静寂に響く声「久しぶりに蕎麦でも食べようかな」
ある平日の午後、寂雷は蕎麦屋に向かっていた。以前独歩が日頃のお礼と連れて行ってくれた店は庶民的だが落ち着いていて美味しかったのだ。それ以来何度か訪れ、今では店員と顔見知りになっていた。
寂雷にとっては低い玄関をくぐり中に入ると店内は昼時を過ぎている為か落ち着いていた。客席も埋まっているのは半分くらいだ。
「ざる蕎麦を一つ」
「はーい」
注文を受けた店員が下がり暫くすると寂雷の目の前にざる蕎麦が置かれた。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
顔にかかる髪を耳にかけ割箸をパキリと割る。早速蕎麦を啜ると蕎麦の風味が口に広がって心が落ち着いた。ずぞぞと啜っては咀嚼して喉に落とし込む。時折はらりと落ちてくる髪を再度耳にかけてはまた啜る。何度か繰り返して食べ終わる頃には客席がすっかり静かになっていた。そろそろ昼の営業が終わるのだろう、客は寂雷を含めて三組程になっていた。蕎麦の終わりに茶を啜りさて帰ろうかと席を立ち会計を済ませるべくレジに向かったところで、何やら騒々しい声が聞こえてきた。
「ちゃう、ちゃうんです!ホンマに食い逃げやないんです」
女性が一人、レジで声を荒げているようだ。その様子に興味が湧いた寂雷は声をかけることにした。
「失礼、一体どうしたんですか?」
寂雷の声に女性とレジ打ちの店員が同時に顔を向ける。
「あぁ、寂雷さん。この女性が財布を失くしたとかで、これから警察にお金を借りてくるって言ってるんですが……その、食い逃げじゃないかと」
「食い逃げちゃいます!せやから疑うんやったら一緒に来てくださいって言うてるやないですか」
「そう言われましてもこちらも暇じゃないんですよ」
女性と店員の言い合いがまた始まりそうな空気を察して寂雷は両者を落ち着かせようとゆっくりと話す。
「なるほど。双方の事情はわかりました。この方も嘘をついているようには思えませんし、ここは私が払いますので二人とも落ち着いていただけませんか?」
寂雷の提案に女性が慌てて言葉を返す。
「いや、知らない人にご迷惑をかけるわけには」
「今はお店に迷惑がかかっているでしょう?とりあえずここは私が建て替えますのでその後お金を借りに行きましょう」
女性はそう言われて確かにその方が良いかもと納得した様だ。
「お店としてはそれで良いでしょうか?」
「こちらとしては構いませんけど、寂雷さんにご迷惑ではないでしょうか」
「そう思っていたらこんな提案しませんよ。それに私はここのお蕎麦が好きなんだ。役に立てるなら喜んでそうするよ」
微笑みながらそういう寂雷に女性も店員も頭を下げると寂雷は二人分の会計を済ませて店を出た。
「あの、ありがとうございました。お金返したいのですが……自分用事でオオサカから出てきたところで、財布も失くしてしまってて、向こうに帰ってからでも大丈夫ですか?」
店を出た直後に女性にそう言われた寂雷はにこりと微笑んで返す。
「返さなくても構わないよ。それよりも、その用事とやらは済んでいるのかい?」
「それは明日なので大丈夫やと思います」
「ふむ。じゃあこれを持っていきなさい」
寂雷はそう言って財布から紙幣を三枚ほど取り出して渡した。
「へ?」
目の前に差し出された紙幣を前に状況が飲み込めないのか、女性は紙幣と寂雷を交互に見やる。
「旅先で無一文は心許ないだろう?それともこれでは足りなかったかな?」
「いや、そうやないです!
「しかし、困っているんだろう?」
「そら困ってますけど、さっきのお蕎麦代もありますし、これ以上知らん人からお金借りる訳にはいきません。お気持ちだけいただきます」
ぶんぶんと音がしそうな程首を横に振って拒否する様子を見て寂雷は少し困った顔をして紙幣と財布をしまった。
「じゃあ携帯を貸してくれないかい?」
「え?それは構いませんけど」
差し出されたスマートフォンを受け取り番号を打ち込んで電話をかける。プルルと鳴る着信音を確認しプツリと電話を切ると寂雷は女性にスマートフォンを返した。
「はい。これは私の番号だよ。私の名前は神宮寺寂雷。これでもう知らない人じゃないね?」
「え?え?」
困惑しながらスマートフォンを受け取る女性に構わず寂雷は話を続ける。
「私の方にも登録するから名前を教えてくれるかな?」
「なるほど。イケブクロに泊まっていてここまでは電車で来たんだね?そしてホテルを出た時には確かに財布はあったけど電車に乗る時は財布を出していないと」
「そうです、交通ICに千円だけ入ってたんでそれで乗りました」
二人は歩きながら彼女の行動を振り返っていた。
「ちなみにそれはどんな財布なんだい?色とか形とか何か特徴はあるかい?」
「ノーブランドの茶色い二つ折りのお財布です。入っているものは現金とカードと犬の写真が入ってます」
「じゃあもう交番に着くからその特徴を伝えておいで。私は外で待っているから」
「すみません、交番にまで付き添っていただいて」
交番に着いて彼女が手続きを始めたのを確認すると、外で待つ寂雷は電話をかけた。
「うん。そうそう。今交番に来たんだけど無いみたいでね。届を出したら駅に行くからそっちはイケブクロの方を頼めるかな?うん。ありがとう」
電話を切ると丁度彼女の方も終わった様子で交番から出てくるなり寂雷に頭を下げた。
「神宮寺さん、大変申し訳ないんですけどお財布はなくてお金借りるんもダメでした」
「その様ですね。では次に行きましょうか」
「次?」
「えぇ。駅に財布が届いてないか聞きに行きましょう」
「え?神宮寺さんお時間とか大丈夫ですか?会ったばかりで信用はないと思いますが、お金はちゃんと返しますよ」
「今日は特に予定がないのですよ。それに私は人助けが好きでしてね。君は土地勘もないみたいだしもう少し付き合わせてください。それとも迷惑だったりするのかな?」
「とんでもない。めっちゃ助かります」
「じゃあ行こうか」
寂雷に連れられる形で駅に着くと彼女は駅員に落とし物がないか聞きに行った。
「さてここになければイケブクロに移動か」
彼女を案内する間にも寂雷は道中財布が落ちていないかを確認していた。結果として落ちていなかったが探しているのは財布だ。落ちていたとしても誰かに中身は抜かれているだろうしやはりお金を渡しておくべきかと寂雷は考えていた。
「神宮寺さん、お待たせしました。ここにもなかったです」
小走りで神宮寺の元に戻ってきた彼女が浮かない顔で報告する。
「じゃあ次はイケブクロ……失礼、電話が」
彼女に断って電話に出ると寂雷は電話相手と話し始めた。
「うん、うん。ありがとう。流石だね。じゃあ今からそちらに向かうね」
電話を切ると寂雷は彼女に向かって口を開いた。
「財布見つかりましたよ」
「えっホンマ?ホンマですか?」
「本当だよ。今から取りにイケブクロへ行こう」
イケブクロに到着すると寂雷は駅の近くにある喫茶店に入った。店員にもう一人来ることを告げて四人掛けのテーブル席に通されると寂雷は入口が見える側に、彼女はその反対側にそれぞれ座った。
「何か飲みましょうか。何にしますか?」
「ほな紅茶にします」
彼女の注文を聞いた寂雷は店員を呼んで注文を済ませると彼女は寂雷に話しかけた。
「一体どうやってお財布を見つけたんですか?」
「イケブクロに何でも屋をやっている友人がいてね、彼に依頼したんだ」
「え?いつの間に依頼しはったんですか?」
「ふふ。君が遺失届を出している間にね」
「ありがとうございます。本当に何とお礼を言うたらえぇか……」
「お待たせしました。紅茶のお客様」
彼女が言葉を言い終える前に店員が注文した品を持ってきた。彼女の前に紅茶、寂雷の前には珈琲が置かれる。
「もうすぐ彼が来るだろうから、お礼は彼に伝えると良いよ」
そう言って寂雷は珈琲に口をつけた。彼女も紅茶に口をつけてひと息つくと喫茶店のドアが開く音がして寂雷が軽く手を上げた。寂雷が体を奥に寄せると隣に青年が座った。
「寂雷さん、お待たせしてすみません」
「大丈夫だよ。我々もさっき来たところなんだ。一郎君はコーラで良いかな?」
「あざっす。いただきます」
近くの店員にコーラを注文すると寂雷が彼女に一郎を紹介した。
「彼は山田一郎君。先程話した何でも屋の友人だよ。一郎君、彼女が電話で話した人だよ」
一郎と彼女はお互いに紹介されると会釈を交わした。
「初めまして、山田一郎です。早速財布の件なんですが、こちらですか?合ってたら念の為中身の確認させてください」
一郎はテーブルに財布を置いて問うと、彼女は思い切り頷いた。
「それ、それです。中には現金とクレジットカードと犬の写真とかが入ってます」
それを聞いた一郎は彼女に見える様に財布を開いてクレジットカードの名義と犬の写真を確認した。
「間違いないですね。次は落とさない様に気をつけてください。あ、中身で無くなってる物がないか確認してください」
一郎から財布を受け取った彼女はざっと中身を確認して安堵の表情を浮かべた。
「ありがとうございます。中身も無事です」
そう言って彼女はぎゅっと財布を抱きしめると一郎を見つめた。
「山田さん、ありがとうございます。お礼はいかほどでしょうか」
「あ、大丈夫っすよ。割とすぐに見つかったんで」
一郎はにかっと笑うといつの間にか置かれていたコーラを飲んで続ける。
「お姉さん出先で財布落として不安だったんでしょ?俺、イケブクロに嫌なイメージ持ってほしくないんで、今回はサービスですよ」
でも……と言いかける彼女の言葉を遮って寂雷が甘えておきなさいと言葉をかけると彼女は戸惑いながらもまた一郎に頭を下げた。
「じゃあ俺帰らないといけないんで、これで失礼します。コーラ、ありがとうございました」
「あぁ。忙しいところありがとう、一郎君」
一郎は立ち上がると寂雷と彼女に軽く会釈をして去っていった。
「私達もこれを飲んだら出ようか」
「神宮寺さんもホンマにありがとうございました。せや、お蕎麦代返さな」
「お蕎麦代はいいから、代わりに私が行きたい所に付き合ってくれないかな?」
「もちろん付き合いますけど、お蕎麦代は返しますよ」
二人が喫茶店を出る頃には時刻は夜になっていた。空が暗くなる中寂雷が彼女を連れて行った先はロッジ風のレストランだった。注文を済ませてドリンクを飲みながら寂雷が口を開く。
「ここのピザが食べてみたかったんだけど一人だと食べきれそうになくてね。助かったよ」
「いえいえ、晩ご飯何も考えてへんかったからこちらも助かりました」
「それは良かった。君はこちらにはよく来るのかい?」
「三ヶ月に一回くらいですかねぇ。仕事でも来るんですけど今回は遊びです。神宮寺さんはずっとこちらに?」
「えぇ。シンジュクで仕事をしてましてね。君はずっとオオサカなのかな?」
「実家はヒョーゴの方なんですけど、就職でオオサカに出たんです。神宮寺さんはオオサカ来られたことあります?」
料理が来てからも二人の話は途切れることなく続きデザートも食べ終わる頃にはすっかり打ち解けていた。
「今日はホンマにありがとうございました。お財布も見つけてもろたしご飯も美味しかったです」
店を出て歩き出すと彼女は寂雷に改めて礼を言った。
「神宮寺さんが助けてくれはらへんかったら今頃ホテルで不貞寝してましたわ」
「今日は色々災難だったとは思いますが君に笑顔が戻ったようで良かった。さてホテルまで送りましょう」
さも当然という顔をして歩き出す寂雷に戸惑いながらも彼女はほなお願いしますと歩き出した。