番 10(司side)
結果、あの後 少しの間 類と抱き合って何事もなく別れた。『そろそろ帰ろうか』と言う類の言葉に頷いて、二人で個室を出た。食事代は何故か類が全て支払ってしまった。家へ送り届けられるまでの帰り道も特に会話もなく。また今度、と帰っていく類の後ろ姿を見て、寂しいと感じてあの日は終わった。
ーーー
「だから、るいさんの様子を見に行った方が良いと思うの」
「…ぅ……、それは…分からなくもないが…」
ずい、とオレの方へ体ごと身を乗り出して近付いてくる咲希に、口篭る。
咲希の話によると、オレが出ていった後 類が家の中で倒れていたらしい。食事をまともに摂っていなかったのだと寧々に聞いた咲希が心配して、オレに たまには様子を見た方がいいと言い出したのだ。
以前から自分に無頓着な奴だったが、確かに結婚してからオレが殆ど身の回りの事をしてしまったので、そうなるのも仕方がないのかもしれん。掃除も洗濯もしていたし、一緒に食べずともバランスの良い食事をと気を遣っていた。
離婚しようと言って出てきた日からもう三ヶ月となる。掃除も洗濯もしていないので、家の中は大丈夫なのだろうか?
(…オレの荷物もずっと置いたままだしな…そろそろ、取りに行かねばならんだろう……)
持ち出しきれなかった荷物の事を思い出し、小さく息を吐く。
類がやり直したいと言った時、荷物を持ち出すまでに、と期間を設けた。つまり、荷物を全て運び出したら この関係も終わりとなる。離婚届に判を押して、夫婦ではなく友人に戻る、ということだ。
だが、本当にそれでいいのか、分からなくなってきた。類と顔を合わせる度、今までのモヤモヤとしたものが薄れてしまう。好きだと言われれば胸の奥が苦しくなる程嬉しいと思ってしまうし、触れた時に伝わる熱で混ざり合うような気さえする。別れ際の寂しさも、会った時の安心感も、もうどうしていいか分からない。
分からないが、その度に 自分がまだ類を好きなのだと思い知らされる。
「お兄ちゃん、るいさんに何かあってもいいの?」
「……だが…」
「…お兄ちゃんが行かないなら、アタシがるいさんのお世話しに行ってあげるけど」
「それは駄目だっ…!」
大きな声を出してしまい、思わず口を手で抑える。が、にまりと表情を弛めた咲希と目が合い、もう遅いと悟った。
笑顔の妹が「行ってらっしゃい」とそう言うのを見て、オレは肩を落とした。
―――
すっかり見慣れた家の玄関の前に立つこと五分。中に入る勇気が持てずに、鍵を何度も開けようとしては躊躇ってしまう。寧々に類が仕事だという確認はした。それならば、中に入っても鉢合わすことはないはずだ。だが、どうしても入りづらい。
「……荷物を取りに来ただけだ…、類がどうしているか気になるわけではない…、掃除をしに来たわけでもない…、だが、少しくらいなら……いや、……うぅ…」
しゃがみ込んで、両手で頭を抑える。
入って家の中がめちゃくちゃだったらどうする。生活能力の無い類なら有り得る。そんな家で生活を続けては、類の体調も悪くなる一方だ。
だが、万が一部屋の中が綺麗だったら…? オレ以外に、掃除や洗濯や料理をしてくれる恋人が万が一にでも類に出来ていたらどうすればいい?
オレを好きだと言う類の言葉を疑い切れなくて、絆されてきたのだと思う。類の言葉を信じたくて、もう一度類とやり直せるのかもしれないと期待だってしてしまっている。それなのに、またここで裏切られたら…? 類の事になるとオレがオレらしくなくなる。
うぐぅ、ともう一度唸り声をあげて、鍵を睨む。ここでいつまでもしゃがみ込んでいては、類が帰ってきてしまう。その前に中に入って、確認しなければならない。裏切られたなら、荷物を持ち出せばいい。約束通り離婚して、もう関わらなければいい。関わらなければいいだけだが、類から離れる決心が揺らいでいて、引き止める理由を探そうとしてしまう。別れなくて済む言い訳を、考えてしまう。
「…………あぁもう駄目だっ! お邪魔しますっ!!」
大きな声で逃げ腰になる自分を叱咤して、鍵を勢いよく差し込む。ガチャ、と扉を一思いに開け放ち、中に踏み込んだ。ぱち、と照明をつければ、記憶の中とさほど変わらない光景が目に映った。
靴が置かれていない玄関と、物の落ちていない短い廊下。その先にある扉は開いていて、リビングが見えている。呆気としたまま靴を脱いで中に入れば、ふわりと甘い匂いがした。
「……掃除が、されている…」
リビングも、出ていった時とほとんど変わっていない。一人分の食器が置かれたキッチンのシンク。冷蔵庫の中には何も入っていなかったが、何を食べたのだろうか。洗面所を覗くも、洗濯物は二日分程しかない。もっと山になっていると思ったのだが、どういう事だろうか。
恐る恐る自分の部屋の扉を開く。出ていった時とやはり変わらない室内に、ほんの少し安堵してしまった。
「…これは、オレのか……?」
ベッドの上に置かれた、畳まれた洗濯物に手を伸ばす。畳み方が少し変だ。かなり不恰好というか、シャツの正面が内側になってしまっている。それを広げれば、出ていく前日に着ていたものだと気付いた。確か、勢いで出ていってしまったから、脱衣所に置いてそのままだったな。それが何故洗濯されているのか。
「…………もしかして、類が洗濯したのか…?」
類と籍を入れて六年以上一緒に暮らしてきたが、類が家事をしているところを見た事がない。だが、そうでなければ、誰がやるというのか。新しい女性でも出来て、掃除や洗濯をさせた、などと考えたくない。百歩譲って、寧々や えむが類の生活能力の無さを見兼ねて来てくれたのだとしても、こんなに不恰好にはならないだろう。
もう期待しないとは決めたが、それでも類が他人をこの家に入れたとは、思えない。オレが出ていってから、一人で頑張ってくれたのではと、信じてしまいたくなる。
「……」
その場に服を置いて、部屋をそっと出る。誰もいない家の中はシン、としていて静かだ。類が帰ってくるまで、まだ時間はある。帰りに飲みに行っていれば、もっと遅くなるだろう。それなら と、オレの部屋の隣にある類の部屋の扉の前に立つ。ノブをゆっくりと引いて、扉を開けた。
ふわりと甘い匂いがして、思わず躊躇ってしまう。類の匂いに、ドキドキした。胸の奥が ぎゅ、として変に喉が渇くような感覚を覚える。
(……相変わらず、物が散乱しているんだな…)
記憶の中と相違ない類の部屋に、安堵した。少なくとも、女性がこの部屋に来ている様子は無い。類以外の匂いも、しない。中へ踏み込んで、扉を閉めた。発情期の時に少しお邪魔していたが、以前は匂いが残らないようにと気が焦ってしまっていて、こんな風にゆっくり室内を見渡すこともなかったな。
類の匂いで満たされた部屋は、なんだか類が傍にいるかのようで少し落ち着かない。そわそわとしつつもベッドの方へ寄って、ゆっくりと腰を下ろした。
「…さすがに、一応自分の夫の部屋とはいえ、変態みたいだな……」
じわぁ、と顔が熱くなり、自分が何をしているのか自覚してきた。発情期でもないのに、仕事中の旦那の部屋に忍び込むとか、変質者ではないか。
どう見ても浮気をされている様子もないのだから、もう出よう。このままでは自分が何をしでかすか分からんしな。
気恥しさに耐えきれず パ、と勢いよく立ち上がる。が、踏み出す前に体から力が抜けてその場にへたり込んだ。
「……………ぁ、れ…?」
脚に上手く力が入らない。じわりとお腹の奥が熱くなる感覚と、甘い匂いで意識がふわふわとするような感じがして、思わず息を飲んだ。心臓の鼓動が、やけに早い。酸素が上手く取り込めないような息苦しさと、倦怠感。頬を汗が伝い落ちて、そのまま寄りかかるように類のベッドに顔を押し付けた。
甘い匂いがゆっくりと体の中に入ってくるような感覚に、身体が勝手に興奮していく。
(………な、んで…)
ぐらぐらと意識が揺れる中、震える手でポケットの中のスマホを手繰り寄せた。
―――
(類side)
「………」
「神代さん?」
「ぁ、すみません、…少し、考え事を……」
ゾクッ、と背を何かが駆け上がるような感覚に、思わず足が止まった。不思議そうにする役者仲間にへらりと笑って返し、スマホを手に取る。通知は何も来ていない。時刻はお昼を過ぎた頃だ。天気が悪いわけでもない。自分の体調が悪いという感じでもない。
ただ、妙に落ち着かないのは、何故だろうか。
(……まるで、司くんが発情期を起こしている時のような感じだ…)
番が発情期を起こすと、身体がそれをなんとなく察するらしい。本能的なものなのだろうね。自分の番に傍に居ないと、落ち着かなくなる。その内体が勝手に熱を持ち、会いに行きたい衝動に駆られて堪らなくなるんだ。暴れ出したくなる様なそれを、毎回ホテルで抑え込むのに苦労した。
その時の感覚に似ている。けれど、司くんが前回 周期がズレて発情期を起こしてから三ヶ月程しか経っていない。彼がまた周期をズラした…?
(そういえば青柳くんが、番関係が上手くいかないと気持ちが不安定になって周期がズレる事もあるって、言っていたね…)
もしかして、それが原因なのだろうか。確かに思い返せば、前回周期がズレたのもそれが関係していたのかもしれない。他人の匂いに嫉妬して、司くんに負担をかけてしまったのもその頃だ。その後気まづくなってしまって夜遅くまで帰らなくなった。彼が待ってくれていたことにも気付かず、不安にさせてしまった。浮気を疑われだしたのもその頃だとすれば、確かに周期がズレる程不安にもなるだろう。自分の番が他のΩに会っている、なんて不安にならないはずがない。
今更ながらに自分が最低な事をしていたのだと思い知らされる。
(…今は別居している状態だから、彼の心に負担をかけているのかもしれないね。 中途半端に会いに行くのも、逆効果だったかな…)
自分の番と離れる寂しさを与えてしまったのなら、申し訳ないことをした。彼が望んだ状況ではあるけれど、司くんに会いに行ったのは僕だ。抱き締めたりなんかしたから、余計に彼の身体が勘違いしてしまったのだろう。
まだそうとは決まっていないけれど、早めに薬を飲むように伝えなければ…。そう思ってもう一度スマホを取り出した所で、不意に通知を知らせる音が聞こえた。画面に、今思い浮かべていた相手の名前が出てくる。
「……司くん…?」
メッセージのようだ。たった一言、『あいたい』と打ち込まれたそのメッセージに、急いでスマホのロックを外す。連絡先から司くんの名前を探して発信ボタンを押すと、数回聞き慣れたコール音が聞こえてきた。司くんからこんな簡潔で直接的なメッセージが来るのは珍しい。彼が出ていってからは、僕から送ることは増えたけれどまだ彼から来たことはない。妙な胸騒ぎも相まって、心臓が煩く鳴り響く。
コール音が途中で途切れ、弾かれたように顔を上げた。
「っ、…司くん…?! 何かあったのかい…!」
『………………る、…ぃ…?』
普段の彼からは想像出来ないほど小さい甘えるような声音に、思わず息を飲む。発情期を起こした司くんの、αを誘う声。胸騒ぎの原因がはっきりして、一度落ち着くためにゆっくりと息を吐いた。
やっぱり発情期を起こしてしまったようだ。幸い抑制剤は鞄の中にあるので、司くんがいる場所さえ分かれば届けにいけるだろう。機械越しに聞こえてくる彼の荒い息遣いに、胸の奥が ぎゅ、と掴まれるような苦しさを覚える。それと同時に、今すぐにでも触れたい衝動がお腹の奥から込み上げてくるのが分かった。
「…司くん、今どこにいるんだい? 薬はしっかり飲んだのかい?」
『………』
「司くん…?」
『……ん………、るいのこえ、うれしぃ…』
へんにゃりと緩んだような声で ふふ、と小さく笑う司くんに、心臓が大きく跳ね上がった。じわぁ、と顔が熱くなって、思わずスマホを握る手に力が入る。
酔っているのだろうか。いや、そうではないのだろう。きっと、発情期の熱で浮かされているだけだ。以前にも、発情期を起こした司くんが僕を『好きだ』と言ったことがある。それと同じで、自分の番に愛されるための本能的なものなのだろう。
ふぅ、とゆっくり息を吐いて、もう一度気持ちを落ち着かせる。全然落ち着かないけれど、やらないよりはマシだ。
「司くん、今どこだい?」
『…るぃの、へや……』
「っ、……、すぐに行くから、そこを動かないでね」
『………ん、…』
一度通話を切って、仲間に早退させてほしいと願い出る。理由を話せば、あっさりと承諾された。それに御礼を言って、急いで荷物をまとめて家に向かって駆けだした。
(……何故、僕の部屋にいるんだろう…)
会いに来てくれた、というわけではないのだろうね。僕が仕事だと、知っていたと思うから。それに、彼なら先に連絡をくれると思う。
それなら、僕がいない間に荷物をまとめに来たのだろうか。急に何かが必要になった、ということなら良いけれど、もし残っている荷物を持ち出そうとして帰ってきていたのなら、このやり直しもダメだったという事だろうか。司くんの荷物が残っている間だけ、と期限が決まっている。だから、司くんが荷物を持ち出そうとしたのなら、もう僕の気持ちに応えるつもりはない、ということではないのかな。本当にもう、このまま離婚する事になるのだろうか…。
劇団からほど近い自宅に着いて、鞄から鍵を取り出す。とりあえず、先に水を汲んで、抑制剤を飲ませないと。頭の中で順番を思い浮かべながら、扉の鍵を開ける。ノブを引いて、扉がゆっくりと開いた。瞬間、家の中からぶわりと一気に甘い匂いが漏れ出してきた。
「っ……」
頭がくらくらとしてしまいそうな程強い匂いに、渇きを覚えた喉が ごくん、と音を鳴らす。家の中に入り玄関の扉を閉めれば、一層匂いが強くなる。司くんの匂いだ。司くんのΩのフェロモン。自分の番を誘う為に発する匂い。
(………こんなに、強かったかな…)
以前天馬家に迎えに行った時は、ここまで匂いが強くなかったと思うのだけど、気の所為だろうか。そもそも、彼が発情期を起こす時は毎回傍に居ないよう離れていた。知識としては匂いが強く出るのは知っているけれど、あまり体感してこなかったのだから、曖昧になっているだけかもしれない。
靴を雑に脱いで、リビングの方へ向かう。更に強くなる匂いに、苦笑した。これだけの匂いを今まで発情期の度に消していたのなら、司くんの徹底ぶりは流石だと思う。誤解があったとはいえ、僕の為に頑張ってくれていたというのも、嬉しい。
「…とりあえず、水と、薬…、あとは……」
必要なものをまとめて持って行きたいけれど、頭が上手く働かない。彼の匂いが強過ぎて、そちらにばかり意識が向く。甘えるような、僕を呼んでいるような匂いに、惹き付けられる。
これ以上抗うのは無理か、と水の入ったコップと薬だけを持って、自室に足を向けた。鍵のかからない部屋の扉を開けば、室内が司くんの匂いで満たされていて、無意識にお腹の奥が重たくなる。
床に色々と置いたままの散らかった部屋は、朝よりも多くの物が床に落ちていた。開けっ放しのタンスから出されたのだろう衣類が、ベッドの上で山になっている。コートやマフラーといったものもまとめられていて、けれど司くんの姿は見渡しても見えなかった。匂いは確かにこの部屋の中が一番強いのに、どこにいるのだろうか。
一度手に持ったコップは机の上に置き、ぺた、ぺた、と室内を歩いて見回せば、ベッドの上の山が微かに揺れた。
「……つ、かさくん…?」
もしや、と洋服が山になったそれに手をかける。上から少しづつ落とすようにして中を覗けば、金色の髪が見えた。ついで、赤く染まった顔がゆっくりと僕の方へ向けられる。「…る、ぃ……?」と甘える様な声がして、僕は両手で顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。
(…………巣作り、してくれたんだ…)
じわぁ、と胸の奥に熱いものが広がっていく。泣きそうなほど嬉しくて、視界が滲んだ。
彼が発情期を起こす時は、彼と顔を合わせないようホテルに行くようにしている。その間、彼が僕の服を使ってくれても構わなかった。発情期の時は、無意識に番の匂いを求めるものだと聞いていたから、それを咎めるつもりはなかった。むしろ、彼が僕の匂いを求めてくれるなら嬉しいんだ。けれど、発情期の後に家に帰ってきても司くんの匂いがついた様子が無かったから、彼に僕の匂いは必要がないのだと思っていた。天馬家に発情期の彼を迎えに行った時、僕の服を離したくないと縋ってくれた時だって、本当に嬉しかったんだ。
「……んぅ…、るぃ…?」
「あぁ、ごめんね。…ここにいるよ」
もぞもぞと服の山が揺れて、消え入りそうなほど小さな声で呼ばれた。不安そうなその声に急いで顔を覗かせれば、白い手が僕の首に回される。ぎゅぅ、と服の山の中から抱き寄せられ、思わず息を飲んだ。首元に顔を寄せる司くんが、ふにゃふにゃの声で小さく笑うのが聞こえてくる。
「…るぃ、……お、かえり、なさい…」
「………ん、ただいま」
これは、非常にまずい。強くしがみつく司くんは、なんとも可愛らしいことを言ってくれている。離婚したいと言い出したのは彼なのに、それが嘘のようだ。まるで僕を愛おしいと思ってくれているかのような、そんな司くんにきゅ、と唇を引き結ぶ。とても可愛い。甘い匂いで思考も上手くまとまらなくて、理性を繋ぐのが精一杯だ。
今すぐにでもめちゃくちゃにしてしまいたい気持ちを抑え込み、服の山を崩しながら司くんを抱き起こす。
「司くん、抑制剤は飲んだのかい…?」
僕の問いに、彼がゆっくり首を横へ振った。やっぱり、と予想していた反応にゆっくりと息を吐く。彼の体を僕に寄りかからせるようにして支え、机の上からコップを取る。口元へ近付ければ、司くんは素直にコップに口をつけた。ゆっくりと傾け、水を彼の口に流し込む。こくん、と一口飲んだ彼に苦笑して、今度は抑制剤を彼の口へ指でそっと入れる。「飲んで」ともう一度水の入ったコップを口元につけて傾ければ、司くんは素直に水と一緒に抑制剤を飲み込んだ。
もう要らない、とばかり顔を顰めた司くんが、僕の手を軽く払う。落とさないようしっかりコップを握る僕の首に腕を回すと、そのままぎゅぅ、と彼が抱き着いてきた。うり、うり、と額を擦り付けて甘えてくる司くんに、はぁあ、と重たい息を吐く。
下腹部の辺りがどんどん重たくなっていくのが、自分でもわかった。
「司くん、一度体勢を変えたいから、少しだけ離れてくれないかい?」
「……んー…、ぃやだ…」
「けれど、この体勢では、…その、当たっている、よね…?」
正面からぴったりとくっついたまま離れない司くんに、恥ずかしさはあれど言わなければいけない事を伝えてみる。
司くんの鍛えているのに細い腰に、誤魔化しきれない自分自身の欲が当たってしまっている。それはそうだ。今まで耐えられる自信が無かったから物理的に距離を取っていただけで、学生の頃から司くんに対して邪な感情を持っていたのだから。番になったからと、それに甘えて司くんを無理矢理襲うようなことをしたくなくて、避けてきたんだ。ただでさえ浮気を疑われ、無理矢理キスをして泣かせ、離婚しようと家を出ていってしまった司くんに、今度は彼の発情期を言い訳に手を出すなんてしたくない。
司くんが振り向いてくれるまで頑張ると決めたんだ。それまでは、彼に対して出来る限り誠実でいたい。
「だから、少し離れよう、ね…?」
「………いやだ…、……るい、きす、…しないのか…?」
「…んぇ…?!」
「……まえ、みたいに…したいって、…いわないのか…?」
じっ、と僕の方を見る司くんに、息を飲む。
涙がうっすらと滲む瞳に映る自分は、情けない顔をしていた。赤く染まったその顔が可愛くて、甘えるような声音に心臓がドキドキして、誘うような甘い匂いに頭がくらくらしてしまう。
触れたい。キスだって、したい。もっと先まで、そう何度も望んできた。けれど、ここで手を出す訳にはいかないんだ。番だから、司くんは僕を望んでくれている。けれど、それは彼が僕を愛してくれているということでは無い。
「…るい……?」
「っ……」
「……オレがすきだ、と…いって、くれないのか…?」
泣きだしそうな司くんの声に、胸の奥が ぎゅ、と締め付けられるように苦しくなった。思いきり強く彼の体を抱き締めて、細い項に顔を寄せる。くっきりと残る僕の噛み跡に口付ければ、司くんの口から甘い声が零れた。
ぎゅぅ、と僕の背に回された細い腕に力が入るのが伝わってくる。
そのまま彼をシーツの上に押し倒し、白い首筋に強く吸い付いた。
「んっ……」
「…好きだよ。司くんが好き、大好き…」
「………んへ…、ぅ、れしい…」
「キスだってしたいし、君が受け入れてくれるのなら、君の全てが欲しいよ」
へんにゃりと表情を緩める司くんは、本当に嬉しそうに笑ってくれるものだから、胸の奥が更に苦しくなった。
発情期がまだ収まっていないから、本能的に番からの愛を欲しているだけなのだろう。本来の彼なら、望んではくれないのだと思う。僕と別れたいと、あんなにはっきりと拒絶されてしまったのだから。
こんな風に、僕を受けいれてほしいと、ずっと願ってきた。だからこそ、こんな形で受け入れてほしくない。
「発情期が治まったら、沢山してあげるから、今は我慢しておくれ」
「………ん、…る、ぃ…」
「大好きだよ、司くん。薬が効いて、発情期が治まったら、二人でこの先の話をしよう」
「……………すきだ、るい……、だいすき…」
お返しとばかりに、司くんが僕の首筋に口付けた。
もぞもぞと身じろぐ彼を抱き締めて、腕の中に閉じ込める。安堵したようにうとうととし始めた司くんは、そのまま眠ってしまったようだ。小さく『好き』を繰り返してくれた彼に、泣きたい程胸がいっぱいになる。
「……僕も、愛しているよ」
昂った熱は見ないふりで何とかやり過ごし、僕もそのまま目を瞑った。
―――
(司side)
心地良い心音と、甘い匂いで目が覚めた。
目の前に、普段着を着たままの類の首元があって、思わず大きな声が出てしまった。叫んだオレの声で、類が起きてしまったらしい。もぞもぞと身じろぐ類は、そのままオレの背に回した腕に力を入れて、ぎゅぅ、と強く抱き締めてくる。もはやこの状況も訳がわからず、顔が沸騰しそうな程に熱を持つ。
「る、るるるるいっ、…はなっ、はなしてくれッ…!?」
「…んぅ……司くん、もう少し寝ていようよ…」
「まてまてまて、近いっ…! それに、な、なななにか、あたるんだがっ…?!」
ぎゅぅ、と一層類の腕の中に抱き込まれ、身動きが取れなくなっていく。更に両足に絡むように類の足がくっついてきて、余計に困った事態となった。必死に類の胸元を手で押すが、全然力が入らん。下腹部に固いものが当たる気がして、余計に意識がそちらへ向いてしまって抵抗出来ん。
「類っ…!」と大きな声でもう一度名を呼べば、寝起きでぼんやりとする類と目が合った。目の前で ふわりと微笑まれ、その瞬間自分の心臓が大きく跳ね上がる。
「…おはよう、司くん」
「お、おはようではないっ…! いい加減離れてくれっ!!」
「昨夜は司くんが離れたくないと泣いてくれたのに、寂しい事を言わないでおくれよ」
「なっ…?!」
嘘泣きをする類に、思わず否定しかけてその言葉を飲み込んだ。
薄らとだが、記憶が残っている。確かに、言った。類が好きだと。離してほしいと言う類に、首を振ってしがみついたのも、何となく覚えている。その後の記憶は曖昧だが、体に違和感がないという事は、きっとまた何も無かったのだろう。
発情期は、Ωがαを強く求めるものだ。番がいれば、番と子を成すために身体が熱を持ち、フェロモンで自分の番を誘う。番のフェロモンの匂いを求めて、番の服や物を集め、更にそれを使って巣を作り愛情表現をするとも言われている。
Ωであるオレも、例外では無い。類に求めて欲しいと思うし、無意識に類を求めてしまう。
「どうして僕の部屋に居たのかは知らないけれど、君から連絡をくれて、更には巣作りまでして僕を待ってくれていて、嬉しかったんだよ」
「……す、づくり…?」
「してくれたでしょ? と言っても、君は無意識だったと思うけどね」
「…………ぁ…」
よいしょ、と類がオレを抱き締めたまま起き上がる。膝に抱えられたオレの視界に、記憶の中の類の部屋よりも更に散らかった光景が映った。棚は全て開けっ放しになり、服が至る所に落ちている。特にベッドの上とそのすぐ下が酷い。コートやマフラー、靴下に下着まで全てが山になっている。
(…そういえば、類の部屋を覗いていたら、急に体が熱くなって、類の匂いが堪らなく欲しくなって……)
いつもなら、抑制剤を飲んでから手近な物を一つ持って自室に籠っていたが、匂いを気にしなくていいと思ったらこの部屋から出たく無くなったのだったな。類の匂いで満たされた部屋は、発情期中のオレにとっては夢の様な空間だっただろう。
自分の仕出かした事に片手で頭を押さえる。類にメッセージを送ったのもぼんやり思い出してきた。その後電話を貰って、嬉しいと言ったことも。
「起きたらキスをすると約束もしたし、僕としてはかなり我慢したと思うのだけどね」
「………我慢、する必要は…無かっただろ…」
「……我慢くらいするよ。君の同意がないなら、僕は勝手に君に触れる事はしたくないからね」
「同意なら得ただろっ…、昨夜だって、オレはお前に触れてほしいと強請ったはずだ…!」
睨むように類を見れば、類は困った様に眉尻を下げた。
発情期の時は、普段押し殺している願望が強く表に出てしまう。類が好きだという、オレの想いも。実際、オレは何度も類を求めた。類からの『好き』が欲しいと強請ったのも覚えている。オレを手離したくないと、最近になって急にオレを好きだと言い始めた類には、好都合な展開だったはずだ。本能に負け、類が好きだと言ったのだから。キスをしてほしいと、触れてほしいと類を誘ったのだから。
オレからの同意ならしている。それでもキスの一つもしなかったのは、類が本当はオレの事を愛してはいないからではないのか…?
「番なのだから、それくらいの覚悟はあるっ! Ωが発情期を起こす理由も、その時自分が何を望むのかも、全て知っている! その上で類に抱かれたとしても、文句を言うつもりだってないっ!」
「……そうだね。ただ、…もう二度と、君を泣かせたくなかったんだ…」
「っ、…類がオレに触れたくなかっただけだろうッ…?! オレの為と言って、本当はお前がオレを仲間以上には見られないだけではないかっ…!!」
「そんな事はないよっ!」
類を押しのけて逃げようとしたオレの腕を、類が強く掴んだ。ぐるん、と視界が大きく回って、ベッドの上に押し倒される。天井をバックにオレを見下ろす類は、何故か泣きそうな顔をしていた。「そうではなくて…」と、類が小さく声を落とす。
思わず言葉を飲み込むと、類の額がオレの額にそっと押し付けられた。
「君が好きだから…、もうあの時のように泣かせたくなかったんだ…!」
「……な、んの、話だ…?」
“あの時”とは、いつの事だ。
類の言っている意味が分からず呆然とするオレを、類が抱き締めてくる。正直オレより大きな体で上から抱き締められるのは重たくて苦しかった。だが、泣きそうな声音と、ずっと好きだった甘い匂いでそんな事がどうでも良くなってしまう。
肩口に顔を押し付ける類にそっと息を吐けば、首元で小さく「あの日」と類が呟いた。
「…司くんを番にした日、後悔したんだ……」
落とされたその一言に、ずきん、と胸の奥が抉られるように痛んだ。
やはり、類はオレを番にしたいと思ってはくれていなかったのか。オレが発情期を起こしてしまい、そばに居た類を誘ったから、本能的に番にしただけだったのだな。番になったから、結婚までしてくれただけで、愛されてはいないのだな。
予想通りだった。予想通りだったのに、胸が痛くて、じわりと涙が滲んだ。震える手でシーツを握り締めると、類の手がオレの項に触れた。
「君が僕を選んでくれたことが嬉しくて、誰かに取られてしまう前に君を僕のモノにしてしまいたいと、衝動のままに項を噛んだ事を、後悔した」
「………ぇ…」
「本当なら、お互いの気持ちを確かめてから番になるのに、君の気持ちも確かめずに僕がここを噛んでしまったせいで、君を泣かせてしまったから…」
ここ、と言った類が、オレの項を指で撫でる。ゾクッ、と背が震えて、慌てて唇を引き結んだ。柔らかい唇が首筋に触れ、思わず目を強く瞑る。
類の言う、“泣かせた”とは、なんの事だろうか。あの日は、類が保健室まで連れて行ってくれて、薬が効くのを待ちながら、荷物を取りに行った類を待っていて…。
そこで、漸くあの日の事を思い出した。
「…ま、さか……、見ていたのか…?」
「泣く程嫌なのかな、と思ったら、…なんとなく、気まづくてね…」
「……もしかして、それで“仲間”だと…」
「もし君に、他に好きな人がいるのなら、その方が気が楽だと思ったんだ」
オレの上からゆっくり起き上がる類は、へらりと諦めたように笑っていた。
その顔に、胸がまたズキ、と痛くなって、咄嗟に手を伸ばす。類の手を掴んで、オレも上体を起こせば、類が不思議そうに目を丸くさせた。
「あれはっ…! ……あ、れは、…嫌だったわけではなくて…」
「……君に好きな人がいる、と知ったのは、学生の時、えむくんと司くんが二人で話しているのを聞いたからだよ」
「っ……」
「僕なら良いと、思っていたんだ。いや、僕なのかもしれないと、そう思ってしまっていて、君に誘われるまま項を噛んでしまったんだ」
類が一つひとつ打ち明けてくれている。それを聞いて、じわぁ、と涙が滲んだ。
確かに話した。えむに、“好きな奴がいる”と。それは、紛れもなく類の事だ。類が好きだったから、こっそり えむに話してしまった。まさかその話を聞かれていたとは思わなかった。それに、その話がきっかけで、類はオレに“類以外の好きな人がいる”と思い込んでいたのか。
今更になって、お互いに誤解し合っていたのだと気付かされた。些細な事が積み重なって、こんなにも遠回りになってしまった。それだけ、オレと類は会話をしてこなかったという事だ。
掴んだ類の手を両手で包む様に握って、類の方へ顔を向ける。目を丸くさせたままの類に、一度大きく息を吸い込んでから、「嬉しかったから」と、切り出した。
「オレがあの日泣いたのは、嬉しかったからだっ…!」
「…ぇ……」
「ずっと、類と番になりたかったから、だからあの日、人の少ない空き教室まで熱に堪えて、態と類を誘うような事を言ったんだっ!!」
「………つ、かさ、くん…?」
ギッ、とベッドが軋む。類の膝の上に乗り上げるようにして近付けば、類がほんの少し後ろへ後退った。その白い頬がじわりと赤く染まるのを見て、唇を引き結ぶ。口内に溜まった唾液を飲み込めば、ごくん、と大きな音が響いた気がした。類の手を抱くように自分の胸元に押し当てて、ずい、と顔を更に近付ける。
「あの日、類を騙したのはオレだっ…! 類が欲しくて、狡い手を使ったっ…!!」
「…い、や…でも……っ、……」
まだ何か言いかけた類の唇を、勢いよく自分ので塞ぐ。驚いている類に構わず、一度離してから今度はしっかりと正面から唇を重ねた。握った類の手を心臓の上に当てたまま、更に体を類の方へ寄せる。とん、とオレの重さで後ろへ傾いた類の背が、壁に寄りかかった。それ幸いと、逃げられないよう類の後頭部を壁に押し付けるように、深く唇を重ねる。数秒程くっつけた唇をそっと離すと、類の月のような瞳から ぼろ、と涙が零れ落ちた。
「っ、…番になって、初めての発情期の日、オレはちゃんと類が好きだと言ったのに、抱いてくれなかったっ…」
「…………発情期の熱で、本能的に番の僕を求めているのかと思って…、また、君を傷付けるかもしれないと思うと、怖かったんだ…」
「類を騙して番にしたから、避けられていると思ったんだっ…、オレの匂いが、嫌いなんだって、…でも、類の傍に居たくて…ずっと、悩んでっ……」
「…ごめんね。司くんの匂いは、好きだよ」
視界が滲んではクリアになって、また滲んでと繰り返す。類の顔が上手く見れなくて、ぎゅぅ、と強く目を瞑った。涙が頬を伝い落ちていくのが、気持ち悪い。袖で乱暴にそれを拭うと、類がオレの腕を掴んだ。
そっと腕を顔から離され、いきなり唇が塞がれた。ちゅ、ちゅ、と何度も聞こえるリップ音に、胸の奥がきゅぅ、と苦しくなる。そっと唇が離され、息を吸うために口を開けば、もう一度キスをされた。そのまま体が傾いて、シーツの上に背中からゆっくりと落ちる。
「…んぅ、…ん、……っぁ、…、る、ぃ…」
「好きだよ、司くん。……愛してる」
「んっ…、ん、…っ、ふ、ぁ…、…んんっ…」
「……、…ずっと、……ずっと、君に触れたかったんだ…」
「ぁ、…るいっ、…」
上へ向かされ、少し乱暴に何度も口付けられる。苦しいのに、類に求められているのだと実感して、嬉しいと思ってしまった。震える手に、するりと類の手が重なる。指と指が絡まって、掌がぴったりと合わさった。胸の奥が、きゅぅ、きゅぅ、と音を鳴らす。ほんの少しの息苦しさに眉を寄せれば、今度は頬や耳の付け根に唇が落ちてくる。擽ったくて、気恥しい。止めようと手を伸ばせば、その手も類に取られた。
「…ん、……る、るい、まってくれ…! いまは、…ひぁっ…?!」
「もう少しだけ…、キスだけにするから、ね…?」
「ぁ、う…、…」
「……嫌なら、全力で逃げてね」
項に口付ける類は、オレを逃がす気なんて更々なさそうだ。しっかりと類の体で足が固定されていて、両手がいつの間にか頭上で一纏めにされ押さえ付けられている。にこりと笑顔の類に、オレの口元が引き攣った。
もう一度重なった唇は熱くて、この時のキスが、これまでの夫婦生活の中で一番ドキドキさせられた。
―――
(類side)
「司くん、キスだけで腰が抜けてしまったのかい?」
「…………………ぅ、る…ひゃぃ…」
「可愛いねぇ。お顔もとろとろで食べてしまいたいよ」
「んぅ…、……ん、ふぁ、…ゃ、…」
ぐったりとする司くんが、涙目で僕を見上げてくる。それが愛おしくてもう一度口付ければ、眉尻を下げた司くんが ぶんぶん、と左右へ顔を振った。
あまり執拗くすると怒らせてしまうし、今日はここまでかな。指先にすら力の入らない司くんを横抱きに抱えてベッドを降りれば、彼はとろんとした表情のまま、僕を見上げてくる。そんな彼の額に一つ口付けて、自室を出た。
リビングのソファーへその体をそっと下ろし、キッチンの方へ足を向ければ、服の裾が くん、と引かれる。
「……ど、こに、…いくんだ…?」
「安心しておくれ、お水を取りに行くだけだよ」
「…………そ、ぅか…」
ほ、と肩を落とす司くんに、苦笑する。
僕は相当彼を不安にさせてきたようだ。ほんの少し離れるのも、彼に不安を与えてしまうとは。申し訳無いことをしてしまったな、と思いつつ、新しいコップに水を注ぐ。それを持ってリビングへ戻れば、司くんがへんにゃりとその表情を弛めた。
「…るぃ、おかえり」
「……うん。ただいま、司くん」
彼の隣に腰を下ろし、沢山キスをした唇にコップをそっと宛てがう。ゆっくりと傾ければ、司くんが少しづつそれを飲んでいく。赤く染まった頬や、乾いた涙の跡も愛おしい。二つほどボタンが外されたシャツから覗く胸元を極力見ないようにしつつ、ゆっくりと邪心ごと息を吐いた。
少し楽になった様子の司くんが、迷いなく僕の肩に寄りかかってくれる。
「ねぇ、司くん」
「……ん、…なんだ…?」
「結婚しようか」
「……………は…?」
意味が分からん、と言いたげに顔を上げた司くんに、くす、と笑みが零れた。
左手をそっと取って、何もはまっていない薬指に口付ける。
「プロポーズからやり直しをさせておくれ。新婚旅行も行っていなかったから、休みを取って遠出しよう」
「………六年以上も一緒にいて、今更新婚旅行って…」
「良いじゃないか。雰囲気は大切だよ」
ごにょごにょと言う割に満更でもなさそうな司くんの耳へ、そっと唇を寄せる。赤い顔で唇を引き結んだ司くんは、僕が次に言う言葉を真剣に待ってくれているようだった。そんな彼の様子に、ほんの少しからかいたい衝動が湧き上がり、にまりと口元を緩ませる。
「温泉にでも浸かってから、初めての夜も堪能しようじゃないか」
「っ、な…?!」
「心の準備はしておいておくれ。忘れられない一夜にすると、約束するよ」
「…っ〜〜〜……、…る、類の変態ぃっ!!」
耳元でいきなり大声を出され、キーン、と耳鳴りがする。顔を顰めた僕を、彼は真っ赤な顔で睨むように見ると、ふん、とその顔を背けてしまった。そんな可愛らしい反応がまた、僕のからかいたい欲を煽ってくれる。
「変態って、僕は旅行の話しかしていないのに、司くんは何を想像したんだい?」
「はぁっ…?!」
「ふふ、キスだけでは物足りなかったのなら、いくらでも御相手するよ?」
「…っ、……もう知らんっ! 今日は帰るっ!!」
からかわれた事に気付いた司くんが、涙目になってソファーから下りようとする。けれど、すっかり足腰に力の入らなくなった彼は、そのまま床へべしゃりと崩れ落ちた。それでも這うようにしてでも逃げようとする司くんを難なく捕まえて僕の膝の上へ戻せば、悔しそうにその顔が顰められる。
そんな可愛らしいお嫁さんにもう一度触れるだけのキスをして、「ごめんね」とからかったことに対して謝罪した。
その後、半分書きかけの離婚届は、しっかりと二人で破いたとさ。
おしまい