ミラーリング #15-5「目覚めたアルスター軍」 ゆらゆらとたゆたう感覚に、クー・フーリンはぼんやりと目を開けた。
目の前で、透明な黄金の光が遊ぶように揺れている。
ひんやりと全身を包む冷たさに身じろぎしたとき、クー・フーリンは後ろから誰かに支えられていることに気づいた。
「……クー?」
ささやき声に、クー・フーリンは息を飲んだ。
妙に重い身体をなんとか動かし、振り返ろうともがく。光を紡いだような髪が、鼻先をかすめる。
「エメル?」
喉から絞り出した声は、ひどくかすれていた。
「よかった、気がついたのね」
エメルは微笑んだが、その両目には涙が浮かんでいた。
唇を噛み、嗚咽をこらえる妻の顔を、クー・フーリンは声もなく見上げていた。
「エメル……なんで……?」
そこでクー・フーリンは、自分がエメルに抱きかかえられて、川につかっていることに気づいた。
ゆらゆらと揺れていた光は、水面が反射する太陽の光だったのだ。
「ロイグがぼろぼろになったあなたを運んできたの。本当によかったわ、目が覚めて」
「ここは……?」
「フィングラス川よ。私たちの前に、不思議な女性が現れてね。あなたをいくつかの川で水浴させるようにっておっしゃったの。そうすれば、元気になるからって」
「不思議な女性……?」
クー・フーリンの脳裏に、一羽のワタリガラスが浮かぶ。
ふと、自分の身体を見下ろした。薄い衣に包まれた肌には、無数の傷跡が縦横無尽に走っていた。だが、痛みはだいぶ薄らいでいる。
クー・フーリンはため息をつき、身体の力を抜いてエメルにもたれかかった。
戯れに川の水をすくい上げれば、ぱしゃぱしゃと音を立てて水滴がこぼれた。
エメルはしばらく黙ってクー・フーリンの頭をなでていたが、やがて、ためらいがちに口を開いた。
「ロイグから聞いたわ。……あなた、お兄様と戦ったのね」
その瞬間、クー・フーリンの胸を冷たい刃が貫いた。ふわふわとした空気が一気に砕け散る。
まぶたの裏で、青い水底にたゆたう銀髪がよみがえった。
穏やかな白い顔を、流れ出す紅が無慈悲になでていく。
「あ……」
とっさに口を手で覆うが、こみ上げてくるものを抑え切れない。
喉の奥がふさがって、聞き苦しい声が漏れた。両目が燃えるように熱くなる。
「……つらかったわね」
エメルは、そっとクー・フーリンを包み込む。
思わず、クー・フーリンは白い腕にすがりついた。エメルは何も言わず抱きしめ返してくれる。
自分を包む穏やかな温かさに、涙が湧き上がるのを止められない。
クー・フーリンは、顔を覆ってすすり泣いた。
エメルは、ずっと自分を抱いてくれていた。
クー・フーリンとエメルが自分たちの館に戻ると、そこには、フェデルマとレンダウィルが待っていた。
「クー!」
帰ってきた二人を見るやいなや、目にいっぱい涙をためたレンダウィルが、勢いよくクー・フーリンに飛びつこうとした。
「こら、相手は怪我人よ」
フェデルマがぴしりとたしなめると、レンダウィルは慌てて足を止めた。
少し恥ずかしそうにクー・フーリンを見上げると、傷だらけになった友の手を握った。
「よかった。あなたが生きてて」
「……ああ」
クー・フーリンは胸に温かいものが広がるのを感じながら、友に微笑みかけた。そして、歩み寄ってきたもう一人の友に目を移す。
「フェデルマ、それ……」
そこでクー・フーリンは、彼女の腕に分厚い包帯が巻かれていることに気づいた。
「なに、かすり傷よ。私が戦士なら勲章ってところね」
美しいドルイダスは勝ち気に微笑む。クー・フーリンも破顔した。
「ありがとな。おまえのおかげで、時間が稼げたぜ」
「あなたこそ、一人でよく持ちこたえてくれたわ。ありがとう。もう大丈夫よ」
「え?」
クー・フーリンは瞬きをした。レンダウィルが目を輝かせ、興奮した様子で叫んだ。
「いい知らせよ、クー。とうとうマハの呪いが解けたのよ!」
その言葉に、今度こそクー・フーリンは目を丸くした。
慌てて妻を振り返る。エメルは、どこか曖昧な微笑みを見せた。
「コンホヴォル王も、夫のコナルも、赤枝の騎士団たちもみんな立ち上がったのよ!」
レンダウィルははしゃいだ声で続けた。
「王たちはスレモンの丘に向かったわ! これでもう、メイヴ女王なんて目じゃないわ。それもこれも、あなたが戦ってくれたおかげよ、クー! それに、スアルダウ様が命をかけてくれたから――」
「レンダウィル!」
鋭いフェデルマの一喝に、レンダウィルははっとしたように言葉を切った。
だが、クー・フーリンは聞き逃さなかった。
「父さまがなんだって?」
レンダウィルは、しまったという表情を浮かべている。
クー・フーリンは勢いよくエメルの顔を見た。美しい妻の顔が青ざめている。ざらりとした嫌な予感が胸を覆う。
「おい、答えろ。父さまがどうした?」
焦りに突き動かされ、クー・フーリンはレンダウィルの肩を掴んだ。
その力の強さに、レンダウィルが小さく悲鳴をあげる。エメルが慌てて止めに入った。
「クー、落ち着いて! スアルダウ様はね、その――」
「俺が話しますよ、エメル様」
クー・フーリンたちは弾かれたように顔をあげた。
見れば、戸口にはロイグが立っていた。ロイグは主人の顔を見て、わずかに表情をほころばせた。
「元気になったみたいだな。よかった」
「ロイグ。おまえ、今までどこに……」
レンダウィルから手を離し、クー・フーリンはロイグに詰め寄った。とがめるような口調に、青年は肩をすくめてみせる。
「おまえのことをエメル様に頼んだあと、俺は俺で走り回ってたのさ」
エメルは、諫めるようにクー・フーリンの手を掴んだ。
「ロイグは、あなたのために、本当にいろいろ尽くしてくれたのよ」
妻の言葉に、クー・フーリンは我に返った。気まずげに御者を見上げる。ロイグは自嘲的な笑みを浮かべた。
「いいんですよ、エメル様。俺は結局、大して役に立ちゃしなかったんですから。マハの呪いを解いたのだって、俺じゃない」
「そ、そうだ。父さまとマハの呪い、どう関係があるんだ」
ロイグは、真面目な顔でクー・フーリンを見据えた。
「エヴァン・マハに着いたとき、フルヴィデ様から聞いたんだ」
「フルヴィデが?」
クー・フーリンは眉をひそめた。意外な名前だったからだ。
フルヴィデ・フェルヴェン王子は、コンホヴォル王の息子の一人だ。
もっとも、長男のコルマク王子や、幼くして散った末息子のフォラマン王子とは腹違いだ。
将来を期待された一人だったが、実母を喪ってからは人が変わり、ほとんど城の外に出ることがなかった。あのコンホヴォルも手を焼いていたと聞いている。
「おまえをここに連れ帰ったあと、俺はスアルダウ様に会おうと思った。というのも、スアルダウ様が味方を探してくれていると思ったからだ」
ロイグは、淡々とした口調で続けた。
「赤枝の館に着いたとき、庭で戦士たちは戦支度を始めていた。驚いたよ。呪いは完全に解けたんだと思った。俺は召使いを捕まえて、スアルダウ様がいないか聞いた。そこに、フルヴィデ様がやってきたんだ」
ロイグの脳裏に、痩せた王子の落ちくぼんだ暗い目が思い出される。用向きを聞かれて答えると、フルヴィデの瞳の影が増した。
「フルヴィデ様がおっしゃるには、スアルダウ様はずっとおまえの味方を探し続け、戦士たちを叱咤し続けてくれたらしい。王も含めてな」
そこで言葉を切ると、ロイグは深く息を吸い、クー・フーリンの瞳を見つめた。
「けれど、それだけではどうしても女神の呪いは解けない。そこで……スアルダウ様は、『自らの血をもって呪いを祓う』とおっしゃって、首をはねたんだ」
クー・フーリンは息を飲んだ。エメルが自分の腕に触れるのを感じる。
ロイグは続けた。
「スアルダウ様の呼びかけと血の犠牲で、マハの呪いは解けた。男たちは、再び戦えるようになったんだ」
言葉を失った主人の目の前に、ロイグはこぶしを突き出した。
「これは、フルヴィデ様から託されたものだ。残念だが、スアルダウ様の首はもう埋葬されて、これだけ残ったらしい」
開かれた手のひらの上には、一揃いの耳飾りが乗っていた。
クー・フーリンは、黙ったまま耳飾りを見つめた。間違いない。養父のものだ。
まぶたの裏に、弟であるフェルグスとは似ても似つかぬ男の姿が浮かぶ。控えめでおとなしく、戦いが苦手だった男。
ひょっとして、自分は養父のことを見誤っていたのだろうか。
養父は、自分が考えていたよりもずっと、勇猛な人物だったのだろうか。
──だが、今となってはもう、養父と話すことはできない。
クー・フーリンは、ロイグの手から耳飾りを取り上げた。
自分がつけていた耳飾りを外し、養父のそれをつける。白い華奢な耳元で、銀の耳飾りが静かに揺れた。
「アルスターの戦士たちが立ち上がったなら、オレも行かなきゃな」
静かに告げると、クー・フーリンはエメルを振り返り、白い歯を見せた。
「最終決戦だ」
盛り上がる女たちの声を聞きながら、ロイグはそっと柱の陰に控えた。
「父上も、取り巻きのドルイドたちも、どうしようもない馬鹿どもだ」
吐き捨てるようなフルヴィデ王子の言葉を思い出す。
コンホヴォルに何度も訴えかけたスアルダウを、「王の心を煩わせる」としてドルイドや側近たちは痛めつけた。
スアルダウは盾の上に倒れ込み、運悪く、硬い縁に首を打ち付けて絶命した。
だが、結果としてその事故がコンホヴォルの目を覚まさせ、男たちに力を取り戻させるきっかけとなった。
「王も女王も、どいつもこいつも、みんな醜いやつらばかりだ」
フルヴィデは身を震わせると、ロイグの手に血濡れた耳飾りを押しつけ、荒々しく去ってしまった。ロイグは呆然として、王子の痩せた背中を見送るしかなかった。
「おい、ロイグ!」
はっと我に返る。きらきらとした力強い瞳が、自分を覗き込んでいる。
「何ぼーっとしてんだよ? ほら早く、セングレンたちを戦車につないでくれよ!」
「あ、ああ。任せてくれ」
ロイグは笑みを作り、もたれていた柱から身を起こした。
これでいいのだ。語るべきことは、もう語った。
この短期間で、彼女は人の死を見過ぎている。
養父の凄惨な最期など──言う必要はなかった。