「その口説き文句じゃ陳腐すぎるなぁ。もっと、心から愛するように言わなけりゃ」
そばかすが特徴の講師から三度目の追試を告げられ、ヘンリーは柄にもなく深く落ち込んだ。
試験の直前、口角を上げたおどけた猫のような講師は、生徒それぞれに試験で演じるテーマを言い渡した。ヘンリーに振り分けられたテーマは『愛』だ。
愛。
真に理解しているかと問われると言葉に詰まるが、知らない感情ではない。どうとでも演じられると思っていた。だが、結果は不合格。追試を告げられた。
一週間後、声の抑揚と間を変えて望んだ追試は、またも不合格。
何が足りないのか分からなくて、ロマンス小説を読み、恋愛映画を何本か観た。胸焼け気味になりながら挑んだ二度目の追試は、今さっき、なんの成果も上げられず終わったばかりだ。
演技にはそれなりに自信があった。今までもこうした試験は突発的に行われてきたが、毎回それほど苦もなくクリアしてきた。否定的な評価を下されても、己の演技を見直し、その場ですぐ改善できていた。
しかし、今回ばかりは解決策がまるで見当たらない。
「お前が苦戦するとは、珍しいな」
「リチャード……」
不甲斐なさに拳を握って溜息を落とすと、端で見ていた年上の友人がヘンリーの肩をぽんと優しく叩いた。教室を出ていった講師の代わりに、目の前に置かれた椅子に座る。
「俺の演技のどこに問題がある? 追試で遊ばれている気がするのは、思い過ごしか?」
「いいや、ジャンヌなら有り得るぞ」
講師の名を口にし、リチャードは目を細めて笑った。
リチャードとは学校で出会うよりも前に、脚本家である祖父に連れられて行った舞台の稽古場で何度か顔を会わせていた。彼の父親は舞台人で、祖父とも知人である縁だ。
と言っても、幼かった当時、親密に会話をした記憶はない。授業にも慣れた頃、偶然すれ違って、リチャードがこの演劇学校に在籍しているのだと知った。声をかけたのは懐かしさと驚きからで、親しくなるつもりはなかった。だが、視線を交じわせ、言葉をかわし、互いを知れば知るほど、その存在は馴染んだ。波長が合うというよりも、二つに分かれた魂が一つに戻ったような、不思議な感覚を彼に覚えた。リチャードもヘンリーに思うところがあったようで、以来、傍にいるのが当たり前のように寄り添っている。
入学時期が異なるリチャードとヘンリーが同じレッスンを受けることはない。
ジャンヌによる試験も一部の生徒だけで、ヘンリー以外は皆とっくにクリアしている。
「テーマは愛……だったか。愛……シェイクスピアでも読んでみてはどうだ?」
「碌でもない愛しか語っていないだろう」
「恋愛映画は?」
「嫌というほど」
「観たのか?」
「おい、なぜ笑う」
「怒るな、深い意味はない。真剣にロマンスに見入るお前が想像できないだけだ。追試は今日の夕方だったな。それまで稽古しているか?」
一度目も二度目も、試験から追試まで間があった。しかし今回は同日だ。合格であれ不合格であれ、これで最後になる。稽古をしても、どうにかなるとは思えなかった。
愛にも種類がある。演じる愛が、恋愛でなければいけないとは決められていない。友愛、家族愛、自己愛……様々存在する中で、ヘンリーはテーマが告げられてから、恋愛を演ずることだけにこだわっていた。
明確な理由はない。
恋愛にはそれほど興味はないし、個人に執着するほど強い想いを抱いたこともない。だからこそ演じてみたいと思ったのかもしれないが、その答えですら、ヘンリー自身のことでありながら、どこか腑に落ちずにいる。
「そんな顔をするな。大丈夫だ、次は受かる」
よほど情けない顔をしていたのか、リチャードは椅子から立ち上がるとヘンリーと歩み寄り、慰めるように頬に触れた。
他人に馴れ馴れしく接触されるのは不愉快だが、己の半分のような存在に宥められるのは悪い気はしない。子供扱いをされているようでくすぐったくはあるが、幾らか気は晴れた。
口数が少なく、ともすれば冷淡にも見られがちなリチャードが、その実、愛情深い人だと、ヘンリーは知っている。
白くなめらかな肌を間近で見下ろし、ヘンリーは己の熱い手で、リチャードの手指を握りしめた。
「ただ口説くための言葉ならば簡単だ。そこに魂はないのだから。だが、真実の愛は決して口には出せない。魂の業火がこの身を焼くほどの狂おしい想いだとしても」
リチャードの色の異なる双眸が丸くヘンリーを見上げる。
「ヘン……リー……?」
リチャードはあまり気に入っていないのか、片目を隠すように前髪を伸ばしているが、ヘンリーは深い夜のような瞳も、澄んだ月のような瞳も、好ましいと感じている。
そのどちらもに見つめられ、ヘンリーの心臓は大きく揺れた。
今までだって何度も視線を合わせたことはあるが、こんなことは初めてだ。
不自然に早まった鼓動に戸惑っていると、リチャードはふたたびヘンリーの名を呼んだ。
「ヘンリー……今のは……」
「今の……?」
言われて、口に出した言葉を思い出す。
思いがけず零れたそれは、愛の告白にも似ていた。
「今のは、良かったぞ。この場にジャンヌがいれば、間違いなく合格を出していた」
「あ、あぁ……演技の話か……」
「そうだ」
「そうか……」
絡ませた視線を解けずに、歯切れの悪い会話が続く。
演技を褒められたのなら喜ぶべきだが、演じたつもりのないヘンリーは、ぎこちない相槌を返すことしか出来なかった。
握ったままのリチャードの手は、ヘンリーの熱が移ったせいかぬくもっている。
心音の強さに脳が揺さぶられているせいか、友の涼やかな目元がほのかに染まって見えた。