拳じゃないだけいいと思え 男だろうが女だろうが、生き物だろうが植物だろうが、月にさえ恋をするのが魔法使いだ。
と言えども物言わぬ花に焦がれる趣味はなく、手に抱くなら女の柔い腰が好みではあった。自意識も生まれた時の性別に従って生きてきた。そも、数多の手下を従える頭として盲目に恋などにうつつを抜かす暇などなく、火遊びはすれども恋などとは無縁であった。
ただ、まあ、色恋に纏わる駆け引きや手練手管は長く生きていれば自然と身につくものでもある。いい女がいたら口説くし、そういう雰囲気になったらベッドに縺れ込みもする。誰に習うものでもない。火傷をしないよう軽く火をつけて遊びたがるのは人間も魔法使いも同じだ。そういった欲は、誰にでも備わっているものだろう。
そういう雰囲気、とは。例えば目を合わせても互いに逸らさずにいたり、指を絡めて体温を確かめたり。首筋を撫でて、毛先を弄んで、くすくすと笑ったり。胸の奥に灯る火を見つけたりしたならば、それが合図だ。目の前に差し出された熟れた果実を食わぬほどブラッドリーは無粋ではない。ないの、だが。
「……ネロ、そろそろ水飲んだらどうだ」
「やだ」
「やだ、ってお前」
子供みたいに駄々をこねた男──ネロ、がグラスを奪い取ろうとする手を躱してまた一口酒を舐めた。眠たげに目を瞬かせながらもまだ飲み足りないようで用意したチェイサーは無視している。
ブラッドリーの座る場所とは少し遠くに置かれた水差しには腰を上げねば手が届かない。故に、強引に水を渡すのは不可能であった。何故って、それは、ネロがブラッドリーの片腕をがっしりと抱きかかえているからである。しがみついていると言ってもいい。酔っ払いの力を振り解けないほど弱くはないのだが、腕を引き抜こうとするとネロは途端に困った顔をする。そういう顔をされるとどうしたらいいかわからなくなるのでそのままにする他なかった。怒られるより、怒鳴られるより、眉を下げてじっと見つめられる方が余程心にくる。捨て猫みたいに鳴きもせず萎れる様はいくら悪行を為してきたブラッドリーでも抗えなかった。
ネロは酒癖が悪い。暴れたりしつこく絡んだりはしないが、人の体温が恋しくなるのか深酒をするとこうして勝手に人の腕や手を取っては自分の胸の中にしまったりする。これが酒癖が悪いと評さなくて何と言おうか。少なくとも、こちら側としてはたまったものじゃない。だというのに本人はしれっと記憶をなくしては酒で失敗したことはあまりないだなんて自称している。
「賢者さんが、さ」
「あ?」
「手相っていうのがあっちの世界にはあるんだって。それで、これが生命線……で、長いほどいいんだと」
「はあ」
「あんたのは、なんか、ごちゃごちゃしてんなあ」
掌を上にして、指先で何やら皺をなぞっている。妙なむず痒さが伝わってきて眉をひそめた。思いついたことをただ喋っているだけのネロは生返事に怒ることもなく、好き勝手に掌で遊んでいる。短く整えられた爪の先が皮膚を掠める度、じりじりと焼けつくような心地になった。
肩口に頭を預けて、すっかり酔い切ったネロはブラッドリーがどんな表情でいるかなど知らないのだろう。跳ねた毛先が首筋や耳元に触れて思考が乱されていることなど露ほども知らないのだ。
これで何度目だろうか。数えたらキリがない。慣れそうにもない感覚にため息をついた。
ネロの酒癖の悪さは昔からだ。仲間内で大勢で飲む際はつまみを提供する側としてあくせく動き回っていたせいか飲みすぎることはなかったが、こうして二人きりになるとどうしてもセーブを忘れるらしい。初めの頃はぼんやりとした目で見つめられるものだから「そういう」ことを期待しているのかと思った。だがそうでないらしいとわかってからは何故かこちらが悶々とする日々だ。
これが女であればとっくに手を出している。しかしながら相手はネロだ。仮にネロが女であったとしても手を出せない。あれやこれやと重荷や飾りがぶら下がり絡まった関係性に更に一夜の色を加えてしまえばネロはきっと考え込んでしまうから。
ブラッドリーとしては、ネロが相手ならば抱いてやってもいいし抱かれてやってもいい気でいる。しかし、こうも無邪気に他意なく隙間なく距離を埋められると罪悪感めいたものが身を襲うのだ。ブラッドリーから自発的にネロをそういう目で見たことはなかったが、数百年も繰り返せば段々と芽を出す感情もある。
他の奴にも同じことやってんじゃねえだろうな、だとか。俺が何も感じないとでも思ってんのか、だとか。ささやかな苛立ちみたいなものが。
「……あつい」
そう呟いて緩慢な手つきでボタンを外すのを、何となく見てしまう。上手く外せずにもたついているのに腹が立つのはどれを理由とした怒りなのか考えたくはなかった。ブラッドリーは頭の回転が早く、正確な答えを出してしまう。それを知ったとき、何かしらが終わる気がしたのだ。もしくは、何かしらが始まるような。
「温度、下げるか?」
「んー……いい。ブラッドの手、冷たくて気持ちいいし……」
珍しく気遣いなんてものが働いたのかはたまた開きそうで開かない扉を塞ぐためか、そう提案した。が、ネロは断りがてら散々好き勝手した手を頬に当ててふにゃふにゃと締まりのない顔をする。
頭を抱えたい気分だった。遠くの方を見て、気を鎮める。これを可愛いとか思ったらおしまいだ。何が終わるのかはわからないが、おしまいなのだ。こんなものはただの酔っ払いで、ブラッドリーはその酔っ払いに絡まれた哀れな犠牲者だ。そう思わないと危険だ。
赤く染まった胸元だったり、浮いた鎖骨だったり、やや汗ばんだ肌に艶めいたものを感じかけては振り払う。
ご丁寧に皿に乗って、カトラリーも添えられて出された未知の料理のようだった。美味いかもしれない。まずいかもしれない。毒かもしれない。ブラッドリーはナイフとフォークを両手に逡巡している。数百年の間、ずっと。
皿の上で寝転がるネロはまさか自分が食われるかもしれないだなんて夢にも思っていない。油断しきった様子でうだうだと管を巻いて、ぐにゃぐにゃとソファに沈んで。いっそのこと噛み付いてやろうかとさえ思っても仕方がないだろう。誰かに話をしたこともないので仕方がないと肯定する者はいないが。
「あちぃなら水飲めって」
「あー、うん。うん」
「ネーロ」
「うん……」
返事だけはするものの、まともに動く気配はない。さてどうするか、と水差しに視線をやる。数秒考えて、己が存外に思考を乱されていることに気付いた。わざわざ立ち上がらなくとも魔法を使えばいい話なのだった。こういうときに使わねばいつ使うというのだろう。平静ぶっていたがすっかり振り回されていることを自覚してううんと唸る。ため息のように唱えた呪文はいつもの調子ではなかった。そのためか滑らかとは呼べないフラフラとした動きで水差しが手元に収まる。グラスに注いだ冷水をネロに押し付けるとようやく掌に握った。
ついでに自分も散らかった脳内を片付けるため水を一気に呷る。喉元を冷やして通り過ぎるが、どうにも茹だった頭は冷えてくれそうになかった。
果たして中身が酒であるか水であるか判別がついているのか定かではないが、ネロは大人しく水を飲んでいた。だが、思いっきりブラッドリーにしなだれかかった状態で怪しい手つきのまま口をつけるものだから零れ落ちた水がシャツをしっかりと濡らしていた。あー、あー、と呆れるのも何度目だろう。
そして、中に着込んだ青いTシャツが濡れてピッタリと肌に張り付いてるのを見て、あーあーあーと遠い目をした。更に濡れた感触が気持ち悪いのか襟口を引っ張ってぱたぱたと風を送るものだから自然と中の肌色が見えてあー……と意識を外に飛ばした。
わざとか、と聞きたくなる。そうであるならば、気付かないふりをしてお望みのままにしてやってもいい。稚拙な罠に敢えて掛かってやってもいい。
それほどまでには、ネロが心の内側に這入ることを許している。矜持と闘争心を綺麗に並べ整えた部屋を荒らされたとて許容できる。だが、そうでないのなら。
いつのまにか生まれた、この奇妙な情を、どこに置いたらいいのやら皆目検討がつかないのだった。
「ぶらっど」
「……今度はどうした」
「脱がせて。なんか、手に力入んねえ」
舌足らずに名を呼んで、ネロは間抜けに笑う。そりゃあ、そうだろう。正体をなくすくらいに酩酊していれば、ペタペタと濡れて張り付いた服も、中途半端にボタンの外れたシャツも、脱ぎづらいだろう。事実として、理解できる。腑に落ちる。目の前でまた不器用にストリップもどきを見せつけられるよりかはその提案に乗る方がほんの数ミクロンほど幾分かマシかもしれない。
ただ、どちらにせよ生殺しなのは変わりない。
「ああ、クソ。わかった、わかった。仰せのままに? けどよ、ネロ。よく聞け。てめえから言ったってことを忘れんなよ。あと、本当、マジで……俺様に感謝しろ」
「んー……うん? ああ、ありがとう?」
何だったら銅像を立てて崇めても足りないくらいだ。だというのにネロは疑問符を浮かべて言う通りにするだけである。どの道わかってもらっても困るのが厄介だ。
エプロンの結び目を解いて、シャツを引き抜く。ボタンを外す。その一連をひらすら無心で行う。
「手、退けろ」
捕まえられたままの腕が邪魔なのでそう指示すると、渋々、といった様子で腕を上げた。裾に手を掛ける。暑い皮膚と布の合間に指を忍ばせる。どうしようもない気まずさを感じていると、ネロが不意にくすくすと笑い出した。
「ふ、くすぐ、ってえ」
「せめて黙ってろお前は……」
黙っていろと言って素直に黙っている奴ならばこんなにも苦労はしていない。冷静な部分の脳が、己を滑稽だと罵る。ああそうとも、こんなにも馬鹿らしいことはない。百戦錬磨、夜の海をリズミカルに渡って踊った男は何処へやら。兎にも角にも余裕なんてものは今や存在希薄に陥っているのである。
当初は、理性はこう訴えていた。相手はネロだぞ、と。胸もなければ尻も硬い男だぞ、と。今現在崩壊寸前の理性はこう言っている。酒に酔って記憶も思考も曖昧な相手に手を出すのは趣味じゃない、と。
ならばシラフで思考も確かならば手を出すのかという話になるのだが、そうなるとおかしなことになってくる。男に惚れられた経験はあれど、ブラッドリー自身は気を向けたことはない上、基本女が好きだ。性自認も男で変身魔法も苦手なものだから男の体をしているところしか見ないネロ相手にそういった欲を抱くなど。
例えば酔って無防備な姿をしていないのに、キッチンに立つ後ろ姿に、細い腰に目がいくなど。無意識に、こちらに甘えるような目を向けるのにいくばくかの喜びを感じるなど。
そんなの、恋をしているみたいではないか。
「ほら、腕抜け」
刹那過った思考を消し去るように、勢いよく残りを脱がせる。かしゃん、と音を立てて首から下げたネックレスが落ちてくる。手首のあたりで縺れたシャツが、手枷と化していた。湿っているせいか上手く引き抜けず、バランスを崩して後ろに倒れる。即ちシャツを掴んでいたブラッドリーごと倒れるということで。
幸いにもソファの上だ。頭を打つことなくネロはスプリングを跳ねさせて転がった。不幸なのは、その上にブラッドリーが覆い被さる形になったことである。
「…………」
「…………」
何事か言おうとして、口を開いた。だがしかし、悪い、と謝ろうにもブラッドリーには一分も非がないように思う。これだけに留まらず、今宵の全てはネロが悪い。謝る道理がない。ならば謝罪はこちらが受けるべきだろう。
だけれど、ネロはぼんやりとした瞳のままブラッドリーを見上げるだけだ。水面に映る月明かりのようにゆらゆらと揺れているのに、逸らされる気配はない。深く深く、底のない海へ吸い込まれるみたいに、逸らせない。
見つめ合って、吐息を感じて。そうなれば、どうなるか。まだ未知数の世界。吹き飛ばしたはずの思考を、いやがおうにも意識せざるを得ない。流石のネロもその空気をやや感じたのか、むず痒そうに体を捩る。
アルコールで上気した頬を、それ以外の色で染めて、陰った月色の瞳を逸らしてはまた戻して。
「……なんか。いけないことしてるみたい、だな?」
だとか何だとか、下手くそな冗談を言うように囁くものだから。
ブラッドリーは肺の中身全てを出し切ったため息をついて、そして、ネロを渾身の平手で引っ叩いた。