messed with my FRIEND 痛みはとっくに消えている。それでも赤い跡が残っているし、取り上げた剃刀もそのまま自分の机の引き出しの中にしまってあるのだ。尤も、剃刀なんてまた買い足せばいいのだからどれだけ効果があるのかなどは分からない。度々彼の腕の内側を見せてもらう限り今のところは上手く働いているようだけれど。
遊びにやってきた彼の部屋で、先ほどまで彼の持つ映画のパンフレットを見せてもらっていた。ひと段落ついた今は床に体育座りで雑誌を前にしながら、疲れてきた目を紙面から上げてぼんやりと手首を見つめている。
「なーどったのリンドウ、考え事?」
ベッドの上に寝転がっていた彼の明るい声が、俺の名前を呼ぶ。トーンだけは軽々しいその声が俺の耳に絡みつくような響きを帯び始めたのは、確か6月頃のことだった……と思う。俺は彼に関して一つ目の間違いを犯した。それが始まりだった。
***
「フレット、それ」
いつものように渋谷駅前で待ち合わせ、ショップをぶらついてたまたま空いていたベンチに並んで座った。ふんふんと紙袋のテープを剥がし、中身を覗き込んでいたフレットが顔を上げる。
「それ?」
「ピアス増やしたんだな」
自分の耳の上の方に手を触れて示してやる。先週一緒に遊びに行った時までは耳たぶにだけ穴が開けられていて、自分のそれといつかお揃いにしようか、などと言って何となく楽しい気分を分かち合っていた。それが、今日は耳の上の方にまで増えている。それも、二点。
「あーコレね?カッコ良さそうだし開けてみた」
どーよ良さそうっしょ?とフレットは、シンプルな銀の小球で飾られた両耳を引っ張って見せた。しかし、彼の言う”良い”とは何のことか俺にはよく理解できなかった。
自分の周りには軟骨にまで穴を開けるような人間はいなかったし、ネット記事でそう言ったアクセサリーを身につけている男の姿を見れば俺が抱く印象は率直に言えば「怖い」だった。大人でさえ独特の威圧感を放つそのアクセサリーを、同級生が身に纏ってはしゃいでいる姿はどこか不似合いでもあり、不気味でもあり、そしてどこか痛々しくも感じられる。
「……良さそうというか……」
「えー、もしかして似合ってない?」
「似合ってないというか……」
続く言葉を探すのは難しかった。似合わないなんてことはない。普段から身綺麗に装っている彼のこと、キラキラ輝くアクセサリーは彼の青い瞳やフワフワとした茶髪をよく引き立てる。それだけに痛ましいのだ。たとえフレットが何も身につけていなくても、飾り立てていなくても、 — 無理をしなくてもフレットはフレットだ。毎朝鏡を覗き込んで見える自分は飾り立てるまでもなく自分そのものである — それと同じくらいに。
「自分で開けた?」
笑みを崩さないままで、フレットは答える。
「だね?何度も病院行ってるとお金もかかるし」
「その、」
何個も開けてるとちょっと怖いよ、とか。病んでる感じがする、とか。そんなことが言えるわけもなく、やっと口を付いて出たのは子供のような心配ばかりだった。
「……痛くなかった?」
フレットはきょとんと目を丸くしてしばらく押し黙る。聞こえないくらいの声が小さく呟く。
「……それくらいの方がいーの」
それから再び口を歪めて俺の肩を叩く。
「何リンちゃん、俺のこと心配したとか?やさしーじゃん!」
どこか虚勢のようにも聞こえる軽口だった。
言ってろよ、と流してしまっても良かったのだ。……というよりそれがおそらく正しかった。確かに俺たちは放課後一緒に帰ったり休日に遊びに行ったり、ラインでダラ絡みしたりとそれなりに話をする仲ではある。だがそれは”友達”ではあっても、相談事とか本気の恋バナを共にするような”親友”という関係には至っていない。暇潰しや空騒ぎだけが積まれた天秤の片方にだけ、思いやりという名の不自然な重みが加わってしまえば相手だって気まずくなる。その程度は分かっていたはずなのだ。
だからそこで引き下がるのが正解で、引きずられる心を振り切れずに口をついて出た言葉はおそらく過ちだったのだ。
「……それ以上はやめた方がいいと思う……ヤバそうな感じする」
先ほどよりも少し長い沈黙が流れた。二人並んだベンチの目の前を、肩を並べたカップルが3組、通り過ぎた。それだけの時間が流れてしまえば、何を言っても軽々しくは聞こえなくなってしまう。
「……そお?」
案の定、彼が口にした言葉は重みを持って二人の間を漂ったのち、パルコ2階のフロアにぽとりと落ちた。拾うこともままならず、再び沈黙が流れた。
***
「なーどったのリンドウ、考え事?」
軽々しい声に名を呼ばれ、傷口から目を上げる。リストバンドを引き揚げて「何でもない」と答えを返したが、暇を持て余したらしいフレットがのそのそと近寄ってきていた。そのまま体育座りの俺の後ろから覆いかぶさるようにして腕を持ち上げてくる。黒と白のリストバンドがついたままの手首をしげしげと見つめる。
「跡、見てたんでしょ」
「……まぁ」
「治った?」
見せて、と促されるままに再びリストバンドを引き下げる。間違いの2つ目。よく似た靴を買い、お揃いのピアスを買おうとはしゃいで約束したのと変わらない調子で、同じリストバンドを身につけてみせたこと。
***
学校帰り、暇潰しのため一人で寄り道した竹下通りの脇道を探索する。少し奥まった歩行者用通路沿いには、かつて流行ったものの今は風前の灯火となった”シープ・ヘブンリー”のショップがひっそりと営業していた。おしゃれが好きだという友人に付き合うにはそこそこの金が必要になるが、アクセサリーであればそこまで手痛い出費にはならない。
色とりどりのブラウスやTシャツで出来た背の低い壁を縫うようにして、店内を物色して回る。レディースのものが多いが、付き合いの男性に向けたものだろう落ち着いた色のジャケットやパンツも少しだけ置かれていた。「レディースぽい店でもアクセだけ見に行くことあるなー」と教えてくれた友人の顔を思い浮かべながら、小物の類が陳列されている木造りの陳列台の前で足を止めた。
色とりどりのアクセサリーがガラスの皿に盛られている様子はまるで子供の玩具箱のようだった。ガラスや天然石でできたブレスレット、ストラップ、それから羽根のついたネックレス。興味の向くままにそれらを摘み上げ、金輪で留められた小さなプライスタグを吟味しては再び皿に戻す。見るだけならどれも綺麗だし、買ってしまえばどれも自分に似合わないような気がしてしまって、レジへと持っていく決心がつけられずグズグズしていた。
自分で買うよりは、彼と一緒に訪れた際に似合うものを見繕って貰った方がいいかもしれない。「下見」という体にしようと、小物の山から目線を上げようとしたその時だった。
見覚えのある黒と白色が目に飛び込んできた。ニスで艶出しされてた木製の腕の模型、手首の部分をそれは覆っている。 — リストバンド。フレットがつけているものと同じカラー。
( …フレット、シープで買ってたんだ )
なんとなく目に馴染んだそれを手に取り、小さな値札をめくればそのリストバンドもやはり3桁お値段であった。友人は何かとお揃いを好む。白いシューズがそうで、ピアスについても後でモノクロウで同じものを買おうかと緩い約束をしている。だから先回りで彼のファッションを真似て見せれば、いつもの懐こい笑みを浮かべながら声を浮かせるだろうと思っていた。
早速購入したリストバンドを手首に嵌め、スマホで片腕の写真を撮って彼にメッセージを送る。
『原宿に生えてた』
購入のおまけで貰った羊のキャラクターのスタンプを送る。星のエフェクトを背負った羊は「似合う?」と上目遣いでこちらを見つめていた。3秒後に既読がつき — しかし、返ってきた返事は自分の想像とは少しだけ違っていた。
『俺のと同じ?』
第一声で喜んではくれないらしい。
『フレットもシープで買ったならそう』
その答えに対しても、返ってきたのは温度の低いスタンプだった。
『そっか』
半目でこちらを見ている羊のキャラクターに首を捻りたくなる。
『フレットもこれ着けてたなって思ったら買ってた』
返信が返ってくるまでに20秒くらいかかった。
『お揃いかー』
それきり返信が帰らなくなり、俺はスマホを閉じた。別に文面ではしゃいでもらいたかったわけではないが、肩透かしを食らった気分になる。
肌に貼りつく長袖が鬱陶しくなってくる7月だった。雨に閉ざされた中でも気温は日に日にじわじわ上がっていく。リストバンドが触れる面積はそんなに大きくはないが、素材が厚いからそれなりに汗を吸ってしまうと知った。そんな中でも付けっぱなしにしているくらいだから、フレットはきっとリストバンドをそれなりに気に入っているのだろう。俺から見ても似合うし、ライトな感じがして感じがいい。それだけに、妙なローテンションが少しだけ気になった。
少し考えてから気づいた。俺は、彼が喜んでくれるだろうと思ってそれを買ったのだ。
***
「リスカの跡。見てたんでしょ」
「……まぁ」
「治った?」
見せて、と促されるままに再びリストバンドを引き下げる。何度か瘡蓋ができてその度に微妙に剥がしていたからか、一筋だけの割にリストカットの跡はくっきりと赤く残っていた。
フレットはしげしげと傷痕を眺め、その上に人差し指をそっと載せた。
「……痛そ」
「おまえもやったなら分かるだろ」
「分かるんだけど、人の見てると痛そーに見える」
感慨の篭らない、どこか無機質な声が狭い部屋の中に少し響いた。間違いの3つ目はこの傷痕。彼の身代わりに一筋の赤い傷を負う前に引き返していれば、カフェオレとショッパーとラインスタンプで満たされるだけの友達関係をどこまでも続けることができたはずなのだ。
***
彼は時折居なくなる。その事実を受け止めたのは二学期が始まり、秋口に入ってからであった。「居なくなる」というのは「行方不明」と言い換えてもいいし、「サボり」と言い換えてもいい。ともかく、特に体育や課外学習の時間、ふと気がつくと彼の姿がどこにも居ない、という現象がよく起こるのだ。
特に同じグループに属することが多かった訳ではない、むしろどちらかというと別々の班となることの方が圧倒的に多かった。それでも彼の大声は基本的によく通ったし、それがない状態では同級生のざわめきは褪せた色を帯びるように、俺には聴こえた。
一学期の頃は聞かれるたびに「フレサワ?トイレ行ってくるってさ」と答えていたメンバーたちも、夏が終わる頃には「あぁフレサワ?またサボりじゃね」と気にもせず返すようになっていた。それでも彼は、終業チャイムが鳴る頃にはちゃんと体育館なり校庭なり集合場所に戻ってくる。戻ってきて、何事もなかったかのように友達と談笑している。
それが不思議で、気がかりで、しかし直接尋ねることはできないでいた。言ったところではぐらかされるのは分かっている。ならば深追いする必要などなかったはずなのに、何を考えたのかその日の俺は彼の後を追ってしまった。バスケットボールを共にしていたグループのメンバーには「ちょっとトイレ」と言い訳をして。
体育館から繋がる廊下は薄暗く、向こう側まで誰もいない。体育館から一番近くの男子トイレは廊下の突き当たりにあるのだから、向かうのであれば後ろ姿が見えるはずなのだ。疑問を抱きつつ埃っぽい通路を歩いてゆくと、普段は施錠されているはずの非常扉が開いて風が吹き込んでいた。ノズルに手をかけ、ギッ、と押し開ける。午後2時の戸外の光が真っ直ぐに目に焼き付き、黄緑色の風が前髪をくすぐった。
彼の姿を探し出そうと、校庭の向こうのほうに目を向ける。だが結論から言えばそんな必要すらなかった。一旦向き直って扉を閉めると、探していた相手は扉の影になる部分に体育座りで腰を落としていた。あ、とその口が開かれている。
その手には剃刀が握られていて、リストバンドを外した左腕に押し当てられていた。刃の下には蚯蚓腫れのような赤い跡が幾筋も残っていた。フレットは「おっす」と片手を上げる。おっす、じゃない。
「……見つけた」
「見つかったかー」
彼は言い訳するときのような弱った微笑みを浮かべた。
「ここ意外とバレにくかったんだけど」
「……何してんの」
「休憩?まだしばらく帰んないけど、別に心配しなくていーよ」
「……帰るとかじゃ、ないだろ」
目を逸らそうとしても無駄だった。勝手に手首のあたりに目がいった。それを悟ったのか、フレットは手首から一旦離した剃刀を、隠すでもなくフラフラ振ってみせる。
「……中学の頃とか結構やってたんだよな」
粘っこい唾が湧いた。それをなんとか飲み込むゴクリという音が頭の中に聞こえた。
「高校入ってからはピアスの穴開けるとかで我慢しようと思ってた……軟骨とか、あとは舌ピとかへそとかあるし」
「フレット、それは」
「怖い、だろ?だいじょぶ、リンドウに止めてもらってからはやってない」
彼は示すように耳たぶを摘んでみせた。学校では外されているから今は見えないが、休日に目にする彼は常に3つのピアスを身につけていた。それ以上増えてはいない。
「だから代わりにこっち」
「俺が、止めたから……?」
「……」
無言の答えが返った。
「…リスカだって、多分やめた方が」
「そーゆーの、いいよ」
言葉を遮るようにフレットが静かに口にする。
「多分分かんないと思うし……あーいや、分かって欲しいって言ってるんじゃなくて。心配してくれてんのにな、ゴメン」
目の前で否定するように手を振ったり、パシンと手を合わせて懇願したり。忙しない身振りで誤魔化してはいるが、木枯しのように冷めた目の色はずっと変わらなかった。柔らかに、しかしあくまで冷静に距離を置いて遠くへ行こうとする。その目線の先に荒涼としたものが見える気がして、胸のあたりが寒くなった。
壊れて欲しくないと、思った。
「……分かれば、止めてもいい?」
「リンドウ?」
「それ借りていいか」
答えを聞かず、奪い取るようにして剃刀を自らの手に収める。ピタリと左の手首に沿わせる。摺りたてのプリントで指先を切ってしまったときのような、嫌な痛みの感覚が一瞬脳内を駆ける。
「やめろよリンドウ」
震えた声色だった。そこを疑っているわけでは、決してない。ただ彼は自分の表情をうまく制御できていないだけなのだ。
唇の端が持ち上がっている。声と瞳に浮かんでいるのは拒絶ではなかった。期待、と言ったほうが近いと思う。ことばの意味と内容が異なるという現象に、俺は初めて立ち会ってどうしたらいいか分からなかった。逡巡を無理やりに振り切った。
「俺が分かりたいだけだし、止められる筋合いない」
「リンドウ!」
制止の声を待たず、俺は右手を引いた。強い力ではなかったが、すう、と刃が落ちて皮膚が薄く裂かれる。顔を上げてフレットに向き直る。
「俺もこれでやめるから、フレットももうやめろ」
フレットの目は大きく見開かれていた。青い瞳が不安定に揺れている。その視線が不安げに手首の傷に注がれ、そのまま固定されて、……しばらくして彼はふぅと小さな息を吐いた。
「……ありがと。そうする、多分」
慣れていないからか傷は意図より深く入ったようで、じわり、と何度も血が滲む。それをペーパーで拭い、また新しい血液が湧くのを押さえつけ……その間フレットは「結構深く行ったね」と俺の手首をじろじろ見つめていた。
結局10分程度は傷口と格闘していた。ようやく血が止まったのち、フレットは「自分用だったんだけど」と言いながらポケットから絆創膏を取り出した。十分な幅がある、肌色のシンプルな絆創膏。それを巻いて貰えば傷口はほとんど目立たなくなった。
受け取った剃刀をポケットに差し込んだまま、小さく声を掛ける。
「……じゃ、俺先帰るけど遅れるなよ」
「リンドウ」
「何」
彼はしばらく口の中で言葉を探したが、結局諦めたようにニッと悪巧みのような表情を浮かべる。
「……このサボり方するとさ、トイレ長いって言われるから気ぃ付けて」
「あー、そうかもな……」
「ドンマイ」
手を振って非常扉を開け、そっと元の廊下に身体を滑り込ませる。まだ授業中だろう廊下には相変わらず誰もいない。自分一人だけで歩く音が鳴って、体育館の入り口まで俺を追いかけた。
(彼の言う通り、体育館へ戻り自分のグループに一言声をかけて合流した俺を出迎えたのは「カナデ、トイレ長い」と言う揶揄いだった。肌と同じ色で手首を覆い隠す絆創膏に、気づく人間はいなかった。)
***
「分かるんだけど、人の見てると痛そーに見える」
感慨の篭らない、どこか無機質な声が狭い部屋の中に少し響いた。人差し指の腹に少しだけ力が加えられたのか、手首を圧す指先の熱が少しだけ肌に沈み込む。
「リンちゃん白いから映える」
「映えるってなんだよ」
文句を口にしても全く怯むことなく、フレットはニヒ、と笑って爪先で手首をカリカリと掻いた。形良く整えられた切っ先が傷に交差するたび、悪寒のような痺れがゾクリと背筋を駆ける。
「お揃い」
楽しそうに口にしたフレットの指の動きがふと止まる。そのまま直角に爪を立て、上書きするように傷の筋の上をスッと引いた。
「……シュミ悪」
「そーかも?でも俺は嬉しいよ」
再びリストバンドで傷口を隠しながらフレットは続けた。
「リンドウが色々止めてくれたのも、俺だけじゃないって思えるのも、リンドウとお揃いってのも。……なんかリンドウが守ってくれたみたいで嬉しい」
「……言ってろよ」
彼の痛みを受け止めた証を捨てて、また素肌の自分に戻ってしまったら、彼は再び自らの手首に刃を立てるのだろうか。或いはその代用として、自らの耳や舌をいくつもの金属で覆い隠すのだろうか。そう想像するとなんだか寒々しい気分になった。リストバンドの上から手首をきゅ、と包み込むと、さらにその上から友人の掌が重ねられる。その手の付け根にも自分のものと同じカラーのリストバンドが巻かれていた。
「ありがとな、リンドウ」
「……何が」
「何ってわけじゃないけど、まー色々と?」
そう言いながらも彼は俺の手首から手を離さず、親指で俺の手の甲をスルスルと撫でた。
しばらくは外せないのだろう。……いや、いつまでになるのかすら、分からない。二人分に増えた傷口をどうやって癒せばいいのかさえ、俺には見当もつかなかった。
傷を分かつなどという面倒ごとに、首を突っ込んだのは始終俺の方だったのだ。