全部雪のせい、なのだとか なぜその時に限って白い地面に足を乗せてみたいなどと、彼女は思ったのだろう。
卯月の背には一対の羽がある。地面を踏み締めることなどなくとも、その羽根を使えば渋谷中とこへでも飛んでいける。それでも、面倒そうに雪に足を沈めていく通行人にすら見捨てられた小径に残った白い一面を目にした後、彼女は躊躇いがちに雪の上に降り立ち、わざと滑るように斜めに体重を動かした。その結果がこれである。華奢なヒールは即座に雪を噛んだ。滑りやすいその表面は一人分の重量にすら耐えきれず、卯月は後ろ向きに倒れ込んでしまった。
その姿を、狩谷は上空から見つめていた。
最初から飛んでいればよかっただろうに。仰向けに寝転んだまま、目線だけを動かして辺りを伺っている彼女は見られていないか気にしているのだろう。すぐには起きる気もないらしく、大人しく雪の上に身体を預けている。死神である自分たちが冷えを気にすることはないはずなのだが、静かに降り続く雪の中で静かに横たわる彼女はまるでそのまま動かなくなってしまいそうに儚げな空気を纏っていた。
気付けば彼女の隣に飛び降り、手を差し伸べていた。
「見ーちゃっタ」
「……サイアク」
面白くなさそうに卯月はその手を取って、ゆっくりと身体を起こした。
「まぁ、渋谷に雪が積もるなんてここ5年無かったシネ?気持ちは分かるヨ」
卯月を助け起こした狩谷は、そのまま近くの高層ビルの最上階まで彼女を抱えたまま飛び上がり、手すりにもたれさせた。眼下の渋谷はどこまでも白い化粧をかぶっており、喧騒を抱えながらも俯瞰すれば灰色でしかない街並みとは大いに装いを変えている。
その光景を一通り眺めてから、卯月は横を向いて口を尖らせた。
「うっさいわねー、人のことからかってる暇があるなら仕事しなさいよ」
相変わらず面白そうな笑みを崩さない。口から棒付きキャンディを引き出しては再び舐る。今日のフレーバーはミントらしい、薄い青緑色は白い渋谷の街並みに不思議と調和していた。
「アレ、卯月も遊んでたんじゃナイノ?雪道歩いてみちゃったりしテ」
狩谷の指摘を受けた卯月はウッと息を呑む。狩谷が片手を腰に当てる。
「いいじゃナイノ〜、こんなこと珍しいんだからサ。今からはナイかもしれないシ、折角だから雪遊びとか……」
「しないわよ」
卯月はキッパリと拒絶する。
「あたしは忙しいの」
「こんな日にまで仕事することないじゃナイ?さぼっちゃおうヨ」
狩谷は楽しげに両手を広げ、肩を竦めてみせる。
「卯月だって、久々の雪が懐かしかったから遊んじゃったんデショ」
今や死神幹部ともなった彼女の冷たい目線にも、狩谷は全く怯むことがない。相も変わらず軽口を叩きながら、時折棒付きキャンディを美味しそうに舐めてばかりいた。
「卯月が死神になって5年?こんなことなかったヨネ」
「……まぁ、そうよ」
卯月は素直に首肯する。歳を重ねるごとに、温暖化の波はじわじわと東京の街の首をも締めにきているように思える。夏は熱したフライパンの如く焦げ付き、冬になっても風の芯に生温いものが残ることが多かった。それ故に今年の寒さは新鮮に感じられた。まさに凍てつかせるような強い寒波は、薄汚れた東京の街まで白い雪をもたらした。
卯月が死んでから、「積もった」とはっきり言えるような積雪は今日が初めてである。
「あたしも生きてた頃はスキーとか行ったし、懐かしくないわけじゃないわ」
ハハッ、と狩谷は快活に応えて、眼下に広がる街の景色に目線を落とした。スクランブル交差点を行き交う人は、一様に長く厚ぼったいコートとマフラーや手袋などの防寒具に身を包んでいる。
「スキーって長野トカ?」
「そ、会社の同期と新幹線乗って行ったわ。結構滑れたんだから」
卯月もそう言って雪化粧の渋谷を眺める。視線を向けた狩谷は、その瞳の中に憂鬱げな光を認めた。それは、過去を振り返る時の眼差し。かつて確かに在った思い出を振り返る時に現れる、静かな暖かみだった。
死神である自分たちが、未だに生の領域に留まるかつての友たちと再び言葉を交わすのは容易でない。それから自らの管轄領域を離れる自由も制限されている。要は、いくら懐かしかろうと卯月が友達と再びスキー場を訪れるチャンスはほとんど無い……と言った方が正しいだろう。それは彼女も重々理解しているのだろう、彼女はかつてのスキーの思い出をポツポツと語りながら静かに渋谷の街を見下ろしていた。
— 同期の中でもあたしは滑れる方だったわ。
— あたしはスキーだったけど、あの頃はもうスノボの方が流行ってたし肩身が狭かったわね。
— スピードランに夢中でご飯とか後回しになってて、レストハウスでラーメンばっかり食べる羽目になったの。寒かったし。
遠い想い出を辿っているうちに彼女の口許には柔らかな笑みが浮かべられていた。その邪魔にならないよう、狩谷はそっと言葉を差し挟む。
「……神宮のスケート場は微妙に渋谷じゃナイし、行けないネェ」
「は?」
「スキーが出来るとこなんて渋谷にあるわけナイし」
しばらく黙って狩谷の独り言を聞いていた卯月が吹き出す。
「何それ、気遣ってるつもり?」
「だって雪遊びできなくなってちょっと寂しいんじゃナイノ?」
「今の方が楽しいし充実してるし、あたしはこれでいいの。アンタみたいに遊んでなくても今の仕事が好きだからいいのよ」
うーん、と両手を伸ばし、大きく伸びをした後に卯月は再び翼を広げた。ばさり、黒い線の集合が空間を裂いて現れる。その瞳からは先ほどの寂しげな陰がすっかり消えていた。狩谷はそっと肩を落とす。渋谷の危機を救う共闘を共にした後も、彼女の勤務態度は何一つも変わらなかった。死神としての務め自体に喜びを見出しているらしく、順当に幹部職に昇格した後も熱意を持って打ち込んでいる。新宿死神のトップ層が去り、渋谷のUG管理の実務は今やほぼ彼女が実験を握っていると言っても良かった。それに伴い、狩谷とそぞろ歩きをする時間は殆どなくなってしまった。
それを寂しく思っていた折もあり、まるでRGを懐かしんでいるかのような彼女の翳りを愛おしくも思ったのだが。仕事の話になった途端、あっという間にいつもの冷静沈着な上司の姿が戻ってしまった。ハァ、と溜め息が零れる。
「俺は卯月が遊んでくれなくて寂しいんですケド」
それを聞きとがたのか、卯月は飛び立つ前に狩谷に声をかけた。
「……まぁ、今日は確かに寒いわね。……仕事終わったら付き合いなさい」
妙にしんみりとスローペースな口調に狩谷は顔を上げる。
「へ?」
「ラーメンよ!奢ってあげるから、今日のことは皆には言わないでよね」
舌の上で弄ばれていた棒付きキャンディを、今一度狩谷はしっかりと咥え直した。頬が持ち上がるのを隠すこともできないままに「リョウカーイ」と返すと、すっかり普段の調子に戻った卯月の冷たい叱責が届いた。
「だからアンタもしっかり仕事なさい」
そう言って卯月はそのまま灰色の空へと飛び立つ。後ろ姿を見送りながらも、狩谷は既に動かないはずの心臓に熱が灯るのを感じ取っていた。氷点下の気温と降り止まない雪にすら凍らされることのない心の熱が、まるで未だに脈を持っているように生々しく、感じられた。