Recent Search
    Create an account to bookmark works.
    Sign Up, Sign In

    Haruto9000

    @Haruto9000

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 22

    Haruto9000

    ☆quiet follow

    「クー・フーリンが女性だったら」妄想。
    ※FGO第1部のみの情報で書いていたので、設定ズレなどはご容赦ください。

    【あらすじ】
    アルスター国王・コンホヴォルの妻が死に、新たな妃を迎えることになった。
    ところが、妃候補の娘・ディアドラが、赤枝の騎士・ノイシュとともに姿を消してしまう。
    クー・フーリンは、王から2人の捜索を命じられるが…。

    #女体化
    feminization
    #クー・フーリン
    kooHooLin

    ミラーリング #13(ディアドラの悲劇編)ディアドラの悲劇ディアドラの悲劇
    「じゃあ、行ってくるわね。遅くはならないと思うわ」
    「ああ」
     戸口に立ち、クー・フーリンはエメルと口づけを交わした。
     迎えに来た御者に軽くうなずきかけ、しっかりとマントに身を包んだ妻が出ていくのを見送る。
     エメルは、ときどきこうして貴族の館に出向き、娘たちに刺繍を教える仕事をしていた。
     妻の姿が見えなくなると、クー・フーリンも自分の館に取って返した。
     エメルが用意してくれた昼食の包みと皮の水袋を取り上げると、召使いたちに留守中の指示を飛ばした。万事整えてから、外で待っていたロイグの元へ走っていく。

    「そこまで!」
     朗々とした声とともに、威勢のいい返事が響き渡った。クー・フーリンは満足そうに腕を組む。
     彼女は、いまや幼年組の指導者として、若き戦士の卵たちを育てていた。
     中には少年だけではなく、少女たちもいる。王の許しを得て、少女たちも幼年組に入って鍛錬できるようになったのは、つい最近の話だ。
     クー・フーリンのかけ声で午前中の鍛錬が終わり、休憩となった。
     子どもたちはクー・フーリンにあいさつをしながら、思い思いの場所に散っていく。
     クー・フーリンも昼食をとろうとあたりを見回したとき、一人の少年の姿が目にとまった。おや、と眉をあげる。

    「隣、いいか?」
     クー・フーリンの声に、少年は弾かれたように顔をあげた。
     鍛錬場の隅の木陰に隠れるように座っていたのは、コンホヴォル王の末の息子であるフォラマンだった。
     思いがけぬ客人の登場に、大きな目をまん丸く見開いている。そのあどけない表情に、クー・フーリンは笑みを深めた。
    「あっ、はい。どうぞ」
     フォラマンが慌ててうなずくと、「失礼するぜ」とその横にクー・フーリンはどっかり座った。
     昼食の包みを開きながら何気なく目をやれば、幼い王子はどぎまぎしているようだった。
     先ほどまでぼんやりしていた少年の頰には、うっすらと朱が差している。
    「どうした? 食べないのか?」
    「あ、い、いえっ」
     クー・フーリンが自分のパンにかぶりつくと、フォラマンも慌てたように固く焼いたパンを手にとった。
     だが、数回口を動かしただけで、すぐにその視線は地面に落ちていく。
    「心ここに在らずって感じだな」
     年上の従姉の声に、王子ははっとしたように細い身体を固くし、うつむいた。
    「すみません」
    「別に怒ってるわけじゃねえさ。でも、鍛錬中にぼんやりしてちゃあ、いつ穂先がおまえを貫くかわからんぜ」
     フォラマンは小さくうなずき、また「すみません」とつぶやいた。
     どこか心細げな表情に、クー・フーリンは少年の顔を覗き込んだ。
    「何かあったのか?」
     幼い王子は、迷うように視線をさまよわせた。
     クー・フーリンが急かさずに待っていると、やがて心を決めたのか、ゆっくりと口火を切った。
    「父上のことです」
     クー・フーリンはわずかに眉をひそめた。フォラマンはぽつりぽつりと話し出す。
    「ムギン様や弟のグラスネが亡くなってから、父上は人が変わったようなのです。気難しくなって、フェルグス様以外をおそばにつけなくて。そこに、あの襲撃が重なって」
     フォラマンは、ちらりとクー・フーリンを見上げた。
    「兄上のことはご存知なのでしょう?」
    「……ああ」
     クー・フーリンはうなずいた。
     コンホヴォルの妻は、ムギンだけではない。何人もの妃がおり、それぞれが産んだ子どもがいた。
     その中でも、コンホヴォルの一番のお気に入りが、フォラマンの兄であるクースクリズ王子だった。彼は、次期王の最有力候補だった。
     本来なら、次の王になるのは、長男のコルマク王子なのだろう。
     しかし、彼は次第に父親とそりが合わなくなり、衝突を繰り返すようになっていた。そこで、次男のクースクリズに期待がかけられていたのだ。
     ところが先日、クースクリズがコノート国に出かけた際に襲撃にあい、重症を負った。
     命はとりとめたが、治療したドルイドの話によれば、元どおりの身体になることは難しい、ということだった。
     この事件は、コンホヴォルに打撃を与えた。他にも息子はいたが、三男のフルヴィデは王になるには知恵が足りないし、四男のフェルヴェンは憂鬱症で、ほとんど部屋に引きこもっている。
     そして、末息子であるフォラマンは、賢く勇気がある少年だったが、身体が弱かった。

    「父上はお変わりになられてしまった」
     フォラマンは、自分の手を握りしめた。
     もっとも愛する王妃の裏切り。赤ん坊の死。期待をかけていた王子の負傷。
     度重なる不幸に、いつしか王の横顔には、常に暗い影が落ちるようになった。
    「せめて、僕がもっと……」
     言いかけて、フォラマンはきゅっと唇を引き結んだ。
     クー・フーリンは思わず王子に手を伸ばし、その痩せた背を優しくさすった。
     けなげに父親を想う息子だが、自分は父親から望みをかけられていないことに気づいていた。
     幼い頃から、少しでも激しく身体を動かせば、喘息を起こして倒れてしまう。
     成長するにつれて徐々に強くなってはいたが、それでも、同年代の少年や少女たちと比べれば力が弱く、剣も槍もうまく扱えなかった。
     一国の王となるのに、この虚弱さは致命的だ。それを、この幼い王子はよくわかっていた。
    「おまえは優しいな」
     かけられた言葉に、フォラマンは不思議そうにクー・フーリンを見た。
     やわらかな笑みを浮かべ、光の御子は少年の肩に手を置いた。
    「おまえのその心根は宝だ。今はまだ、王はおまえの価値に気づいてないかもしれないが、いつかおまえの力が必要になるときも来ようさ」
     瞬きをしていた王子の瞳が、ゆっくりと潤む。
    「……そうでしょうか」
    「そうさ」
     クー・フーリンは片目をつぶってみせた。フォラマンは、嬉しそうにはにかんだ。
    「それに、新しい王妃も来たんだろ? きっと、王もまた元気を取り戻すさ」
    「はい。だといいんですが──」
    「あにさま!」
     しめやかな空気を弾き飛ばすような高い声が響いた。
     フォラマンとクー・フーリンが驚いて顔をあげる。見れば、鍛錬着のすそを風になびかせながら、一人の少女がこちらへ向かって走ってきた。
    「クリオナ!」
     王子が叫んだ。クリオナと呼ばれた少女は、フォラマンのそばに座っているクー・フーリンに気づくと、ぱっと顔を輝かせた。
    「あっ、あねさま!」
     クー・フーリンが笑顔になると同時に、クリオナが彼女に飛びつく。
     華奢な身体を受け止めて頭をなでてやると、少女は嬉しそうな笑い声をあげた。その様子を見ながら、フォラマンは苦い顔をした。
    「こら、はしたない真似をするな。それに、鍛錬中は『先生』とお呼びしろと言っただろう」
    「あら。今は休憩中だわ」
     くるりと美しい目を動かし、クリオナはあっさりと言った。「おまえは……」とフォラマンが苦言をもらすと、「構わねえさ」とクー・フーリンは笑った。
    「おまえだって、前はあねさまあねさまー! ってオレのあとをくっついてきただろ」
     クー・フーリンがにやにやと言えば、「む、昔のことです!」とフォラマンは真っ赤になる。
    「いいんだぞ? 今も『あねさま』って呼んでも」
    「結構です!」
    「あにさまったら、素直じゃなーい」
     むきになる兄を見ながら、妹はくすくすと笑った。

     クリオナはフォラマンの妹だ。つまり、コンホヴォルの娘であり、アルスター国の王女である。
     クー・フーリンにとっては従妹にあたり、彼女はクー・フーリンを実の姉のように慕っていた。
     少女たちも幼年組に入れると聞いて、真っ先に手を挙げたのはこの王女だった。
     大人たちのしかめっ面も気にせず、クリオナは大喜びで鍛錬に参加した。そのはしゃぎっぷりに、「クランの猛犬の再来だな」と笑っていたのはフェルグスだ。
     クー・フーリンは、「あの姫さまは筋がいい」とロイグが褒めていたことを思い出した。
     クリオナは、槍や剣は人並みだったものの、馬を御すのが飛び抜けてうまかった。
     彼女の才能に気づいたロイグが、つきっきりで教えるほどだ。「彼女はいい戦車乗りになる」と、ロイグは常々言っていた。
    「で、どうしたんだ、クリオナ」
     クー・フーリンが尋ねると、王女は眉をわずかにひそめた。
    「召使いのルブリンが呼びに来たんです。私とあにさまに、城へお戻りくださいって」
    「僕も? 何かあったのか?」
    「わからないわ。でも、一応戻ったほうがいいと思うの。いいかしら、あねさま?」
    「もちろん」
     クー・フーリンはうなずいた。
    「二人だけで大丈夫か? 送っていくか?」
     クリオナは笑って首を振った。
    「平気よ。私の馬は速いし、従者たちもいるし。さ、あにさま。いきましょ」
    「わかった。それでは先生、失礼します」
    「ああ。気をつけてな」
    「あねさま、またね!」
     鍛錬場から出ていく二人を見送りながら、クー・フーリンはふと空を見上げた。
     朝は真っ青だった空に、うすぼんやりとした雲が広がってきている。
     強くなってきた風に髪をなびかせながら、クー・フーリンはかすかな胸さわぎを感じていた。

     幼年組の鍛錬を終え、自分の館に戻ったクー・フーリンは、庭で武器の手入れをはじめた。
     愛用の槍や剣たちを抱えて研ぎ石のそばに腰を下ろし、一心に磨く。修業先で散々やったから、その手つきは慣れたものだ。
     遠くでは、召使いたちが洗濯物を取りこみ、その足元を鳥たちが歩き回っている。
     磨き終えたものを脇に移し、クー・フーリンは次の槍に手を伸ばした。
     朱色の槍。
     一瞬手を止め、すぐにそれを取り上げる。
     ゲイ・ボルグ。念願叶って手に入れた槍だったが、彼女は滅多にそれを使わなかった。師の言葉を覚えていたからだ。

     ──それは、一度手から放たれれば、確実に敵の心臓を穿つ魔槍だ。

     朱槍を宝物のように抱えた自分に、師はそう言った。

     ──絶対の武器。それゆえに、使う際の対価が重い。よいか、ここぞという時以外は決して使うな。これは、おまえのためでもある。

     師は表情に乏しい人だったので、何を考えていたのかはわからない。
     しかし、こちらを見つめる瞳に何かを感じて、結局クー・フーリンはゲイ・ボルグを実戦で使うことはなかった。
     いつも戦車には積んでいるものの、普段戦うときは別の槍を使っていたのだ。それを不満に思わないではなかったが、師の忠告を無視する気はなかった。
    「さて、と……」
     ゲイ・ボルグの穂先を確かめ、太刀打ちの具合も調べる。特に問題はなさそうだ。使おうと思えば、いつだって使えるだろう。
     手の中で槍を転がしていると、不意にあたりが暗くなり、クー・フーリンは顔を上げた。
     雲が太陽を隠したのだ。昼過ぎから広がりはじめた雲が、いよいよ全天を覆いつくそうとしていた。
     切れ切れに届いていた太陽の光も、いまやすっかり灰色の雲に覆われてしまった。
     雨になるかもしれない。降り出す前に、エメルが帰ってくればいいのだが……。

     そんなことを考えていると、目の端に馬車が止まるのが見えた。きっとエメルだろう。
     迎えにいこうと立ち上がったとき、馬車から降りた妻が、慌てた様子で走ってくるのに気づいた。
    「クー! クー!」
    「姫さん?」
     その表情を見て、じわじわと感じていた胸さわぎがひどくなる。
     クー・フーリンが駆け寄ると、エメルは息を切らせながら、焦ったように妻の顔を見上げた。
    「館で聞いたの……あなたにも早く知らせなきゃと思って……」
    「どうした?」
     荒い息をつきながら、エメルは言った。
    「ノイシュ様が、出奔したって」
    「は!?」
     意味がわからず、クー・フーリンは叫んだ。胸に手を当ててあえいでいるエメルの肩を掴む。
    「どういうことだよ!?」
    「わからないわ。けど、それで城は大混乱って話よ。それも、王の……」
    「王がどうかしたのか?」
    「いや、それが……」
     エメルは、言いにくそうに顔を歪めた。
    「ノイシュ様は、王と結婚するはずだった女性を連れて逃げたらしいわ」
    「……!」
     クー・フーリンは、エメルの肩から手を離した。足元がぐらぐらと揺れているような気がする。
     ぱっと踵を返し、クー・フーリンは厩舎に走った。後ろから「クー!」と叫ぶ声が聞こえたが、振り向かなかった。
     ばたばたと駆け込んできた主人に、馬たちは驚いたように鼻を鳴らした。
     馬具を掴み、馬房のひとつに走り寄る。扉を開ければ、思慮深そうな黒い瞳が、じっとこちらを見つめてきた。
     愛馬のマハと目が合った瞬間、少しだけ頭が冷静になる。
     鼻を押しつけてくる灰馬の首をなでながら、クー・フーリンは「なぜ」を胸の内で繰り返した。
     自分たちの結婚式のとき、竪琴で美しい調べを奏で、甘やかな声で歌ってくれた青年の姿を思い出す。
     なぜ。
     あのノイシュが、なぜ?

     王の広間は騒然としていた。
     クー・フーリンは、座に腰かけている王とフェルグス、それにカドバドを見つけて駆け寄った。
     足音に気づき、フェルグスがこちらを振り返る。
    「おお、クー・フーリンか」
    「叔父貴」
     うなだれていたコンホヴォルが顔をあげた。目の下にはひどい隈ができ、顔色も悪い。
     憔悴した王の姿に、クー・フーリンは胸がざわめくのを感じた。
    「エメルから話を聞いて。ノイシュが、その……」
     口を開くが、言いよどむ。コンホヴォルはクッと自嘲の笑い声を漏らした。
    「ああ、まったく、お笑い種だ。アルスターの王が、こう何度も女を奪われるとはな!」
    「我が王」
     フェルグスがコンホヴォルの肩に手を置いた。
     彼にとっては、王は忠誠を誓う主人であると同時に、また一人の愛すべき甥だった。
    「なんとか探し出してみましょう。信じたくはないが、ノイシュやその弟たちが王を裏切ったとなれば、誅伐もやむを得ません」
    「頼まれてくれるのか、フェルグス」
    「もちろんですとも」
     縋るような王の視線に、偉丈夫はにっこりと笑って胸を叩いた。
    「このフェルグスにお任せあれ」
    「あ、じゃあ叔父貴、オレも……」
     クー・フーリンが言いかけたが、フェルグスはきっぱりと首を振った。
    「お前は来るな。領主の務めがあるだろう」
    「そ、そうだけど。でも叔父貴だって……」
    「俺は平気だ。優秀な息子たちがいるからな。少しくらい国を離れたってどうってことはない」
     大きな笑みを浮かべ、フェルグスは姪の肩を叩いた。
    「大丈夫だ。俺に任せておけ。おまえは、まずおまえ自身のやるべきことをしっかりやらないとな」
     有無を言わせぬ叔父の言葉に、クー・フーリンはうなずくしかなかった。

     結局、フェルグスはノイシュたちを見つけることができなかった。
     詫びる叔父を前にしても、もうコンホヴォルは何も言わなかった。
     窓から外へ目を向ける眼差しは陰り、その瞳は何も映していないように見えた。

     それから、時が流れた。
     ある日、クー・フーリンは王に呼び出された。
     不思議に思いながらエヴァン・マハの城へ向かい、広間へ入っていくと、そこにはコナルやフェルグスも集まっていた。
    「来たか」
     椅子の上で、コンホヴォルが物憂げに言った。
    「我が王」
     クー・フーリンはこうべを垂れ、すばやく周りに目を走らせた。王付きのドルイドと従僕、それに乳兄弟と叔父のほかには誰もいない。
    「集まってもらったのは他でもない。ノイシュのことだ」
     その名前に胸を突かれた気持ちになり、クー・フーリンは慌てて王を見上げた。
     王の顔は逆光で影になり、表情がわからない。
    「ある狩人からの情報でな。海を越えたアルバ島に、ノイシュとその弟たち、そしてディアドラが隠れ住んでいることがわかった」
     ディアドラ! クー・フーリンは身を固くした。コンホヴォルの新しい妃となるはずだった娘の名前だ。
    「それは確かなのですか?」
     フェルグスが声をあげた。コンホヴォルはちらりと叔父を見て、うなずいた。
    「話をもとに、密偵を送って確かめた。顔かたちの特徴から、間違いない」
    「それで、どうするおつもりで?」
     コナルが口を開いた。コンホヴォルは椅子の背に身体を預け、ゆっくりと言った。
    「ノイシュたちをアルスターへ呼びもどそうと思う」
    「彼らを許すとおっしゃるのですか?」
     クー・フーリンの問いに、王はうなずいた。
    「年甲斐のないことをしたと思っている。それに、もともと私がディアドラを娶ろうと思ったのは、国の災厄を避けるためだ。おまえたちも知っておろう?」
     王に見渡され、クー・フーリンたちは小さくうなずいた。
     ディアドラという娘は、まだ赤ん坊だった頃に、「アルスターに災厄をもたらす」という予言を受けていた。
     当時、ドルイドからその予言を聞いたコンホヴォルが、ディアドラをめぐって国同士の戦争が起きないよう、自分が妃に迎えると宣言していたのだ。
     深々とため息をつき、コンホヴォルは言った。
    「とは言っても、直々に私がアルバ島に向かうわけにもいくまい。そこで、おまえたちの誰かに、ノイシュたちを迎えにいってもらいたいのだ」
     クー・フーリンとコナルは、互いの顔を見合わせた。王が言っていることはわからなくはない。
     だがしかし、本当に王は──。
    「参りましょう!」
     剛毅な声が響いた。クー・フーリンはびっくりして、声の主を見た。
     フェルグスが笑みを浮かべ、厚い胸板にこぶしを当てていた。
    「以前、王の前に彼らを連れ帰ってこれなかったことを、ずっと気に病んでおりました。ここはひとつ、その役目をこのフェルグスにお任せくださらんか」
    「叔父貴!?」
     驚いて声をあげた姪に、フェルグスは笑いかけた。
    「アルバは遠いし、その道のりは険しい。ならば、有望な若者たちよりも、年長である俺が行くほうが都合がよかろう」
    「ですが……」
     コナルが口を濁し、ちらりとコンホヴォルを見上げた。
     王は何の表情も浮かべていなかったが、その視線は鋭くフェルグスをとらえていた。
    「頼めるか、フェルグス」
    「もちろんですとも」
     胸を叩き、力強くフェルグスがうなずく。
     コンホヴォルは軽くあごを引き、コナルとクー・フーリンに向かってゆるりと手を振った。
    「おまえたちはもう下がっていい。詳しいことは、フェルグスとだけ話す」
     乳兄妹は視線を交わしたが、王に命じられては仕方がない。
     最敬礼をし、二人は部屋の外へ出た。入口の脇に立っていた衛兵によって、扉はきしんだ音を立てながら閉められた。
    「どう思う?」
     クー・フーリンは、乳兄弟に向かってささやいた。コナルは、難しい顔をしながら腕を組んだ。
    「正直、あの伯父上がそう簡単に自分に恥辱を与えた相手を許すとは思えない。……たとえ、それが身内だとしても」
     コナルの言葉に、クー・フーリンも小さくうなずいた。
    「俺はときどき怖くなる。伯父上が──」
     そこまで言って、コナルははっとしたように言葉を切った。空気を打ち消すようにかぶりを振り、妙にはきはきとした声を出す。
    「いずれにせよ、今の俺たちにできることは何もない。すべてが平穏無事に終わることを祈るしかないな」
    「……うん」
     途方にくれた表情の妹を励ますように、コナルはその肩を抱き、軽く叩いた。
    「そんな顔するな。案外、本当に許す気になったのかもしれん。とにかく今は、フェルグス様の吉報を待とう」
     クー・フーリンは再度うなずいたが、いくらコナルが元気づけてくれても、一度胸の奥に芽生えた不安の影はどうしても消えてくれなかった。

     そして、その不安は的中した。

     クー・フーリンが駆けつけたとき、目の前に広がるのは、燃え上がる真っ赤な業火と焼け落ちた宿舎、地面に折り重なって倒れる赤枝の戦士たち、血だまりの中に立ち尽くすコンホヴォル王、その足元に転がる三人の男、そして、兵士に抑えつけられながら狂ったように叫ぶ若い女だった。

     ──これは、何だ。

     クー・フーリンは、自分が見ているものが信じられなかった。
     ぱっと飛び散る火花が頰をかすめていく。王たちの元へ踏み出そうとしたとき、自分の脇から小さな影が飛び出していくのに気づいた。
    「父上!」
     甲高い声で叫んだのは、フォラマン王子だった。
     末息子は父親の元へ走り寄ろうとしたが、すんでのところで、クー・フーリンは彼を捕まえた。
    「離して、離してよ!」
    「だめだ!」
     腕から逃れようと全力で暴れる王子を抱きとめながら、クー・フーリンは王たちのほうを見た。

     コンホヴォルの足元に倒れていた一人が、よろよろと顔をあげる。その顔を見た瞬間、クー・フーリンは心臓が止まるかと思った。
     それは、彼女の従兄のノイシュだった。
     烏のように美しかった漆黒の髪はぐしゃぐしゃになり、雪のように白かった肌は、赤黒い血に濡れている。
     すると、彼のそばに倒れている二つの骸は、彼の弟であるアーダンとアンリなのだろう。
     エメルをフォルガルから救うとき、手を差し伸べてくれた優しい兄弟。
     クー・フーリンは、身体がこわばるのを感じた。
     ノイシュは咳き込んで血を吐き、王を見上げた。その頰に、ひたと剣の白刃が当てられる。
    「我が王」
     ノイシュがかすれた声でつぶやいた。コンホヴォルはクー・フーリンに背を向けており、その顔が見えない。
    「ノイシュ!」
     女の悲鳴に、クー・フーリンは思わずそちらを見た。兵士の手から逃れようと身をよじりながら、女が髪を振り乱して泣き叫んでいる。
     あれが、ディアドラなのだろう。
     そのとき初めて、クー・フーリンはディアドラを見た。年は、クー・フーリンよりも若く見えた。
     おそらく、とても美しい女なのだろう。だが今、その顔は悲痛に歪み、血と泥にまみれていた。
    「お慈悲を! お願い、その人を殺さないで!」
     ディアドラは必死になって叫んでいた。
    「お願いです、コンホヴォル王! 彼はあなたの甥御なのでしょう!?」
     コンホヴォルは、石のように身動きしなかった。
     だが、やがてノイシュの首元に当てられていた剣が、ゆっくりと下がる。
    「……確かに、我が甥をこの手で殺すのは忍びない」
     王がつぶやいた。ノイシュは目を見開き、ディアドラは驚いたように抵抗をやめる。
    「だが」
     コンホヴォルは剣を握り直し、自分たちを取り巻く兵士たちのほうを振り向いた。
    「我が信頼を裏切った報いは受けねばならん」
     ディアドラが息を飲む。コンホヴォルは腕を広げ、声を張り上げた。
    「誰か、この裏切り者たちの首を討ち取らんとする者はいないか! その者には我が剣と、示した忠誠にふさわしい褒美を与える!」
     ざわりと兵士たちがざわめく。コンホヴォルが雷鳴のような大音声を響かせる。
    「誰か、誰か名乗り出る者はいないか!」
     そのとき、一人の男が前に進み出た。
    「王。その役目、ぜひ私めに」
    「イーガン」
     コンホヴォルは目を細めた。髭を生やした無骨な男を見下ろす。
     イーガンと呼ばれた男はうやうやしく頭を下げ、ぎらぎらとした目つきでノイシュを睨んだ。
    「その若者の父には恨みがあります。アルスター王の親族ゆえ耐えておりましたが、今こそ本懐を遂げるとき。王よ、どうか私に機会を」
    「よかろう」
     王はうなずくと、イーガンに己の剣を渡し、自らは一歩後ろに下がった。
     イーガンは剣を握り直すと、ゆっくりとノイシュに歩み寄る。
     うなりをあげる炎は、復讐心に燃える男の横顔を紅に照らし出した。
    「いや! やめて!」
     ディアドラが半狂乱になって叫ぶ。ノイシュは、近づいてくる死神の姿を声もなく見つめた。呼吸をするたびに、喉からヒュー、ヒューと音がする。
     青年のぼやけた視界に、大きな影がゆっくりと腕を振り上げるのが映った。
    「いやあああ!!」
     ディアドラが叫ぶ。クー・フーリンは、嫌がるフォラマンの顔を無理やり自分の胸に押しつけた。
     男の吼えるような声が轟き、女の悲鳴が響き渡った。
    「ああ……ああ……」
     ディアドラは、がくりと地面に膝をついた。震える腕を伸ばし、愛した男の身体に触れようとする。
     不意に、ディアドラの目の前に影が落ちた。
     顔を上げれば、昏い光を目に宿した王が、あわれな女を見下ろしていた。
    「おまえは私の婚約者だったが」
     恐ろしいほど感情のこもらない声で、コンホヴォルは言った。
     ディアドラは涙を流し、がたがたと震えながら圧制者を見上げていた。
     王は手を伸ばし、ディアドラの腕を掴んで無理やり立たせた。
    「いやっ……!」
     ディアドラの腰を抱き、コンホヴォルは怯える女に顔を近づける。
     端正な顔に恐ろしい形相を浮かべ、王は食いしばった歯の間からうなった。
    「この売女め! おまえのせいで、私の甥が死んだ! 血と嘆きを生む女というのは真実だったな。慈悲などかけず、赤ん坊の頃に殺しておけばよかったわ! おまえさえ、おまえさえいなければ!」
     呆然としていたディアドラの瞳が、怒りに閃く。
    「私は生まれただけ。私は人を愛しただけだわ! ノイシュたちはあなたのせいで死んだの。あなたのせいよ。私たちの幸せも平和も、全部あなたが壊したのよ! 全部全部、あなたのせいよ!!」
     ディアドラは叫んだ。
    「けだもの! 悪魔! あなたは、王なんかじゃない!」
    「!」
     コンホヴォルは顔を歪めた。激昂のままに手を振り上げたが、その手が女を殴る直前にぱっと動きを止める。
     王は大きく息を吸い、押し殺したような声で言った。
    「……そなたは、私が憎かろう」
    「ええ、ええ! あなたも、我が夫を殺したそこの男も、八つ裂きにしてやりたいくらい憎いですわ!」
     涙を流し、イーガンを憎悪の眼差しで睨みつけながら、ディアドラは激しく言った。コンホヴォルはうなずく。
    「安心せよ。もうそなたは、私と結婚する必要はない」
     意味がわからず、ディアドラは思わず王を見つめた。
     王は、血が滴る剣を握ったままの男に向かって、彼女を突き飛ばした。
     女は悲鳴をあげてよろめく。イーガンは、驚いたようにディアドラの身体を受け止めた。
    「イーガン、褒美だ」
    「は?」
     イーガンは驚いたようにコンホヴォルを見て、次に、手の中の女を見た。
     ディアドラも、突然のことに目を見開いて王を見つめる。
    「その女をくれてやる。今は薄汚れているが、元々は見れる顔だ。おまえの好きなように扱うがいい」
    「な……!」
     ディアドラは声を失った。慌てて、自分を抱いているイーガンを見上げる。
     男はいまだに驚愕の目でディアドラを見下ろしていたが、その瞳に好色の色が浮かぶのを見て、ディアドラは悲鳴をあげた。
    「いや、いや!」
    「おい女、暴れるな!」
    「いやよ、離して!」
     必死にもがくディアドラを見ながら、コンホヴォルは声を漏らして笑った。
    「いい顔だ、ディアドラ。今のそなたは、まるで雄羊に挟まれて震える雌羊そのものだな」
    「……!」
     ディアドラは血走った目を見開いた。
    「どうして……どうしてそこまで残酷なことができるのですか!」
     ディアドラはコンホヴォルに向かって叫んだ。血を吐くような叫びだった。美しかった瞳は、激しい憎しみの涙に溺れていた。
     ディアドラはイーガンの手を振り払うと、その手から剣を奪い取った。そして止める間もなく、自分の胸に突き刺した。

     誰も彼もが、身動きひとつ取れなかった。

     女の細い身体が、静かにその場に崩れ落ちた。世界中から、全ての音が消えてしまったようだった。
     クー・フーリンは、すべてを声もなく見つめていた。
     
     やがて、遠ざかっていた風の音と炎の熱が戻ってくる。
     魔術が解けたかのように、人々は無意味なうめき声を漏らした。
     コンホヴォルは、わずかに目を見開いて女を見つめていた。
     だが、まるで何事もなかったかのように女に歩み寄り、その胸から剣を引き抜くと、鞘に収めた。
    「別々に埋蔵しろ」
     そう言って、亡骸に背を向ける。しかし、誰もが凍りついたかのように動かない。
    「早くせぬか!」
     王の怒声に、兵士たちは慌ててノイシュやディアドラの亡骸に駆け寄った。
     それぞれの身体を抱え上げ、できるだけ引き離す。剣や斧を鋤代わりにして、埋葬用の穴を掘ろうとする。
     アルスター王は何も見届けることなく、その場を立ち去ろうとした。
     だが、それは叶わなかった。
    「王……!」
     焦った兵士の叫びに、コンホヴォルは振り返った。その目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
     いったい、いかなる魔術なのか。
     横たわっていたノイシュとディアドラの身体がぼんやり光ったかと思うと、二人の姿はイチイの木に変わった。
     そして、二本の若木からはするすると枝が伸び、互いの枝同士が絡みついて、一本の枝のようにつながった。
    「……!」
     王は、呆然として目の前で起きた光景を見つめた。
     これは、なんだ。愛の神オインガスが、二人を哀れんだとでもいうのだろうか。
     不意に、腹の底からふつふつとした凄まじい怒りが湧いてきた。
    「枝を切れ!」
     コンホヴォルは叫んだ。兵たちが動かないのを見て、再び怒鳴る。
    「聞こえないのか! 枝を切れと言ったのだ!」
     慌てたように、一人の兵士が剣を振り上げてつながった枝を切った。
     しかし、イチイの幹からはたちまち新しい枝が伸び、再びつながってしまう。
     王は、狂ったように何度も枝を切るよう命じた。ところが、何度切っても、二本のイチイはそのたびに新しい枝を伸ばし、一つになってしまう。
     ついに業を煮やした王は、自らの剣を乱暴に抜いた。汚れた抜き身が赤く光る。
     憎悪をたぎらせ、王は自らをあざ笑うかのようなイチイの枝に向かって刃を振り上げた。

    「やめて、父上!」

     油断していたクー・フーリンの腕を振りはらい、フォラマンが飛び出した。
     小さな手を必死に伸ばし、父親のマントにすがりつく。
     だが、コンホヴォルはフォラマンを激しく突き飛ばした。幼い息子は悲鳴をあげ、地面に転がった。
    「フォラマン!」
     クー・フーリンが駆け寄り、急いで王子を抱き起こした。
    「父上……」
     幼い息子の頰は、悲しみと絶望の涙で汚れていた。泣きじゃくりながら、狂気に飲まれた父親の姿を怯えた目で見つめている。
    「……ッ!」
     再度剣を振り上げたコンホヴォルに、クー・フーリンは飛びついた。
    「やめてください、王!」
     王は驚き、邪魔者を振りほどこうとしたが、半神であるクー・フーリンの力には敵わない。
    「もう十分でしょう。やめてください!」
    「離せ! 離さぬか!」
    「伯父上!!」
     コンホヴォルは、びくっとして振り返った。
     見下ろせば、姪が泣きそうな顔で自分を見上げていることに気づく。
    「お願いです、伯父上……」
     王は、驚いたようにクー・フーリンを見つめた。その目に、徐々に光が戻ってくる。
    「あ……」
     剣を握る手が力なく落ちた。クー・フーリンは、王の顔が正気づいたのに気づき、腕の力を緩める。
    「私は……」
     つぶやいたコンホヴォルは、はっと顔を上げた。周囲を見回し、自分を見つめる者たちに気づく。
     恐怖の表情を浮かべている者。泣いている者。信じられないという顔をしている者。
     王は息を飲み、一歩後ずさった。だが、そこでぐっと踏みとどまると、ゆっくりと剣を鞘に収めた。
    「……死んだ者たちを埋葬せよ」
     それだけ言うと、マントを翻し、コンホヴォルはその場から足早に歩き去った。
     クー・フーリンは、言葉もなく王の背中を見つめていた。王が夜の帳に消えても、まるで身体が石になってしまったかのように動けなかった。
     すすり泣きの声が聞こえて、我に返る。
     振り向けば、地面にうずくまったままのフォラマンが、ぽろぽろと涙を流していた。
     クー・フーリンはゆっくりと王子に歩み寄ると、その小さな身体を抱きしめた。
     フォラマンはびくりと震えたが、そのまま従姉の腕にすがりつき、大声をあげて泣きはじめた。

     コンホヴォルは、自室でぼうっと窓の外を見つめていた。
     曇り空からは、灰色の光が差し込んでいる。そのうちに、外から人の声と乱暴な足音が近づいてくるのが聞こえてきた。
    「待って、叔父貴!」
     バン! と音を立てて扉が開いた。
     コンホヴォルがぼんやりと視線を向ければ、怒りの形相を浮かべたフェルグスがどかどかと部屋に入ってきた。そのあとから、慌てた顔の姪も入ってくる。
    「王!」
    「なんだ。騒がしいぞ、フェルグス」
     コンホヴォルが気だるげに応えれば、フェルグスは勢いよく王に詰め寄った。
    「どういうことだ! 宴から帰ってみれば……ノイシュたちが殺されているじゃないか!」
    「…………」
    「おまえは言っただろう、ノイシュたちを迎え入れると!」
    「…………」
    「何とか言え!!」
     ついに、フェルグスがコンホヴォルの胸ぐらを掴んだ。「叔父貴!」とクー・フーリンが叫んだが、フェルグスには一切聞こえていないようだった。
    「一度裏切った者は、何度裏切るかわからん」
     静かな目でフェルグスを見上げながら、コンホヴォルは言った。
    「当然の報いだ」
    「おまえは……!」
     フェルグスの手が震えた。
    「それで、俺の息子たちまでも殺したというのか!」
    「奴らはノイシュ側について、赤枝の騎士団の兵たちを何人も殺した」
     棒読みのような声で王は言った。
    「ならば、危険を排除するのは当然のことだ」
    「……!!」
     勢いよくフェルグスの拳が振り上げられる。
    「だめだ、叔父貴!」
     クー・フーリンは必死でフェルグスの腕にしがみついた。
    「そんなことしたら、叔父貴まで反逆罪で死刑だぞ!」
    「……!」
     ぎり、と歯ぎしりをし、フェルグスはコンホヴォルから乱暴に手を離した。
     コンホヴォルはよろめき、何度も咳き込む。
     フェルグスは己の手のひらを見つめていたが、やがて、ゆっくりとその手を下ろした。
    「……おまえには失望した」
     フェルグスの声に、コンホヴォルの身体が小さく震えた。
    「おまえは、俺以上の王になると信じていた。素晴らしい名君になると。それなのに、おまえは」
    「何が不満だ!!」
     突然、コンホヴォルが叫んだ。その激しさに、フェルグスもクー・フーリンも肩を跳ねさせた。
     コンホヴォルは、ぎらぎらとした目でフェルグスを睨みつける。
    「合議制で争いを減らした! かんがい事業で民たちの生活も潤った! 兵団を作って国を強くした! 妃を娶って世継ぎも作った! 王の務めはちゃんと果たしてるだろう! 何が不満だ!」
     コンホヴォルは堰を切ったようにわめいた。
     クー・フーリンは呆然と王を見つめる。今まで、こんな風に取り乱した王の姿は見たことがなかった。
    「俺はちゃんとやってる。後ろ盾がなくたって、俺一人でアルスターを統治できる。呪いなんかはね除けられるくらいに国を良くして、強くして……」
     フェルグスは黙ったまま甥の姿を見つめていたが、ぽつりとつぶやいた。
    「ここまでだ、コンホヴォル」
     王はうつむき、爪が食い込むくらい強くこぶしを握りしめた。フェルグスは、感情を抑えたような声で言った。
    「俺は、おまえを愛していた」
     コンホヴォルの口元が醜く歪む。
    「あんたが愛してたのは俺じゃない。俺の母上だろ」
    「…………」
     フェルグスは思わず口を開きかけたが、結局何も言わずに唇を引き結んだ。そして、そのまま王に背を向けた。
    「失礼する」
    「あ、叔父貴……」
     クー・フーリンは止めようとしたが、フェルグスの厳しい横顔に気圧され、何も言えなくなってしまった。
     立ちすくむ姪に一瞥もくれず、フェルグスは部屋を出ていった。

     部屋に重い静けさが落ちた。
     コンホヴォルは力が抜けたように寝台に座りこみ、両手で頭を抱えこんだ。
     クー・フーリンは、じくじくと痛む胸を押さえ、王の姿をじっと見つめた。
     幼い頃からずっと見てきた、威風堂々たる王の姿はそこにはなかった。
     ただ一人、何かを打ち砕かれた男がうずくまっていた。
    「──我が王」
     一歩近づき、言葉を声に乗せる。コンホヴォルの肩が見てわかるほど跳ね、虚ろな瞳が、髪の毛の間からのぞいた。
    「……まだいたのか。出ていけ」
     コンホヴォルは、かすれた声で言った。クー・フーリンは首を振り、また一歩王のそばに近寄る。それに気づいた王はぎくりとして、身を引いた。
    「来るな。さっさと出ていけ」
    「いやです」
    「命令だ」
    「聞けません」
    「ッ、貴様……!」
     コンホヴォルはさっと目に怒りをにじませ、無礼者を睨みつけた。その瞬間、魔法にかかったように動けなくなる。
     うっすらと潤んだ、そして、あまりにも真っ直ぐな瞳が、こちらを見つめていた。
     宝石よりもなお透き通ったそれに、王は震え、怯えすら感じた。
     クー・フーリンはすたすたと王に歩み寄ると、自分よりずっと大きな背を包むように抱いた。
    「なっ」
     コンホヴォルは動揺し、慌ててクー・フーリンを引きはがそうとした。
     しかし、この女には神の血が混じっている。生身の人間の力では、どうあっても敵わない。
    「離せ!」
     王は叫んだ。抵抗し、女の腕から逃れようとする。
    「いやです」
     クー・フーリンはきっぱりと言い、ますますコンホヴォルを抱きしめる腕に力を込める。
    「無礼者が! 離せ! ここから出ていけ! 私を一人にしてくれ!」
    「いやです」
     まるで幼子に言い聞かせるように、クー・フーリンは静かに言った。
    「あなたを一人にはしません」
     ぱたりと王の抵抗が止んだ。クー・フーリンは、王の身体がかすかに震えているのを感じた。
    「なぜだ」
     疲れきったような声が、広い背中を通して聞こえてきた。目を閉じて、伝わってくる体温を感じながら、クー・フーリンは言った。
    「オレは、盾だから」
    「…………」
     大きな大きなため息が聞こえた。
    「おまえは、馬鹿者だ」
    「それ、何度も聞きました」
     伯父の身体から力が抜ける。クー・フーリンがそのままじっとしていると、コンホヴォルはぽつり、ぽつりとつぶやいた。
    「みんな私を置いていく。母上も、妹も、妃も、息子も、甥も、そして叔父上も。みんな、みんな」
    「オレは、あなたから離れたりしません」
    「……なぜだ」
    「あなたは、オレの憧れですから」
     コンホヴォルがわずかに身じろぎする。クー・フーリンがそっと腕の力を緩めれば、伯父はゆっくりと振り返った。
     自分を見つめる瞳に、クー・フーリンはふわりと微笑んだ。あの時と同じ色の瞳だ。
     伯父が、死の淵から舞い戻ってきたときの瞳。
     クー・フーリンの脳裏に、かつての記憶が鮮やかによみがえる。

     母から何度も聞かされた、彼女の腹違いの兄の話。
     才能を見出され、華々しい戦歴を持ち、若くして名君となった伯父の話は、幼い少女の胸に憧れを植え付けるには十分だった。
     初めて王都で顔を合わせたとき、彼が目を細めて頭をなでてくれたことが、ひどく嬉しかったのを覚えている。
     だから、伯父たちが敵の侵略を受けて出陣し、誰も戻ってこなかったあの夜。
     幼かったクー・フーリンは、一人で戦場へ出かけたのだ。自分の伯父を探すために。
     いくつもの流星が闇を切り裂く中、かすかに息のある伯父を見つけたときは、心から安堵した。
     うっすらと目が開き、その瞳が自分を映したとき、大きな喜びが身体中を包んだ。
     傷だらけの伯父は、邪魔な死体をどけていくクー・フーリンを見ながら、眉をしかめた。

     ──なんで来た。

     まるで諌めるように、彼は言った。
    「たった一人、死んでいく恐怖を知りたいのか」と。
     
    「そんなの、ちっともこわくないよ」
     確か、そう答えた気がする。にっこり笑って、自分は泥で汚れた手を彼に差し伸べたのだ。
     伯父は目を見開き、かすかに声を震わせた。

     ──ああ。

     その時、伯父がつぶやいた一言が、今の自分を成している。

     ──まさか、この子が。この子こそが。


    「オレは絶対にあなたから離れない。あなたを裏切らない。だってオレは、『アルスターの盾』だから」
     クー・フーリンがにっこり笑いかけると、コンホヴォルの目が揺らいだ。姪から視線をそらし、片手で額を抑える。
    「……だから、嫌だったんだ」
     吐き捨てるように、コンホヴォルは言った。
    「何度言い聞かせてもおまえは聞かない。いくら遠ざけても、おまえは戦場に戻ってくる」
    「それがオレの役割ですから」
    「愚かだ。若い娘はヒラヒラしたドレスでも着て、炉ばたに座っていればいいんだ」
    「いい加減怒りますよ、伯父上?」

     ──いい加減怒るわよ、兄上?

     コンホヴォルは驚いて顔をあげた。目の前に、勝気な表情で微笑む女の姿が映った。
    「……デヒテラ?」
     クー・フーリンは怪訝な顔をした。
     コンホヴォルははっとし、うろたえたように目を泳がせる。クー・フーリンは、さまよう彼の手を握った。
    「伯父上」
     静かな声で呼びかける。コンホヴォルは目を閉じ、ため息をついた。
     クー・フーリンに向き直ると、その頰に触れた。二人は言葉もなく、互いの顔を見つめ合う。
     コンホヴォルがおそるおそる姪を抱き寄せれば、細い身体は抵抗なく腕の中に収まった。神の血を分けた娘だというのに。
    「私の元にいてくれるのか」
     コンホヴォルが、小さな声でつぶやく。
    「ええ」
     クー・フーリンは答える。背中に回る熱い手を感じながら、彼女は目を閉じた。


     暗くなってから帰ってきたクー・フーリンに、エメルは温め直したスープを差し出す。
     クー・フーリンは何かを考え込むかのように、黙ったまま匙を口に運んでいた。
     そんな妻のそばに腰掛け、足にすり寄って来た猟犬をなでながら、エメルはそっとため息をついた。
    「これから、どうなるのかしら」
    「わからない」
     匙を置き、クー・フーリンは天井を見上げた。この短い期間で、あまりにもいろいろなことが起こりすぎた。
     家族や仲間とともに、今までと同じように過ごしていく。
     そんな生活が静かに崩れていく感覚を、彼女は確かに感じていた。
     ピシ、と何かが扉に当たる音がして、二人ははっとそちらのほうを見た。
     立ち上がろうとするエメルを片手で制し、クー・フーリンは腰の剣を抜く。
     足元では、耳をピンと立てた猟犬がうなっている。
     妻に隠れるよう仕草で示すと、クー・フーリンは音もなく壁際に駆け寄った。息を詰めて気配を探り、扉をゆっくりと開ける。
    「!」
     クー・フーリンは、扉に短槍が突き刺さっているのに気づいた。
     すばやくあたりを見回してから、クー・フーリンは短槍を引き抜いた。
    「これは……」
     槍の柄には、オガム文字が刻まれていた。文字に目を走らせたクー・フーリンは、息を飲んだ。短槍を握ったまま、月の下に走り出る。
     館の影に踏み込んだとき、彼女はぴくりと肩を震わせた。暗がりに、一人の男が立っているのに気づいたからだ。
    「叔父貴……」
     つぶやきに応じるかのように、フェルグスがゆっくりと姿を現した。
     彼は口の端に笑みを浮かべてみせたが、それはいつもの豪放磊落なものとは違っていた。
    「クー・フーリン」
     彼女は、急いで叔父の元へ走りよった。フェルグスは親しげにクー・フーリンの肩に手を置き、微笑みかけた。
    「叔父貴、これ……」
     姪が突き出した槍を見て、フェルグスはうなずいた。
    「俺は、もうこの国にはいられん。今日を限りに、アルスターから去る」
     クー・フーリンの瞳が揺らいだ。
    「でも、王にはあんたが必要だ。そうだろ」
     フェルグスは首を振り、静かに、しかしきっぱりとした口調で言った。
    「俺はもう、コンホヴォルのそばにいることはできん。おまえもわかるだろう」
    「それは、わかる、けど──」
    「俺の残った息子たちのほかにも、王を見限った赤枝の戦士たちが何人かついてくる。それに、コルマク王子もだ」
     クー・フーリンは、かすかに目を見開いた。そんな姪の姿を見ながら、フェルグスは言った。
    「おまえは、どうする?」
    「オレ?」
    「一緒に来るなら、歓迎する」
     ぎゅっと唇を噛み、クー・フーリンは静かにかぶりを振った。
    「オレは、アルスターの盾だ。何があっても、それは変わらない」
    「そうか」
     フェルグスはうなずいた。言葉を探すように視線を巡らせるクー・フーリンの姿を、ぼんやりと見つめる。
     あんなに小さかった少女が、ずいぶんと大きくなったものだ。
    「おまえは、俺たちを裏切り者と呼ぶか?」
     ぽつりと、言葉が口を突いて出る。
    「…………」
     肩を震わせ、うつむいてしまったクー・フーリンを見て、フェルグスは苦笑いを浮かべた。
    「すまん。ずるい言い方をしたな」
     手を伸ばすと、フェルグスはクー・フーリンをしっかりと抱きしめた。
    「離れても、おまえは俺の大事な友であり、愛する娘だ」
     クー・フーリンはぎゅっと目をつぶり、フェルグスの背に腕を回した。
     厚い胸板と力強く固い腕は、彼女が子どもの頃から見知っていたものと、なんら変わらない。
     幼い彼女を肩に乗せ、槍と剣を教え、肩を組んでいっしょに笑っていた養父。
     それが、彼だ。
     目頭が熱くなるが、必死に耐える。
     やがて、フェルグスは抱擁をとくと、名残惜しげに姪の顔を見つめた。クー・フーリンも、じっと叔父を見つめ返す。
     瞳を潤ませても、強い光を宿し続ける娘の姿に満足そうに微笑むと、フェルグスは何も言わずに彼女に背を向けた。
     暗がりに消えていく叔父を、クー・フーリンは黙ったまま見送った。
     その姿が視界から消えても、彼女はいつまでもその場に立ち尽くしていた。



    「──なんですって?」
     頬杖をつきながら使者の話を聞いていたメイヴは、片眉をゆっくりと上げた。
    「ですから、あの男は無礼にも、陛下に雄牛をお貸しすることはできない、と……」
     使者のマック・ロスは、今にも主君の機嫌を損ねるのではないかと怯えていた。萎縮する男を前に、女王の真っ赤な唇が弧を描く。
    「そうお。まあ、予想どおりね」
    「は?」
    「ご苦労ね、マック・ロス。これで建前ができたわ」
     メイヴは弄んでいた短鞭をぴしりと手に打ち付けると、豪奢な王座から立ち上がった。
     そばでは、息子のメインと娘のフィンダウィルが、驚いた顔で母親を見上げている。
    「この機にあなたが私の元に来たのは、僥倖というほかないわ、フェルグス。これこそ『運命』というものかしら」
     脇に控えていたフェルグスが、メイヴを見た。不思議そうに見つめてくる男に意味ありげな流し目を送り、メイヴはすっくと背を伸ばす。


    「ひどい風」
     エメルは、真っ暗になった空を見上げた。この季節には似つかわしくない強風が、髪を激しくなびかせる。
    「一雨来るかもな。馬を厩舎に戻してくる」
    「ああ、頼む」
     駆け出すロイグを見送り、クー・フーリンも空を仰いだ。
     ギャアギャアと鳥たちが鳴き叫び、木々がうなり声をあげている。
    「クー?」
     エメルの声に、クー・フーリンはすぐに振り向いて彼女に笑顔を見せる。どこか不安そうな姫の肩を抱き、館の中に入るよううながす。
     扉を閉める前に、クー・フーリンはもう一度だけ外を見る。
     西から広がってきた黒雲が、太陽を覆い隠していく。


     配下の者たちに向かって、コノートの女王は高らかに叫んだ。
    「全土に招集をかけなさい。アルスターに戦を仕掛けます。かの地から、褐色の雄牛〈ドン・クアルンゲ〉を奪いとるのよ!」


     ガシャァン! と音を立てて、酒の杯が床に落ちた。
     床にくずおれたアルスター王に、侍女が悲鳴をあげる。それに連なるように、王の側に控えていた衛兵たちも、次々と倒れていく。あちこちで、女たちの叫ぶ声がこだまする。
    「なに!? 何事なの!?」
     王女クリオナが叫んだ。妹といっしょに王の広間へ走り込んだフォラマン王子は、父のコンホヴォルや賢者カトバドが倒れているのを見て、息を飲んだ。
    「父上! 父上!」
     走り寄り、必死でその身体を揺さぶる。突然のことで、何がなんだかわからない。
    「が、ぁ……ッ!」
     父が苦しげにうめいた。脂汗を浮かべ、全身が小刻みに震えている。
    「ま、さか……」
     食いしばった歯の間から、コンホヴォルがつぶやいた。
    「あの女の、呪い……」
     ごふ、と嫌な咳をして、王が意識を失う。ずしりと重くなった父親の身体を抱え、フォラマンは絶叫した。

     ──トーイン〈牛捕り〉が始まる。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    related works

    recommended works