花の名********
花の名 - 花
********
自分の名前が苦手だった。
両親がつけてくれた『竜胆』という名前が嫌いなわけではない。響きは格好いいと思うし、親がつけてくれた大事な名前には変わりない。
だが、表記した際の『奏竜胆』という三文字を目に映す度になんだか異国の名前のように感じられたし、姓だけ名乗った際の初対面の人には良く『奏』の方が名前だと認識されることが多かった。
普通にデジタル機器では変換できるものの、日常で目にする漢字ではないため何て読むの?なんて聞かれるのは当たり前で、何か名前を書かなければならない時は重要な書類以外は片仮名で綴った。
繰り返し言うが自分の名前は嫌いではない。しかし若干不便ではあると思う。
「リンドウ」
聞き慣れた声に名前を呼ばれる。声のした方へ顔を上げれば、いつも通り茶髪に金色のメッシュが映える髪の毛をしっかりとセットした友人、フレットが立っていた。
午後の授業が終わり次々と教室からクラスメイトが姿を消していく中、未だ帰る用意もせずに自身の席でぼんやりとしている自分を見兼ねてか声をかけてきたのだろう。彼は困ったようにこちらの机の上に投げ出されている書類を指差す。一番上にデカデカと進路希望調査と書かれたプリントは何度も書いては消してを繰り返したことによりシワシワになっていた。
「今日日直だから集めて持ってこいって言われてんのよ。あとリンドウだけ」
その言葉にふと相手の手元を見ると、クラスメイトの将来への希望が書かれた紙の束があった。周りがどういう選択肢をしているのかが気になり、一番上に乗せられているプリントへちらりと視線を滑らせればここらでは有名な大学への進学希望の文字が目に入った。それに気づいたのか相手は文字が見えないようにサッとプリントを裏返すとため息をつく。
「カンニングはダメでしょ」
「してない」
「絶対見てた」
「別にテストじゃないし」
「そういう問題じゃないと思いますけど?」
呆れたように相手はつぶやくと目の前の席の椅子へ前後を逆にして跨るように腰掛ける。
高校一年生が提出する調査表は高学年の本格的なものとは違い、進学就職どちらなのか・希望する学部や職種はあるのかなどというざっくりとしたもので記入欄もほとんどない。しかしそれですら決められない。正直将来自分がどうなっていくのか、どうなりたいのか、まだわからなかった。
「そういうフレットはどうなんだよ」
「詳しくはまだ決めてないけど、とりあえず進学にした」
紙の束から一枚引き抜くとこちらへ渡してくる。プリントの第一希望には具体的な名前は書かれていないものの先程の言葉通り進学希望が記載されている。同じペースで歩いていると思っていた相手がとりあえずの形でも将来を決めていることに、なんだか勝手に置いて行かれたような気分になる。寂しくなって、そして少し腹立たしくなった。
「フレット、名前書いてないぞ」
「え!あ、ほんとだ!さんきゅ」
「0点だな」
「別にテストじゃないし!」
シャーペン貸して、と相手は口にすると素早い手つきで己のプリントに名前を記していく。觸澤桃斎。普段フレットと呼んでいるせいか、彼の名前をしっかりと目にするとその漢字の密度に気圧される。自分の名前の字面もなかなか厳ついと思うが彼の名前には敵わない。彼の名前は彼の内面を表すかのように密度が高く、そして凛としていると思った。
興味があった。その名で呼べば、彼がどう応えるのか。
「”トウサイ”」
相手は一瞬びくりと肩を上げた。驚いて目を見開いたその表情が、窓から差し込む斜めの光に照らされている。
「えと……何?改まっちゃって」
「そんな驚くことないだろ」
「いやー、リンちゃんからそれで呼ばれたの初めてだからさ、ってか普段あんま呼んでもらえないから」
彼の言う通り、クラスメイトが彼を呼ぶときは専ら渾名の”フレット”、そうでなければ名字の”フレサワ”が使われていた。なんか新鮮、と言って頬を掻きながらも彼はどこか嬉しげに口許を緩めていて、呼び掛けたこちらの方が拍子抜けしてしまう。
自分の想像する反応とはだいぶ異なっていた。
「……フレットはその名前で呼ばれるの、嫌とか思ったことない?」
「ないなー。俺自分の名前好きだもん」
迷うことなくフレットは言う。
「じいちゃんが付けてくれたんだって。ちょっとゴツい感じもするけど、カッコいいじゃん」
「じゃあトウサイって呼んだ方がいい?」
「いや? 小学校の頃とか揶揄われたこともあったし、呼び辛いんだと思う。フレットでいーよ」
思い出すようにふふっと笑みを浮かべている。自分の名前を衒いなく「好き」と言えるのは何だか羨ましいような気がした。そのまま、当たり前のように自分に同じ問いを差し向けてくる。
「リンドウは好きじゃない?自分の名前」
「…嫌いって訳じゃないけどちょっと苦手、読みづらいし」
「それは確かに」
「初見だとよく間違えられた」
「名乗られなかったらリュウタンって呼んだかも?」
舌の上で弄ぶようにリュウタン、と数回繰り返し、それから可笑しそうに吹き出す。
「竜たん!」
「……ほら、そうなるから不便なんだよ」
その反応は自分にとっては既にお馴染みになってしまったものだった。不快だがそれなりに慣れている。小学校時代の先生や塾の講師など、自分から名乗らないと相手はまず自分の名前を音読みしにかかる。相手が女性の場合は最悪そのまま「竜たん」と呼ばれてしまうことすらある。小学生の頃から反感を覚えていたので、名前を書くときは片仮名にするし挨拶の際には訊かれる前に名乗るようにしていた。
ムッとした反応を表に出したつもりはなかったが、その辺りの機微には流石に聡いフレットである。ゴメンゴメン、と言って目の前に両手を合わせて見せた。
「もうやめるから怒んないで」
「別に怒ってない」
「そう?良かった」
気分を害していないことを伝えると、相変わらず少し大仰な身振りで胸に手を当てて息を吐き出して見せた。それからフッと目を上げて改めて口に出す。
「”竜胆”」
いつもの軽々しい呼びかけとは少し異なる、地声交じりの低めのトーンでの発音。自分の名前を確かめられているようで、新鮮で面映い。
「……何だよ」
「んー、呼んでみただけ」
そう返してくる声は完全にいつもの空々しい調子に戻っていて、肩透かしを喰らった気分になった。その後、彼が黒板に書かれた自分の名前を次の日直のものに書き換え、窓を施錠するまで教室の外でスマホを見ながら待ってから、いつものように二人で校舎を後にした。
試験が終わったばかりの時期だったので、寄り道してから帰ることに決めていた。
少し前まではもっぱら渋谷駅周辺をうろついていたが、夏以降は散策がてら原宿や代々木といった周辺エリアまで足を伸ばすことが多くなっている。その日も青山通りの坂道を上って表参道の方面までぶらぶらと街を眺めて歩いていた。
日が落ちるのが早くなってくる季節。先ほどまで茜色をしていた空はすでに藍に染まりきり、更にグレーを深くしている。駅から遠ざかるにつれて人波みが薄くなり、街灯に照らされた舗道の脇にはドラッグストアや飲食店の代わりにこじんまりとしたセレクトショップや雑貨店が増えてゆく。時折立ち止まってはショーウィンドウの内側の光を眺めているうちに、少し冷えた空気が制服の内側までじんわりと染み込んでくる。
何軒目かのショップを回ったところで、フレットがくいくいと裾を軽く引いた。
「あのさリンドウ」
そうして歩道の奥に真っ直ぐ人差し指を向けている。
「リンドウってアレだよね」
「え、なに?」
「竜胆。花の方」
指し示された先にあったのは、赤いテラス屋根を街路に張り出したチェーンのフラワーショップだった。背の高いバケツに並べられた切り花の群れが、店先の照明を受けてほんのりと花の色の光を湛えている。その中には、柔らかな青紫色を葉の内側にそっと抱き隠すようにした蕾の連なり— 竜胆もひっそりと並んでいる。
「竜胆ってあの花で合ってる?」
「合ってるよ」
「リンドウの名前ってさ、やっぱ花由来?」
「うん。20日の誕生花が竜胆だからって」
「そーなんだ。…ちょっと見てっていい?」
それは予想外の申し出だった。4月からそれなりに時間を共にしてきているけれど、生花店に行きたいなどと言い出したことは記憶にない。断る理由もないので「別にいいけど」と曖昧に同意し、嬉しそうにしている相手と共に店先に足を止めた。自分の名前だけあって、竜胆の花がこの時期によく店先に並ぶことは何となく意識していた。
「キレーな花だよね」
「そう…かも」
「買ってこっかな〜」
どのコにしよう。品定めするかのように軽く屈んで覗き込む、その不思議に青い瞳に少し濃い色の花弁が映り込んでいる。
「おまえそういうの飾ったりするんだ」
「いつもってわけでもないけどね。でもウチ花瓶は一応あるし、たまにはいーかなーって」
「…ふーん」
そのまま彼は店のカウンターに足を運び、本当に竜胆の花を一輪だけ買った。金額的には実にささやかな注文だったにも関わらず、店員の女性は感じの良い微笑みと共に一輪の竜胆をワックスペーパーで丁寧にくるみ、プラスチックの型紙を被せて手渡した。それから帰りのメトロの駅までの間、フレットはちっぽけな筒を大事そうに抱え持っていた。手の熱で萎れてしまわないようにだろう、ベージュの包装紙の外側にそっと手を添えるようにして。
同じ電車に乗り込み、フレットの方が先に降りた。窓ガラス越しにサヨナラ、と軽く手を挙げ互いを見送る。流れ消えてゆく駅のホームの風景の中、彼が包み持つ竜胆の花はぽちりと青い点のように、妙に網膜の上に残った。
* * *
家に帰ってすぐに花瓶を探した。母さんは気が向けば一輪の薔薇やちょっとした花束を買ってきてはダイニングのテーブルに飾る。確か今は使われていなかったはず。キッチンの周りをガサガサ探ると、白くツヤのある花瓶は流しの端にひっそり放置されていた。少しだけ水を入れて一輪の花を活け、自分の部屋に持ち込んでデスクの上に据える。そのまま鞄を置き、制服を脱いでハンガーに掛け、部屋着に袖を通していく。淡々とルーティンワークをこなしていく間、時折見慣れない青紫色が視界の端にチラチラと映った。
竜胆。
その花と同じ名前を持つ友人のことを思い浮かべる。
彼には最初から違和感を感じていた。何となく違う。生きているトーンが、テンションが、おそらく自分とも他のクラスメイトたちとも違っている。違うはずなのに、まるでカメレオンのように曖昧な笑顔と大人しい声色を身体に巻きつけて、そのまま周囲に同化してしまっていた。こちらだってそんな擬態を見抜けないほどニブくはないし、脱臭脱色したように平穏な雰囲気の内側に何を隠しているのか興味がなくはない。がしかし、せっかく羽織わせた当たり障りのなさを剥がしにかかるほどドSでも勇気がある訳でもない。
要は邪魔するつもりはないということで、それ以上は追求しないでおくつもりだった。
最初の頃はクラスで何となく形成された4人グループの一人として下校を共にし、週末には街に繰り出していた。自分たちは群れである、という確認のためだけの会話、それから週末ごとに連んで買い物、昼飯。そんな「群れのメンバー」という関係から抜け出したきっかけを作ったのは彼の方だった。…意外かもしれないけど。
「…フレットって」
「うん?」
その昼休みもいつもの4人組で食べることになっていた。うちの2人はたまたまその日購買に向かってしまったので、リンドウと二人で学食ホールの席取りをしていたところだった。弁当包みの二重結びを開こうとする俺の姿を彼は靄がかったような曖昧な表情で見ていた。
「それ、疲れたりしない?」
「疲れるって何が?」
「いや、何つか…ずっとそのテンションでいるのが?」
ざわり。薄膜が張ったように、ホールの喧騒が一瞬遠くなった錯覚をする。
「いや?俺はこれがフツーだけど」
「そっか。なら別にいいんだけど…フレット、なんかいつも賑やかだから」
ふぅ、とリンドウは一つ息をついた。少し俯き気味になったことで、穏やかそうな鳶色の瞳に少し影が差し、暗みが増す。
無理をしているわけでも嘘をついているわけでもない。いつでも身軽に調子良く。誰とも仲良く、明るく楽しく。それは自分のモットーでもあり、人生の肌感覚 — ということにしておきたい態度だった。親友を失って間もない中学の頃はそれで大分心配させてしまったので、家族と過ごす時ですら機嫌悪い素振りは見せないようにしていた。不機嫌なトウサイ君はもう卒業。傷は癒えたし少しも気にしていない、ということにしておきたかった。時折感じる虚しさには分厚い皮を被せ、軽薄なトーンを載せて塗り潰す。
俺は陰を捨てた。或いは、捨てたつもりだった。それなのに繕い損ねた僅かな隙を、リンドウに見咎められたような気がした。
「…元気だなーって思って」
狼狽を作り笑顔で装飾して返す。
「まーね!早寝早起きしてますし?」
「そういうのじゃなくてさ」
リンドウは少し声を落とし、ぼそぼそと小さな声で喋った。
「なんかフレット、気を回して喋ってるっぽく見える時があるから…俺も割と気を遣う時とかあるし、分かる気がしてさ」
「あー…まぁ気遣いとかもゼロではないけど」
「だから疲れるだろうなって」
少し緩めたその表情は、お得意の無難な微笑みに少し同情が交じったものに見える。
「ダルくね。そういうの」
追求しないで欲しい。その微妙な警戒が伝わったのか伝わっていないのか、ともかくリンドウはそれきり黙ったままで俺の返事を待っているようだった。その眼差しは微睡むように鈍く、見ていると何だかこちらが余計な気を張っているだけに思えてしまう。なんだか拍子抜けしてしまって、気づけば勝手に口が本音を溢していた。
「…ダルいかも」
「…な」
それはちょっとした秘密か悪巧みの共有みたいで、どちらからともなくニヘラっと笑みを交わし合った。それから彼は黒いスマホを俺の目の前で取り出してぽちぽちと弄り始めてしまった。俺に気を遣うなよ、という彼なりのメッセージだったのかもしれない。
先手を打って踏み入ってこられるとは思っておらず、心に隙ができていた。そしてリンドウはその隙間に妙にぴったり収まり、そのまま俺の心の中の空席だった場所に居ついてしまった。二人きりで話をしたその週末、約束をしてこっそり二人だけで渋谷を回ってみた。ハチ公前で待ち合わせて (俺の乗った電車が少し遅れて)、少しむくれた彼と一緒にMODIやパルコを冷やかして回った。それは最初からそうだったみたいにしっくり来た。歩く速さも一休みしたいタイミングも大体合っていたし、どこそこの店を見たいと言えば特に嫌がる様子もなく付き合ってくれた。以降、だんだんと二人だけで遊びに出かける週末が増え、連動するように学校でも “群れ” がうまく集まらなければ昼食や移動教室を共にするようになった。
その頃の関係は、まだ「友達」と「親友」の間くらいでキープできてたと思う。それでも既に友達以上程度には相手のことが気に入っていたから、流行り出した赤黒いピンバッジを買った際も彼の顔が思い浮かび、自然と二人分をレジのカウンターに乗せてしまっていた。
— それから、あの日。
彼は真剣な目をして俺の手を引いて助けてくれて。
— あの「ゲーム」の中でもきっと何度も守ってくれて。
— 憧れのひと、カノンさんを喪った俺を悼んでくれて。
彼に手を差し伸べられ、不器用な優しさを向けられるたび、芽吹いた感情が少しずつ少しずつ根を張ってゆくのが自分でも感じられた。良くないよな、と自覚していた。また深入りして、期待して、そしてまた傷つく羽目になるかもしれない。勿論リンドウがそうだと言っている訳じゃない。ただ自分の性格として、親しい相手に入れ込んでしまいやすい部分があるのはいい加減身にしみていた。
だから、期待しない。
明るく諦めて、軽やかに距離を保つ。
自分の気持ちを偽ることはやめるにせよ、いつも一緒だとか、悩みや本音まで共有できるとか、そういった面倒な重さは最小限に留めておいた方がお互い安全。そう分かっていたはずなのに、お行儀ぶった理性などどこ吹く風で心の中の慕情は勝手に背を伸ばし、葉を繁らせていった。そうして育ち過ぎた感情は既に「親友」というボーダーすらも越してしまっているような気がする。
伝えてしまいたいことが沢山あった。あのゲームのとき、俺を助けてくれてありがとう、とか。いつも傍にいてくれてありがとう、とか。これからも一緒に過ごせると嬉しい — とか。でも最後のまで伝える気はない。報われたいと望んでいる訳ではないのだから。
机の上に置かれた花 — 盛りを迎えた竜胆と同じく、リンドウももうすぐ誕生日を迎える。
内心の想いまで伝えるつもりはなくとも、プレゼントにカコつけて感謝くらいは伝えられたらいい。だが、そんな安易な発想を一歩進めた途端、リンドウの好みを殆ど全く把握していないことに気付いて愕然とした。何を送れば喜んでくれるだろうか。ポケコヨのアイテム購入用カードなら間違いなく喜んではくれるだろうが、流石に釈然としないし。
机の上の花に内心で声をかけてみる。
— な、何だったら喜んでもらえると思う?
滲むような青紫は黙りこくったまま何のヒントもくれなかった。フッと溜息をついてスマホを手に取り、検索ボックスに花の名を打ち込んでみる。
********
花の名 - 名
********
竜胆が店先に並び始めるのは9月頭、消えるのが11月の終わり頃なので、自分の誕生日はちょうど折り返し地点にあたる。故に、小さい頃から自分の中では竜胆の花と誕生日的気分が結びついてしまっていた。フラワーショップに青紫の花が並ぶようになると「1年経った」と新鮮な気分になるし、聖夜を待つポインセチアに追われて店先から消えてしまうと季節が過ぎ去ったことを感じて少し感傷が湧く。
今まで誕生日自体に特別な感慨はあまりなかった。クリスマスとこの日だけは親が新作ゲームや課金を許してくれるし、食事も好きなものを揃えてくれるのでそれが楽しみという程度。けれど今年、日付が移り変わって最初にとった行動はメッセージアプリを開くことだった。それくらいには期待してしまっていた。
真夜中の中央、表示が変わるその瞬間に律儀にメッセージを送ってきたのは二人だった。それも、両方スタンプではなく手打ちの文面で。ひとつはショウカから、もうひとつはフレットから。”ポケコヨ”のフレンド欄アイコンで見慣れた黒いツバメの画像をクリックし、トーク画面を開く。
> お誕生日おめでとうございます、リンリン
> なんてね。会ってお祝いしたいんだけど、放課後会える?
“スワロウさん”の口調をなぞるような言いぶりに少し懐かしさを覚えつつ、メッセージを返す。
> ありがとう、17時渋谷駅でいい?
送信して30秒しないうちに返信が返ってきた。待っていてくれたのかもしれない。
> だいじょーぶ
> ハチ公前いるから、ちゃんと見つけてよね
半ば押しつけるような口ぶり。自然と腰に手を当てて少し屈んだ姿勢で、こちらを軽く睨むようにした彼女の姿が自然と思い浮かんだ。休日に会う彼女はもっぱら「ガット・ネーロ」ブランドで全身を固めているので、制服姿の彼女を見るのはなんだかんだ初めてになる。手入れの行き届いた黒髪が際立つので見間違えることはないだろうが、それにしても遠慮したそぶりを見せたがらないのがなんとも彼女らしい。
母さんと父さんに「帰りがちょっと遅れる」と伝えておかないと。そんなことを思いながらもう一通 — フレットからのメッセージを開いた。
> ハピバ!
> 今日昼休み時間取れる?
首を捻った。わざわざ伺わなくても殆どの場合昼食は一緒に食べることが多い。
> 二人でってこと?
> そう!先に言っちゃうけど、プレゼント渡したいからさ
その返信でようやく腑に落ちた。誕生日のことを知らないかもしれない友人連中相手に気まずい空気にならないようにという、彼なりの気遣い。 — この頃は意識しなくても二人きりになってしまうことが増えていたが、一応の保険だろう。
> おけ、二限終わったらそのまま校庭で
了解、のスタンプに既読をつけてトーク画面を閉じる。メッセージアプリのトップ画面にはぽつぽつと新着のスタンプ通知が届き始めていた。一つずつルームを開いては躍り出るスタンプたちに既読をつけていく。ヘルメットを被った猫が、瞳を潤ませた白い小動物が、ピンク色のうさぎが、画面に現れては「おめでとう」の言葉を伝えてくれる。スイスイと画面をスワイプしては「ありがとう」のスタンプを返してゆく。
高校に上がり新しい友達ができた、だけではない。「死神ゲーム」を経て、フレットとは「友達」というよりは「親友」という程度に時間を共にするようになっているし、ガールフレンドや先輩という絆も増えた。自分ながらずいぶん変わったと思う。半年前、高校に入ったばかりの4月頃はまだ表情を作って他人と付き合うばかりで、誰かと力を合わせて必死で何かに取り組むことなど考えられもしなかった。死神ゲームに巻き込まれ、強制的に経験を積まされたことで、自分は変わった、或いは変わらされてしまった。それが成長と呼べるかどうかはよく分からないけれど。
翌日。
約束をした二限の授業は化学だった。理科室から二人で一旦教室に帰り、それぞれの持ち物を手に取る。鞄の中から財布と茶色の包装紙を取り出す彼の様子を見るとなしに眺めていると、ふと顔を上げて目線を合わせたフレットは悪戯っぽく「後でね」と唇に人差し指を当てて見せた。
10月の戸外の空は虚しくなるほどに青く、そして高い。校庭の隅の土手はカラリと乾き、夏まで緑を繁らせていた雑草たちは早くも枯れた色で風に揺すられていた。体育座りで隣に並んでいるフレットの髪も同じ秋風にサラサラと煽られ、時折金色のメッシュがきらりと陽光を反射する。
夏休み以降、元々の4人組で集まる機会は減った。
理由になりそうなものは幾つかある。例えば軽音部だった残り二人が11月の文化祭に向け練習に打ち込み始めた…とか、昼食を購買と学食のどちらで調達するかで分かれる…とか。でも明確なきっかけになったのは、夏休み明け最初の週末だったかもしれない。
その日曜もいつものように渋谷散策を提案されたのだが、あれだけ渋谷中で食事と買い物を済ませた直後で同じ街を彷徨う気には流石になれなかった。ジュピモンの新作は全てチェック済みだし、出汁カレーと和風ビリヤニがバズった新しいカレー屋も既に飽きるほど通ってしまっていた。勿論、全存在を賭けて守ったこの街が嫌いになった訳ではない。ないけれど、一度外の空気を吸いに出たかった。結局その日は「ちょっと用事あるから」と渋谷会を欠席し、フレットとはこっそり東京駅で落ち合った。地下の服飾店街を冷やかし、駅ビルの博物館で鰐の骨格標本を眺めた。
その時は何とも思っていなかったが、4人グループの終わりの始まりは、何となく渋谷に足が向かなくて断ったあの日だという気がする。”あの世” 帰りで少し感覚がズレていたのかもしれない。何となくて寄り集まっていた一団が離れていくことに関して、寂しいという感慨は不思議と湧かなかった。むしろ、多少は気心の知れたフレットとダラダラ話していられた方が落ち着けたし、気を張って話題を探さずとも彼が何やかやと話題を振ってくれるから気楽でもあった。要は、こちらの方がずっと良かった。
「フレット、いつも夜11時には寝てるよな。昨日は眠くなかった?」
問いかけると、フレットは「んー」と肯定とも否定ともつかない声をあげた。
「眠いけど、せっかくだからリンちゃんに一番にお祝いしたいなって思ってさ。ラジオ聞いて頑張って起きてた」
「それはどうも」
「なー、俺一番だった?」
「ショウカとワンツーだったよ」
「どっちがワンの方?」
妙にこだわるな、と茶化してやると、だってせっかく遅くまで起きてたんだしさー、と言ってそのまま大きく伸びをした。夜更かしが素直に効いているらしい。
「誤差だけどフレットが一番乗りだったよ」
「やたっ!」
えへ、とフレットは笑い、それから腰の脇に置いていた小さな封筒状の袋を手渡してきた。押し付けられるようにして手に取る。手のひら大のそれは殆ど重さを感じさせない。
「あのさ、コレ。誕生日プレゼント」
「ありがとう。…開けてみていい?」
「モチロン!」
硬い茶封筒の中から冷たい感触を摘み上げる。入っていたのは、青いレザーのキーホルダーだった。表の面にだけ、英字のロゴと共に柔らかな星形 — 竜胆の花のデザインが控えめな大きさで刻印されている。
「これ…どこで見つけたんだ」
「通販サイト。何がいいかなって結構迷って探したんだけど、リンドウにぴったりだなって思って」
そこそこ自信のあるチョイスだったのか、フレットは腕を組んで少し得意そうにしていた。今までも竜胆の名に因んだプレゼント — ハンカチや栞などを親戚から貰ったことはあるのだが、モチーフが華やかなこともありとても自分の使えるものではなかった。それに比べれば、身に着けやすい割りに目立ち過ぎず、デザインとしても大人しくて自分好みなことは間違いない。しかし見透かされているようでもあり何となく腑に落ちない。ともかく。
「ありがとう、大事にする」
早速家の鍵を取り付け始める俺をフレットは嬉しそうに見つめていた。
「リンドウ、前自分の名前が苦手だって言ってたけどさ。俺は好きだよ」
「は?」
突然の告白めいた言葉に思わずピタリと手が止まる。目線だけを何とか差し向けると彼はケラケラと笑った。意識した訳ではないが、顔が熱くなる。
「リンドウって名前、いい名前だと思うし俺は好き。それにいろいろ調べてて思ったけどリンドウにすごく合ってる」
「……どういう意味だよ」
「ま、いろいろね〜」
答えを言わないままにして彼はクスクスと笑った。
「リンドウも自分の名前、ちゃんと好きになれるといいな」
「おまえ、言うようになったよな」
「何言っても無駄って思った時もあったけど、さ。思ったこととか、言いたいことはちゃんと伝えときたいなって思って」
そう言って頭の後ろに手を回して土手に仰向けになり、雲のない青い空を気持ち良さげに眺める。フレットもまた変わったのだろう、ふとした瞬間に真っ直ぐな言葉を向けられることがあって、そういう時は却ってこちらの方がペースを乱されてしまう。
ふーん、とだけ返して自分も土手に寝転び、顔の上を風が流れていくのを感じていた。
その日の放課後。
渋谷駅に向かうメトロの暗闇の中、スマホの画面を操作しながら、呼びかける声を思い出していた。ツイスターズのチームメイトにはリンドウリンドウと呼ばれていたものの、名簿の文字から相手を知ることになる学校という場では、専ら”カナデ”とか”カナデくん”と名字の方で呼ばれている。”竜胆”の読みづらさが最初の呼び方を名字の側に寄せてしまい、そのまま定着してしまうらしい。想像の中で自分の名を呼ぶ相手にしても最初は「カナデくん」と呼びかけてきていたが、2・3回話したあとは速攻で「リンドウ」の方に乗り換えてしまった。それからずっと彼は自分をそう呼んでいる。
竜胆。花の名前。
流石に自分の名前ともなれば気になるもので、植物図鑑やWikipediaでどんな花なのか調べてみたことは一度や二度ではない。秋に咲く青紫の花。園芸でよく見られるのは日本固有種。仄かにだけ光を含むようなささやかな花弁は、普段は閉じていて光が当たるときだけそっと開かれる。そういうところは確かに自分に似てるようにも思える。小さな世界の中に縮こまり、隣で燦々と笑う友人の光を分け与えられるように居場所を見いだしている。
“ 次は渋谷、渋谷……副都心線、JR線、東急線、京王井の頭線は…… “
駅アナウンスが思考を現実に引き戻した。程なくして窓の外はホームの眩しい光に満たされる。そのまま地下鉄駅を出て、通い慣れた長い道を辿ってハチ公前に向かう。宣言通り”彼女”は既にハチ公前にいて、スマホの画面に目を落としていた。チェックのスカートの上にカーディガンを羽織った見慣れない姿だったが、彼女の艶のある黒ロングはやはり間違えようもなく目立っていた。
声をかけて一番に「おめでと」と祝いの言葉を貰い、それから懐かしの「バーガーヒーロー」へ向かった。学校帰りの軽食がてらにコーラやポテトやサラダを適当にオーダーし、窓際の二人席へ腰を落ち着ける。
「私からはこれ…誕生日おめでとう、リンドウ」
席につくなりショウカは白い小袋を手渡してきた。少し重く冷たい感触がビニール越しに伝わってくる。包装をそっと解くと、中から出てきたのは涙型の頭部を持つ青いモンスター — コヨコヨのメタルチャームだった。
「コヨコヨ!限定のやつじゃん」
「そ。先月までだったけど、リンドウのプレゼントに丁度いいかなーって狙ってたの」
「マジか、俺逃しちゃったんだよな……」
「反応よくてうれし」
ショウカはふっくりとした笑みを浮かべ、折角だからなんか付けてよ、と促した。何気なく家の鍵を取り出してしまってから、先ほどレザーのキーホルダーを付けたばかりだったことに心当たった。
「これだと微妙に被っちゃうか」
「何、新しく何かつけたとか?」
「フレットもキーホルダーだったから」
「あー、アイツ」
見てもいい、と興味深そうにする彼女に鍵を手渡すと、彼女は掌の上にレザーをそっと載せ、竜胆の刻印を静かに覗き込んだ。
「ふーん、凝ってる」
「通販で選んでくれたんだって。俺の名前に合わせてなんだろうけど」
「それ以外ないじゃん」
しばらくキーホルダーの刻印を眺めてから、彼女は丁寧にキーホルダーを摘み上げて返してくれた。それから面白そうに口元に手を当てる。
「ホント、あんたら仲いいよね」
「…まぁ」
端から見てもそう見えるのだろう。面と向かって言われるとこそばゆく、頬の辺りにむず痒いものを錯覚して指を遣った。
「俺はあんまり自分から行けないけど…フレットは良く絡んでくれるし、…遊んでて違和感ないし、こういうプレゼントとかも俺のこと見てくれてるなってのは分かるし…?」
「何、すごくウレシそーじゃん」
ぽつりぽつりとこぼした言葉を聞いてしまってから、ショウカはクスリと笑みを深めた。そして、少し改まった様子で「あのさ、」と切り出す。
「リンドウ、多分そゆのちゃんと伝えたことないでしょ」
「……え?」
「多分だけど。私はツイスターズの1日目から見てたけど、何かアンタらヘンだったし。ああいうの続くとさ、フツーは友情パワーごっことかキイキイ喧嘩したりすんの。なのにリンドウたちはいつまで経っても妙に冷めてて、何かシラけちゃった」
「……変な期待してんなよ」
「だって久々に面白そうな新入りだったんだし」
ショウカは整えるようにコーヒーを一口啜った。ことり、とテーブルに再びカップを置く音は、雑然としたバーガーショップの中でピリオドのように静かに鳴った。
「……あの日のこと覚えてる?リンドウが、渋谷が好きかーとかアヤノがどんな人かーとか、やたらと振ってきた時」
「…覚えてる。ショウカがツイスターズに入って2・3日した頃だよな」
その日、ツイスターズは渋谷中を駆け回り、アヤノさん — 死神時代のショウカの先輩にあたる女性を探し求めた。時間を巻き戻す能力のおかげで少し先の未来を知っていた俺には、アヤノさんの居場所も異変の内容も、そして彼女がもう手遅れだということも分かってしまっていた。
「あの時はアヤノのことで頭がいっぱいで、急いでるのに何なんでもないことばっか振ってくるワケ、とか思ったけど。……でもさ、アレって私がちゃんとアヤノに向き合えるように、手伝ってくれたんだよね」
「う、うん…、俺も必死だったけどな。でもアヤノさんのこと、ちゃんと整理できないまま別れちゃったら悲しいだろうから」
「ほら。リンドウ、そーいうとこ意外とちゃんとしてるよ」
少し寂しそうな影を浮かべながらも、ショウカはぴんと人差し指を上げてみせる。
「だからさ、リンドウがアイツに何か思ってることがあるなら…機会があるときにちゃんと伝えてあげた方が、いいと思う」
「思ってること」
す、と小さく息を吸う。思っていることはそれなりにあるけれど、いざ言葉にしてまとめようとすると指先から抜け落ちる。
元々は俺が積極的に絡むというよりはフレットが構ってくれるから付き合いで連むようになった。けれどあしらっているだけかと言われれば、それは確実に違う。あの日 — 初めて時間を巻き戻した ”死神ゲーム” 最初の日。一度彼を失いかけ、彼を守るために無我夢中で手を引いたあの日に俺は、自分がどれだけ彼の存在に縋っていたのか否応なく気付かされた。いつも傍にいて自分の名を呼び、他愛無い日常を共に過ごし、俳優でもファッションでもカレーでも何でも、知らなかった世界を少しずつ分け与えてくれる。そうすることで彼は、俺の求める安心や平穏な幸せのようなものをもたらしてくれていた。
それに対する、感謝。それから、叶うなら — まだこの日常を続けて行きたいと言う、希望。
「……あるけど。じゃあ、俺もフレットの誕生日にちゃんとプレゼント選して…」
「おっそ」
呆れたようにショウカの声のトーンが低くなる。
「待ってるうちに何が起こるか分かんないじゃん」
「何かって…言って次の4月とかなんだけど」
「それが遅いって言ってんの」
ショウカが不満そうに立てた指を突きつけた。
「私は死神やってたから多少は分かるけど、死ぬのだってホントあっという間。ビョーキとか災害とかなくても事故とかでフツーに死んじゃうし、死んでから慌ててる人の方が多いくらい」
「そう…なんだ」
ひとりでに網膜の裏にフラッシュバックしたのは、思い出したくもない白いトラックの影だった。ブンブンと頭を振って追い払う。ショウカの声が続ける。
「死ぬ、は極端な例だけど。でも何が起こるか分かんないのはホントだと思うし、そういうのって伝えられるうちに伝えたほうがいーよ」
彼女はそう言って、ううん、と伸びを一つしていた。階級はともかく死神として人の生死を管理していた存在に日常の儚さを説教されるのは何だか場違いな気もする。けれど、ほんの僅かな間に日常が失われ得るということは俺も既によく知っていた。
帰りの電車の中、再び開いたスマホには早くもショウカの念押しが届いていた。
> リンリン、”人と仲良くなるチャンスは大事に”
> 普段伝えていない感謝や気持ちがあるなら、伝えるにはいい機会だと思いますよ
> なんつって
彼女は時折、性質の悪い冗談のように”スワロウさん”の口調を復活させる。優しく思慮深そうな言葉で何度も俺を導いてくれた”スワロウさん”と、口が悪くひねくれ者のショウカが同一人物なのだとは未だに信じがたい。二人は同一人物、そうだと分かっていても俺の中の想像のスワロウさんと黒猫帽子のショウカの姿はどうしても結びつかないのだ。だから、同じ内容を言われていてもスワロウさんの言葉だと頷きたくなってしまうし、返す口調もなんとなく直截的なものに留まってしまう。
> わかった、話してみるよ
> ありがとうスワロウさん!
なんつって
それからスマホの画面を落とし、顔を上げて車窓に向かい合った。車内の明るさで窓に自分の顔が映し出されている。耳たぶに付けたシルバーピアスが控えめに金属光を放っている。
通っている高校は校則が緩く、髪染めも制服のアレンジもピアスも派手でなければ見逃してもらえた。だから夏の少し前にピアスを勧められた時も、そこまで抵抗なく乗ってしまうことができた。
— ゼッタイ似合うと思うから!俺が保証する!
— 派手すぎないやつなら、まぁ…
— じゃ俺が選んだげる!どんなのがいい?
— ……おまえが上につけてるヤツみたいな。大人しいの
そう言って自分の耳の上側を摘んで見せると、フレットは「お揃いじゃん」と嬉しそうにニヤけていた。
— やっぱ似合ってる、リンドウ
窓の外を流れる単調な黒灰色をぼんやり眺めながら、そんなことを思い出していた。自分の名前自体は苦手なのだが呼ばれるのは嫌いでなかった。飽きもせず、じゃれつくように繰り返されるその響きを聴いていると、自分という存在の輪郭をなぞられているようで最初は擽ったかった。けれどそれが心地よくもあった。その声は、曖昧な立ち位置しか取れない自分の像に光を当てて照らし出してくれた。
窓に映る自分の像の中、両耳に乗った二点の銀色がくっきりと輝いている。太陽のように眩しく笑う彼の残光を思わせた。
* * *
「ただいま」
扉を開け、人のいない自分の部屋に足を踏み入れる。道具を片付けてデスク前の定位置に腰をかけて息をついた。1週間以上前に買った竜胆の花の最後の蕾が萎れかけている。青紫の色は大方褪せてしまっていた。その花に心の中で語りかける。すごく気分が良かった。
— 俺さ、リンドウに好きって言っちゃったな。
竜胆の花は黙って俯いている。
— 名前がって意味だけどさ。でもまぁ、言えて良かったわ
胸の奥で嬉しい気持ちがプツプツと沸きあがる。行き場のない幸福感でなんだか落ち着かない感じがして、一人でクスクス笑いをこぼした。言いたかったこと全体の、だいたい3割くらいは伝えられたのだから上出来。どうせ100パーセント伝えてしまうことなどできないのだからこれくらいでちょうど良い。きっと。
プレゼントを選ぶときに竜胆の花について色々調べた。花言葉、誕生花となる日、それから生える地域や人との関わりについて。竜胆の花言葉 — 「悲しみに寄り添う」。そうだったらいいのに、と思った。カノンさんを喪った俺を傷んでくれて、旧友を助けられなかった心の痛みに寄り添ってくれたリンドウはその花言葉に相応しいように思った。叶うならばこれからも、もう少し俺の傍にいて欲しい。俺の手の届くところに留まって、代わり映えのしない日常を一緒に受け止めて欲しい。それは我儘だと分かっているから執着しないよう心掛けているけれど。
せめて、一緒に過ごした時間があることを覚えていて欲しいとは思う。
だから俺はリンドウとお揃いで買ったシューズやピアスをとても大事にしているし、一緒に渋谷で昼飯を食べるときには自分の皿から少し取り分けて渡したりしている。想いを伝えてしまうことまではしない代わりの、ちょっとした裏工作。それから、心掛けてリンドウの名前を呼びかけるようにしている。声というのは忘れられやすいものらしいから、少しでもリンドウの記憶の中に自分の声が残るように。
— リンドウ、喜んでくれたかな
取り留めのない言葉の最後の切れはしを竜胆の花に投げかけた。見ている目の前で青紫の花弁がはらりと落ち、自分の白いスマホの上に着地する。それを手で払い除けて画面を立ち上げると、新着の通知が3件だけ入っていた。
ラインのメッセージ。送り主は — リンドウ、全部。スワイプする手に勢いが乗る。
> 今日、プレゼントありがとう
> 明日放課後時間ある?
> 俺もお返ししたい
お馴染みになった二人での街歩き(俺はこれを勝手に『デート』と呼んでいる)のお誘い。一学期の頃は専ら俺が行き先を決めて連れ回していたけれど、夏からはこうしてリンドウから声をかけてくれることが多くなっていた。気持ちがふわりと宙に舞い上がった。 — が、内容については少しだけ疑問が残った。
> 誕プレなんだからお返しとかは大丈夫だけど
> いいから
> ってか別に普段の寄り道的な感じで
勿論、俺の側に断る理由はない。リンドウと一緒にぶらぶらする時間は好きだし、彼の方から何かくれるというならもらっておきたい。嘘。”もらっておきたい” 程度じゃない、めちゃくちゃ大事にする。
浮ついた気持ちを、いつものテンションの返信の奥に押し込めて返した。
> りょーかい!
> 期待しないで待っとくわ
> そうして
> キーホルダー、ちゃんと選んでくれて嬉しい。長く使うと思う
— リンドウ、ちゃんとキーホルダー付けてくれたし、長く使ってくれるって
— 十分じゃん。
リンドウの鍵束を守る青いホルダーを俺は思い浮かべる。邪魔にならないように大人しいデザインにしたし、小さいけど本革だからそれなりに長持ちするはずだ。ずっと時間が経ってクラスとか学校が離れても、敢えて外そうとしない限り何気なく残る。そういうプレゼントにした。何気なく目に入った時にでも俺のことを思い出してくれれば、そう願って贈った。
色々な気持ちが胸の中に交錯して甘酸っぱい感じになっていた。椅子を立ち、ベッドに仰向けに体を倒す。ばすん、と音がして、目の前に広がる景色が単調な天井のそれになる。顔だけをデスクに戻して青い花に言葉を向けた。
— ひとまず誕プレは渡せたし、ちゃんと言いたいこと言えたし、また誘って貰えたし…
— お陰様で?ってヤツかな
— ともかく、短い間だったけどありがと!
褪せた色の竜胆は相変わらず押し黙って静かに佇んだままだった。
その日は一日中、放課後の予定を考えて気持ちを弾ませていた。
終業後のHRが終わり友人連中が部活動へと向かう中、まだ道具類を詰め込んでいるリンドウに自分から声を掛けにいく。どこへ行くのと問いかけると彼は「スペイン坂」とだけ答えた。”お返し” してくれる内容についてはまだ話す気がないらしい。何をもらっても嬉しいに決まっているから別に構わなかった。
そうして二人でメトロに乗って渋谷駅に、そしてスペイン坂に向かう。午後17時を少し回ったこの界隈は、俺たちと同じく学校帰りだろう高校生の2~3人連れや早出の社会人らしきスーツの人々で賑わいを見せていた。暗くなるのが早まる時期なので、店先の蛍光灯の光が所々で浮き上がるように目立っている。リンドウが足を運んだのはそのうちの一つ — アクセサリーショップだった。
「ここ?何買うつもり?」
「ちょっと待って」
陳列されたアクセサリーの類を目で追いながら足早で歩いていく。店の奥、シンプルなデザインのピアスが並んだ一角で彼は足を止めた。
「貰ったヤツと同じ色だと……これとか」
ヘリックスの位置に付けられるような、少し大きめの銀のツメの中に紫がかった青のストーンが嵌め込まれたもの。そういえばメインになる一番大きいピアスはいくつかバリエーションを持っていたが、調子に乗って開けた上側の二点にはいつも同じ銀のボールをつけっぱなしにしていた。悪くない。いや、とてもいいと思う。
「マジ!?くれんの?」
「金額的には大したことないけど」
「いや全然!?てか超嬉しー」
「そっか…じゃちょっと待ってて」
リンドウがそそくさと会計に向かうのを、鼻歌でも歌いたい気分で見送った。それから同じ型の在庫を見ながら自分で付けた姿を想像してみた。色付きだとちょっと目立つかもしれないが、他を黒っぽいドッシリしたものに替えれば似合いそう。ついでにもう片方のヘリックス用も買い換えるのもアリ。そんな妄想をしながら彼を待ち、店の外で早速付け替えてスマホのカメラを覗いてみた。予想通り、なかなか悪くない。いつもは銀色が居座っていた定位置に、真新しい青紫 — 竜胆の花のように凛とした色がキラキラと光を放っていた。
「ありがとリンちゃん、めっちゃいい感じ!」
「そっか。俺も似合ってると思う」
「でもお返しとか、ホント気遣ってくれなくて大丈夫だったんだけど」
誕プレは俺があげたかっただけだし。そう言うとリンドウはうん、と頷いて、それからフッと俺を見上げるようにした。
「その、さ。今日この後急ぐ?」
「うん?」
「少し話したくて…ちょっと歩いてかね?」
「あー…?うん、全然いいけど」
そっか、じゃ行こう。そう言ってリンドウはスペイン坂を登る方向に足を向けた。切り出しにくいのかしばらく彼は黙っていて、坂の上の通りを行き交う車の音や、女子たちが談笑する声だけが二人の間に響いていた。
「何で名前が俺に合ってるって言ってくれたのかとか、分かんないけどさ。俺も自分の名前、割と合ってると思ってる」
目線を合わせないまま、しかし歩調を緩めてリンドウは静かに言う。裏道ということもあり、5時台より少し人が掃けた通りは並んで歩くのに丁度良かった。
「形は綺麗だけど色はそこまで華やかな感じじゃないし。光があるところじゃないと咲けない」
ぽつぽつとリンドウは言った。話している内容の割には悲観した様子はなくて、ただ事実を淡々と述べている感じだった。慌ててフォローを入れる。
「いや、別にそーいうつもりで言ったんじゃないんだけど!?」
ってかフツーにカッコいいし綺麗じゃん。俺部屋に飾ってたけどいい感じだったよ、そう言って一人竜胆を擁護する俺を見て、同じ花の名前を持つ彼はふはっと吹き出した。
「何でおまえがキョドってんだよ」
「だって俺は好きだし」
「どこが?」
「……色々」
いったん言葉を止めたが、リンドウは伺うように口をつぐんだままだった。ゆったりとした足取りはいつの間にか宇田川町の壁の下まで流れ着いていた。幽川舎とかピュアハートとかヴァリーとか、ミナミモトさんとかと戦った場所。車が殆ど通らないことはUG時代の経験から知っていた。コンクリートの壁に背中を当て体重を預けると、隣のリンドウも同じ姿勢で寄り掛かった。
車だけではない。この時間は人通りも少ない。
「竜胆の花言葉ってさ、『悲しみに寄り添う』って言うんだって。それがリンドウにぴったりだなって思った」
リンドウは「うん」とだけ答えた。路を吹き抜ける冷たい風が乾き始めた街路樹の葉を揺らす。その音と雑踏の薄い靴音だけが鳴って、静かだった。
「俺さ、高校入ってばっかの時とか微妙に前の友達のこと引きずってた。悲しいって言うよりは寂しいってか空しいって感じだったけど……でもリンドウと連むようになってから、そういう寂しい感じがなくなって」
流れで話してたつもりだったけど、既に止めどころが分からなくなってしまっていた。まぁそんな感じでと無理やり話を断ち切ろうとする自分を、ここは誤魔化しちゃいけないトコ、と内心の声が押し留める。どこまでも本当のことを告げてしまった方がいいのか、リンドウが気まずい思いをしないように適当に誤魔化した方がいいのか。どちらが正しいのか分からなかった。けれど迷っている間にも、俺の口は勝手に言葉を紡いでいた。
「死神ゲームでカノンさんが消えちゃった時とか…落ち込んでたけど、リンドウが悼んでくれてるのは分かったし。リンドウはいつもそこにいてくれるから、花言葉に凄く合ってると思うし……」
そういうところが好き。そこまでは言わなかったけれどもはや同じことだろう。
隣に顔を向けるのが怖かった。何言ってんだ、とか怒られた時に備えて、茶化して逃げる準備をした。何、変な意味で取っちゃった?とか。聞いてきたのリンドウじゃん、とか。
だけど隣から聞こえてくるのは、「そっか」と静かに呟く声だけだった。
「俺も自分の名前だから、竜胆の花言葉とかは昔調べたし知ってる。陰気臭いよなって思ってたけど…悲しい時とか辛い時とか、嫌じゃなかったら傍にいて助けたいと思う」
その声の温度がこちらを向いた。
「悲しみに寄り添えてるかは分からないけど、辛いことがあったら力になりたい。フレットがそういうのあんま好きじゃないのは知ってるけど」
そう言ってリンドウは自分の耳の上のあたりに手をやった。合わせるように自分も同じ場所をなぞる。着けたばかりのピアスが指に触れた。彼の名前の花と同じ色のそれが、静かな輝きを湛えてそこに収まり、守ってくれている。
「無理にとは言わないけど、俺はいつでも待ってるから。フレットといるのが…その、好き、だし」
心に引っかかっていた言葉が彼の口から溢れる。それを聞くと胸の温度が上がっていくのが感じられた。
「……もう少し傍にいさせてほしい」
ひと思いに吐き出すようにリンドウは言って、それからふぅっと息を吐いた。恐る恐るそちらに顔を向けると、穏やかそうな鳶色の瞳と視線が一瞬だけかち合い、それからつんと逸らされた。珍しく分かち合えた静かな雰囲気と言葉が消えてしまわないうちに、俺は急いで追いかける。
「ありがと、俺もリンドウといるのが好き……だから、これからも一緒にいて欲しい」
「喜んで」
リンドウの目線は逸らされたまま、しかしその目元がふっと嬉しげに綻んだように見えた。想いが違えていないことを確かめたくて、俺は再びその名を呼びかける。リンドウ。その響きに、街の向こうを眺めていたブラウンがふっとこちらに向けられた。続きを待っているような目線に一瞬たじろぐ。その名を呼んで、こちらを見て欲しかっただけだから。だけど繋げる言葉はすぐに見つかった。以前投げかけた同じ問いを、繰り返す。
「俺、リンドウって凄くいい名前だと思ってるけど…リンドウは自分の名前、やっぱ苦手?」
それを聞いた彼はぼんやりとした顔でしばらく中空を見つめてから、「いや、」と確かめるように口に出した。
「苦手だったけど…フレットにそう呼ばれるのは」
好きだよ。花の名に託して渡された言葉は俺が一番欲しいものだったけれど、真意がどこまでなのかまでは測れなかった。それでも、きっとこれからも俺はその名を呼び続ける。
彼がいつか、自分の名前を好きと言えるように。
そして、その名とともに俺の声と存在が、彼の記憶に残り続けるように。