ミラーリング #15-9「戦いの終わり」「撤退、撤退だ!」
兵士たちの悲鳴が飛び交い、壊れかけの戦車が走る耳障りな音が響く。
メイヴは、苦々しげな顔で荒れ果てた野を睨みつけていた。
いまや、形勢はすっかり逆転してしまった。
コノート兵を中心とする連合軍は総崩れとなり、戦場に残っているのは、メイヴが率いるわずかな手勢だけだった。
敗北の色が濃くなったとたん、アリル王は真っ先に逃げていった。
連れ合いの情けなさにメイヴは激しい苛立ちを覚えたが、それでも、となんとか気持ちをなだめようとする。
赤牛ドン・クアルンゲは手に入れた。略奪した他の牛たちと共にすでにコノートに送っているから、取り戻されることはない。
ここが潮時だろう。
メイヴは、残り少ない兵たちに戦車を守られながら、退却の足を早める。
「ギャアッ!」
背後で兵士の悲鳴が聞こえた。はっと振り向くと、そばに付いていた兵の背中に、深々と槍が突き刺さっていた。
驚く間もなく、無数の槍が怒涛の勢いで降ってきた。兵たちが次々と貫かれ、絶叫と共に倒れていく。
飛んできた一本の大ぶりの槍が、戦車の車輪に刺さった。メイヴは、槍の柄に文字が刻まれた石がくくりつけられているのに気づき、目を見張る。
「しまった、魔術石──」
石が光を放つ。次の瞬間、槍が爆発し、戦車の車輪が粉々に吹き飛んだ。
「きゃああっ!」
がくんと大きく戦車が揺れ、メイヴは身体が投げ出されるのを感じた。
「ぐっ!」
地面に叩きつけられ、メイヴはうめき声をあげた。
痛みをこらえ、身体を起こそうとすると、足音が近づいてきた。
メイヴは弾かれたように顔をあげる。逆光に目がくらみ、一瞬まぶたを閉じる。
手をかざして再び目を開ければ、冷たい瞳がひたとこちらを見据えていた。
「よう、メイヴ女王」
「クー・フーリン……!」
メイヴは、ぎり、と歯を噛み締めた。
いまいましい小娘は、片手を腰に当て、地に這いつくばる自分を見下ろしている。
風になびく髪をうるさそうにかきあげ、クー・フーリンは一歩こちらへ近づいた。
「散々アルスターを蹂躙してくれたな、女王? この落とし前、どうつけてもらうか──」
「母上に近づくな!」
メイヴの前に、息子のメインが飛び出してきた。クー・フーリンが眉をひそめる。
メインは剣を構え、敵の女を睨んだ。
「俺が相手だ、クー・フーリン。よくも仲間たちを──」
クー・フーリンはすばやく腰の剣を引き抜いた。刃が白く閃いた瞬間、王子の右腕が宙に舞った。
「ッ!」
パッと飛び散った血がメイヴの顔にかかり、白い頬を汚す。剣を握ったままの腕が、ぼとりと地面に転がった。
「ぎゃ、ああああッ!」
メインはよろめき、腕を押さえて絶叫した。クー・フーリンはくるくると剣を回し、苦悶する王子を冷ややかに見つめる。
「人が話してるときに割り込んでくるたぁ、無粋な野郎だ。──ああ」
クー・フーリンの額に、うっすらと細い青筋が浮かぶ。
「フェルディアとの戦いに水を刺したのも、おまえだったか?」
そのまま、クー・フーリンは勢いよくメインの横顔に蹴りを叩き込んだ。
「ぐあっ!」
王子の身体が吹っ飛び、地面に倒れ込んだ。うめき声をあげ、動かなくなる。
「メイン!」
メイヴは腰を浮かしかけたが、ぴたりと顔の前に切先を突き付けられ、動きを止める。
「さて、メイヴ。おまえを守る者はもういない」
「く……」
怒りで全身が火照るのに、メイヴの額からは冷たい汗が滑り落ちる。
コノート女王の矜持として、断じてこの小娘に降参するわけにはいかなかった。だが、この状況では──。
「そこまでにしておけ、猛犬」
低い男の声が響いた。
「彼女を殺してもらっては困るな。協定がやりづらくなる」
クー・フーリンのまとっていた殺気が消え、表情がぱっと華やいだ。
「王!」
「……!」
コノート女王は息を飲んだ。クー・フーリンが一歩脇へ退く。若者の陰から、端正な顔をした背の高い男が、姿を現した。
「会いたかったぞ、メイヴ」
「コンホヴォル……!」
メイヴの頭がカッと熱くなる。アルスター王は、ゆったりと目を細めた。
「猛犬」
「はい」
そばに寄ってきたクー・フーリンを見て、コンホヴォルは幼子を諭すように言った。
「いくらおまえでも、女王に手をかけるのは感心せんな」
王の言葉に、クー・フーリンは拗ねたように唇をとがらせる。
「オレは女と子どもは殺しませんよ。ちょっと脅しただけです。あなたも知ってるくせに」
「ああ、すまない。そうだったな」
クー・フーリンは膨れっ面をしたが、コンホヴォルが軽く頭をなでると、ほのかに頬を染め、嬉しそうに破顔した。
メイヴは黙ったまま、戦場には似つかわしくないほど和やかなコンホヴォルとクー・フーリンのやりとりを眺めていた。
「さて、彼女はコノートの女王だ。丁重にお見送りする必要がある」
王は振り向いた。
「クー・フーリン。おまえには、メイヴ女王が無事にシャノン川を渡るまでの護衛を命じる。コナルの戦車を使わせてやるといい。向こうにコナルがいるから、呼んでこい」
「でも」
クー・フーリンはちらりとメイヴを見た。コンホヴォルはにこりと笑った。
「もうこの女は無力だ。私は大丈夫だから、行ってこい」
「はあい」
しぶしぶ、といったように、クー・フーリンは仲間のほうへ走っていく。
コンホヴォルは、遠ざかる背中を見送った。メイヴもついつられてクー・フーリンの背を見つめていたが、不意に手を差し出され、ぴくりと肩を跳ねさせた。
「さあ、メイヴ。──どうぞ、お手を」
目の前の手のひらを叩き落としたい衝動にかられたが、メイヴはぐっと唇を引き結び、自分の手を乗せた。自分より一回り大きな手に包まれ、顔をしかめる。
「こんなことになって残念だ」
コンホヴォルはささやくように言った。
「私もよ」
メイヴはつんと胸をそらした。
「まだまだ頂戴しきれていないものがたくさんあるのにね。美しいものは私のもとでこそ輝くのに。宝があなたのもとで腐るだなんて耐えられないわ」
「ひどいことを言う。私に可愛らしく愛を囁いてくれた小鳥はどこに行ったのだ」
「自由な小鳥は羽ばたいて飛んでいったわ。早く離してちょうだい」
メイヴはコンホヴォルの手を振り払おうとしたが、逆に痛いほど強く握り込まれた。
「ちょっと、なにを」
「メイヴ」
ぐっと王の顔が寄せられて、メイヴは表情を歪めた。
「ッ、いい加減に──」
「あれは私の“犬”だ」
「──!」
耳元でささやかれた言葉に、メイヴは目を見開く。
「おまえには渡さない。私のものだ」
強い力で引っぱられて立ち上がるも、ぱっと手を離されて、メイヴの足はよろめいた。呆然と見上げると、コンホヴォルは薄い笑みを浮かべている。
「あなた……」
仄暗い瞳に、かつて自分に背を向けた姿がよみがえって、メイヴはコンホヴォルを睨みつけた。
激情のままに女王は口を開きかけたが、言葉は声になる前に失われた。
「我が王ー!」
コナルを連れて、クー・フーリンが戻ってきたのだ。
「残りの始末は、あの者たちに任せる。協定については、また馬を送ろう」
立ち尽くすメイヴを一瞥し、コンホヴォルはふいと踵を返した。クー・フーリンたちと二言三言、言葉を交わすと、アルスター王は去っていった。
「おい、メイヴ。オレたちがあんたを送り届けるぜ。この戦車に乗りな」
「…………」
メイヴは、じっとクー・フーリンを見つめた。
「なんだよ?」
「クー・フーリン、あなた」
女王は、不思議そうに首を傾げている娘を見つめた。
あれだけ辛酸を舐めさせたのに、苦しめたのに、娘の瞳は信じられないほど透き通ったままだった。
「あなた、やっぱり、私のものにならない?」
「気でも違ったのか?」
何言ってるんだ、とクー・フーリンは呆れ果てた顔をした。
「ここまできてそんなこと言えるの、ある意味大したもんだぜ、メイヴ。いいからさっさと戦車に乗れよ」
「どうしても、あの男の元にいると?」
「くどい。騎士の忠義を安く見るんじゃねぇぞ」
メイヴは、この娘の中で、アルスター王の影が深く根を張っているのを感じた。
「それならいっそ、今ここであなたを殺したほうがいいかしら」
「今のおまえにできるならな」
クー・フーリンは鼻を鳴らした。
「言ったろ。オレは女を殺さないって」
「あなたも女でしょう」
メイヴが戦車に乗り込むと、クー・フーリンは自分の馬に飛び乗った。
「オレにはオレの信条があるからな」
「信条ですって?」
「いくらあんたがオレにブチ殺されて当然だったとしても、今のあんたは男たちに見捨てられた、哀れで無力な女にすぎない」
「!」
メイヴの顔が怒りで紅潮する。
「そんな奴を殺しても、オレにはなんの名誉にもならない」
「おい、しゃべりすぎだ、クー」
コナルの叱責に、クー・フーリンは肩をすくめた。
「……覚えてらっしゃい」
ぼろぼろになった服の裾を握りしめ、メイヴはクー・フーリンを睨みつけた。
「どいつもこいつも。絶対に許さないわ」
「そうかい」
涼しげな顔で、クー・フーリンは答えた。
その後、メイヴは負傷した息子や兵たちとともにコノート国に帰り着いたが、先に退却していたアリル王は出迎えもしなかった。
フェルグスを突き従えたメイヴは夫を罵ったが、いつもは黙っているアリルも、今回ばかりは眉を吊り上げて怒鳴った。
「それもこれも、すべてはおまえのくだらぬ虚栄心が原因だろう」
多くの掠奪品を獲得したとはいえ、戦力を大幅に失い、兵を出した氏族たちからの恨みも抱えることになったアリルは、苛立ちをたぎらせていた。
「コンホヴォル王からは、7年の和平協定の申し出が来ている。私はそれを受けようと思う」
「なんですって?」
メイヴがなおも言い募ろうとするのを、アリルは手で制した。
「いいか。いくらおまえが生まれついての王だとしてもだ。私もこの国の王であることを忘れてもらっては困る」
「私と結婚したから王座につけたくせに、ずいぶんと偉そうだこと」
メイヴのあざけるような声音に、コノート王の瞳に怒りが閃く。
「覚えておけ。おまえの言うことをなんでも聞く奴隷男が、他にいくらいたとしても」
アリルは、メイヴの後ろに控えていたフェルグスに鋭い一瞥を投げかける。
「おまえの夫である王は、名実ともにこの私だけなのだということをな」
「ふん」
女王は、いまいましげに舌打ちをする。
「とにかくだ。アルスターとの和平協定は、王である私と、妻であるおまえの名で結ぶ。いいな?」
「わかったわ」
苦々しげな顔で吐き捨てると、メイヴはフェルグスを連れ、荒々しい足取りでその場から去った。
「おい、メイヴ……」
「今は黙っていてちょうだい、フェルグス」
ぴしゃりと言葉を遮る女王に、フェルグスは嘆息して黙り込んだ。
憤然と歩きながらも、賢い女王は大きく息を吸って、吐く。
──待つのよ、メイヴ。
そう、時を待つのだ。この戦いで、自分に油断や慢心がなかったといえば嘘になる。この屈辱を忘れてはならない。
「アリル……」
今は国力の回復に努め、自らの力をも鍛え直すのだ。
「コンホヴォル……」
そして時が来たら、今度こそ。
「クー・フーリン……!」
支配者の名にかけて、今度こそ屈服させてやる!
アルスターの王都エヴァン・マハでは、祝宴が催されていた。
失ったものは多いが、それでも無事に戦いを乗り越えたことを祝うため、民たちに酒と肉が振る舞われ、楽士たちは高らかに歌を歌った。
クー・フーリンは、コンホヴォル王から直か賞賛の声を賜った。彼女の頭上には人々の称賛と喝采がの声が降り注ぐ。エメルから花輪をかけられたクー・フーリンは、妻の手を握って笑顔を見せた。
「クー!」
可愛らしい声とともに、レンダウィルがぱたぱたと駆け寄ってくる。その後ろから、ロイグ、フェデルマ、コナル、ロイガレも歩いてきた。
「さっきそこで、ドルイドのモランに聞いたんだけど」
フェデルマが楽しそうに笑う。
「バード(青衣の詩人)たちが、あなたを讃える詩を作るそうよ。よかったわね」
「おめでとう、クー」
エメルの言葉に、クー・フーリンはにっこりする。
「おう、ありがと」
若者たちは毛皮の敷物に座り、歓談を楽しんだ。こうして友と心から朗らかな笑顔を交わし、高らかな笑い声を響かせ合うのは、本当に久しぶりだった。
「そういえば、旅の吟遊詩人から聞いたんだが」
コナルが、ふと思い出したように言った。
「赤牛ドン・クアルンゲのことだ。コノートに連れて行かれたあと、白牛フィンヴェナハと戦ったらしい」
「フィンヴェナハって、アリル王の持っていた牛か?」
「ああ」
ワインを一口飲み、コナルはため息を吐いた。
「激しく争って、二頭とも死んだそうだ」
「ええっ!?」
レンダウィルが叫んだ。クー・フーリンとエメルも目を丸くした。
「相打ちか?」
ロイガレの言葉に、コナルは肩をすくめる。
「勝負自体は赤牛が勝ったが、戦いの興奮が冷めやらぬうちに心臓が破れて、そのまま死んだらしい」
「なにそれ」
レンダウィルが口をすぼめて言った。
「強者たちがぶつかったとき、単純な勝ち負けで終わらないのは、よくあることだ」
「虚しいわよ」
「それでも、戦わなければいけないこともある」
「そんなの男の論理じゃない」
レンダウィルはむすっとしてしまう。コナルは困った顔で、不機嫌になった妻をなだめ始めた。
クー・フーリンは黙って杯を弄んでいたが、ふと視線を感じて振り向いた。エメルが自分を見つめている。ハヤブサのような艶やかな目が、心配そうな色を浮かべていた。
目元をやわらげ、クー・フーリンは腕を伸ばすと、妻の細い肩を抱き寄せた。
「そんな顔するな、エメル」
エメルは困ったように身じろぎする。
「いえ。私は、ただ」
「わかってるって。気にすんなよ」
あやすように肩をさすってやると、腕の中でエメルは曖昧に微笑んだ。
視線をめぐらせたクー・フーリンは、ロイグも何か言いたげな顔でこちらを見ていることに気づいた。
「おい、ロイグ! 酒、もっとついでくれ」
「あ、ああ」
おおげさに空の杯を振れば、友は目が覚めたように酒壺を持ち上げた。並々とワインを注いでもらい、礼を言う。
クー・フーリンは、杯の中でたゆたう臙脂色をじっと見つめた。まだ飲み込んでいない酒の苦味が、じわりと舌に広がる気がした。
「ま、こういう結末もあるってこった」
小さな声でつぶやき、クー・フーリンは杯をあおった。