ミラーリング #15-4「対決」 朝が来なければいい。
今ほど強く願ったことは、フェルディアにはなかった。
だが、そんな願いをあざ笑うかのように、空は白みはじめていた。
御者のアイドは、すでに戦車の用意を整えていた。世は無情だ。すべてが自分に戦えと強いてくる。
近づいてくる足音に気づいて、フェルディアは振り返った。
そこには、コノート王子であり、幼なじみであるメインが立っていた。
「どうした。ずいぶん早いな」
フェルディアはわざと軽い口調で声をかけたが、メインは押し黙っている。
「……わかってるだろうな」
やがて、絞り出すような声で王子は言った。その身に弓と矢筒が背負われているのを見て、フェルディアは微笑んだ。
「ああ、大丈夫さ。俺は逃げたりしない。おまえの腕は知ってるしな」
メインは苦虫を嚙みつぶしたような表情になった。
「ちゃんと戦えるんだろうな。顔色が悪いが」
ぶっきらぼうなメインの声に、フェルディアは苦笑した。
「夢見が悪くてな。まあ、まだ時間は早いし、あいつが来るまで浅瀬で一眠りするさ」
王子はなおも口を開くが、言葉が見つからなかったのか、うつむいてしまう。
優しい男だ。
旧友を見ながら、フェルディアは思う。
メインとは、幼い頃から共に学び、鍛錬してきた仲だ。
自分だけ影の国へ行くと決まったときは、くやしがりつつも、励ましの言葉をかけてくれたのを覚えている。
修行から帰ってきたときは馬で駆けつけ、誰よりも喜んで迎えてくれた。
──まあ、今度は、同じようにはいくまいが。
「じゃあ、行ってくる」
声をかければ、メインは黙ったままうなずいた。
フェルディアもうなずき返し、そのまま御者のもとへ足を向ける。
戦車はすぐに走り始めた。通り過ぎる風は、自分を引き止めてはくれない。
いまだに心の決まらぬ自分を急かすように、夜明けの足音が近づいてくる。
浅瀬に着いたとき、まだクー・フーリンは来ていなかった。
まだ日の出前だから当たり前だ。早すぎる。
御者に見張りを頼み、フェルディアは身体を休めるために横になったが、目が冴えて眠るどころではなかった。
暗澹たる思いが、胸に絶え間なく引っかき傷をつけていた。
「フェルディア様」
少しうとうとしたと思ったころ、御者であるアイドの声が聞こえて、フェルディアは目を開けた。
「来たか」
「ええ」
起き上がって目をこらせば、丘を降りてくる戦車の青い影が見えた。
フェルディアは軽く髪をなでつけると、マントのブローチを留め直し、ゆっくりと浅瀬に降りていった。
やがて対岸に戦車が止まり、一人の女が地面に降り立つ。
顔を上げた女の姿に、フェルディアは思わず胸が詰まった。
嗚呼、嗚呼──見まがうはずがない。
記憶よりも髪が伸び、痩せた気もするが、力強いまなざしは変わらない。
目が合った瞬間、女の顔がくしゃりと歪んだ。フェルディアは激しい動悸をなんとか鎮めようと息を吸い込み、一歩進み出た。
「久しぶりだな、妹よ」
クー・フーリンは虚を衝かれたような表情を見せたが、すぐに胸を張って近づいてくる。
「ああ、本当に久しぶりだな、兄上。ヒゲなんて生やしたのか。一瞬、誰だかわからなかったぜ」
フェルディアは自分の顎髭に手をやり、口の端を引き上げた。
「大人の男になった証しさ。似合うだろ?」
「はん」
腕を組み、クー・フーリンは鼻で笑ってみせた。
「オレは、前のおまえのほうが好きだね」
「そうか。俺は気に入ってるんだが、おまえとは意見が合わないらしいな」
つかの間、二人は見つめ合う。クー・フーリンは唇をなめ、口を開いた。
「本当は、『オレの領地にようこそ!』って言ってやりたかったんだけどな──おまえがちゃんと、門から入ってきてくれればな」
「それは失礼した。あいにく、どこが門なのかわからなかったんでね」
フェルディアは腰に手を当て、挑発するような声で言った。
「それにしても、俺の小間使いだったチビ犬が、ずいぶん出世したじゃないか。国を守る番犬とはね」
「おっと、そんなチビ犬に命を助けられたのは誰だ? 灰狼のガルヴグラスに、裏切り者の料理長。忘れたとは言わせねえ」
「なんだと?」
思わず、フェルディアは目を吊り上げる。
「命を助ける? それなら、俺のほうがよほど──」
そこで、フェルディアははっと口をつぐんだ。クー・フーリンの顔から血の気がひく。
「ああ、いや、その」
フェルディアは咳払いをした。二人の間に、長い長い沈黙が落ちる。それはひどく重く、身体が押しつぶされそうな沈黙だった。
「……なあ、フェルディア」
再び口火を切ったのは、クー・フーリンだった。
「影の国での修業時代のこと、覚えてるか?」
「もちろんだ」
こわばった声で、フェルディアは応えた。
「オレたち、毎日一緒に修行して、狩りをして、飯を食ったな。一緒の布団で寝たこともあった」
「……ああ」
「スカサハにしごかれて、ウアタハやオイフェや、仲間たちと酒飲んで、歌って、笑って。それから──」
「クー」
フェルディアの鋭い声が、クー・フーリンの言葉をさえぎった。
「俺は、おまえと思い出語りをするために来たんじゃない」
妹分の顔がこわばるのを見ながら、フェルディアは、手にした槍の穂先をぴたりと彼女に向けた。
「俺はコノートの戦士として、おまえに挑戦しにきた。過去にあったことは全て忘れろ。俺も忘れる。さあ武器を取れ、クランの猛犬」
「……なんで」
クー・フーリンの声が震えた。
「なんで、そんなこと言うんだよ」
「聞こえなかったか?」
フェルディアは厳しい表情のまま続けた。
「武器を取れ。義兄妹の縁はここまでだ、クー。これ以上、おまえが俺を侮辱して名誉を貶めようとするのを、俺は許すわけにはいかない」
「オレがおまえを侮辱だと!?」
クー・フーリンは目を見開いた。
「何言ってんだよ! オレはおまえを侮辱したことなんか──!」
「黙れ!!」
フェルディアは悲痛な声で叫んだ。
「もう、嘘か本当かの問題じゃない。俺はコノートの戦士として、おまえと戦う。スカサハも言っていただろう、運命を受け入れ、ただひたすらに己の成すべきことを成せと。──いいか、クー。これが俺たちの運命だ」
「……!」
クー・フーリンは泣き出しそうに顔を歪めた。だが、すんでのところでこらえると、小さく押し殺した声で言った。
「……使う武器は、おまえに選ばせてやるよ。おまえのほうが、早く浅瀬に着いたから」
「そうか。なら、短槍でどうだ。互いに使い慣れた武器だしな」
「わかった」
二人の戦士は御者に命じ、槍を持ってこさせた。
ひとかかえの槍を持ってきたロイグは、幼なじみの顔が蒼白になっているのを見た。
「大丈夫か?」
思わず声をかける。クー・フーリンはかすかに唇の端をあげてみせたが、その瞳は暗く沈んでいた。
ロイグは、それ以上何も言わなかった。どんな励ましの言葉も慰めの言葉も無駄だとわかっていた。
彼女にとって、あのコノートの男がどういう存在なのか、嫌というほど聞かされていたからだ。
浅瀬に戻ったクー・フーリンとフェルディアは、槍を握り、つかの間対峙する。
次の瞬間、二人は一斉に打ちかかった。
槍の穂先が盾をうがつたび、耳障りな音がはじける。まるで蜂の軍勢が飛び回るように、短槍はうなりをあげて宙を飛び交い、互いの命を狙い合った。
ロイグは、信じられない気持ちで二人の戦いを見ていた。
正直なところ、クー・フーリンと渡り合える戦士など、いるわけがないと思っていた。
だが、あのフェルディアという男はどうだ。
互角、いや、ひょっとしたらそれ以上だ。フェルディアがクー・フーリンと槍を交えるたび、ひりつくような焦燥に、胸がひどくざわめいた。
真昼を過ぎ、日が暮れても、二人の戦いは終わらなかった。
やがて薄青い闇があたりを包みはじめると、互いの動きも武器も、だんだん見えなくなってきた。
キィン! とひときわ高い金属音とともに槍がぶつかり合い、二人が飛びすさって距離をとったところで、唐突にフェルディアが声をあげた。
「おい、今日はここまでにしないか」
そう言って槍を下ろす。クー・フーリンは、驚いて動きを止めた。
「すっかり何も見えなくなっちまった。明日、また日が昇ってから決着をつけようじゃないか」
クー・フーリンは、探るような目つきでフェルディアを見た。
薄暗がりの中に佇む男は、穏やかな表情を浮かべていた。
敵らしくない、この場に似つかわしくない──よく知っている、からかうような微笑み。
「……!」
弾かれたように、クー・フーリンは駆け出した。投げ捨てた槍が、ぱしゃんと水しぶきをあげて浅瀬に沈む。フェルディアも、一歩前に踏み出す。
フェルディアが広げた腕の中に、クー・フーリンは何のためらいもなく飛び込んだ。
筋張った硬い腕が、自分をしっかりと抱きしめる。クー・フーリンは、必死に目の前の身体にしがみついた。
「フェルディア」
泣き声のような、情けない声が喉から漏れる。
「フェルディア、フェルディア!」
「ああ、クー!」
温かい声が耳を打つ。熱い体温と力強い鼓動に抱かれると、ひどく安堵に包まれた。
クー・フーリンは、目に熱いものが滲むのを感じた。
フェルディアは、いつかのときのように、両まぶたとひたいに口づけてくれた。クー・フーリンも背伸びをして、友の同じ場所に口づける。
触れあう肌の熱が、今は何もよりも嬉しかった。
二人は川の中で固く抱き合っていたが、やがてそっと身体を離すと、手をつないだままアルスター側の岸にあがった。
ロイグがすぐに駆け寄ってきて、二人に乾いた布と薬を渡してくれる。アイドも食料や飲み物を戦車に積んで、川を渡ってきた。
御者たちが協力して火を起こしている横で、クー・フーリンとフェルディアは、互いの傷の手当てをした。
クー・フーリンは、上着を脱いだフェルディアの脇腹に手を当て、血が滲む傷をじっと見つめていた。
「なんだ?」
黙ったままの妹分を見ながら、フェルディアはつとめて冗談めかした口調で言った。
「そうじーっと見られてると、落ち着かないんだが」
「んー……、いや」
クー・フーリンの口元がほころぶ。
「前もこんなことあったなあ、って思って」
フェルディアは、かすかに目を細めた。
何年も前の記憶。目の前の彼女にとっては、初陣の日のことだ。
まだ未熟だからと城に置いてきた少女が飛び込んできたときは怒りもしたが、その獅子奮迅の戦いっぷりには舌を巻いた。
「なつかしいな」
「うん」
クー・フーリンは、フェルディアの瞳を覗き込んだ。フェルディアも静かに見つめ返す。
御者たちが寝床の準備ができたことを知らせに来るまで、二人は黙って見つめ合っていた。
まるで、視線を逸らしたとたんに、相手が消えてしまうかのように。
二枚の敷き布が、二台の戦車の間に並んでいた。
クー・フーリンは思わずロイグの顔を見たが、ロイグは片目をつぶると、フェルディアの御者であるアイドと連れ立って、静かにその場を辞した。
「…………」
若者たちは互いに顔を見合わせたが、並んで敷き布に寝転がった。身体の重みを受けて、乾いた草がカサリと音を立てる。
クー・フーリンは、目の前に広がる夜空を見上げた。銀砂をまいたような星々が、まばゆく瞬いている。
そっと地面に手を這わせると、すぐに隣の腕にぶつかった。
クー・フーリンはそのまま探り、ふしくれだった手を見つけると、ためらいがちに握り込む。大きな手は、すぐに握り返してくれる。
ほっと息を吐き、クー・フーリンは目を閉じた。
翌朝、日が昇ると、二人は再び浅瀬に降りていった。
「今日はどうする?」
「昨日は俺が武器を選んだから、今日はおまえが選んでいいぞ」
フェルディアの言葉に、クー・フーリンは首に手を当てて考えた。
「じゃあ、大槍勝負はどうだ? 今度は戦車を使って」
「いいだろう。望むところだ」
すぐに御者たちが戦車に馬をつなぎ、戦いが始まった。
咆哮し、激しくぶつかり合う。戦車は川底をえぐり水を跳ね上げ、大槍は戦士たちの肌を切り裂き、血しぶきが空を朱く染めた。
楽しい。
それが、クー・フーリンの素直な気持ちだった。いつしか、心は影の国の修行時代に戻っていた。
強さを追い求め、師の無理難題に必死で食いつきながら、仲間たちと技の研鑽を重ねる日々。
フェルディアも同じことを感じているのだろう。槍を振るう彼の口元には笑みが浮かんでいた。
太陽が沈んでも、結局勝負はつかなかった。
クー・フーリンとフェルディアが戦車を止めたとき、すでに月が宵空に姿を見せていた。
戦士たちは血濡れの肌をさらし、激しく肩で息をしながら、お互いの姿を眺めた。
馬たちは激しく汗をかいて震え、御者たちも疲労困憊していた。
「今日はここまでにしようぜ」
クー・フーリンが言った。空気は冷え込んでいたが、こめかみからぽたり、ぽたりと汗の雫がしたたり落ちた。
「賛成だ」
フェルディアもうなずく。
戦車から降りたクー・フーリンとフェルディアは肩を抱き合い、顔を寄せ合った。
落ち着かない激しい呼吸が、まだお互いに生きていることを実感させる。
二人は支え合って、のろのろと岸に上がった。
へたり込むように地面に座り、手を握り合いながら、月明かりがきらきらと照らす浅瀬を見つめる。
座り込む二人に、ロイグとアイドが薬と食べ物を運んできた。
クー・フーリンとフェルディアは、すぐにお互いの手当てを始めたが、深くえぐられた肌に薬を塗るたびに、手が震えるのを抑えられなかった。
いつしか夜は更け、とっぷりとした闇が世界を包む。
昨日と同じように、クー・フーリンとフェルディアは並んで横になった。
少し離れたところから、かすかに薪がはぜる音と、ぼそぼそとした御者たちの声が聞こえる。御者たちは御者たちで、何やら語り合っているらしい。
「フェルディア、起きてる?」
クー・フーリンは、小さな声で尋ねた。
「ああ」
すぐに返事が返ってくる。クー・フーリンは起き上がった。
「そっち行っていい?」
返事を待たず、クー・フーリンはフェルディアのそばまで這っていった。手探りで、フェルディアがかぶっていた掛け布を引きはがす。
「ッ、おい……」
戸惑う気配がしたが、構わずにクー・フーリンは兄弟子のすぐ隣に寝転んだ。
ごそごそと奪い取った掛け布を広げ、二人の身体をしっかりと覆うと、ぐいぐいと身を寄せる。
驚いたフェルディアは身体を起こしかけたが、クー・フーリンに腕を掴まれ、引き倒されるようにして再び地面に転がった。
「おい、なんなんだよ」
「前もこんな風にして一緒に寝たろ。同じ」
「同じって、おまえ……」
さすがにこの状況はまずい気がしたが、がっしりと腕を掴まれているので、逃げ出すことはできなかった。
諦めて身体の力を抜くと、クー・フーリンの手の力が少しだけ緩んだ。
「おまえな、今の俺に何されても文句は言えないぞ」
フェルディアが少し怒った口調で言う。クー・フーリンは頬をふくらませ、フェルディアの肩にぎゅっと顔を押し付けた。
「オレは……ただ……」
くぐもった声が聞こえる。その声は頼りなく、戸惑っているようにも聞こえた。
フェルディアは、彼女を幼子のように感じた。好き勝手に振る舞い、周りが手を焼く、わがままな子ども。
フェルディアは大きなため息をついた。
「クー、ちょっと手を離せ」
「やだ」
「大丈夫だ、逃げないから」
なだめるように声をかければ、クー・フーリンはためらいがちに、そろそろと手を離した。やっと腕が自由になる。
フェルディアは肩肘をついて寝転び直し、クー・フーリンに向き合った。妹分が、戸惑った顔で見上げてくる。
「安心しろ。前にも言ったろ。俺はおまえに何もしない」
「……!」
クー・フーリンは目を丸くすると、気まずげに顔を伏せてしまう。
「その、オレ……」
「おまえ、大事な人にまた会えたみたいだな」
穏やかに話しかければ、クー・フーリンが息を飲む気配がした。
やがて小さく、こくりとうなずく。
「……うん」
「そうか。よかった」
自然と笑みが浮かぶ。つきりと胸を刺す痛みすらも、今は甘やかなものに思えた。
「ずっと気になってたからな。安心した」
「フェルディアは?」
クー・フーリンがささやいた。
「大事な人。会えた?」
フェルディアは一瞬言葉に詰まったが、しっかりとうなずいた。
「ああ」
「そっか。よかった」
クー・フーリンがふわりと微笑む。フェルディアも笑みを深め、妹分の頭を軽く叩き、明るい声で言った。
「ほら、もう寝よう」
「うん」
クー・フーリンは、甘えるようにフェルディアに身を寄せてきた。やわらかな髪が、青年の頰をくすぐる。
胸元に体温を感じながら、フェルディアは、ひっそりと空を見上げた。
黒く塗り込めたような空には、青白く光る星々が無言で瞬いていた。
どうか、夜が明けないでほしい。
虚しいと知りながら、そう願わずにはいられなかった。
三日目は、フェルディアが剣での勝負を提案し、クー・フーリンも受け入れた。
二人は大ぶりの盾を抱え、剣を振るって戦った。連日の決闘が体力と気力を削っていたが、それでも、剣の冴えは鈍りはしなかった。
「つっ!」
クー・フーリンの鋭い一閃に、フェルディアは腕にかっと熱い痛みを感じた。
だが、突き入る隙を与えず体制を立て直し、すぐさま切りかかる。相手の足から紅が飛び散る。
クー・フーリンは一瞬よろめくも踏みとどまり、すぐさま猛攻をしかけてきた。フェルディアも負けじと応戦する。
刃がぶつかり合うたび、鮮血がはじけ飛ぶ。切り、突き、刺し、跳ね上げる。
自分の攻撃に相手が応え、見事な反撃をかえしてくる。
フェルディアは、まるで世界に自分とクー・フーリンの二人だけになったような気がした。
コノートには、自分と並ぶ戦士はいなかった。
だが、彼女はどうだ。
繰り出す攻撃は一撃ごとに鮮烈さを増し、素晴らしい好敵手として目の前に立ちはだかっている。
剣の切先に自らの命を乗せて戦う高揚感に、心がたぎる。
彼女も同じなのだろう。殺し合っているというのに、瞳は獰猛に輝き、隠しきれない笑みを浮かべている。
この時間が永遠に続けばいい。
思わず、フェルディアは笑みを漏らした。そのときだ。
「!」
不意に、ぞわりとした感覚が背筋をおそった。
はっと身をかわせば、耳元を何かがうなりをあげて通り過ぎていった。クー・フーリンが慌てた表情で飛び退く。
黒い矢が川底に突き刺さり、激しく震えた。
ぱっと対岸をふり仰ぐ。浅瀬そばに立つ木の陰に、弓を構えた青年の姿があった。
フェルディアの周りから、音が消えた。
「メイン」
つかの間、フェルディアは王子と見つめ合った。
「てめえ、何しやがる!」
クー・フーリンが怒鳴る。糸が切れたように、フェルディアは我に返った。
メインは、それ以上射かけようとはしてこなかった。硬い表情のまま弓を下ろすと、木々の向こうに消えてしまった。
「…………」
あたりがシンと静まりかえった。立ち尽くす戦士たちの足下を、水が泡立ちながら流れていく。
「どういうことだよ、フェルディア」
クー・フーリンが、怒りのにじんだ声をあげた。
「一騎打ちと見せかけて、おまえもオレをだまし討ちしようとしてたのか」
「違う」
フェルディアは力なく首を振った。暗いまなざしで、浅瀬に突き刺さった矢を見つめる。揺れる漆黒の矢羽根が、妙に大きく見えた。
フェルディアは剣を鞘に収めると、矢を引き抜いて、二つにへし折る。
川底に投げ捨てれば、矢の残骸は、すぐに沈んで見えなくなった。
「すまなかった。勝負に水を差した。今日はここまでにしよう」
「けど!」
「明日の勝負は絶対に邪魔をしないよう、コノートの仲間に言っておく」
頑なな声に、クー・フーリンもそれ以上何も言えず、黙り込んだ。どっと疲れがあふれ出てきて、ひどい倦怠感に包まれた。
「わかったよ。な、フェルディア。休もう」
「ちょっと待ってくれ」
フェルディアはアイドを呼ぶと、伝言を伝え、コノート勢の元へ向かわせた。
遠ざかっていく御者の背中を、フェルディアは身動き一つせずに見つめていた。
やがて、しびれを切らしたクー・フーリンが急かすように手を引っ張ると、兄弟子はようやく歩き始める。
クー・フーリンは、フェルディアが今までと同じようにアルスター側の岸へ戻ってくれることに安堵したが、胸の中に黒雲のような不安がわきあがるのを抑えることはできなかった。
傷の手当てを終えたあと、フェルディアは「風にあたりたい」と言って、どこかへ行ってしまった。
クー・フーリンは一人で地面に寝転がっていたが、不安は増すばかりだった。どこかで鳴いている鳥の低いさえずりが、いやに耳につく。
ついに耐えきれなくなり、クー・フーリンは起き上がると、フェルディアを探しにでかけた。
目をこらしながら、ガサガサと草を踏み分けていく。
昼間の戦いで負傷した傷がじくじくと痛みだす。クー・フーリンは舌打ちし、足を引きずりながら歩いた。フェルディアはなかなか見つからない。
迷子になったような気持ちになって、クー・フーリンは必死に兄弟子の姿を探した。
やがて、川岸の大木にもたれかかっている背中を見つけたときは、心底ホッとした。
湧き上がる嬉しさと怒りを抑えながら、クー・フーリンは駆け寄っていく。
「フェルディ──」
声をかけようとして、クー・フーリンは思わず立ち止まった。
フェルディアは遠くを見るような目つきで、川の向こうを眺めている。月明かりに照らされた横顔は、いやに青白く見えた。
胸の奥にざわざわとして不安がわきあがるのを感じ、クー・フーリンはわざと大きな足音を立てながら、フェルディアに近づいた。
足音で気づいたのだろう。フェルディアが振り向いた。
「クー。どうした」
「あ、その」
そういえば、どうしたというのだろう。
フェルディアがいないから不安になった。そんな幼子のような理由で彼を捜し回っていたことに気づき、クー・フーリンは急に居心地の悪さを感じた。
「えーと、どこ行ったのかな、と思って……」
もごもごとつぶやくクー・フーリンを見ながら、フェルディアは「そうか」とだけ答えた。
もたれていた木から身体を起こし、クー・フーリンに向き直る。
「クー、今日は悪かったな」
「え、いや、別に。おまえが悪いわけじゃねえし」
「もう二度とあんなことはさせない」
そう言って、フェルディアは再び対岸に目を戻した。
クー・フーリンもフェルディアと同じものを見ようとしたが、川岸には黒い木々の影が立ち並んでいるだけだった。
枝葉が夜風にしなり、こすりあうような音を立てている。
「なあ、フェルディア」
無意識のうちに、言葉が口からこぼれ落ちた。
「今からでもアルスターに来ないか?」
フェルディアは、無言でクー・フーリンを見つめた。落ち着かない気持ちになりながらも、クー・フーリンは必死に言いつのった。
「その、今アルスターで戦えるのはオレ一人だけで、仲間が全然足りないんだ。おまえなら王だって歓迎してくれるはずだし、その、オレだって……嬉しいし」
フェルディアはしばらく黙っていたが、やがて、ゆっくりと首を振った。
「それは、できない」
「なんで」
クー・フーリンの声がうわずる。フェルディアは淡々と続けた。
「前にも行ったろう。俺はコノートの戦士だ。仲間たちを裏切るわけにはいかない。俺はメイヴ女王の前で誓ったんだ」
「メイヴ? メイヴが何だよ!」
たまらず、クー・フーリンは大声をあげた。
「あいつ、オレのことだって買収しようとしたんだぜ。平気で汚い手を使うやつだ。そんな女に、おまえが従う理由がねえだろ!?」
フェルディアは、かすかに眉を寄せた。
「口を慎め。おまえにとっては天敵でも、彼女はコノート兵たちの母であり、間違いなく俺の女王なんだ」
「おまえはオレよりあの女を選ぶっていうのかよ!?」
「おまえらしくないな、クー・フーリン。そんな女々しいことを言うなんて」
「!」
クー・フーリンは息を飲みこんだ。頭から冷たい水をぶちまけられたような気がした。フェルディアは続けた。
「これは、俺の名誉に関わる問題だ。おまえと戦わなければ、俺の名は呪われ、名誉は地に落ちるからな」
「オレを殺すことが、おまえの名誉になるってのか?」
「……そうだ」
「オレはおまえを殺しても、名誉になんかならないのに――」
フェルディアが、さっと顔色を変えた。
「おい……今のは、俺への侮辱だぞ」
クー・フーリンは、しまった、と身体をこわばらせた。
戦士にとって、名誉は命より大事なものだ。自分だってそうだし、彼だってそのはずだ。
「オレ、そんなつもりじゃ」
情けなく声が震える。兄弟子の顔を見られなくなって、クー・フーリンはうつむいた。
「オレは本当に、おまえを殺したくないだけで……」
「おまえが俺に殺される、とは思わないのか」
弾かれたように顔をあげると、怒りと悲しみと諦めが入りまじった瞳が、自分を見つめていた。
今まで見たこともない兄弟子の顔つきに、どうしたらいいのかわからなくなる。何か言わねばと思うが、言葉が出てこない。
「…………」
だが、この空気をなんとかしなければと思うと同時に、ひどくむかむかしてきた。
なんでフェルディアはこんなことを言われなきゃならないんだ? そっちだって、オレを殺したいなんて、みじんも思ってないくせに。
「俺と戦いたくないのなら、おまえが俺のもとへ来る、という選択肢だってあるだろう。メイヴ女王だって、さんざんおまえに声をかけてきたはずだ」
兄弟子の固い声に、クー・フーリンは歯を食いしばった。
「オレはアルスターの戦士だ。王を裏切ったりはしない」
フェルディアは、じろりとクー・フーリンを見下ろした。
「王、ね。そもそも、コンホヴォル王はおまえが仕えるのにふさわしい王なのか?」
「……なんだと?」
クー・フーリンは茫然とした。この義兄弟が、何を言い出したのかがわからなかった。
「我が女王への仕打ち、ディアドラ姫の話。正直、おまえの王には、いい噂を聞かん。コノートでももっぱらの噂だ。アルスターの支配者は、醜い王だと──」
「コンホヴォルはメイヴよりずっと立派な王だ!!」
思わず、クー・フーリンは怒鳴っていた。
「コノートの強欲女王より、ずっとずっと誠実に国を守ってる! 何も知らないくせに、ふざけるなよ」
クー・フーリンの脳裏には、寂しそうな目で見つめてくる王の姿が浮かんでいた。
「もういい、わかった。おまえも、結局は他の男どもと一緒なんだな」
激情のままに吐き捨てる。
「どうせおまえも、メイヴの誘惑につられたんだろ! それともフィンダウィルのほうか? 美人だもんなぁ、あの王女!」
フェルディアの顔色が変わる。だが、こみ上げる怒りと悲しみに突き動かされ、クー・フーリンは止まらなかった。
「王女との結婚でも目の前にちらつかせられたか? いい女に、コノートの王座。おまえも男だもんな、わかるぜ。縁遠くなった義理の妹よりも、目の前の女や褒美のほうが大事なんだろ!?」
あたりが静まり返る。クー・フーリンは、激しく呼吸を弾ませた。
「……言いたいことは、それだけか?」
静かな声に、クー・フーリンはびくりと震えた。
フェルディアは無表情だったが、瞳の奥には、抑えきれないほどの激しい怒りがゆらめいていた。
兄弟子はふうっと息を吐き、妹弟子を睨みつけた。
「おまえは、前からそうだったな。人の気も知らないで、自分勝手に振る舞うやつだった。いろんなものを奪って。俺からも散々奪ったのに、今度は、俺の誇りまで奪おうっていうのか」
予想外の言葉に、クー・フーリンは慌てた。
「そんな。オレはおまえから何か奪ったことなんて」
「自覚なしか」
吐き捨てるように言うと、フェルディアは、はっきりと顔に怒りをにじませた。
「知ってるか? おまえが来るまでは、俺がスカサハの一番弟子だったんだ。ゲイ・ボルグだって、俺が継承するはずだった。それを、後から来たほんの少女にすぎないおまえが、かすめ取っていった」
「……!」
「本当なら、俺が影の国でもっとも優れた戦士になるはずだったんだ」
異様な光を浮かべた目が、クー・フーリンをひたと見据える。
「おまえさえいなければ」
クー・フーリンは、心臓が凍りついたような気がした。何か言い返したいと思うが、唇が震えるばかりで、声が出ない。
フェルディアの言葉は、毒が塗られた穂先のように、クー・フーリンの心を深くえぐった。
なぜ。どうして。
そんな言葉ばかりが、頭の中をぐるぐると回る。
「あ……」
フェルディアが自分を睨んでいる。
どうしてそんな目でオレを見るんだ。おまえはオレの義兄で、親友のはずなのに。
いつだってオレを守ってくれたのに。
ずっと、オレの味方だったのに。
「──!」
たまらず、クー・フーリンはその場から逃げ出した。これ以上フェルディアの前にいたら、自分がおかしくなってしまう気がした。
脇目もふらずに野営地に戻ってくると、クー・フーリンは寝床に飛び込み、掛け布にくるまった。
頭ががんがんと痛み、喉が焼けつくように苦しい。クー・フーリンはうめいた。
昨日まで、フェルディアはあんなに優しかったのに。
戦いはしたけれど、彼は自分を抱きしめてくれたし、手当もしてくれた。話をして、修行中のときのように一緒に眠って──。
掛け布を掴む手が震えた。今ここで彼が寝床に戻ってきたとしても、どう接していいのかわからない。
クー・フーリンは頭まですっぽりと掛け布をかぶり、小さく身体を丸めた。
今まで感じたことのない恐怖を覚えながら、クー・フーリンはフェルディアの気配に全神経を集中させた。
だが、いつまでたっても彼は戻ってこない。やがて睡魔が忍び寄ってきて、クー・フーリンは眠りに落ちた。
松明を掲げて浅瀬を渡ろうとしたアイドは、向こうから人影がやってくるのに気づいて、目を丸くした。
「……フェルディア様」
闇の中から現れたのは、自分の主人だった。
松明の火で浮かび上がった端正な顔には、濃い影が落ちていた。
「よろしいのですか」
アイドは問いかけた。余計なことを何一つ言わない御者に、フェルディアはかすかに笑みを浮かべた。
「いいんだ」
ただそれだけを答える。アイドはうなずき、フェルディアが歩きやすくなるよう、松明で足下を照らした。
フェルディアは、一度だけ対岸を振り返った。ぽつりと小さな火が見える。彼女の御者が燃やした焚き火だろう。彼女は、もう眠っただろうか。
ふうとため息をつく。そこで、アイドがじっとこちらを見つめているのに気づいた。
おそらく、「アルスター側に戻ろう」といえば、彼は何も言わずついてきてくれるのだろう。だが──。
「行こう」
顔をあげ、フェルディアは歩き出した。やや遅れて、アイドが付いてくる気配がした。ばしゃばしゃと水を跳ねる音が聞こえる。
夜風にあおられながら、二人はコノート側の岸に戻っていった。
「クー、起きろ。クー」
ゆるゆると意識が浮上する。まぶたを開ければ、神妙な顔つきの幼なじみが覗き込んでいた。
「ロイグ……?」
「フェルディアは?」
ロイグは、黙ったまま対岸を指差した。クー・フーリンの胸に、さっと冷たいものがよぎる。
跳ね起きて目をこらせば、川の向こうで、着飾った男が戦車にもたれているのが見えた。
「…………」
うつむく主人を気の毒そうに見ながら、ロイグは言った。
「どうする?」
クー・フーリンは、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
「オレも着替える。手伝ってくれ」
磨き上げた鎧。犬をかたどったきらめくブローチ。雄々しくはためく真紅のマント。
華々しい装いに身を包んだクー・フーリンは、誰もが目を奪われずにはいられないほど美しかった。丁寧にくし削った髪が、物憂げな横顔を華やかに彩っている。
「なあ、ロイグ」
「ん?」
クー・フーリンは、対岸を見つめたまま言った。
「万一だが──オレがやられそうになったら、オレを思いっきり馬鹿にしてくれ。多分、それで力が出るから」
「……わかった」
「それから」
クー・フーリンは、戦車の中に置かれた、細長い布の包みに目をやった。
「いざとなったら、あれをオレに投げてくれ」
「え、でも──」
そこで初めて、ロイグの顔に戸惑いが浮かんだ。
「あれは使わないって、おまえ言ってたじゃないか。それに、戦士でもない俺には、持つことすらできないんじゃ──」
「オレはあの武器の正当な使い手だ」
陰鬱な声で、クー・フーリンは言った。
「オレが求めれば、あれは答える。そのためにおまえの力を借りるとなれば、おまえでも扱えるはずだ、ロイグ」
幼なじみの言葉に、ロイグはうなずいた。
「わかった。任せてくれ」
クー・フーリンもうなずき、再び対岸に目をやった。
太陽を迎えて光る浅瀬が、今はただひたすらに疎ましかった。
浅瀬の真ん中で、クー・フーリンとフェルディアは向かい合った。
きらびやかな装いとは裏腹に、戦士たちの顔色は悪く、血の気がなかった。
フェルディアは平坦な声で言った。
「さあ、今日はどの武器を――」
「……なんでだよ」
絞り出すような声が、言葉をさえぎる。
「なんでなんだよ! フェルディア!!」
耐えきれないとばかりにクー・フーリンが叫んだ。勢いよくフェルディアの胸ぐらを掴む。
フェルディアははっと身構えたが、クー・フーリンが浮かべる表情の悲痛さに、思わず動きを止めた。
「おまえ、言ったじゃねえか! 絶対にオレを見捨てないって!」
泣き出す寸前のような声に、フェルディアはひどく胸を突かれた。喉が詰まって、息苦しくなる。
「何があってもオレを見捨てないって、おまえ言ったじゃねえか! なのに、なのに──」
「おい、クー……」
「おまえはいつも嘘ばっかりだ。嘘つき、嘘つき、裏切り者!! おまえなんか大っ嫌いだ!!」
罵倒し、なじり、大声で責め立てながら、クー・フーリンは何度もフェルディアの胸板をこぶしで叩いた。
フェルディアは抵抗一つせず、ただ叩かれるに任せる。
やがて、胸を叩かれる力が弱くなっていき、嗚咽が聞こえ出す。フェルディアは目を閉じ、大きく息を吸った。
「……ああ、そうだな。俺は嘘つきだ」
ぴたりとこぶしが止まる。クー・フーリンが息を飲む気配がした。フェルディアはゆっくりと目を開き、友の両肩にそっと触れる。
「だから、おまえは俺を嫌いなままでいろ」
「……!」
思わず腕を伸ばしてきた友を、フェルディアは容赦なく突き飛ばした。
クー・フーリンはよろめき、茫然とした顔で友を見上げる。
「武器を選べ、クー・フーリン」
フェルディアは厳しい声で言った。
「今日はおまえが選ぶ番だ」
クー・フーリンは身を震わせてうつむいたが、すぐに腕で両目をぐいとぬぐった。
「武器を一つに縛るのは飽き飽きだ。今日はもう、なんでもありにしようぜ」
「いいだろう」
フェルディアがうなずく。二人は互いに背を向けると、それぞれ武器を取り上げ、再び相対した。
悲壮さを瞳の奥に閉じ込めた二人は、どこかで確信を持っていた。
──今日が、最後の戦いだと。
始まった戦いは激烈だった。
愛、友情、裏切り、理不尽、命令、宿命、すべてに対する恨めしさが、二人を狂戦士のように煽り立てた。
クー・フーリンは槍で激しく打ちかかるが、フェルディアは体格差を生かして何度も彼女を跳ね飛ばした。
投擲した槍をはじかれると、クー・フーリンはすぐさま剣を抜いて斬りかかる。
飛び上がった勢いで打ち倒そうとしたが、またしても盾で弾かれた。
着地したクー・フーリンは、フェルディアが構えている盾が、スカサハが彼に与えたものだと気づいた。道理で、簡単に壊れないわけだ。
舌打ちし、咆哮しながら再び飛びかかる。フェルディアも怒号とともに向かってくる。
ぶつかり合う戦士たちの熱量は、川の水すら干し上がらせんばかりだった。
二人はついに武器を投げ出し、生身の身体で取っ組み合った。
殴り、蹴り、投げ飛ばす。それはもう、華やかな騎士の戦いではなかった。
ひたすらに泥くさく、子どもの喧嘩のような、力任せのぶつかり合いだった。
生身での戦いとなると、女のクー・フーリンは不利だった。フェルディアに掴みかかるも勢いよく殴り飛ばされ、水の中に倒れ込む。
そのときだ。
「情けない戦いっぷりだな、チビ犬!」
「!」
ロイグだった。水際に立った御者が、嘲りをこめた口調で叫んだ。
「まるで母親にじゃれつく子どもだ。そのうち、石臼でひいた麦みたいにつぶされるぜ。その程度でくたばるんなら、アルスター1の戦士なんてとても名乗れないな。犬は犬らしく、犬小屋に帰れ!」
クー・フーリンは歯を食いしばった。顔が火照り、燃え上がるような憤怒が全身を包む。
激しい怒りを感じたことで、クー・フーリンの頭はかえって冷静になった。咆哮し、フェルディアに飛びかかった。
すさまじい打撃の連続に、フェルディアはじりじりと後退する。このままクー・フーリンが押し切るかに見えた。
だが、一瞬の隙を突かれた。
クー・フーリンは胸ぐらを掴まれ、あ、と思う間もなく投げ飛ばされた。
叩きつけられるような衝撃ののち、全身が水底に沈んでいくのを感じる。
クー・フーリンはすぐに体勢を立て直そうとしたが、足がつかないことに気づいて息を飲んだ。川の深みに落ちたのだ。
慌てて水をかき、水面に顔を出したところで、フェルディアが飛びかかってきた。クー・フーリンは首を押さえつけられ、勢いのまま、再び水の中に沈められた。
「……!」
がぼ、と口から大量の空気の泡がこぼれ出す。
逃れようと必死でもがくが、硬い両手にギリギリと首を締め上げられる。
肺が空気を求めて悲鳴をあげる。まずい、まずい、このままでは──!
クー・フーリンは歯を食いしばった。
片手を伸ばすと、水中にすばやく文字を書く。フェルディアが目を見開いた。
文字が光ったかと思うと、両足に熱い魔力が満ちてくる。クー・フーリンは魔術で強化した足で、思いきりフェルディアの腹に蹴りを入れた。
「グッ!」
フェルディアの手が離れる。クー・フーリンはすばやく水を蹴り、水面に向かって浮上した。
岸へ向かって全力で泳ぐ。すぐに足が川底を踏んだ。
だが息をつく間もなく、フェルディアが追いかけてきた。投げ捨てられていた剣を掴むと、躊躇なくクー・フーリンの胸に振り下ろす。
とっさにかわしたが、銀の刃はクー・フーリンの左肩を深々と貫いた。
「グアア!」
たまらず、口から悲鳴が漏れる。フェルディアが剣を引き抜けば、傷口から鮮血が噴き出した。
肩を押さえてよろめくクー・フーリンに、フェルディアは再び襲いかかった。
何度も激しく切り裂かれ、貫かれる。まるで我を忘れたかのように容赦がない。
血を流しすぎたせいか、だんだんクー・フーリンの頭が朦朧としてきた。限界が近づいていた。
クー・フーリンは宙を振り仰ぎ、無意識のうちに叫んでいた。
「ゲイ・ボルグ!!」
その一瞬、フェルディアの猛攻が止む。
次の瞬間、うなりをあげて、クー・フーリンの手に硬い感触が飛び込んできた。
掴むと、魔力がほとばしるのを感じる。
槍が炎のように燃え上がる。
クー・フーリンは大地を蹴った。フェルディアが盾を構えるのが見える。クー・フーリンは叫び、腕を振り上げ、燃える魔槍を投擲した。
魔槍は、真紅の閃光となって空を裂いた。
フェルディアの盾を砕き、石のような皮膚を割り、死棘は青年の心臓をまっすぐに貫いた。
すさまじい悲鳴とともに命が破れ、四方に飛び散っていく。
悪夢のような瞬間だった。
フェルディアは、自分の手から力が抜け、盾が粉々になるのを感じた。
──ああ、せっかくスカサハから譲り受けた、大事な盾だったのに。
足下がよろめき、身体がかしいでいく。世界は、驚くほどゆっくりと動いていた。
フェルディアは、目の前に広がる空を見た。
澄み渡るような青空だ。太陽の突き刺すような白光が眩しくて、まぶたを閉じる。
そのまま倒れていく身体が、誰かに受け止められる。ごぼ、と口から熱いものがこぼれた。
フェルディアは、霞がかっていく意識の中で、自分が固い場所に横たえられたのを感じた。
不意に、ぽた、と水滴が顔に落ちた。
続いて、ぽたぽた、と冷たい滴が顔に降りかかる。
おかしい。あんなに晴れていたのだ。雨が降ってくるわけがないのに。
「……ディア」
うめくような声が聞こえた。その声にひどく心をかき乱されて、フェルディアは苦労しながら重いまぶたを開いた。
自分を覗き込んでくる顔をぼんやりと見上げ、フェルディアは笑みを浮かべる。不思議と気持ちは穏やかだった。
力を振り絞って、手を伸ばす。
──記憶がよみがえってくる。
初めて会ったときのおまえは、小さな小さな子犬だった。
だが、子犬はあっという間に俺が望んだ全てを手に入れた。
そんな子犬が、俺は憎くて憎くて仕方なかった。
フェルディアは、かすれた声で言った。
「ゲイ・ボルグはもっとも優れた戦士に贈られる誉れ」
嗚呼、しかし、そんな俺の心の内も知らず、おまえはなんと無邪気に笑いかけてきたことだろう。
その小さな体が抱えるものの大きさを知り、どれほど心傷んだことだろう。
「あの輝かしかった学舎で。おまえこそが我々の誇りだった」
二人で競い、技を磨き合う一瞬が、どれほど楽しかったことだろう。
あんなに懐かしく輝く日々が、今はなんと遠いことだろう!
「フェルディア、オレ、オレ……」
困ったな。空はこんなにも晴れているのに、俺の顔には雨が止まない。
仕方ないなと、フェルディアは微笑んだ。
重い手をなんとか動かし、彼女の頬に伝うものをぬぐおうとする。クー・フーリンが、はっとした顔でフェルディアの手を握る。
さあ、そんなに泣かないでくれ。
愛しい愛しい、俺の──。
「フェルディア……?」
クー・フーリンはつぶやいた。フェルディアはうっすらと微笑んだまま、動かない。
頬に触れていた兄弟子の手から、力が抜けていく。
慌てて手を握るが、握り返してくれない。ふしくれだった大きな手は、まだこんなに温かいのに。
「おい、フェルディア……なんか言えよ」
クー・フーリンは、兄弟子の身体を揺さぶった。だが、力の抜けた肉体は、ただされるがままに揺れるばかりだ。
「フェルディア、なあ、フェルディア」
「おい、クー」
ロイグが、クー・フーリンを止めようとした。だがその手を振り払い、クー・フーリンは兄弟子にすがりつく。
「フェルディア、フェルディア!」
「なあ、クー。彼はもう」
「フェルディア、起きろって。フェルディア!」
「クー!」
「フェルディア!!」
「もう死んでる!」
ロイグは怒鳴った。息を飲み、クー・フーリンが動きを止める。
「彼は、もう死んでるよ。……クー、行こう。メイヴたちが攻めてくる」
「…………」
クー・フーリンは、ぺたりとその場に尻もちをついた。両目から、ぼたぼたと涙がこぼれ落ちていく。
「行こう、クー」
ロイグはなおも声をかけた。だが、主人は幼子のように首を振った。
「いやだ! フェルディアを置いていけない」
そう言って、クー・フーリンは男の亡骸を胸に抱きしめ、大声で泣き始めた。
うずくまる主人の背中に、ロイグはジリ、と胸奥が焦げる感覚を覚えた。どうしたらいいのかわからなくて、立ちすくむ。
不意に馬のいななきが聞こえて、ロイグははっと顔をあげた。
ひづめの音や、大勢の足音も聞こえる。対岸のコノートの岸に、軍勢が近づいてきているのだ。
──まずい!
「クー、メイヴたちだ。気持ちはわかるが立ってくれ! ここから離れないと!」
男を離そうとしないクー・フーリンの腕を、ロイグは無理やり引っ張った。
「いや! いやだ!」
クー・フーリンは取り乱し、激しく泣きわめいてかぶりを振った。
「もういやだ! オレは行かない!」
「馬鹿言うな。おまえが戦わないと、アルスターは終わりなんだぞ!」
「オレは大事な兄を殺したばっかりなんだぞ。殺しちゃいけなかったのに! なのに、なんでまた戦わなくちゃいけないんだよ!!」
「エメル姫はどうなる!」
ロイグの一喝に、クー・フーリンはびくっと身体を震わせた。
「コンホヴォル王は? スアルダウ様は? コナルは? フェデルムは? レンダウィルは? おまえの大事な仲間たちはどうなる? コノートの軍勢がやってきたら、おまえの大事なものは、すべてめちゃくちゃにされちまうんだぞ!」
「あ……」
クー・フーリンの目から、ぼたりと涙のしずくが落ちた。
「つらいのはわかる。苦しいのもわかる。だけど、ここでおまえが折れちまったら駄目なんだよ。おまえは〈アルスターの盾〉なんだから」
ロイグはひざまづき、クー・フーリンの両肩を掴んだ。
「おまえが重すぎて持てないものは俺が持つ。だから、戦え。クランの猛犬」
「ロイグ……」
若者は、忠実な御者を見上げた。
「オレ、は……」
唇を震わせ、クー・フーリンは気を失った。血を流しすぎたことと、精神的なショックのせいだろう。
ロイグは細い主人の身体を抱き上げ、戦車にそっと横たわらせた。血で汚れ、泣き腫らした顔が痛々しかった。
深く息を吐き、ロイグは岸を振り返った。
銀髪の男が横たわっている。あふれ出すおびただしい血が川に洗われ、紅色にたなびきながら、水面に流れていくのが見えた。
主人が投げた赤い槍は、まだその身体に深々と突き刺さったままだった。
ロイグは男に歩み寄ると、槍の柄を掴んだ。
「許せ」
小さくつぶやき、手に力をこめる。朱槍は、拍子抜けするほど軽々と抜けた。穂先が赤黒い血に濡れ、鈍く光っていた。
槍を持ったまま、ロイグは亡骸をじっと見つめた。男はどこか満足そうな表情で、まるで眠っているかのようだった。
御者は一度目を伏せたが、すぐに顔をあげると、主人を乗せた戦車を引いてその場から去った。
誰もいなくなった川岸で、午後の透明な日差しが、水辺に横たわる戦士の亡骸を静かに照らしていた。