Galápagos「それでは、番号移行の手続きはこちらで完了になります」
「あ、はい」
白く清潔なカウンター越し、銀のスマートフォンがネクに手渡される。日曜日の携帯ショップは子供たちの賑やかな笑いと、柔らかに嗜める家族の声で満ちていた。スマホに変えることをビイトに相談したのは正解だった。「休みの日は混んでるからな」と代わりに予約を取ってくれたお陰で、チケットの発行から殆ど間も無く名が呼ばれ、カウンターへと誘導された。しかしそれにしても、ここまで時間がかかるとは思っていなかった。
「すみません、色々教えてもらって」
「とんでもございません、お役に立てて光栄です」
艶のある茶髪をポニーテールに結んだオペレーターが、カウンター越しに整えられた微笑みを返す。実際の手続きは10分もかかっていないのだが、ネクがスマートフォンの操作についていちいち尋ねていたために応対時間は大分延びてしまっていた。彼女が親切に、まるで幼子にするように画面の立ち上げ方やメニューの開き方を教えてくれるものだから、ネクは申し訳ないような恥ずかしいような気持ちで一杯だった。
「では、お使いだったケータイはこちらでお預かりしましょうか?」
「あー……いえ、持ち帰ってもいいでしょうか」
机の上に乗ったままになっていた携帯電話にそっと手を重ねる。
「勿論です、お持ちください。ずいぶんご愛顧いただいたようで、私どもも嬉しいです」
調律された感じの良さについて、ネクは思う。完璧な微笑。それは彼に銃口を向けた少年が浮かべていた笑みに少し似ていて、しかしそれよりずっと暖かかった。対応はマニュアル通りだとしても、言葉の紡ぎ方から気持ちが伝わってくるようで、感謝の思いがふつと胸に湧き上がる。色々とありがとうございました、と言ってそのまま席を立ち、自動ドアを潜った。
「スマホデビュー完了か、ネク」
戸外の錆臭い空気に身を晒したネクに声がかけられる。車止めに寄りかかっていたビイトが、よう、と片手を上げていた。自分の代わりに予約チケットを受け取った後に「30分後くらいにまた来るわ」と店の外へ出て行ったのだから、時計が半分回る程度には待たせてしまったことになる。
「ビイト、悪い。遅くなった」
「別に気にしてねぇよ、俺もやることねーしな」
スマホ見せてみ、と乞われるに従って受け取ったばかりのスマートフォンを取り出す。手垢一つ付いていない、銀色の無個性なスマートフォンはまだ画面に保護シールがついたままの状態だった。
「おお、結構高いヤツじゃねーかこれ」
「ポイント付いてたから結構割引になったんだ」
「まぁ……その、携帯は長く使ってたからな」
そうだな、とネクはいったんスマートフォンをしまい、先ほど貰い受けてきた愛用の携帯電話を取り出す。
「何だ?それもう使えねぇだろ」
「そうなんだけど、捨てられなくてさ」
折りたたんだ中央に親指を差し込み、慣れた手つきで持ち上げる。親指でポチポチと画面を操作し、写真を映し出してビイトに差し出した。うん?と覗き込んだビイトは眉を顰めた。
「壁グラか、それ」
「あぁ。それから、こういうのも」
「センター街、宮下公園、ワイルドキャット?」
「思い出なんだ。新宿にいた時、渋谷が懐かしくなったらよく見てたんだ……帰ってきたらワイルドキャットとか宮下とか渋谷川とかは凄く、変ってたけど」
「あぁ、なるほどな……でもよ、写真ならSDで移せるだろ?」
「これだけじゃなくて」
ネクは再び何度かボタンを押す。再び表示されたのは、白地にテキストが浮かび上がるEメール画面だった。
“From:シキ 件名:Re:Re:楽しみだね! “
> 来週はちょっと忙しいんだけど……その次の日曜日なら空いてるかな?
何も言えないでいるビイトを横目に再び別の画面が表示される。
“From:ビイト 件名:Re:Re:Re:明日は”
> ライムの買い物に付き合いで渋谷行く
「これがあの日の前に貰ったやつだよな」
「……あぁ、思い出した」
「こういうのが残ってるから捨てられなかったんだ。みんなが懐かしくなった時はメール見てたんだよ、ちょっとだけどあの日の前にやりとりできてて本当に良かった。それに、アイツとのメールも……無くしたくないしな」
「ネク……」
携帯を握りしめる手の力が少し強まる。ネクにとって、かつてはそれが過去と繋がる数少ないよすがであり、心を照らしてくれる灯台であった。薄暗がりの中瓦礫の上に腰を下ろし、もう数百回も読み直したメールの画面を立ち上げる。白い背景に映るシンプルなメールの文字は、いつでも彼に旧い友人たちの声を蘇らせてくれた。
「捨てられなかった」
「……そうか。なら、大事にとっとけよ」
「あぁ」
大人しく携帯をたたみ鞄に仕舞い込む。じんわりと沈黙が間を満たし、それを破るようにビイトが明るいトーンの声をかけた。
「それよりよ!もっかいスマホ出せ」
「うん?」
「アプリ入ってるだろ」
半ばビイトに指先を動かされるような従順さでネクは画面を操作し、メッセージアプリを立ち上げた。そのままな、と指示したビイトが自分のスマホを取り出し、表示されたQRコードを読み込む。3秒後に髑髏のスタンプが画面に現れた。
『よろしく』
「これ、ビイトか?」
「おう!んで、ちょっと画面見せな」
再び指示されるままにフレンド画面を表示し、「承認」のボタンを押した。画面が入れ替わる。『ビイトさんのプロフィール』。
「何だこれ」
「フレンド第一号だっ!」
「フレンド?」
「コレで連絡するんだよ!リンドウたちがやってたやつ」
「慣れないな」
「まぁそのうち教えるって……んで、ツイスターズのルームが…これだな」
画面上部から「招待」のボタンが現れる。先程のビイトを真似て「承認」ボタンを押すと、すでに何件かトークの跡があるルーム画面が映し出された。
『ビイト:ネクは今日スマホデビューだぜ』
『フレット:まじ!?早いじゃん』
『フレット:終わったらビイト招待して』
「ほら、ネクから挨拶しろよ」
「まだ慣れないんだけど」
「ゆっくりでいい」
ビイトに案内されながら、ゆっくりと日本語キーボードを操作した。ボタンの部分が盛り上がった携帯電話と違い、スマートフォンの画面はつるつると滑りひらがなの入力が何度もずれた。たった8文字を打つのに1分もかかった。
「……送信」
ピコ、と音を鳴らして「これからよろしく」の一文が画面に現れる。
「初メッセだな」
嬉しげにビイトが声をかけた1秒後。早速チェックマークが付いたと思っていたら即座に、間抜けな表情の猫のスタンプが画面に躍り出た。
『おめでとうございます』
「流石にリンドウは早いな」
ネクが苦笑を漏らす。
「ま、これから慣れればいいだろ」
一仕事終えたようにビイトは伸びをして、それからネクの背中を軽く叩いた。
「昔のメールも大事だけどよ、これからこっちでいくらでも連絡できるぜ」
ネクは鞄の上から中の携帯電話を探る。掌になじんだ大きさのそれはもはや電話としての機能を失い、思い出を内包するだけのストレージとしてのみそこに残っていた。それを鞄の上からそっとなぞる。
「そうだな。でもこっちもお世話になったから、俺には大事なんだ」
「……ま、それもそうか」
んじゃ行こうぜ、と声をかけられるに従って、ネクは銀色のスマートフォンを鞄のポケットに仕舞い込む。愛好のブランドの手になる肩掛け鞄の中に、不完全な過去と賑やかな未来を映す二つの機械が静かに眠っていた。