道標 ぐらぐらと落ち着きのない頭を抱え、棒のような脚を引きずり、あてもなく歩く。
――ここのところ、落ち込む出来事が重なった。自分を奮い立たせていつも通りに過ごしていたものの、反動が大きく、何もかもが面倒になってしまった。未だ感情のコントロールが上手くいかず、いつもこうなるのだ。
ここは故郷とは違う、ここにいれば心穏やかに過ごせると、そう思っていた。だがそれは甘かった。「お前には何もない」――最後は必ずここに帰結する。生まれた時から色々なものに縛られ、負のスパイラルの中にいた人間は、結局どこへ行っても、そこから抜け出すことはできないのだろうか。
「おい」
「…………」
「おい!」
頭の中のノイズに混じっていた異音が急に存在感を増し、はっと立ち止まる。どうやら、こちらに向けられた声だったらしい。顔を上げるのも面倒だったが、私に話しかける物好きなど限られている。誰であるのかはすぐにわかった。
「……何か用か」
「用はねぇよ、見かけたから声をかけただけだ」
「そうか、では失礼する」
「待て待て、なんでそうなるんだ。ったく、少しくらい話していこうとかそういうのは……ねえか。
だが、それでも挨拶くらいはしてただろ。気付かねぇのはよっぽどだ、何かあったのか」
「……別に。ただ……少し、疲れただけだ」
「少しでそんな風になるかよ」
「放っておいてくれ、君だってそういう時はあるだろう」
「そりゃまあそうだが」
「では、またな」
振り向かぬまま歩き出す。今は心底誰とも関わりたくないのだが、じっとしていると余計なことを考えてしまうので、動いていたかったのだ。だから散歩をしていただけだというのに、なぜよりにもよってこの人が現れるのか。……いや、彼は何も悪くない。自分が無防備にうろついていたのがまずかった。
彼がついて来る気配のないことに安堵しつつ、川沿いにグレン山林へと下っていく。ただでさえ寒い地域の、この時期の川沿いを歩くのはなかなか厳しいものがあるが、意志を持たず、ただ自然に身を任せて流れていく水を見るのは好きだった。それに追従するように、無心で歩みを進める。
「……さむ」
まだ日は高いし、ギュリアム周辺の気温は大抵こんなものだというのに、今日はやたらと冷える気がする。黒衣をもう一枚出して羽織り、近くの草むらに腰を下ろすと、持ってきた干し肉を少しかじった。
「……私は本当に、生きることに向いていないな」
ぽつ、と独り言つ。……いつも思わずにはいられない。この世はなんて理不尽なのだろう、生きるというのはかくも面倒なことなのか、と。
石に背を預けて目を閉じる。ひやりとした感覚――それは体の内からじわじわと、どうしようもない虚しさを孕んだ気持ちと共に広がっていく。昨日から水以外を口にしていないのだが、食欲はないし、手間をかけて作った干し肉の味が、今はどうしても淡白なものにしか感じられない。
「後で食べるか……」
肉を懐紙で包み、ため息混じりに腰のポーチにしまい込もうとしたその時。
「なんだ、よくできてるじゃねえか」
私の手からひょいとそれを奪い、豪快にかぶりつく輩が現れた。
「食わねぇならもらうぜ。……んー、悪くはないが、ちと塩気が足りねぇかな。こう、アクセントっつーか」
「…………………………」
視界の中に見慣れたブーツ。確認するまでもない、またしても彼だ。
「あからさまに嫌そうな顔をするな。ああ、塩ってーと、そういうのを塩対応って言うんだっけか?」
「…………はぁ」
もはや相槌を打つことすら面倒になり、芝生に寝転がって彼に背を向け、黒衣をさらに追加して身を包んだ。
「おい、こんなとこで寝たら風邪引いちまうぞ」
「…………」
「……ったくしょうがねえな」
ザシ、と芝生の潰れる音。どうやら私のすぐ隣に座ったらしい。本当にどこまで付きまとう気なのだろうか、この男は。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
――沈黙は、たった数分のことだったのだが。
嫌な予感がして、思わず先に口を開いてしまった。
「………………あのな」
「ん?」
「いつまでそこにいるつもりだ」
「お前がそうやって話しかけてくるまで待ってた」
「ならもう帰ってくれ、話しかけただろう」
「言うと思った。ほら、とりあえず起きろ」
ぐいぐいと黒衣を引っ張られる。もはや無視しても拒否しても無駄らしいので、大人しく従うしかないようだった。
ふてくされた顔で起き上がり、渋々黒衣を解く私だったが、彼は全く気に留めることなく、ほれ、と竹皮の包みを手渡した。ほんのりと温かく、少し香ばしい匂いがする。
「何を落ち込んでるのかは知らねぇが、そういう時に適当なモン食うのは良くねえぞ」
「……作るのが面倒だ。だいいち食欲がない」
「ならちょうど良かった」
やはり聞く耳を持たない。いいから食っとけと促され、包みを開くと、中からはこぶし大のおにぎりが3つ、ひょっこりと顔を出した。
「これは……」
「自分で作ると時間かかっちまうからな、近くの屋台で買ったのさ。ここのは具が多いから、食べ応え抜群だぜ」
「…………」
食事に誘われたのであれば断って済む話だが、こう直接手渡されては返しづらい。ちゃんと自分の分まで大量に用意してあるらしく、君が全部食べろと言うこともできない。ちらりと目をやると、彼はなんとも腹の立つ表情を浮かべていた。「お前はめんどくせぇ奴だが、扱い方がわかればなんということはねえ」とでも言いたげな顔だ。
「その屋台は握り飯専門でな、自分で具を選べるのさ。お前のは塩、焼肉、ちりめん山椒にしといたぞ」
「…………。……ありがとう」
「おう」
小さく礼を言う私に、無邪気に笑う彼。焼肉にちりめん山椒――以前たった一度こぼしただけの、私の好きな食べ物を覚えていたのか。
「山菜のもあるぞ、これも好きだろ。今食いきれないなら今度買ってみるといい」
「……ああ」
いただきます、と左端の真っ白なおにぎりを手に取り、てっぺんをかじる。塩の効いた、甘みのあるふわふわとした炊きたての白米が、ほろりと口の中で崩れた。それはとても温かくて、優しくて――思わず、固く縛りつけていた表情がほろりと崩れ、
「…………」
ほろり、ほろりと、粒がこぼれ落ちていく。
彼は何も言わず、俯く私の背をぽんぽんと叩いた。
「落ち込んだ時はな、シンプルに握り飯がいいのさ。少しは元気出たろ」
好物の山菜おにぎりと、私と同じ焼肉おにぎりをとんでもない勢いで平らげながら、彼が笑う。相変わらず大きな声だ、近くにいるとやかましくてしょうがない。だがそれにも慣れてきて、少し心地よいとさえ感じるようになってしまったのだから、不思議なものだ。
「……そうだな、覚えておく。この礼は必ず――」
「そういうのはいい、俺がやりたくてやったことだ。そう思うなら……そうだな、ギュリアムに来」
「断る」
「じゃあキャラバ」
「嫌だ」
予想通りのことを言われる。それだけは勘弁してくれと、何度も言ったのだが。
「だよな。……じゃあせめて、まずは俺にだけでもいい。『怒』と『哀』以外の感情も見せてみろ」
「…………」
「お前が感情を失ってるワケじゃねぇのはわかる。この前、野良猫に向かって」
「その話はするな」
「わ、わかった、わかったから剣をしまえ。
……お前は『喜』と『楽』を見せることで、人との距離が縮まることを恐れてんのさ。そうだろ」
――この人は。
本当に、人のことをよく見ている。核心を突かれてどきりとしたのが、危うく顔に出てしまうところだった。
「まいったな。……その件は考えておく」
ため息混じりに言う私に、彼はそれでいい、と満足そうに微笑み、ばしんと背中を叩いた。痛い。
「君は、本当によく笑うな」
「おう、毎日楽しくてしょうがねぇからな。……そりゃあ、もう死んじまいたいと思ったことはあるし、その頃は笑ってる場合じゃなかった。だが、骨の髄まで叩き込まれてた掟が俺を生かした。はたから見りゃあ俺を縛ってるだけだったモンが、結果的にいい方向に働いたのさ。おかげで今はこの通りだ」
「……そうか」
「お前はどうだ? お前に課せられた掟や使命は、今の自分にとってどんな存在だ」
「…………」
――わかりきったことを訊く。
私にとってそれは、最も不要なものだ。自らの意志で生きることを禁じられ、心の奥深くまで入り込んで蝕み、抗うことのできない存在。
「意志に反して体が動く、心と体がちぐはぐになる。そんな違和感を引きずったまま生きることを強要される、忌むべきものだ」
「ま、そんなもんだろうな。……だがな、チハギ」
おにぎりの包まれていた竹皮を弄びながら、彼はのんびりと語った。
「それがあったからこそ、お前は自分の意志で故郷を捨ててここへ来たんだろ。たとえ望まなかったことだとしてもだ。今ここにいなきゃ、こいつを食うこともできなかったんだぜ。
……生きることに対する向き不向きってのは、俺にはピンと来ねぇけどよ。美味いメシ食って、寝て、遊んで、気の合う奴がいりゃあ笑い合って――人生なんてそんなもんでいいんじゃねえのか」
――ああ、そうだ。この世の人間は皆、意味もなく生まれ、そのほとんどが何者にもなれないまま生涯を終える。そうして世界は回り続けている。
しかし、彼はあまりにつらい過去を抱えつつも、努力し名を得た。なおかつその生き様も振る舞いも実に自然で、自由だ。――本当に、なんて眩しい人なのだろう。だからこそ、近くにいられるとつらいのだ。
「お前にとっちゃあただのお節介なんだろうが、俺は自分が関わった奴とは、なるべく楽しいことを共有したいのさ。ひとりでいる時間ももちろん大事だが、ずっとそうしてると身も心も固まっちまうだろ。……俺もそうだからな、結局は自分のためなのかもしれねえが」
「…………」
眩しい――けれど。
たまにこうして、ふと脆さが垣間見えることもある。
「……別に、迷惑なわけではない。
君を見ていると、昔の自分を思い出す。私も大概お節介だったのさ。……だが、私には荷が重すぎた。だから、君のような人にそういう面倒を背負ってほしくないというのもある」
「はは、そりゃあ余計な心配だ。俺は面倒だなんてこれっぽっちも思っちゃいねえからよ。
なんだ、冷たい態度を取ってりゃあ、そのうち嫌になって突き放すとでも思ったか」
「そういうわけではない。今日などは本気で放っておいてほしかった」
「でも元気出たろ、結果オーライじゃねえか」
「……まあな」
――だが、それでも。
この人には共通点こそあれど、私とは性質が全く違う。どんな地震が来ようとも揺らがない、強固な土台があるのだ。
それは自分ひとりの力では得られない、生まれた時から無意識のうちに積み重ねられていくもの。無償の愛を受けた者にしか存在しないもの。それを持たず存在を否定され続けた私は、どれだけ立派な家を建てようとしても、ほんの少しの揺れであっという間に全壊させてしまう。恐らくそこが、私が欠けた人間である一番の原因なのだろう。だが、こればかりはどうしようも――
「……うるさいな。さっきから一体何を――」
思考を妨げる、断続的なパリパリ、カサカサという音に、思わず眉をひそめる。彼が竹皮を弄っていたことには気付いていたが、改めてそちらを見ると、なんとショットアクスで切り込みを入れているところだった。
「…………大事な武器を何に使っているんだ、君は」
「ん? ああ、竹皮は頑丈すぎて、手じゃ上手くできねぇからな。かといってナイフなんざ持ってねぇからよ」
「だからといってそれを使うな」
至って真面目な話をしていたのに、台無しである。……まあ、そういうところが彼らしいと言えばそうなのだが。
「こいつをこうして……よし」
出来上がったのは、大きな笹舟ならぬ、皮舟。
「料亭なんかで見る舟は本格的なんだがな、さすがにあれの作り方は知らねえ。俺が知ってるのはこれだけだ。お前も昔、こういうの作らなかったか?」
「作るには作ったが……」
「だろ。ダチと一緒に川に流して、誰のが一番遠くまで行くか競争して、見えなくなるまで追いかけたもんさ」
懐かしげに言うと、2艘のうち1艘を私に手渡し、川の方へ行くよう促した。
「まさか、それをやる気か」
「ああ、童心に返ってみろ」
「冗談ではない。子供の頃のことなど、思い出したくもない。なんなら、私の笹舟の寂しい遊び方を聞かせてやろうか」
「そ、そうか。……ま、それならそれで、ここからやり直しゃあいいさ」
「滅茶苦茶だな」
「そういうもんさ。昔できなかったこと、食えなかったモン、味わえなかった気持ちを、今からでも体験していけ。付き合ってやるからよ」
いつもの彼なら、こんな話をすることも、子供のように遊ぶことも、柄じゃねえ、恥ずかしい、と言うはずだが。まるであやされているようで、こちらが恥ずかしくなる。
――それと。つらくは、ないのだろうか。
そうして一緒に遊んだのであろう友人は、恐らくもう――。
私には未練などないも同然だが、彼は違う。大切な家族も友人もいた。それを――真偽は不明だが、自分のせいで全て失ったというのであれば尚更。
「そんな顔すんな。俺がお前のために、つらいのを我慢してこんなことしてるとでも思ってんのか?」
「…………」
「ほら、こっち来い。おあつらえ向きの場所があるぜ」
そう言って彼は、川の中州へと続く石の群れを、軽々と伝っていく。私は恐る恐る手前の石に足を乗せると、慎重に彼の後を辿っていった。その下手な渡り方に吹き出しそうになっている彼に、短足で悪かったなとふくれる。彼ほどの筋力も歩幅もないのだから仕方がない。
やっとこさ中洲へ辿り着くと、彼は私の無様な姿がよほど面白かったらしく、まだ笑っていた。
「…………簀巻きにして川へ放り込んでやってもいいんだが」
「悪い悪い、それは勘弁してくれ。あー、お前はそっちから、俺はこっちからな」
話を逸らされる。私は渋々指示通りに、彼に背を向けてしゃがみ、舟の端を持って軽く水面に置いた。彼はそれを確認すると――
「行くぞ、せーの」
落ち着いた、優しい声で合図をする。もっと張り上げると思ったのだが。
一瞬遅れて指を離れた舟は、綺麗に水面を滑ったかと思うと、いきなり大きな石に引っかかった。しかし、水の流れに助けられつつくるくると角度を変え、時々ひっくり返りそうになりながらも、ゆっくりと下流を目指し始める。
やがて、中洲を隔てて出発した2艘の舟は出会い、追い越し追い越され、時々ぶつかり合いながら進んでいく。
「いい勝負だな。……っと、足元には気をつけろよ」
「わかっている」
だんだんと細くなり、足元が不安定になる中洲で、私達自身がぶつかりそうになる。先程はただぼんやりと流水を眺めているだけだったが、こうして明確に追いかける対象があると、ただの散歩にも違った色が生まれる――そんなことを思った。途端、ふと気が緩み、石に足を引っかけてしまう。
「わ……っ!」
とっさに黒衣で近くの石との間に橋を掛け、そこにもう片方の足で踏み込む。なんとか、川にまともに突っ込んでしまうことは免れた。
「おい、大丈夫か」
「ああ」
「ったく、言ってるそばからこれだからな。お前って案外ドジだよな」
「…………」
「そう睨むな。……しかし面白くねぇな、上手くやりやがって。こういう時はモロに落ちて大笑いするのが定番だろ」
「冗談ではない。浅いとはいえ、こんな時期に川に落ちてたまるか」
それより舟は、と言おうとして、早くも視界から消えていることに気付く。少し残念な気持ちが顔に出てしまったのか、彼はぽんと私の肩を叩いて、
「気にすんな。どのみちここからは流れが早ぇし、中洲も危なくなる」
あの辺りかな、と手をかざし、目を凝らした。
「ああ、まだ少し見えるな。仲良く並んで競ってやがるぜ」
少年のような顔で微笑む。それを見た私の表情が少し緩んでいることに気付いたのか、彼はこちらに向き直り、
「……なあ、チハギ」
「……?」
「俺はな、故郷のことを忘れたワケじゃねえ。忘れたくても忘れられねえのさ。今でも、あの地獄のような光景を鮮明に覚えてる。……それでも笑ってられるのは、なんでだと思う?」
「君が、強い人間だからではないのか」
「そうじゃねえよ。――今は、ここが俺の故郷だからさ」
まっすぐな瞳で、まっすぐに私を見据えて、そう言った。
それはきっと、誰に言われたわけでもない。彼自身が自ら思い、自らの意志でそれを貫き続けた。その結果が今の彼なのだ。
「俺が強ぇのは確かだが、自分ひとりの力で立ち直って、笑えるようになったんじゃねえ。
だからお前も……場所じゃなくていい、物でも人でもなんでもいい。今ある中で、お前だけの故郷を見つけろ」
――「今ある中で」。いつまでも失ったものに縛られるなという意味だろう。それは例えば先程のおにぎりだったり、この、一見無駄に思える時間だったり――そういうものの積み重ねなのかもしれない。今はまだ、それを実感することは難しいけれど。思えば捨てた故郷にさえ、確かに存在したものだった。
木々が風に揺れ、その隙間からこぼれる逆光が彼の顔を隠す。だから、彼にも私の表情は見えていないのだと錯覚して、思わず顔を綻ばせてしまった。
「ありがとう、善処する」
再び太陽が木に隠れ、先程とは違う表情の彼が見える。
「……ったく、相変わらず可愛げのねぇ言い方しやがって」
ふいと顔を背けると、踵を返し、歩き始めた。
少し前までは、あまりに遠く見えた背中。そのすぐ後ろを歩きながら、私は祖母の言葉を思い出していた。
「人を恨みなさんな。恨みからはなーんにも生まれない」
どこにでもある、聞き飽きたセリフだった。私は自分と親への恨みをバネにしてここまで生きてきたようなもので、今更清く正しい心で人と向き合うことなどできないと、そう思っていた。
だが、やはりその生き方は疲れる。理由はひとつ、前を向いていないからだ。彼もきっと自分を恨んだだろう、憎んだだろう。この地へ来たのは偶然なのか、意志を持ってのことなのかはわからないが、そんな中でも彼は、前を向いてがむしゃらに進み続けたのだ。そしてそれは、故郷――守るべき大切なものができたからだと、彼は言った。
「さ、ここからなら簡単に岸まで行けるだろ。ドジなお前でもな」
「うるさい、一言多いぞ」
……まあ、色々と前言撤回したくなる発言も多いが。
彼は私を先に行かせると、後ろから私に合わせてゆっくりと渡ってきた。なんだか悔しいが、気を遣ってくれたのだろうか。
そこから少し歩くと、先程の道に戻ってきた。今日だけで実に色々と恥ずかしい姿を晒してしまったことを思い出し、今更のように恥ずかしくなったが、恐らく彼はそこまで気にしていない――確証も何もないのに、そんな安心感があった。
「……前から思ってたんだが。お前はイマイチ素直じゃねえが、礼はあっさり言うよな。癖か?」
彼が思い出したように口を開き、問う。
「そんなところだ。それに、私が最も大切にしている言葉だからな」
「……そうか」
意外だ、とは言われなかった。彼は優しく微笑むと、ぽん、と私の頭に手を置いた。
「なんだ」
「なんでもねえよ」
どうも子供扱いされているようだが、実際大人になりきれていないので何も言えない。
ひとり悔しがっていると――ふと。スコット高原にさしかかったところで、ちょうど移動しようとしていたおにぎりの屋台が見えた。
「ちょっと行ってくる」
「あ、おい!?」
いつの間にか空腹を感じるようになっていた。今ならもうひと包みくらい食べられそうだ。次は山菜と、すき焼きと――何にしようか。
驚く彼をよそに、私は桜模様の財布を手にし、軽やかな足取りで駆けていった。