glasses joke「おい、ヘンリー。ワイン一杯に含まれるポリフェノールは、ワイン一杯分だぞ」

　仕事を終え友人の家を訪ねると、眼鏡をかけた彼はテンプルを指でつまんで得意げにそう言った。
　そうだろうな、と返すべきか。酔っているのか、と問うべきか。見つめあったまましばし悩み、バッキンガムは彼の見慣れぬ装身具について問うことにした。
「その眼鏡はどうした」
　涼やかな顔にかかる黒いオーバルフレームは、バッキンガムが愛用するものとよく似ていた。今も同じようなフレームのものを身につけているし、あと何本か自宅に予備として置いてある。
　バッキンガムにとっては眼鏡は必要不可欠なものだが、視力がいいリチャードには不要なはずだ。伊達眼鏡ならば構わないが、合わぬ度数のレンズが入っていては、目を悪くする。
　心配して手を伸ばすと、バッキンガムが眼鏡に触れる前にリチャードは左右のよろいに手を添え、眼鏡を外した。
「これはお前が忘れていったものだ」
「俺が？」
「キッチンの棚の……あの辺に置いてあった。お前だろう？　なぜあんなところに置いた？」
「さぁ……記憶にないな」
　リチャードが指差す方に目を向けるが、さっぱり思い出せなかった。
　この家にはもう何度も訪れている。朝まで過ごすことも、何日も居ることもあるし、キッチンを我が家のように扱うこともある。食器がどこにしまわれているのかも、紅茶の買い置きが棚のどこにあるのかも分かっているし、カップやグラスのいくつかはバッキンガムが選んで購入したものだ。知らないことは無いと胸を張っていえる。が、どうして眼鏡を置いたのかは、自分自身のことでも分からなかった。
　リチャードから受け取った眼鏡を苦い気分で眺め、胸ポケットにしまう。
「あんたには度がキツかっただろう。大丈夫か」
　ソファに荷物を置きながら訊ねると、バッキンガムを迎えた場所から動かずにいたリチャードは曖昧な相槌を返した。
「そう長い間付けていたわけじゃない……が、……少し……おかしいな……」
「なに？　どうした、どうおかしいんだ？」
「よく見えない……」
　俯き目元を押さえるリチャードに慌てて寄り添う。
「霞んでいるのか？　痛みはどうだ？」
　視力がいい者が度数の高い眼鏡をかける弊害は未知数だ。リチャードが口にする「おかしい」とはどういうことなのか、検討もつかない。
　細い肩を掴み、顔を覗き込もうとするが、リチャードの長い前髪が邪魔をして表情がよめない。瞬きをする気配は感じるので、目が開かない、ということはなさそうだ。
　だとしたら何だ？
　視界がぼやけているだけではないのか。瞳の状態も確認したい。しかしリチャードは「見えない……」と言うだけで顔を上げようとはしない。
「リチャード、見せてみろ……？」
　顎に手をかけて無理やり上向かせる。
　と同時に、首になにかが絡みつき、前方に強く引き寄せられた。
　唇にやわらかなものが触れる。色の違う双眸が、すぐ近くにあった。
「あぁ、よく見えた。俺の好きな顔だ」
　瞬時に状況が理解出来ず、一転したリチャードのとろけるような笑みに言葉をなくしてしばし見蕩れる。
　鼻先が掠める位置にあるかんばせは、いたずらを成功させたこどものようだった。
「ところで、何をしにきた？　鍵を勝手に使うのは構わんが、事前に連絡を寄越せと言っただろう」
　リチャードはバッキンガムの首に回していた腕を解き、もう用は済んだとばかりに素っ気なく離れていった。
　その姿を目で追うが、頭は先の衝撃を反芻していて切り替えが上手くいかない。
「食事に……」
　誘うつもりだったが、胸がいっぱいで食べ物のことなど考えられそうにもなかった。
　落ち着くには、少し時間が必要だ。