような気がした。
おかしな話だけど、そういうのも悪くないかなと思えた。何かを言おうとしたが、うまく言葉にできない。少しの間不自然な沈黙が流れ、それを不意に軽い口調が破った。
「いや、分かるわ。リンドウ」
「何がだよ」
反射的にぶっきらぼうな言葉が口をついて出る。それを聞いたフレットは着火剤の光を挟んで、にぃー、と狡そうな笑みを浮かべた。
「『良かった』とかじゃね?一人じゃなくて良かった、とか」
「……なんで分かるんだよ」
「だってリンちゃん凄く優しい顔になってたから」
ぎょっとして顔を背ける。どんな顔をしていたのだろう、にやけていただろうか。腑抜けた顔をしていただろうか。
「っていうか、俺がそう思ったんだよね。……こんな変な感じがしてるの、俺一人じゃなくてよかった。リンドウとこうして話ができて良かった……って」
「一人じゃなくて、良かった」
相手の言葉を改めて舌に乗せてみる。「良かった」、そうかもしれない。「幸せ」よりもしっくりくる言葉だった。
「俺もそう思う……フレットが居てくれて、良かった」
「リンドウが居てくれて良かった」
俺の言葉に、フレットは間を置かずに応えてくれた。遠く隔たった二つの思い出と、一番近くにいた記憶。俺たちはずいぶん奇妙なものを共有し、分かち合った。
ケムリの匂いに包まれながら夜を駄弁り散らしているうちに、買い込んだススキ花火の山はだんだん掌で握れる程度に、数えられる程度に、そしてたった二本にまで減っていた。
「ありゃ、もしかしてもう終わりか〜」
「思ったより早かった」
最後の手持ち花火を一本ずつ摘み、継ぎ足し続けて3個目となる着火剤に同時に翳す。しばらく炎に炙らせたのち、プシュ、という気の抜けた音とともに二つの光が手元から吹き出した。黙ったまま斜め上向きに持ち上げ、二本の光が放物線を描いて地面に落ちていくのを眺める。シュウウ、としばらく勢いよく流れていた光が、やがて力を弱め、細くなり、消える。
今や新聞紙の上には線香花火の束が残るだけとなった。それでも、3・4セット買ったそれぞれに小包が入っていたので結構な量になってしまっている。
「線香花火って一番シケるじゃん」
「生きてればいいけど」
そう言って包み紙を解き、試しに一本を火の上にぶら下げる。チリチリと火薬の匂いを漂わせたのち、縒り合わされた先端の光が球形を作り、幾本かの火薬の星を周囲に弾き散らした。割と生きてるっぽいね、とフレットも一本を取り出して火を付ける。
「……この前はさ、誰が一番長く生きてるか競争したよね」
「ショウが一番早く落としたのだけ覚えてる」
「罰ゲーム、何だったっけ」
「全員分のガリガリ君」
その場の全員で種火を囲んで線香花火を垂らしていた、真剣勝負の雰囲気を思い出す。一斉に火をつけ、輪になった空間の内側を風から守るようにしながら声ひとつ上げずに互いの火花を見守った。ショウが負けたのも決して彼自身の落ち度ではない。たまたま隣にいたフレットが、不意にその耳にフッ、と息を吹きかけた。ギャ、というような声と共に大きくバランスを崩した彼の手元からあっけなく火球がこぼれる。爆笑するフレットを脇にして、これは不正だ、いや不正でもシュウの負けだとしばらく議論が続いたが、結論はやはりシュウの負けで確定した。真剣勝負だとは言ったが、「他者の妨害をしてはならない」というルールはない。
「あれさ、もっかいやろう。リンドウ」
「どっちが長く持ってられるかってやつ?」
「そう」
「罰ゲームは?」
「んー、何でも……お互いさ、勝ってからで良くない?」
勝つ自信があるのだろうフレットは余裕を見せつけるような提案を投げかけてくる。また同じ作戦でも使う気なのだろう。
「……ま、いいよ」
そう言って、火の前に並んでいたところから少しだけ腰を浮かし、距離を取った。幸いにも気づいた様子がないフレットは、よっしゃ、と勢いづいて線香花火を二本取り出した。手渡された一本を摘み下げて、いっせーのーせ、のタイミングで火に翳す。焦げ付く僅かな音が二人の間を満たしたのち、ほぼ同時に光の球が捻り紙の先に垂れ下がる。火球が大きくなる前に急いで体勢を戻し、身体で風から守れる位置に吊り下げた。
さぁやるならやってみろ、と身を固めた次の瞬間、首筋に柔らかく、濡れた感触があった。至近距離にフレットの頭があり、制汗剤だろうシトラスの香りと、隠しそびれた汗の匂いが少しした。逃げる間もなく固まっているうちに相手の顔が離れる。リンちゃんしょっぱい、と臆面もなく口に出す相手をしばらく見つめてから、ようやく何をされたのか気づいた。
「何ッしてんのおまえ!?」
「悪戯〜」
「もうちょっと順当なことしろよ!」
「だってそれじゃ面白くないじゃん」
相も変わらずケラケラと乾いた笑い声を立てる相手に軽い目眩を覚える。暗くて辺りに誰もいないことは織り込み済みでやっているのだろうが、それにしても一応は開けた河川敷である。時折は、サイクリングらしき車輪の音がしゃあと通り抜けていく程度には人通りもある。……それから、俺相手ならそう言う悪ふざけが許されると思って、そんなことを仕掛けるのだろう。俺がどこまで、何のためにおまえを……いや、大体、本当に大体だな。
「……それ、俺の勝ちなんだけど」
案の定、大きく身体を寄せたフレットの手元の花火は完全に火球を落としてしまっていた。対して自分の手元には、小さくはあるが最後の光の線を放つ火薬が僅かに残っている。
「あ、俺負けてたか」
ざんねーん、と特に残念がる様子もなく頭を掻いている。試合には勝ったが勝負には負けたような気がする。勝ち取ったものといえば、『何でもいい』と委ねられた罰ゲームの権利ぐらいだ。
「……面白いとかでそう言うことしてんなよ」
物事の順序が欠落している。思考がぐるぐる加速しながら巡る。
「うん?リンちゃん怒ってる?」
「怒ってる、って言うかさ」
ゴメンねー、と頭を掻いているその顎を片手で軽く捉え、上を向かせる。軽い驚きで竦んでいる間にそっと口づけをした。口づけと言ってもよく分からないからしばらく触れたまま不安定にじっとして、それから離れる。その唇の柔らかさと暖かさは分かった。その程度、それだけの行為だったが、相手はしばらく呆気にとられたように固まっている。いい気味だ思い知れ。
「……こんな感じになっても知らないよって話」
「……」
頬を赤らめて口をパクパクさせているが、言葉にはなっていなかった。一旦諦めてフゥ、と息を吐き、また吸って、俺の方に向き直る。
「……リンドウさん、今俺にキス?しました?」
「しましたけども」
「どして?」
「罰ゲーム」
言ってしまってから、時間差でいたたまれないような気持ちが迫り上がってきた。先に手を出したのは向こうだが、より強く殴り返したのは俺だ。どっちが悪いとも言える。
「……あんまり罰ゲームになってない」
「へ?」
「俺が喜ぶようなことしたらさ、罰ゲームにならないっしょ」
「喜ぶ、って」
「……今日、さ。ちゃんと言おうと思ってたんだよね」
そう言ってフレットは体勢を直した。まともに俺に向き合う姿勢になる。時間が歪んで、流れがゆっくりになったかと思った。この世界もリスタートでなかったことにしなきゃならないのかな、なんて突拍子のないことを思った。
「……色々あったけど、リンドウと一緒で本当に良かったなって思う……だからもっと、リンドウと一緒に色んなことしたい」
「……それって」
「ダメなら断っていいよ」
そう言うだけ言って、ヘラっと逃げるような笑みを浮かべた。勇気、と俺は思う。自分の外側にある境界線を、フレットは恐る恐る、しかししっかりと跨いで乗り越える。眩しい奴だな、と俺は思う。身に纏ったいくつもの金属や装飾品の輝きに相応しいほど、彼は眩しい。
「……ダメな訳ない」
それだけ言うのがやっとだった。問い直すように見開かれ、そのままじっと俺を見つめる蒼い瞳に言葉で答えるよりは、再び唇を奪ってしまう方がずっと楽だった。
感触を重ねる。先ほどよりしっかりと。
暖かく、柔らかい。そっと頭の後ろに手を回したが、フレットは逃げるそぶりもなくそれを受け入れてくれた。フッ、と小さく息の流れすら感じられた。そうしてしばらくじっと皮膚を触れ合わせたのち、そっと離れる。
「……おまえなら、何でも」
こういうのってこれで合っているだろうか、今更不安になって相手の目を覗き込むと、ふわふわと所在なく漂っていた目線が俺の目をしっかりと覗き込む。そしてどこか見慣れない、はにかんだような笑みを浮かべた。
「……やるじゃん、リンドウ」
「ダメだったか?」
「ダメな訳ない。……スゲー嬉しい。……いいならさ、付き合っちゃっていい?」
「付き合う?」
そう言って、少し残った線香花火から一本を取り出し火をつけた。パチパチと爆ぜる音を聴きながら、考える。意味は分かる。でも何をすれば良いのだろう。「付き合う」と言った場合、何から始めたら良いのだろう。俺の当惑を知ってか知らずかフレットは「何でもいいんだよな?」と勝手に決めてしまった。断るつもりもなかったから黙って頷いてやると、何となく暖かな沈黙がしばらくその場を満たした。
「……行き損ねてんね、俺たち。北海道も、ハワイも」
俺に倣って線香花火を取り出しながら、フレットが呼びかける。そだな、と軽く返してからワンテンポ置いて、フレットは口に出した。
「行っちゃわない?」
「は?」
「そしたらさ、どっちもできたことになってオトクでしょ」
「お得って……おまえなぁ」
相変わらず要所要所で楽観的すぎる恋人にため息をついた。そんな俺を横目に捉えながら、フレットは歌うように続けた。
「来年のオープンキャンパスさ、二人で北大見にいこうぜ。ついでに小樽行って夕張メロンクッキー買って、どっちも本当にしちゃおうよ」
「ついでっておまえはそっち本命だろ……でも、それも良いかもな」
「約束な!」
そう言って小指を立てたその手に、子供っぽいと思いながら自分も小指を絡めた。本当になるかどうかは分からない。でも本当になっても構わないし、そうなればいいと思って力を籠めた。しばらく指を結んだのち、指切った、と言って離す。
「いつかハワイにも行ってさ、海見てドライブしよ」
「それ運転するの俺な」
「なんでよ!俺信用ない!?」
心外だ、というように拗ねて口を尖らせていた。信用していない訳ではない。俺がそうさせたくないというだけの唯の我が儘である。俺が車動かしたいってだけだよ、と誤魔化すと納得してくれたようで、まぁいいけどさ、と流してくれた。それから一息ついて、改めて切り出してくる。
「でもさ、とりあえずは来週……バッジ買いに行かね?」
「バッジ?」
「そう。忘れないだろうけど、覚えときたいじゃん」
トコトコかばさん。縁側の休日。音楽家とっぽ。彼は懐かしいバッジの名前をいくつも数え上げた。
「服とかは高いけどバッジならなんとかなるっしょ?渋谷中回ってバッジ買いまくって、記念にしようよ」
「それは面白そうかも」
「そんでナギセンみたいにリュックにつける」
「ダッサ」
「良いじゃん。二人でダッサいリュック背負って遊び行こう」
「……ま、それも良いかも。考査も終わったしな」
そう言って身体を投げ出すようにして空を見上げた。渋谷よりは広い夜空のキャンパスに、ちらほらとだけ星が散らばされている。風は草いきれの鄙びた匂いを運ぶ。
一週間の後の休日を俺は思い浮かべる。いつものように渋谷駅で待ち合わせて、リョウジさんの露店や安価なシェパード・ハウス、トポトッポでバッジを買い漁る。たこ焼きなり焼き芋なりを買い食いしながら、キャストを通って原宿まで足を伸ばし、タマオさんのお孫さんの話を聞きながらカエル柄のバッジを吟味しよう。そうして戦利品を大きなリュックに次々と付けて、ダサいと言って笑い合おう。それはとても他愛なくて、そしてかけがえのないほど幸せな時間に思える。
身体を支える形で地面に突かれたフレットの左手に、そっと自分の右掌を重ねる。自分のより少しだけ大きな手。握り込むようにして指の間を捉えると、自分とよく似たテンポでトコトコと拍動が小さく鳴っていた。何度世界をやり直し、何度全てを失いかけてでも、俺がどうしても守りたかったモノがそこにあった。
二度とどこかに消えてしまわないように、握る力をぎゅ、と少しだけ強める。夏の終わりの風がゆるゆると冷えていく中、繋いだ手のあたりはいつまでも陽だまりのように暖かかった。