風の行方 あの日、あの時間の前に渋谷駅前で何が起こっていたのか俺は知らない。多分何かがあったのだと思う。
気づいた時にはスクランブル交差点の白線の上で俺たち5人で輪を作るように突っ立っていた。信号は緑色だったが、賑わった道路の真ん中でぼさっと突っ立っていたらそりゃ通行人の邪魔にもなる。急いでハチ公前側に歩を進める俺たちを、道ゆく人々はじろじろ迷惑そうに睨んでいた。
“俺たち5人”なんて言ったけど面識なんて全く無くて、ただたまたまそこに居合わせただけに過ぎない。少し話をした結果も「全員直前の記憶を失っている」というおかしな共通点しか見出すことができなかった (但し、ガットネーロの白服を着た青年とヘッドフォンをつけた金髪の兄ちゃんは友達同士なのだと言っていた) 。彼らが連れ立って離れていき、大きな眼鏡をかけた少女と猫耳フードの子と3人で取り残されて何となく目を見合わせる。特にそれ以上話すこともなかったから、互いに気まずい思いを抱えたまま「じゃあ、」とだけ挨拶をした。彼女らはそれぞれ別の方向に歩き去っていった。
何をしようとしていたんだっけ。
頭がぼんやりしてうまく思い出せないので、とりあえずハチ公像に寄りかかって忙しなく行き交う人々の姿をしばらく目で追っていた。像の前にちんまりと設けられた広場の隅で、木の葉が風に巻き上げられているのが見えた。渦を巻いた風は埃や砂粒も一緒に持ち上げ、自らの輪郭を灰色に縁取っている。
旋風、つむじ風。その形は小さな竜巻を思わせる。
それを眺めるともなく眺めていると、不思議な喪失感が胸元まで湧き上がり、心を浸した。何かとても大切で、大事に思っていたものを置いてきてしまったような気がした。それが何なのか、どうしても思い出せない。
スマホを開いてメッセージアプリを立ち上げてみても、クラスの共通ルームに3件新規投稿があるだけで家族や個別の友人からの連絡は特に入っていなかった。待ち合わせ、というわけでもないらしい。しばらく待っていても今日ここに来た理由を思い出すことはできず、とりあえず目的も定まらないまま道玄坂方面へと歩き出した。せっかく渋谷まで来ているのだからすぐに家に帰ってしまうのも勿体無い気がした。
単調なテンポで歩くに従い、見慣れた風景が等速で視界を過ぎる。規則的な運動が刺激になったのか、徐々に記憶にかかった靄が晴れていく。確か、今日は104前で王子が新しいエナドリの生宣伝を行うことになっていた。そう、確かそれを見に来たんだった。昨晩久々に覗いた彼のブログで、翌日のゲリライベントの告知を見かけて懐かしくなったのだ。早めに渋谷に向かって、王子の顔を拝んでから飯でも食ってダラダラ店を見て回ろうと思っていたはず。
イベントのためとはいえ一人きりで繁華街を出歩くのは少し寂しいとも思うが、自分の趣味でクラスの友人達を一日中振り回してしまうのは流石に申し訳ない。中学の頃はこういった時に気軽に付き合ってくれる親友がいたものだが、残念ながらもう遠くへ行ってしまった。今は連絡すら取れない、そのことを思うと今でも取り残されたような気持ちになる。
道玄坂を向かう通り、道を二つに割るような形で聳える104ビルの前には既に人だかりが小さな山を作っていた。最盛期から3年ほど経過した今でも王子の人気は陰りを見せない。女性だらけの後ろ姿越しに、既にステージの上で華やかな空気を振りまいている彼の姿が見えた。
— ボーッとしていたせいで出遅れてしまったようだ。
胸元に小さな集音マイクを付けてはいるが、スピーカーの音量を掻き消すように立ち上がる黄色い声が彼の声が響くのを阻んでいた。仕方がないのでその場で遠い彼の姿だけを眺める。いつもこうだ。時間にルーズというわけではない、却って早めに着いてしまうことも多いのだが、結局時間を持て余したりこうしてぼんやりしているうちに、約束の時間になってしまうのだ。この悪癖に関しては結構怒られてたっけ。
結局、俺が見ることができたのはイベントの最後の方だけだったらしい。3分もしないうちに王子はステージから降りてしまい、ファンの群れを振り払うように104ビルの裏口らしい扉の奥に消えていった。
王子を見送ってしまってから、しばらく気になっていたインドカレーの店に足を運んだ。道玄坂の大通りを一本入ったやや狭い道にその店は面している。目立ちにくい場所ながらも広い構えで、通りから見える二階席はちょっとしたパーティーでも開けそうなほどに広々として見えていた。
暖簾を潜る。どこか見覚えのある、コック帽を被った浅黒い肌の男性がテーブルに水を置きながら「ナマステ、ランチメニュー?」と問いかける。
「チキンカレーセット……あとドリンクはマンゴーラッシーで!」
「しょうしょうお待ちなされ」
しばらく経ってから同じ男性の手によって配膳されたチキンカレーセットは何だか懐かしい味がした。柔らかく煮込まれた鶏の肉片が口の中でほろりとほどけ、爽やかな酸味が舌の上に残る。初めて訪れる店のはずなのに、何度も食べたような馴染み深い味わいだった。店を出る際に、さりげなくそのことを伝えてみた。
「スッゲー美味しかったっす……何か懐かしい味……っていうか?」
「ダンニャワード、いつもありがと」
「また来ます」
店を出て再び坂を降りていく途中で考えていた。 — なんて言うんだっけ、こういうの。デジャヴ、そうデジャヴって言うんだったか。味でも感じることがあるんだ。
なんか、不思議な感じ。
その日はそのままスクランブルに戻り、駅の裏のヒカリエでショップをぶらぶらしてから電車に乗って家に帰った。自分の部屋に荷物を置いて、明日には出さなきゃいけない歴史の課題を机の上に広げる。記憶力が良くない自分はこう言った暗記ものが苦手で、少し急いて握ったシャープペンシルはすぐに止まってしまった。少しだけ悩んで、諦めて脇に置いてあったスマートフォンに手を伸ばす。メッセージ画面を立ち上げようとして、違和感に気付いた。
— いや、検索すればいいじゃん。
半ば手癖でいつものトーク画面を開こうとしてしまった。何やってんだか、と溜息をついてブラウザを立ち上げ、検索ボックスに ”黄巾の乱 年号”と打ち込む。出てきた結果画面に従って184、とプリントに書き込む。退屈だ。誰かにメッセージ投げたい、例えば宿題の進捗とか今日何してたーとか。そんな相手はいないけど。
課題の回答は翌日に渡された。調べながらなら俺でも95点が取れるが、所詮それは実力じゃないと思うと少し虚しい。
日々は淡々と過ぎていった。
何かを無くしたような気がした。それから、何だか退屈というか妙に暇を持て余すようになった。 — “なった” というのが可笑しいのだろうか。以前からそうだったようにも思える。ともかく、何一つ変わったことのない日常を送っているはずなのに、心の中にいつも空しい風が吹いているような物足りなさがあった。
空っぽだった。
元からそうだけど。
空虚に耐えきれないときには渋谷の街を訪れるようになった。あの日 — 知らない4人と奇妙な出会いをして、すぐに別れてしまったあの日あの場所が始まりだったように思う。或いは終わりか。何かの歯車が欠け、何か大切なネジが飛んでしまった。せめて彼らとライン交換でもしておけば、この奇妙な感覚について尋ねることもできたかもしれない。すぐに互いに背を向けたあの日のことをも、俺は少し後悔した。
際限なく寂しかった。どうしようもなく寒々しかった。
渋谷の街にいれば、あのとき終わってしまった何かの断片を握っていられるような気がした。
旋風が吹いている。寒そうな音を立てて、木の葉をどこかに運んでいく。
奇妙な虚しさと既視感に満ちた日々の中で、俺は自分が無くしたものの断片を掴んだように思う。それは物静かで、ぼんやりとしていて、オレンジ色のイメージだった。
多分だけど、俺にはそういう友達がいたんだ。俺の元から離れていった彼だけではなく。高校に入ってからできた友達で、よく一緒にこの辺で遊んだり飯食ったり、それで適当な話しながら一緒に帰ったりしてた友達が、いたはずだ。
ヒュウヒュウと鳴る旋風は俺のことを嘲笑っているように聞こえた。じゃあその子の名前は?どんな姿をしていた?どんな声だった?いや、どんな時に笑った?何が好きで、何が嫌いだった? — どの問いにも答えることはできなかった。自分の中で確かに存在すると思った友人の像は、輪郭を捕まえようとするたびにふわりとイメージを揺らがせてしまう。形を確かめようと抱きしめようとするたびに、空想の中のその姿は風となってほどけてしまった。名前を呼びかけようとしても、喉元に引っかかりそうなその音がどうしても出てこない。彼の声を思い出そうとしても、風音に紛れてしまって俺の耳に届かない。ほら、やっぱりいないんじゃないか。お前の友達なんて。そう言われているような気がした。
それすら俺の妄想だったのだろう。風は何も語らない。ただ足元を吹き抜けて、ビルの谷間に吸い込まれるように旅を続けるだけ。それでも答えが欲しくてその行方をずっと追っていた。
夏の終わりの真昼。焼けつくように眩しい。
白い陽光がまともに目に差し込み、眠たくなる。
— フレット。
俺を呼ぶ声がする。耳に馴染んだ声。
ハチ公広場を吹き抜ける風の中で、淡い髪色をした少年がきょろきょろと辺りを見回している。俺は空間をふわふわと漂いながら、その姿を中空から見下ろしている。
— フレットが、いない
心細げな、戸惑っているような声だった。俺はここだよ、と教えてあげたかった。喉元まで彼の名前が出かかっているのに、どうしてもそれは声にならない。少年が愕然と肩を落とす。違う、俺はここにいるしずっと君に会いたかった。そう言ってあげたいのに、潰れてしまったかのように何の声も出なかった。吹き抜ける風だけが彼の前髪を緩く揺らしていた。
— フレット。
声がしている。
「フレット!」
瞼を開いた次の瞬間に薄い鳶色と目が合った。顔を寄せるようにして、心配そうに一心にこちらを覗き込んでいた。
「おわ!?リンドウ!?」
「……良かった、」
リンドウは顔を上げ、安心したようにふぅっと息を吐いた。普段から低血圧気味の彼は死神ゲームの中でも起きるのが遅い方で、故に今日のように起こされるのは覚えている限りでは初めてだった。
リンドウの顔越しに、カラフルなオブジェで縁取られたゲートが聳え立っているのが見える。空気はどことなくお菓子めいた甘い香りがしている。竹下通り、ここで一日を始めるのはこれが3回目だ。
ゲートにもたれかかっていた身体を起こして伸びをすると、もうお馴染みになった腰の痛みとともに背骨の辺りがバキバキと音を立てた。そうしている間もリンドウはじっとこちらを見ていた。
「おはよ、皆はまだ起きてない?」
「うん」
「そっか……珍しく早起きじゃん。今日が最後だし緊張してる?」
「してる、かも」
ぽつぽつと短文で返される言葉に心が満たされていく。俺が喋って、リンドウが少しだけ返す。いつも通りで、それだけにしっくりとくる懐かしいリズム。
「リンドウ俺さ、変な夢見てたわ」
「変な夢?」
「そ。リンドウが思い出せなくなっちゃう夢」
そう言うとリンドウの顔に再び陰りが差した。夢の中で見た彼の表情 — 所在なく俺の名を呼んでいた不安げな表情と、それは重なって見えた。少し黙ってから、彼は意を決したようにフレット、と呼びかけてくる。
「……手、出してくれるか?」
「手?」
ほい、と何気なく差し出した右手を、同じように右手を伸ばした彼がそっと握った。白い手の体温が伝わる。鳶色の目が安堵したようにすっと据わる。良かった、と彼は言った。何が良かったのか、彼は何も言わなかったが俺にも分かる気がした。何も言わず、ただ頷いて握り返す力を少しだけ強める。そうしてしばらく握手してから、どちらからともなく黙って手を離した。
日はもう高く登ってしまっている。最後の”ミッション”が出るまで、そう時間はないだろう。
「そろそろ皆起こす?」
「そうだな」
ツイスターズの面々はまだ目覚めておらず、近くの道路沿いでそれぞれに目を閉じて蹲っている。一番近くにいたショウカちゃんのもとへ歩み寄ろうとする後ろ姿に、一言だけ声をかける。
「リンドウ、絶対勝とう」
ちらりとだけ振り向いた彼が答える。
「当たり前だろ」
確かな意志を持ったその言葉が真っ直ぐに胸に届いた。
風音に消えてしまうことがないほど、力強く聴こえた。