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    Haruto9000

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    Haruto9000

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    「クー・フーリンが女性だったら」妄想。
    ※FGO第1部のみの情報で書いていたので、設定ズレなどはご容赦ください。

    【あらすじ】
    コノート国の女王メイヴは、赤牛ドン・クアルンゲの強奪を目論み、アルスター国に戦争をしかける。
    ところが、アルスター国の男たちは呪いに倒れ、動けなくなってしまう。
    呪いにかからなかったクー・フーリンは、孤立無援でメイヴ軍との戦いに挑む。

    #女体化
    feminization
    #クー・フーリン
    kooHooLin

    ミラーリング #14(牛捕り編:前編)ドルイダスの予言出立メイン王子の憂鬱四枝の浅瀬休戦交渉浅瀬の一騎打ち王女フィンダウィル奪われた赤牛戦女神モルガン最後通告ドルイダスの予言「開けて! クー、クー!」
     ロイグが扉を開くと、髪を振り乱したレンダウィルが広間に駆け込んできた。右手には短槍が握られている。
     奥の座に座っていたクー・フーリンは、差し出された槍を受け取った。
     そばにいたエメルとフェデルマもいっしょに覗き込む。槍の柄には、オガム文字が荒々しく彫り込まれていた。
    「レンダウィル、これは?」
    「コナルの元に届いたの。でも、あの人は『マハの呪い』で動けないから、あなたに届けるようにって、私に」
     クー・フーリンは、鋭い目つきですばやく文字を読み取った。
    「コノート主導のアイルランド連合軍が、赤牛を狙ってアルスターに攻めてくる」
    「なんですって?」
     エメルが叫んだ。レンダウィルは青ざめた顔で震え、フェデルマはきつく眦を上げた。
    「どういうことなの?」
    「クアルンゲ領主のダーラ・マック・フィアハナが持っている名牛。そいつを、あのメイヴ女王が欲しがってるらしい」
    「ダーラ様の? そんなにすごい牛なの?」
    「ああ。王の巡幸についていったときに見たことがある。背中に子どもが何人も乗れそうなくらい、でっかい牛だ。『これこそアイルランドで最高の雄牛だ』ってダーラが自慢してたのをよく覚えてるぜ」
    「でも、どうしてコノート国がその牛を?」
    「さあな」
     槍を持ったまま、クー・フーリンは肩をすくめた。
    「おおかた、メイヴのわがままだろ。あの女王、この世の全てが自分のものだって思ってるような女だったからな」
     英雄争いのときに謁見した女王の姿を思い出しながら、クー・フーリンは眉をひそめた。
    「その雄牛を差し出すことで、戦いを回避できないの……?」
     フィンダウィルがおずおずと言った。
    「差し出す? 冗談だろ」
     クー・フーリンは、何を言っているんだという顔で鼻を鳴らした。
    「オレたちにとって牛がどれだけ大事か、おまえだってわかってんだろ。牛は国の宝。オレたちにとって、富そのものだ。戦いもしないで、おとなしく牛をメイヴに献上しましたなんて知れたら、それこそアルスターの権威は失墜。周りの国や賊どもの餌食だぜ」
    「…………」
     黙ってしまったレンダウィルの肩を、エメルがそっと支えた。
    「それに」
     クー・フーリンは続けた。
    「あのメイヴのことだ。赤牛だけ手に入れてハイさようなら、とはいくまいよ。アルスターの牛を根こそぎ強奪していくに決まってる」
    「そんな……」
     いまや涙声になった友の声を聞きながら、クー・フーリンは手の中で槍を転がした。
     状況は絶望的だ。
     今、アルスター全土を「マハの呪い」が覆っていた。
     マハは、かつてこの島を支配していた神族の女だ。
     クー・フーリンたちが生まれる前のこと、彼女は臨月にも関わらず、王の命令で馬と競争させられた。
     力尽きたマハは、死に際にこの国を恨み、呪いをかけた。

    〈他国の侵略を受けるとき、アルスターの男たちは、我が身が味わった苦しみと同じ苦痛を味わう〉
     
     しばらく平和が続いていたから、誰もが呪いのことなど忘れていたが、その陰でマハの怨念は連綿と息づいていたのだ。
     いまや、男たちは全員呪いに伏せ、動けるのは女と子ども、それに外国から来た人間だけだった。
     今コノート国に襲われたら、アルスター国はひとたまりもない。
    「オレが止める」
     クー・フーリンの言葉に、エメルはぎゅっと両手を握りしめた。
    「男たちが動けなくても、オレが敵を食い止めてみせる」
    「でも、クー!」
     レンダウィルは、おろおろとエメルを見上げた。
     だが、クー・フーリンの妻である友は、唇を引き結んだまま何も言わない。
     レンダウィルは腕を振り回しながら、必死になって主張した。
    「そりゃあ、あなたが強いことはわかってるわよ! でも、相手は連合軍なのよ? あなた一人で戦ったところで絶対すり抜けてくるし、そいつらは邪魔なアルスターの人たちを殺すわよ!」
     痛いところを突かれて、クー・フーリンは顔をしかめた。
    「ただでさえ男たちは動けないんだから、敵がやってきても反撃できないわ。国境付近の人たちなんか、真っ先に殺されちゃうわよ!」
     まくしたてるレンダウィルの言葉に、エメルも頰に手を当てた。
    「そうね。せめて、王都にまで人々を避難させられれば……」
    「時間との勝負、か。オレなら一日くらいは稼げると思う。でも、それ以上となると……」
     不意に、それまで黙っていたフェデルマが口を開いた。
    「私が行くわ」
    「えっ!?」
     驚く友たちを見ながら、フェデルマはきっぱりと言った。
    「私がメイヴたちを足止めして、時間を稼ぐわ。その間に、あなたたちは全土に警告を出して、人々を安全なところへ逃がしてちょうだい」
    「何言ってるの!?」
     レンダウィルが大声で叫んだ。
    「クーでも無理なのに、あなたが連合軍に敵うわけないじゃない!」
    「そうよ! あなたは戦士じゃないんだから」
     エメルもこわばった表情で言った。
    「確かに、敵を撤退させることは私には無理ね。でも、侵攻を遅らせることはできるわ」
    「無茶よ!」
     レンダウィルはいまや泣き出しそうな顔で言った。
    「相手はあの女王メイヴよ? あなたなんか、すぐ蟻みたいに踏み潰されちゃうわ!」
    「あら、私を誰だと思ってるの?」
     フェデルマは、その勝気な瞳をきらりと光らせた。レンダウィルの肩に手を乗せ、にっこりと微笑む。
    「この世でもっとも偉大なドルイド、カトバド様。その一番弟子であるドルイダスとは、私のことよ」
     シャラ、と杖の飾りが音を立てて揺れた。
     青い長衣に身を包んだフェデルマは、今一度、彼女を見つめる友たちに向かい合った。
     一人一人に目を注ぎ、最後に、クー・フーリンの顔をじっと見つめる。 
    「頼むぞ、フェデルマ」
    「ええ」
     ドルイダスはうなずいた。脳裏には、この慌ただしい数時間がよみがえる。

    「やれるのか」
     沈黙を破ったのは、クー・フーリンの低い声だった。
    「ええ」
     フェデルマは、力強く首肯する。 
    「私の力は、カトバド様には敵わない。でも、メイヴ女王たちを惑わせることならできるわよ」
    「よし」
     クー・フーリンはうなずいた。その瞳に、静かに戦意の炎が灯る。
    「でも……」 
     レンダウィルの声をさえぎり、クー・フーリンは呼びかけた。
    「エメル」
    「はい」
     エメルは背筋を伸ばした。妻の声音が戦士のそれに変わったのに気づき、顔に緊張を走らせる。
    「すぐに戦える女たちを招集してくれ。王都を守る戦力を整えたい」
    「わかったわ」
     エメルはうなずいた。妻が育ててきた女の戦士団。まさか、ここで実戦の機会を得ようとは。
    「それから、もっと詳しい敵の動きを探りたい。斥候の指示出しは」
     クー・フーリンは、じっとレンダウィルを見つめた。
    「できるか?」
     レンダウィルは、震えるこぶしをぎゅっと固めた。ぐいと潤んだ両目をぬぐい、大きくうなずく。
    「やるわ」
     きっぱりとした物言いに、クー・フーリンはわずかに口を緩めた。
    「オレはオレで時間を稼ぐ策を考える。ロイグ!」
    「おっと、忘れ去られたのかと思ったぜ」
     壁際に控えていたロイグが軽口を叩いた。クー・フーリンはにやりと笑う。
     レンスターの生まれである彼は、マハの呪いの影響を受けていない男の一人だった。
    「全土に避難警告を出す。早馬を見繕ってくれ。あとは、足の速い女と少年兵を集めてほしい」
    「わかった。任せな」
     ロイグが答える。クー・フーリンは満足そうにうなずくと、立ち上がった。
    「さあ、やるぞ。欲張りな女王サマから、この国の宝を守ろうじゃねえか!」 

     ──この子は、ずいぶんと勇ましくなった。
     フェデルマは、クー・フーリンの姿を眺めた。
     精悍な顔つき。凛とした眼差し。鍛え上げられた体躯。
     目の前にいるのは、一人の「戦士」だった。
     自分が知っている少女の面影は、もうなかった。記憶にある彼女は、無邪気で無鉄砲でいたずら好きな、ただの女の子だったのに。
     フェデルマは一度目を閉じ、息を吐いた。
     再び瞼を開けたドルイダスは、戦士に向かって両手を伸ばした。
    「さあ、祝福を」
     クー・フーリンがひざまずいて目を閉じると、フェデルマは杖を構え、口を開いた。
    「神の落とし子。光の御子。アルスターの盾となる娘よ。──その頭上に、英雄と勝利の光が輝かんことを」
     おごそかに言祝ぎ、戦士の前髪をやわらかくかきあげると、額に口づけを落とす。
     頰をそっとなでれば、クー・フーリンが目を開いた。フェデルマは、じっと友の瞳を見つめた。
     誰がなんと言おうと、この国の命運が、目の前の娘にかかっていることは明白だった。
     自分たちでは、たとえ敵を押しとどめられても、追い返すまでの力はないことを、フェデルマはよくわかっていた。
     幼い頃から知っている彼女に、重い責務を負わせなければならないことが悔しかった。
     ドルイダスは戦士の肩に手を乗せ、力強く言った。
    「しっかりね」
    「ああ。おまえも」
     フェデルマはうなずき、そばに控えていたエメルとレンダウィルに顔を向けた。
    「あなたたちも。しっかりクーを支えなさい。みんなでこの国を守るのよ」
    「ええ」
    「もちろんよ」
     二人はうなずいた。フェデルマはもう一度クー・フーリンを見つめると、さっと身を翻し、馬にまたがった。
    「はっ!」
     高らかな一声とともに、馬が走り出す。皆が見守る中、ドルイダスを乗せた馬は土ぼこりをあげながら、あっという間に見えなくなった。


    「だから、全員抹殺だって言ってるでしょう!?」
    「いや、しかしだな。ガレーイン族は優秀な戦士団であって──」
    「そんなことはわかってます。だから問題なのよ! あの蛮族ども、味方をするような顔をしておいて、こちらの手柄を丸ごと奪おうって腹に違いないんだから!」
     女王メイヴとアリル王が言い争っている横で、フェルグスは渋い顔をしていた。
     王と女王の宝くらべから始まった、この牛捕り。
     アリルが持つ白牛フィンヴェナハに匹敵する雄牛をメイヴが持っていなかったために、彼女はアルスター国の赤牛ドン・クアルンゲを手に入れることに決めたのだ。
     だが、何千もの屈強な兵を集めても、こんな風に内輪でもめているのでは前途多難だ。フェルグスは、内心でやれやれとため息をついた。
    「フェルグス様」
     低い声に呼ばれて振り向く。そこには、元赤枝の騎士であり、自分の部下でもある青年が立っていた。
    「フィアハ」
     フェルグスは、うつむき加減の青年に向き直った。
    「〈投げ槍〉は届いたか?」
    「はい。問題なく」
    「そうか。よくやった」
     フェルグスはうなずき、フィアハを下がらせようとした。だが、何か言いたそうな青年の顔に、軽く首を傾げる。
    「なんだ?」
    「いえ、その」
    「構わん。言ってみろ」
     フィアハはためらうそぶりを見せたが、やがて、思い切ったようにフェルグスを見上げた。
    「俺にはわかりません。俺たちはあの国を捨てた身です。なのに、なぜこんなことを」
     フェルグスは口元を緩めた。
    「まあな。だが、俺にとっては、一時は王として治めていた国でもある。なんだかんだで、そう簡単に見捨てられるものではないさ」
    「ですが」
    「ああ、みなまで言うな。おまえの気持ちも、もちろんわかる」
     筋を通そうとする青年の物言いは好ましかった。フェルグスは笑みを浮かべたまま、薄青い空を見上げた。
    「だが、あの国には、残してきた者たちもいる。かつて志を分かち合った者たちが、ただ死んでいくのを傍観できなかった、俺の弱さだと思ってくれ」
     フィアハは口を開きかけたが、結局、何も言わなかった。

    ***

     女王メイヴは戦車に揺られながら、考えにふけっていた。
     出立する前に、戦の運勢を占わせたドルイドの言葉が頭に引っかかっていたのだ。

     ──戻る者と戻らない者、両方いる。だが、女王は必ずこの地に戻られる。

     当たり前だろう、と思う。これは戦だ。
     戻る者と戻らない者、つまり、生きて帰る者と死ぬ者が出るのは明らかな話だ。
     男たちを招集した以上、命令者である自分も出陣するのは当然のこと。
     そして、自分は強い。
     必ずや牛捕りを成功させ、凱旋することを、彼女はつゆほども疑っていなかった。
     しかし、もっと詳しいことを語らせようと詰め寄っても、老いたドルイドはそれ以上のことは何も言おうとしなかった。
     あの役立たずの老いぼれめ。国に戻った暁には、首を切ってやろうかしら。
     そんなことを考えていると、不意に戦車ががくんと止まった。
    「きゃっ!?」
     思わず前につんのめり、メイヴは物思いから覚めた。
    「ちょっと、御者! 何を……」
     怒りの声をあげたとき、女王は異変に気づいた。
     まだ日中だというのに、あたりに白い霧が立ち込めている。他の兵士たちも、不安そうにざわめいている。
    「メ、メイヴ様。あれを」
     御者の声に、メイヴは戦車から身を乗り出した。
     目をこらすと、霧の中に人影が浮かび上がってくるのがわかった。
     人影はどんどんこちらに近づいてくる。メイヴは黙ったまま、腰から自分の剣を抜いた。
     濃い霧の中から現れたのは、長い衣に身を包んだ女だった。フードを深くかぶり、特徴的な杖を持っている。
    「……ドルイダス?」
     メイヴはつぶやいた。その声に反応したのか、女がゆっくりと顔をあげる。
     青白く、美しい顔立ちをしていたが、その瞳はまるで石のように感情がなかった。ブルル、と馬が怖気付いたような声を漏らす。
     メイヴはすっくと立ち上がり、女に向かって剣を突きつけた。
    「我が軍勢の前途をふさぐ、おまえは何者? 名を名乗りなさい」
     女はじっとメイヴの顔を見つめていたが、やがて深々と頭を下げ、歌うような声で言った。
    「決まった名はございませぬ。〈流れゆく者〉、〈神の丘から来たりし者〉、そして〈先を視る者〉でございます」
    「へえ……?」
     興味を引かれ、メイヴは少しだけ剣を下げた。
    「先を視る者……ということは、おまえは予知ができるというの?」
    「さようにございます」
     女は、再び頭を下げた。その神秘的な物腰と声には、不思議と引き込まれるものがあった。
     メイヴはつい好奇心に負けて、ドルイダスに声をかけた。
    「そう。それなら、おまえは私たちの遠征の結果がわかるかしら? 見てのとおり、私たちはこれから戦に出向くの」
    「遠征の結果、でございますか」
    「そうよ。さあ、何が視えて? 教えてちょうだいな」
    「かしこまりました」
     ドルイダスは目を閉じると、おもむろに杖でトンと地面を打った。シャラリ、と銀の飾りが揺れる。
     その瞬間、杖の先端がぼんやりと光り始めた。
     ドルイダスは、絵を描くように杖を動かす。
     光は線となり、模様らしきものが地面に浮かび上がったかと思うと、火の粉のようにぱっと弾けて消えた。
     メイヴは、息を飲んでその光景を見つめた。やがて、ドルイダスはゆっくりと目を開けた。
    「赤」
     女はつぶやいた。
    「あなた様の行く手には、濃い赤が視えます」
    「なんですって?」
     女王は驚いた声をあげた。
    「変なことを言うわね。そりゃあ、これは戦争なんだから、血は流れるでしょう。そういうことじゃないのよ、私が知りたいのは。私たちが勝つかどうか。それが知りたいの!」
     いきり立つ女王の声にも動じず、ドルイダスは淡々と続けた。
    「真紅があなた様の軍勢を覆う。ある一人の戦士によって、数千の軍勢が血に染まる」
     メイヴは顔をしかめた。右手の剣を握り直す。
     好奇心に負けて、どこの馬の骨とも知れない女に声をかけたことを後悔し始めていた。
    「誰なの? その戦士とやらは」
     あのコンホヴォルのわけはない。アルスターに放った密偵の報告で、男たちがマハの呪いに倒れていることを、メイヴはすでに知っていた。
     それに、あのコンホヴォルに匹敵する勇士がそうそういるわけもない。フェルグスは離反し、こちらの軍に加わっているのだから。
    「真紅のマントをはおり、真紅の槍を握り、真紅の雨を降らせる者」
     ドルイダスの女は、冷え冷えとした瞳をきらりと光らせた。
    「鍛冶屋の番犬。気高きスアルダウの子。七つの光を左右の瞳に宿す娘。その名こそ、ムルテムニーの平原に名を轟かせし者、クー・フーリン」
    「クー・フーリンですって!?」
     メイヴの目に怒りの炎が燃え上がった。脳裏に一人の少女の姿がよみがえる。
     ──私の差し出した手をはねつけた、あの生意気な小娘!!
    「戦場を駆ける乙女の姿は、戦女神モルガンさながら。英雄光の発するままに、女王の軍を赤に染める。ああ、濃い赤が視えます。どこまでも広がる、濃い赤が」
    「おだまり!」
     メイヴは戦車から飛び降り、勢いよく剣を振り上げた。
     うなりを上げた刃がドルイダスをとらえたと思った瞬間、女の姿は煙のように消えた。
    「なっ」
     メイヴは驚いてあたりを見回した。だが、ドルイダスの姿はどこにもなかった。
    〈猛犬に気をつけられよ、コノートの女王〉
     低い女の声が響き渡る。メイヴは急いであちこちに目を向けたが、ドルイダスの影も形もない。
     不意に、あたりの霧が赤黒く染まり、メイヴたちを包み込んだ。
     轟々と風が吹き荒れ、雷鳴が響き渡り、兵士たちがどよめき声をあげる。
    〈猛犬はすでに放たれた。その爪は千の兵士の身体を引き裂き、その牙は千の兵士の首を食いちぎる。逃げよ、逃げよ。猛犬は、地の果てまでもそなたたちを追いかけるぞ。一度その目にとらえられたが最期、その命は猛犬のもの〉
    「黙れ、黙りなさい!!」
     メイヴは叫んだ。これ以上、いまいましい言葉を聞き続けるわけにはいかなかった。
    〈さあ、逃げよ、逃げよ。猛犬の目にとらえられぬうちに……〉
     メイヴがはっと顔をあげると、目の前には黒く巨大な獣が立ちふさがっていた。
     その体は戦車よりもはるかに大きく、狼のような姿をしている。両眼は爛々と赤く光り、獰猛なうなり声をあげている。
    「くっ!」
     メイヴが剣を構えた瞬間、獣は一声吠えると、こちらへ向かって飛びかかってきた。
    「メイヴ様!!」
     誰かが叫ぶ声が聞こえる。黒い獣ががばりと口を開く。
     鋭く尖った牙が見える。メイヴは咆哮し、剣を振り上げた。
     女の高笑いが響き渡る。笑い声は尾を引き、あたり一面に反響した。
     悪夢のような哄笑は、永遠に続くかのように思われた。

     メイヴが気づいたときには、彼女は丘の小道に立っていた。
     霧も獣の姿も、嘘のように消え去っている。振り返れば、兵士たちは変わらずそこにいた。
     メイヴはかすかに震える唇を噛み締め、剣を鞘に戻すと、自分の戦車に取って返した。
    「時間を無駄にしたわ。さあ、出発しましょう」
     女王は何事もなかったかのように言ったが、御者の顔は青ざめていた。
    「なあ、メイヴ」
     横から降ってきた夫の声に、メイヴは目線だけそちらに向ける。
    「その、今のは」
    「くだらない幻よ」
     メイヴは切って捨てた。だが、アリルは珍しく引き下がらなかった。
    「幻にしても、なんとも不吉だ。その、クー・フーリン、だったか。そやつの動きについて詳しいことがわかるまで、様子を見てもいいんじゃないか?」
    「馬鹿なこと言わないで!」
     メイヴはかっとなって怒鳴った。
     まったく、この人ときたら! 私の夫でありながら、なんという気弱さだろう!
    「ただでさえ進みが悪いのに、これ以上うかうかしてたら、それこそ相手の思うつぼよ。たかが一人の小娘相手に、私たちが負けるわけがないでしょう?」
    「だが、兵士たちはそうは思っていない」
     アリルの言葉に、メイヴは後ろを振り返った。
     認めたくはないが、夫の言葉は本当だった。
     あのドルイダスの予言は、兵士たちの士気に大きな影響を及ぼしていた。
     屈強なはずの男たちは青白い顔をして、互いに不安げな目線を交わしている。
    「おまえの言うとおり、戦力は圧倒的に我々がまさっているんだ。少しくらい様子を見ても悪くなかろう。時間が経てば、また彼らの士気も戻るだろうよ」
     女王は舌打ちをした。
     だが、この状況では、アリルの言葉に従ったほうがよさそうだ。
    「わかったわよ。どうせ私たちが勝つことは決まっているんだから。……まったく、これだけ男がいながら、情けないこと。私にふさわしい勇士は、ここにはいないのかしら?」

     連合軍たちが荷を下ろし、野営の準備を始めるのを木陰で見ながら、フェデルマは笑いを噛み殺した。
     その瞬間、腕に鋭い痛みが走り、小さなうめき声をもらす。
     抑えていた腕から手を離せば、赤黒い血がべっとりとついていた。
     怒りのままにメイヴが向けてきた剣の切っ先は、彼女の腕を切り裂いていた。命に別状はないだろうが、この傷では、剣も槍も握れない。
     ドルイダスは空を見上げた。だが、森の木々は頭上を覆い、枝葉の隙間からは何も見通せない。
     フェデルマはため息をつき、小さな声でつぶやいた。
    「あとは頼んだわよ、クー」
    出立 クー・フーリンが部屋に入ると、二つの顔がぱっと振り向くのがわかった。
    「あねさま!」
     王女のクリオナが、泣きそうな顔で駆け寄ってくる。
     腰にしがみつく少女を抱きとめ、クー・フーリンは寝台のそばに座る少年に目をやった。
    「先生……」
    「フォラマン。王の具合は?」
     王子は、力なくかぶりを振る。「そうか」とうなずき、クー・フーリンはクリオナと共に寝台に歩み寄った。
     豪奢な寝台の上には、青ざめてか細い呼吸をする男が横たわっていた。
    「我が王」
     呼びかけると、震えるまぶたがうっすらと開く。
    「クー……?」
     しゃがれ声でつぶやいた瞬間、コンホヴォルは身体を丸めてうめいた。
    「父上!」とフォラマンが叫ぶ。
     クー・フーリンはそっと手を伸ばし、王のひたいに浮かんだ汗をぬぐった。
     そのまま王の腹に手を当て、ゆっくりとさすってやる。男のうめきが少しだけ小さくなった。
     コンホヴォルは目を開き、クー・フーリンを見つめた。
     色褪せた唇がかすかに動く。クー・フーリンは、身を屈めて王の口元に耳を寄せた。
    「ァ、……スター、を……」
     苦しげな息づかいの中、コンホヴォルは必死で言葉を紡ごうとした。
    「この国を、頼む」
     クー・フーリンはコンホヴォルの手を握ると、その髪をひとなでし、微笑んだ。
    「アルスターの盾にお任せあれ。一人でも、オレはこの国を守りますよ」
     王の目元に微笑の影が走った。ふしくれだった手を優しくさすりながら、クー・フーリンはささやいた。
    「産褥から女は立ち上がるもの。あなたも、早く呪いを解いてください」
     コンホヴォルはうなずいた。幼子にするように王の体に毛布をかけ直すと、クー・フーリンは身体を起こす。
    「先生」
    「あねさま」
     幼い王子と王女は、不安そうな顔で従姉を見上げた。
     クー・フーリンは腕を広げ、二人を抱きしめてやった。
    「さあさあ、そんな顔しなさんな。大丈夫。神の力を受け継いでるオレが、敵なんかみんなやっつけてやるからな」
    「うん……」
     上着の裾を握ってくる小さな手を感じ、クー・フーリンは笑顔を作ると、フォラマンとクリオナの頭をがしがしとなでた。
    「王と城を守るのはおまえたちの役目だ。オレが帰ってくるまで、よろしく頼むぞ」
    「任せて、あねさま!」
    「はい。この命に代えても!」
     勇ましくうなずく二人に、クー・フーリンは微笑んだ。
     やっぱり、この子たちはこの人の子どもなのだ。
     ──オレが憧れた戦士の子どもだ。
     二人を放すと、マントを翻し、クー・フーリンは扉に向かって歩いていった。
     オレ一人でもやるんだ。
     やるしかない。
     だってオレは、きっとこのために生まれたんだから。

     石畳の廊下を歩いていく。空気はキンと冷え、頰をなですさっていく。
     さて、呪いが解けるまで、どうやって敵を食い止めようか、とクー・フーリンは思案した。
     斥候に出した侍女の報告から、敵のおおよその位置はわかる。フェデルマは、足止めをよくやってくれたようだ。
     でも、もっと時間が欲しい。
     直接ぶつかるのは、できるだけ先延ばしにしたい。そのためには──。
     そのときだ。クー・フーリンは、目の前に誰かが立っていることに気づいた。
     一瞬、逆光でよく姿が見えなかったが、耳に届いた声はよく聞き知ったものだった。
    「とうとう、行くのか」
     その耳元で、耳飾りが鈍く光る。クー・フーリンは、驚きを隠しきれなかった。
    「父さま……」
     育ての父であるスアルダウが、そこに立っていた。


    「ど、どうしてここに? 呪いは?」
     クー・フーリンは、慌てて養父に駆け寄った。
    〈マハの呪い〉は、アルスターの男であれば必ずかかるはずだ。それは、スアルダウも例外ではないはずだった。
    「私にもよくわからない。だが、夢のようなものを見たんだ」
    「夢のようなもの?」
    「ああ。『夢』と言い切るには、実感が伴いすぎていてな」
     スアルダウは、物憂げな表情で義理の娘を見つめた。
     彼はフェルグスの兄だが、弟とはあまり似ていない。
     フェルグスは豪胆で勇ましく突き進む性格だが、スアルダウはどこか一歩引いたところのある男だった。
    「昨日の夜、臥せっていた私の枕元に、誰かの気配を感じた。夜なのに眩しくて目を開けていられなくてな。誰かはわからなかったが、目が覚めたとき、身体が動くようになっていた」
    「それって……?」
    「常若の国に消えたおまえの母上か、それとも、おまえの本当の父君だったのかもしれんな」
     スアルダウは微笑んだが、その目元はどこか翳っていた。
     クー・フーリンは、落ち着かない気持ちで養父を見上げた。
    「それで、ここに?」
     養父はうなずいた。
    「呪いが解けた以上、私にも役割が与えられたということだろう。領民を逃して駆けつけてきたが、こうまで男たちが動けなくなっているとは思わなかった」
    「あ、それじゃあ」
     クー・フーリンは声をあげた。ただの人間な上におとなしい気質の養父が、戦力になるとは思えない。
    「エメルたちと民の避難を手伝ってくれないか。男が一人いるだけで、かなり違うと思うんだ。あとは、城に王子たちといてくれれば助かる」
     スアルダウは、何かを考えるかのように黙っている。クー・フーリンは言いつのった。
    「その、フォラマンたちはまだ子どもだろ。心細いと思うし……」
    「わかった」
     その言葉に、クー・フーリンはほっと胸をなでおろした。
     一緒に行くと言われなくてよかった。自由に戦うには、なるべく身軽なほうがいい。
     そこで、ロイグを待たせていることを思い出したクー・フーリンは、養父に笑顔を向けて、横を通り過ぎようとした。
    「それじゃあ、オレ、行くから」
    「セタンタ」
    「なに?」
     思わず振り向いてしまい、クー・フーリンは首をしかめた。幼名に反応してしまった自分に、少しだけ苛立ったからだ。
    「今のオレは『クー・フーリン』だぜ。で、なに?」
     早く行きたいと言外に滲ませる娘に、養父は迷うような表情を見せた。なかなか言葉を続けようとしない。
    「もういい? オレ、行かないと」
     今にも走り出しそうなクー・フーリンに、スアルダウは焦ったように、一言だけ口にした。
    「その、しっかりな」
     クー・フーリンはきょとんとした表情を見せた。だがすぐに口元に笑みを形作ると、手を振った。
    「それ、フェデルマにも言われた」
     スアルダウは、困ったような表情を浮かべた。
    「それじゃ、いってきます!」
     さっさと身を翻し、疾風のように去っていく娘の背を、スアルダウは黙ったまま見つめていた。
    メイン王子の憂鬱 クー・フーリンは、ロイグと並び立って谷を見下ろしていた。
    「本当にうまくいくと思うか?」
     親友の声に、クー・フーリンはフンと鼻を鳴らした。
    「いくに決まってんだろ。かなりおっかないこと書いたからな」
     ロイグは、彼女が樫の若木を使い、苦労しながら作っていた輪っかを思い出した。
     樹皮をはがしたところに警告文を刻んだのだが、内容は、要するに「これ以上進むのであれば全軍を血祭りにあげてやる」というものだ。
     輪っかを石柱に乗せるついでに、捕まえた鹿の血も振りかけておいた。いい具合に恐怖を駆り立て、戦意を挫いてくれるだろう。
    「そうだな。少なくとも一晩は時間が稼げる」
    「だろ! ん……?」
     頰に何か冷たいものが当たって、クー・フーリンは空を見上げた。
     白いものが、ちらほらと空を舞っている。
     手を広げれば、それはふわりと舞い落ち、消えるように溶けていく。
    「雪だ」

    「雪だわ」
     フィンダウィルはほうっと白い息を吐き、毛皮の前をかき合わせた。
    「最悪」
     このところ、ずいぶん冷え込むと思っていたけれど、ついに降ってきた。
     よりによって、遠征の真っ最中に。これでは、きっとさらに歩みが遅くなるだろう。
     警告文が書かれた若枝の輪が見つかったとき、メイヴは烈火のごとく怒りまくった。
     年端もいかない小娘に、自分の軍勢が翻弄されていることに我慢がならなかったのだ。
     フェルグスの進言で野営が決まったけれど、思いどおりにいかない進軍とこの悪天候では、母の機嫌は悪くなる一方だろう。
     フィンダウィルはため息をついた。
     暖かい城がなつかしい。気持ちよく燃える炉ばたの炎、香り高いワイン、とろけるように甘い蜂蜜のケーキ。
     しかし、どれもこれも、こんな森の中では望むべくもなかった。
     フィンダウィルは再びため息をつくと、自分の天幕に戻ろうとした。
     そのとき、かがり火に照らされながら、歩いてくる人影が目に入った。
    「お兄様」
     妹の声に、兄のメインは顔をあげた。
    「フィン。まだ起きてたのか」
    「こんなに寒くっちゃ寝られないわよ」
    「まあな」
     そこでフィンダウィルは、兄が浮かない顔をしていることに気づいた。
    「何かあったの?」
    「ああ」
     メインは乱雑に髪をかきあげ、苦々しげに言った。
    「あのフェルグス・マック・ロイのことだよ」
    「フェルグス様?」
     兄は苦虫を噛み潰したような顔でうなずいた。その名を口にするのもいまいましい、という表情だ。
    「おまえ、気づかなかったか?」
    「何が?」
    「アルスターに行くなら、東に進むのが最短のはずだろ。だけど、俺たちはもうずっと南下してる」
    「えっ?」
    「あの男、元アルスターの人間だからって俺たちを先導してるけど、わざと遠回りをさせてるとしか思えない」
    「それって……」
    「まあ、時間稼ぎってことだろうな。まったく」
     兄のいらだたしげな口調に、妹は慌てた。
    「で、でも、お母様はフェルグス様を信頼してるのよ?」
    「信頼、ねぇ」
     メインは、母親似の端正な顔を露骨にしかめた。
    「あれが信頼なのかねぇ。とにかく、母上には参ったよ。俺があの男は危険だって何回も言ってきたのに、さっぱり聞こうとしないんだから。でも、こうも進みが遅ければ、さすがにおかしいと思ったみたいだけどな」
     吐き捨てるように言ったメインは、「おお寒い」と身体を震わせた。
     そこでフィンダウィルは、兄が酒壺を持っていることに気づいた。
    「ま、お兄様ったら! ヤケ酒でもするつもり?」
    「は?」
     メインは目をぱちくりとさせたが、妹の視線の先を見て、「ああ」とうなずいた。
    「俺と同じように浮かない顔してるやつがいるからな。分けてやるのさ」
    「あら。お優しいこと」
    「コノートの王子は心優しいと評判だからな」
     メインがうやうやしく胸に手を当てれば、フィンダウィルはくすくすと笑った。
     兄は表情をやわらげ、寒さで真っ赤になった妹の鼻をつついた。
    「おまえも早く天幕に戻れよ。七人の男の心を掴んでるおまえが風邪でも引いたら大変だ」
    「やめてよね。それ、お父様とお母様が勝手に言ってるだけなんだから」
    「そうだよな。おまえの王子様は、これから向かうアルスターの地に──」
    「お兄様!」
     真っ赤になって眉を吊り上げた妹を見て笑いながら、メインはひらひらと手を振った。
    「じゃあな。早く寝ろよ。明日も早いぞ」
    「ええ、お兄様もねっ!」
     暗がりに消えていく兄を睨みつけながら、フィンダウィルは頰をふくらませていたが、ツンとした寒さにくしゃみをした。
     慌てて身体から雪を払い落とすと、フィンダウィルは自分の天幕に戻っていった。

     メインは手に息を吐きかけながら、野営地の中を歩いていった。
     礼をする兵士たちに片手で応えながら、目的の天幕にたどり着く。そばに座っていた御者が、驚いた様子で立ち上がった。
    「よう、アイド。あいつは?」
    「は、中に」
    「ん」
     鷹揚にうなずき、メインは天幕の中に入る。気配に気づいた男が振り返り、目を見開いた。
    「メイン」
    「よう。邪魔するぜ、フェルディア」
     銀髪の男は、驚いた顔で王子を見つめた。

     毛皮にくるまり、木陰で小さな火を囲んで、二人はそれぞれの杯を持った。
     友が恐縮するのを押しとどめながら、メインはワインを注いでやった。
     フェルディアは礼を言い、酒を口に含む。芳醇な香りと、ピリピリとしたアルコール特有の痺れが喉を伝った。
     しばらく、二人は他愛ない雑談をした。
     だが、次第に内容はメインの愚痴になる。
     頼りない父親のこと、強情な母親のこと、信用できない追放者たちのこと。
     王子を昔からよく知っているフェルディアは、ときおり相槌を打ちながら、彼をなぐさめた。
     やがて、メインは「あーあ」とため息をつき、恨めしげに雪が舞い散る空を見上げた。
    「まったく、気が滅入るような天気だ。そう思わないか?」
     友の言葉に、フェルディアも「ああ」とうなずく。
    「それにしても、これだけの大軍勢が『アルスターの番犬』の言葉だけで身動きが取れなくなるんだから、まったくあの女は大したもんだよ」
    「彼女を知ってるのか?」
     フェルディアが驚いたように声をあげた。メインは目をぱちくりとさせる。
    「あれ、言ってなかったか? 前にクルアハンの城に来たんだよ。誰が一番『英雄の取り分』にふさわしいかを判定してほしい、とかいって」
    「ふうん……」
     フェルディアは平静を装っていたが、その瞳に熱が灯ったことに、メインは気づいた。
    「おまえが言ってたとおり、いい女だったよ」
    「そうか」
    「ああ。俺の炉ばたに迎え入れたいくらいだったけど」
    「おまえ、それは……」
     何とも言えない表情を浮かべたフェルディアを見ながら、メインは何気なく言った。
    「まあ、もう結婚してるらしいけどな」
    「えっ!?」
     フェルディアが、ここ一番の驚きを見せた。いつもは冷静沈着な友の反応に、メインは目を丸くした。
     フェルディアははっと我に返り、慌てたように視線を前に戻した。
    「そう、か」
     動揺を隠すように、フェルディアは杯をあおった。
     メインは頬杖をつき、友の横顔を見る。
     フェルディアはしばらく言葉を探しているようだったが、やがて口を開いた。
    「その、彼女は幸せそうだったか?」
    「どうかな」
     メインはワインをすすった。
    「でも、よく笑ってたぜ。フィンダウィルとも楽しそうに話してたし。それに、槍舞いの鋭さも抜きん出てた。他の男どもを圧倒してたぜ」
    「そうか」
     フェルディアは、ほっとしたように表情を緩ませた。穏やかな目で、手元の杯を見つめる。
    「それなら、よかった」
    「…………」
     メインは、横目で友を見た。
     影の国の修行から戻ってきた友は、誰よりも強くなり、見目の美しさに磨きがかかっていた。
     コノートの女たちがこぞって彼に求愛したことを、メインはよく知っていた。だが。
    「おまえ、ここに来る直前も縁談を断ったらしいな」
    「ああ。それがどうした?」
    「おまえほどの男が、なんでまた」
    「今の俺はまだ未熟で、釣り合わないと思っただけさ」
    「未熟、ねえ」
     メインは、手の中で杯をもてあそびながらつぶやいた。
    「おまえさ、あのアルスター女のこと」
    「それはない」
     フェルディアはきっぱりと言った。
    「彼女は、義兄妹の契りを交わした妹だ。確かに大事だが、おまえが思うようなそれじゃない」
    「その大事な妹が、俺たちを殺そうとしてるんだがな」
    「…………」
     フェルディアは黙りこくった。表情に暗い影が落ちる。
     メインはふうっと息をつき、友の背中を軽く叩いた。
    「すまん。意地の悪いことを言った」
    「いや、真実だ。だが、俺は……」
    「戦士ってやつは、自由っぽく見えて、実際は不自由だよな」
     友の言葉をさえぎり、メインは立ち上がった。見上げてくるフェルディアに、にかっと笑いかける。
    「酒の残りはやる。御者にでも分けてやれ。付き合ってくれてありがとな」
    「あ、ああ……?」
     メインはひらりと手を振ると、そのままさっさと戻ってしまった。
     フェルディアは戸惑った表情で王子の背中を見つめていたが、やがてふっと唇を緩めた。

    ***

     クー・フーリンとロイグは、メイヴたちの軍勢が通っていった跡を眺めた。
     降り続いていた雪の影響で、大地は真っ白く染まっている。その雪の上を、戦車のわだちが縦横無尽に走っていた。
    「ずいぶんと土地をめちゃくちゃにしてくれたもんだ」
     ロイグはため息をついた。
    「しっかし、これほどわだちが入り乱れてちゃあ、敵の正確な数もわからないな」
    「そうでもねえよ」
     クー・フーリンは屈み込み、細い指で戦車のわだちの跡をなぞった。
     一部を観察し終わると、また別の場所を。そこが終われば、次の場所を。
     クー・フーリンは這うようにして、あたり一面の跡を調べた。
    「十以上の軍団。五千人以上の兵士。はあ、ここまでやるか。メイヴのやつ、今回の牛捕りに相当入れ込んでると見た」
    「これからどうする?」
     クー・フーリンは、口元に手を当てて思案した。アルスターの地形を頭に思い描く。
     木の輪の警告のおかげか、メイヴたちは遠回りの進路を取ることにしたようだ。藪が切り開かれ、道が森の奥へと伸びている。
    「やつらがこのまま進めば、マトック河にぶつかるはずだ。そこで戦車や馬が渡れる場所といったら……」
     ロイグがはっとしたようにつぶやいた。
    「アトグレナ〈日向の浅瀬〉か?」
    「そこだ。間違いない」
     クー・フーリンはにやりと笑みを浮かべる。
    「ここら一帯はオレの庭だ。どれ、いっちょ先回りして、やつらを出迎えてやろうじゃねえか」
    四枝の浅瀬 クー・フーリンとロイグが浅瀬に着いたとき、メイヴたちはまだずっと後方にいた。
     再び警告を出すことにして、手頃な木を探す。
     太い枝が四方に伸びた木を見つけ、それを使うことにした。
     クー・フーリンが剣で何度も斬りかかり、えいやっと気合いを入れて蹴り飛ばすと、めりめりと音を立てて木が倒れる。
     ロイグと二人でずるずると川に引っ張り込み、目立つように浅瀬の真ん中に突き立てた。
    「いい感じだ」
     クー・フーリンは満足そうにうなずいた。
     樹皮をはがし、うきうきと警告の印を刻み始めた姿に、ロイグは呆れように言った。
    「おまえ、楽しんでるだろ」
    「そんなことねえよ」
    「どうだか」
     鼻歌でも歌いだしそうな主人のそばで、御者はやれやれと頭を降った。

     クー・フーリンが印を刻み終えたとき、馬のかすかな鳴き声が聞こえた。
     はっとした二人が身をひそめると、ガサガサと藪をかき分けながら、馬に乗った男たちが次々と姿を現した。
     一、二、三……全部で四人だ。
    「斥候か」
     ロイグがつぶやく。クー・フーリンは手首をくるり、くるりと回した。
    「ちょうどいい。木と警告の印だけじゃあ、ちょっとばかし物足りないと思ってたところだ」
     ロイグはじろりと主人を見た。
    「おまえ、やっぱり楽しんでるだろ」
    「そんなことねえってば」
     否定するクー・フーリンの唇には、いまやはっきりとした笑みが浮かんでいた。

    「これは……」
     浅瀬にそそり立つ異様な木の枝を見上げ、男たちの一人がつぶやいた。
    「罠だな。すぐにメイヴ様たちに知らせ」
     すべてを言い終えることはできなかった。ヒュン、と一陣の風が吹いたと思った瞬間、男の首は宙に飛ばされていた。
    「なッ……!」
     悲鳴をあげる間もなかった。
     斥候に放たれた男たちは、次々と首をはねられていく。落ちた首が、ばしゃ! ばしゃ! と川に落ちていく。
     最後の一人になった男は、自分が目にしているものが信じられなかった。
     彼の目に映ったのは、迫り来る一台の戦車だった。浅瀬の水を跳ね上げながら、凄まじい勢いで突っ込んでくる。
     暴風のように迫る戦車に、男は一人の女の姿を見た。
     槍を構える女の眼光は、炎のように燃えていた。
    「メイヴさ──」
     ばしゃん! とひときわ派手な音を立て、男の首が川に落ちた。
     男たちが乗っていた馬が、狂ったように逃げていく。
     それとは反対に、戦車を引く馬たちは優雅に足を止め、浅瀬には静けさだけが残った。

    「ふう」
     剣で肩を叩きながら、クー・フーリンは戦車から飛び降りた。ぱしゃん! と水が跳ねる。
     転がった死体からは、耐えず血が流れ続けている。血は薄衣のようにたなびき、小川に赤黒い模様を描いた。
     クー・フーリンは転がった死体を眺めていたが、ふと何かを思いついたように、首の一つを拾った。
     ロイグが見ている前で、彼女は警告の印を刻んだ立木にざぶざぶと歩いていき、四つ又に伸びた小枝の一本に、ぶすりと首を刺した。
    「おえ」
     ロイグは顔をしかめた。
     クー・フーリンは残りの三つの首も同じように小枝に刺した。断ち切られた首の根元からは、血の雫がぽたり、ぽたりと垂れている。
     首の傾きを調整すると、クー・フーリンはどうだいとばかりに振り向いた。
    「いい感じだろ?」
    「いい趣味してるよ、おまえ」
     ロイグは肩をすくめ、血が滴る不気味な枝を眺めた。
    「アトグレナ〈日向の浅瀬〉ならぬ、アトゴウラ〈四枝の浅瀬〉ってわけだな」
     何気ないつぶやきに、クー・フーリンはぱっと目を輝かせた。
    「それいいな!」
    「は?」
    「その名前、すっごくいけてる!」
     呆気にとられる幼なじみの前で、クー・フーリンはわくわくと声を弾ませた。
    「アトゴウラ。これから始まる戦いの象徴だ。オレはこの浅瀬に誓うぜ」
     クー・フーリンは、空を抱くように両腕を広げた。
    「オレは負けない。オレは逃げない。赤枝の騎士の誇りにかけて、一騎で戦い抜いてみせる!」
     キンと冷たい冬の日差しが、娘を白く照らし出す。猛犬は顔を紅潮させ、高らかな笑い声をあげた。

    ***

    「これは……」
     浅瀬にたどり着いたメイヴたちは、首が突き刺さった枝を見て絶句した。
    「馬鹿な。彼らは我が軍の中でも選り抜きだぞ。それを……」
     呆然とするアリル王のそばで、フェルグスがうなった。
    「この程度、〈アルスターの猛犬〉ならば、なんてことはないでしょうな」
     戦車から降りたフェルグスは、枝のそばに刻まれた警告の印を指でなでた。
     メイヴは、きっとなってフェルグスを睨む。
    「フン、見かけ倒しだわ。あんな子どもに何ができるっていうの?」
    「そうは言うがな、女王。クランの猛犬の実力は、実際にその目で見たのだろう?」
     メイヴは、ぐっと唇を噛んだ。
     確かに、クルアハンの城で見た彼女の腕を認めないわけにはいかない。
     メイヴ自身が一人の戦士だ。敵の力をあなどる危険性を、彼女はよくわかっていた。
    「……あのときから、また強くなったというの?」
    「彼女には神の血を継ぐだけでなく、影の国で兵法や魔術を学んだ才女だ。英雄争いのあとも、幾度も実戦の機会を得ているからな」
    「我が妻よ、どうしたものか」
     フェルグスやアリルの言葉に、メイヴは内心の沸々とした怒りを飲み込んだ。
     この枝が兵士たちの目に触れたら、どれほどの動揺が広がることか。
    「すぐに首を回収して、埋葬なさい」
     メイヴは命じた。
    「その間は休憩にしましょう。でも、ぐずぐずはしないわ。私の勇士たちはこれくらいじゃ怯まないってこと、思い知らせてやらないとね」


    「あ、くそ!」
     悪態とともに、一台のコノート戦車が停止した。泥の深みにはまったのだ。
    「どうした?」
     様子を見に来たフェルグスに、兵士が声をあげた。
    「泥にはまっちまったんです。先に進んでください、すぐに追いつきますから」
    「わかった、女王に伝えよう。もう少し先で野営するから、急がなくていいぞ」
     ぬかるみに沈む戦車の横を、何頭もの馬や戦車が通り過ぎていく。
     御者や周りの者たちは、なんとか泥から戦車を引きずり出そうと奮闘した。
     やがて、きしんだ音を立てながら、戦車は乾いた土の上に乗り上げたが、その両輪にはべったりと泥がへばりついてしまっていた。
    「このままじゃ使い物にならんな」
     主人の悪態に、御者は身をすくめた。この主人ときたら、いつ怒りをこっちに向けてくるかわからないからだ。
    「おい、フェルテジル!」
    「はい、はい!」
     フェルテジルと呼ばれた御者は、さっと背筋を伸ばした。
    「ちょっと戻ったところに湖があっただろ。そこまで戻って、こいつを洗ってこい。俺はここで待ってるから」
    「わかりました」
     ちぇっ、俺一人でこのぽんこつ戦車を持っていくのかよ。
     そう思ったが、主人の命には逆らえない。
     フェルテジルは、しぶしぶと馬の頭を後方に向けた。

     木立の間を抜ければ、目当ての湖が現れる。
     フェルテジルは馬を放すと、重たい戦車を引っ張って、のろのろと湖の中に入っていった。
     突き刺すような水の冷たさに、思わず口から悪態がこぼれる。
     あの浅瀬を過ぎてから、軍の雰囲気はすっかり変わってしまった。
     誰もが、「アルスターの猛犬」の名に不安を覚え始めたのだ。
     やつは血を啜る化け物だとか、常に頭上に雷が閃く巨人だなんて噂も飛び交っている。
     そんな中で一人行動をさせられるなんて、自分は本当についていない。
     ぐだぐだ考えていると、ぱしゃり、と水が跳ねる音がした。魚でもいるのかと、フェルテジルはなんとなく後ろに目をやった。
    「う、わっ!」 
     フェルテジルは仰天した。
     目の前で、若い娘が水浴びをしていたのだ。
     白い肌を伝う水滴に、日光が反射してきらきらと光る。
     フェルテジルは思わず後ずさったが、つるりとした川底の石に拍子に足をとられて、ばしゃんと派手な音を立てて尻餅をついた。
     若い娘は、びっくりした顔で振り向いた。
     フェルテジルは水滴を滴り落としながら、呆然と娘の顔を見た。宝石のような瞳に見つめられ、思わず息がとまる。
    「大丈夫?」
     娘が話しかけてきた。少し低いが、耳に心地よい声だ。
    「あ、ああ」
     フェルテジルはやっとのことで答えた。
     娘は、息を飲むほど美しかった。
     ぼうっと見惚れていると、不思議そうに瞬きされて、はっと我に返る。
     言葉にならない奇声をあげながら、フェルテジルは慌てて戦車の陰に飛び込んだ。
    「す、すまねえ! あんたがいるって知らなかったんだ! 覗くつもりじゃ……」
    「あなた、誰?」
     聞こえてくる娘のあどけない声に、フェルテジルは真っ赤になりながら答える。
    「俺はフェルテジル。……そうじゃなくて!」
     フェルテジルは、信じられないという口調で叫んだ。
    「あんたこそ、ここで何してるんだ!」
    「何って、水浴び」
    「おい、まさかあんた、知らないのか!?」
    「何を?」
     戦車のそばにうずくまりながら、フェルテジルは怒鳴った。
    「すぐ近くにアイルランド連合軍が来てるんだぞ! あんた、アルスターの人だろ? 見つかったら捕まっちまうぞ!」
    「へえ」
     突然、すぐそばから声が降ってきて、フェルテジルはびっくりして振り向いた。
     厚布をまとった娘が、戦車に手をかけてこちらを見つめている。
     布の裾からすらりと伸びた白い四肢がまぶしい。フェルテジルは、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
    「連合軍のやつらって、そんなに乱暴なの?」
     娘はかわいらしく小首を傾げた。フェルテジルは慌てて立ち上がった。
    「そうだ! 特に俺の主人なんか、あんたみたいな若い娘さんを見たら放っておかねえよ。捕まえて犯して、奴隷にするに決まってる!」
    「あら、それは困ったわね」
     娘は悩ましげに頰に手を当て、ため息をついた。
    「教えてくれてありがとう。お礼に、何か手伝ってあげる。戦車、洗うんでしょ?」
     フェルテジルは呆けた顔をした。一瞬、何を言われたのかわからなかったからだ。
     だが、車輪の具合を確かめ始めた娘を見て、声を張り上げた。
    「いいよ、いいよ! それより早く逃げな。あんたのことは黙っといてやるから」
    「大丈夫、大丈夫。ああ、こんなに泥がついちゃって。こっち側を支えといてあげる。どうぞ、洗ってちょうだいな」
    「支える? 馬鹿言うなよ。あんたみたいな女に戦車が支えられるわけ……」
     そこで、フェルテジルはあんぐりと口を開けた。娘が、まるで空っぽの鍋を持ち上げるような気安さで、戦車をぐいと抱え起こしたからだ。
    「ほら、早く」
    「え? あ、ああ……」
     ──この娘は、人間ではないのかもしれない。
     一瞬、そんな考えが頭をよぎった。湖の妖精か、氷の精霊なのだろうか。
     いずれにせよ、戦車の泥を落とさなければ、野営地に戻れない。
     狐につままれたような表情をしながら、フェルテジルは戦車を洗った。その間、若い娘はずっと戦車を支えていた。
    「はい。もういいわね」
     あらかた綺麗になったところで娘が手を離せば、戦車は派手な水しぶきをあげて湖面に落ちた。
    「その、助かった。ありが……」
    「おい、クー! いい加減おまえでも凍えるぞ。何して……」
     がさりと音がして、木陰から青年が姿を現した。
     フェルテジルは目を丸くした。青年も言葉をなくし、あわれな御者と娘を交互に見やる。
     やがて青年は獣のようなうなり声をあげると、腰から短剣を引き抜いた。
    「貴様……!」
     鬼のような形相でばしゃばしゃと湖に駆け込んでくる青年に、フェルテジルは悲鳴をあげた。
    「まあ待て、ロイグ」
     笑いながら、娘が青年を押しとどめた。
    「だけど、クー!」
    「平気、平気。こいつはただの御者だし、危険が迫ってるってわざわざ教えてくれたからさ」
     先ほどとは打って変わったがさつな口調に、フェルテジルは目を白黒させながら、目の前の二人を見つめた。
     娘になだめられ、青年はしぶしぶ短剣を鞘におさめた。それでも、射殺さんばかりの目つきでこちらを睨んでいる。フェルテジルは震え上がった。
    「そう威嚇すんなよ、ロイグ。それより、そこのおまえ」
    「は、はい?」
     腕組みをして仁王立ちした娘に、先ほどのようなたおやかさは一切なかった。両眼は好戦的に光り、白い犬歯がむき出しになっている。
    「フェルテジルとかいったか? 安心しなって。オレは御者は殺さねえよ。それより、あんたのご主人様はどこにいる?」
    「え、ええと……」
    「早く言いな。オレ、あんまり気が長いほうじゃないから」
     フェルテジルは震えながら、軍勢が見える位置に女と男を連れていった。
    「あそこにいるのがそうです」
     木立の間から主人を指差す。主人は、自分の御者の境遇など知る由もなく、どっかりと切り株に座って大声で笑っている。
    「ふうん」
     その声に横目で見やれば、女の目がすうっと細まるのがわかった。
    「おい、クー。どうするつもりだ?」
     赤髪の男が、女に声をかける。女はにやりと笑うと、足元の小石を拾った。そのまま、男に向かってちょいちょいと手を振る。
     男はため息をつきながら、胸元から取り出した投石具を女に手渡した。
    「おい、あんたら、まさか──」
     フェルテジルの言葉は、うなりをあげた風圧にかき消された。
     次の瞬間、ギャアッという叫びと馬のいななきが聞こえた。
     慌てて振り向けば、自分の主人だった男の額にはぽっかりと穴が開き、血やら何やらを飛び散らせているのが見えた。
     主人の太った身体はゆっくりと傾き、どさりと地面に転がった。
    「おい、フェルテジル」
     低い女の声に、御者は震えながら顔をあげる。
     鋭い眼光に射抜かれ、フェルテジルははっきりと悟った。
     ああ、なんてこった。まさか、まさか、この女が。
    「野営地に戻ってメイヴに伝えな。〈アルスターの猛犬〉は、いつでもおまえたちを見ているってな」
     
     フェルテジルの報告を聞いたメイヴの怒りは凄まじかった。肩に乗せていたリスが、怯えたように身体を竦ませる。
    「八つ裂きにしてやるわ!」
     気位の高い女王は吠えた。
    「もう我慢ならないわ。生まれてきたことを後悔させてやる! あの生意気なちびの雌犬め──」
     ヒュン、という風音が耳を射抜く。何かが、ものすごい速さでメイヴの肩を通り過ぎていった。
    「え?」
     目を向ければ、首をうしなったリスの胴体が、ぽてり、とメイヴの膝に落ちた。小さな赤黒い染みが、女王の服を汚していく。
     フェルグスが大きなため息をついた。
    休戦交渉 魚から脂がしたたり落ちて、じゅわっと炎にはねた。
     クー・フーリンはさっそく手を伸ばして枝を地面から引き抜くと、勢いよく魚にかぶりついた。魚の身がほろりと崩れ、舌を焼く。
    「あち、あちちっ」
    「がっつきすぎだっての。ほら、水」
     ロイグから皮袋を受け取り、ごくごくと喉を鳴らす。汲んだばかりの水は、頭の奥がしびれるほど冷たかった。
    「はぁ。どうせなら酒がよかったなぁ」
    「贅沢言うな。この辺は村もないし、しばらくお預けだ」
    「そうだけどさ。とっくに春なのにこの気温はねえだろ」
     クー・フーリンはぶつぶつと言った。
    「あったかい麦酒が恋しいよ。それに、エメルが作った林檎のパイに、山羊肉のシチュー……」
    「まったく、おまえには緊張感ってやつが──おい、クー」
     ロイグの声色の変化に、クー・フーリンはさっと手元の槍を握る。
     丘の向こうから、人影が近づいてくるのわかった。
     小枝らしきものを持っているのが見える。おそらく、メイヴからの使者だろう。
     クー・フーリンはしばらく目を細めていたが、使者が誰かわかった瞬間、驚いて声をあげた。
    「ルギー!?」

     メイヴ率いるアイルランド連合軍は、着実にアルスターを侵していった。
     山の尾根を切り開き、集落があれば容赦なく強奪を行い、アルスターの人間を見つければ捕まえて奴隷にした。
     雪解けが進み、若緑が萌える季節になっても、侵略は止まらなかった。
     だからといって、アルスターが奪われるばかりかといえば、そうではない。
     クー・フーリンは、昼夜問わず襲撃を行った。
     暴風のように襲いかかって軍団を壊滅させたり、投石を雨あられと浴びせては敵を退却させたりした。
     確実に戦力を失っていたが、メイヴは強引に兵を押し進めた。
     しかし、急激な河川の増水に襲われ、数百人の戦士が一気に溺死したときは、さすがの女王も気持ちが萎えそうになった。
    「どうしたものかしら」
     いささか悄然としたメイヴの姿に、アリルはおそるおそる言った。
    「褐色の雄牛は見つからないが、すでにかなりの牛は手に入れているし、国に戻るというのは」
    「それはないわ」
     メイヴはきっぱりと言った。
    「あの牛を手に入れるまで、絶対に諦めるものですか!」
     アリルは黙りこくってしまう。そばに控えていた王子メインは、そっと嘆息した。
    「ここは、あのクランの猛犬に休戦を申し入れてみてはいかがでしょうか」
     忠臣であるマック・ロスの言葉に、メイヴは目を吊り上げた。
    「冗談じゃないわ! それこそ私の面子が立たないじゃない!」
    「しかし、あの娘によって我々が手を煩わされているのは、確かなことでして」
     マック・ロスは、辛抱強く言った。
    「なんとかして、コノートに寝返るよう申し伝えてみてはいかがでしょうか」
     メイヴはいらいらと爪を噛んだが、これ以上戦力を失うのは、彼女としても避けたかった。
    「ふん、わかったわよ。……まったく、あの娘が男だったなら、こんな苦労せずに済んだのに」


    「ルギー!?」
     クー・フーリンが叫んだとたん、浮かない表情をしていた少年は、嬉しそうに顔をあげた。
     ぶんぶんと使者の証である小枝を振り、ぴょこぴょこと駆け寄ってくる。
     ロイグが短剣に手をかけたが、クー・フーリンはそれを制した。
    「クー! 久しぶり!」
     ルギーは、はあはあと息を弾ませながら、クー・フーリンを見上げた。
     少し背が伸びたような気もするが、無邪気な瞳は記憶のままだ。
    「おう。久しぶりだな、ルギー」
     クー・フーリンは笑って少年の頭をなでると、焚き火のそばに座るよう勧めた。
     ロイグはそっと立ち上がり、戦車の陰に控える。
     クー・フーリンはルギーの隣に腰を下ろし、魚が刺さった枝を引き抜いた。
    「腹減ってないか? これ食べるか?」
    「あ、うん。いただきます」
     ルギーはなんの躊躇もなくうなずくと、受け取った魚を嬉しそうに食べ始める。
     クー・フーリンも自分の魚にかぶりつきながら、何気ない口調で言った。
    「それにしても、おまえが女王側に参加してるとは思わなかったよ」
     ごくん、と魚を飲み込み、ルギーが振り向いた。
    「だって、マンスターとコノートはそういう約定結んでるもん。それに、上王の血を引くメイヴに逆らってもいいことないって、父上も言ってたし」
    「クー・ロイ王か。息災かい?」
    「うん。クーのこと褒めてたよ。面白い戦士だったって。父上が人を褒めるって、すごいことなんだよ!」
     ルギーはにっこり笑った。クー・フーリンも笑みを返す。
    「ところで、おまえはメイヴの使者として来た、ってことでいいんだよな?」
    「あっ、そうだった」
     そこでようやく本来の目的を思い出したように、ルギーはぽんと手を打った。
    「頼まれたんだ。僕なら、クーは殺さないで話を聞いてくれるだろうからって」
     クー・フーリンは苦笑いした。
    「戦意のない使者なら、いくらオレでも殺さねえよ。それで、伝言の内容は?」
    「えーとね、もし今回の牛捕りに協力してくれれば、ムルテムニーの平原と同じくらいの領土と、質のいい女奴隷たちと、失った分の牛をあげるってさ。それから、アリル王に仕える名誉と、あとなんだっけ……そうだ、『女王の柔らかな太ももの友情』? 何のことかよくわかんないけど、それもあげるって。クーは意味わかる?」
    「わかるけど、わかりたくねえな」
     乾いた笑いを浮かべながら、クー・フーリンは言った。
    「よし、じゃあオレからの返事も伝えてくれるか」
    「うん」
     ルギーはこくりとうなずいた。クー・フーリンは少年に向き合い、一言ひとこと、ゆっくりと言った。
    「オレは、我が王を裏切るような真似は絶対にしない、ってな」
    「それだけ?」
    「そうだ」
     うーん、とルギーは難しい顔をした。
    「絶対に良い返事をもらってこいって言われたんだけどなぁ」
    「そりゃ無理だ。おまえは悪くないってオレが言ってたって、女王様と父君にちゃんと言えよ」
    「わかった」
     ルギーは素直にうなずくと、野営地へ戻ろうとした。
    「ああ、ルギー」
    「なに?」
    「言い忘れてたんだけどな」
     クー・フーリンはぐっと声をひそめ、少年に顔を近づけた。
    「クロン川が洪水を起こしたろ」
    「え? うん。先に行ってたコノート軍がまるまる流されちゃった」
    「あれはな、オレが大地の精霊に呼びかけて、力になってもらったからなんだぜ」
    「えっ!?」
     少年は目を丸くした。クー・フーリンはにやりと笑い、内緒話をするように、人差し指を唇に当てた。
    「メイヴたちに伝えてくれ。オレは精霊たちの力を借りることができる。この地を踏み荒らした以上、相応の報いを受けるってな」
     その言葉に、ルギーは息を飲んだ。目の前の彼女が、河川の水や森の木々を自在に操る姿を思い描き、思わず身体に震えが走る。
    「それって、僕やお父様たちも危ない目に会うってこと?」
     ルギーはクー・フーリンに飛びついた。少年の鬼気迫る勢いに、クー・フーリンは目を丸くする。
    「マンスターは兵士を貸しただけだよ! 本当はメイヴのために出兵なんかしたくないんだから!」
     必死に言いつのる少年にクー・フーリンは苦笑し、華奢な肩を軽く叩いた。
    「わかったよ。鎧にわかりやすく印でもつけといてくれ。そうすれば、狙わないようにするからさ」
    「絶対だよ!」
     ルギーは念押ししながら、野営地へ向かって駆けていった。その姿を見送るクー・フーリンのそばに、ロイグが歩み寄る。
    「まったく。この時期は川が氾濫しやすいってだけだろうが」
    「まあな。でも」
     クー・フーリンは、友ににっこりと笑いかけた。
    「『神秘』ってのは、そういうもんだ。だろ?」


     その後、メイヴからは何人もの使者が送られてきたが、クー・フーリンは同じ返事を繰り返した。
     八方塞がりの状況に、ついに女王は自ら交渉することを選んだ。
    「私のそばから離れないでちょうだい、フェルグス」
     戦車を並べて交渉の場へ向かいながら、メイヴは固い声で命じた。
    「安心しろ。いくらあいつでも、この場でおまえを殺したりはしないさ。それに」
     フェルグスは、力強く胸を叩いた。
    「万が一にも何かあれば、俺がおまえを守ってやるさ」
     その言葉に、メイヴは少しだけ表情をやわらげた。

     丘にたどり着けば、すでにクー・フーリンが御者と共に待っていた。
     ──あら、まあ。”女"になってるわ。
     一目見た瞬間、そんな印象が芽生える。 
     記憶にある娘にはどこか幼さがあったが、目の前にいるクランの猛犬は、メイヴが知っている姿とは違っていた。
     成長を終えつつある身体はしなやかに引き締まっているが、あちこちに傷跡が刻まれていた。
     唇には、無邪気な笑顔ではなく、冷ややかで皮肉めいた笑みが浮かんでいる。
     こちらを見据える瞳には、どこか憂いが感じられた。
     自分が彼女を見送ってからの数年間、さまざまなことがあったのだろう、とメイヴは考えた。
     アルスターの猛犬は、ちらりとメイヴの横に立つフェルグスに目をやったが、すぐに女王に目線を戻した。そのまま、じっとこちらを見つめている。
     自分より身分が高い女王が口を開くのを待っているのだ。メイヴはすう、と息を吸った。
    「クー・フーリン」
    「メイヴ女王」
     クー・フーリンは槍を持ち上げ、わざとらしいほど丁寧に礼をした。
    「英雄争いで友情を得たと思ったけれど、ずいぶんなご挨拶だこと」
    「その節はどうも」
     胸に手を当て、クー・フーリンは薄く笑った。
    「手荒な挨拶には、手荒な挨拶を返すのが私の礼儀なもんで」
    「アルスターらしい礼儀ね。さて、回りくどいのは性に合わないの。本題に入りましょう」
     メイヴは、クー・フーリンに向かって手を差し伸べた。
    「率直に言います。あなたが欲しいの」
    「こりゃまた、熱烈ですね」
     クー・フーリンはぴゅうと口笛を吹き、腕を組んだ。
    「今度こそ、心から実感したの。あなたは唯一無二の存在。あなたのような戦士が、このコノートには必要よ」
    「私にはもったいない褒め言葉ですよ、女王」
    「言ったでしょう。私はあなたを認めているの」
     メイヴは、一歩前に進み出た。踏みつけられた枯葉が、かさりと音を立てる。
    「確かに、この牛捕りはあなたにとって愉快ではなかったでしょうね。でも、あなたもわかっているとおり、これは力と力のぶつかり合い。戦士の誇りと名誉を、思う存分披露する場よ。私なら、あなたが持つ力を最大限に生かしてあげられるわ」
    「ほう?」
     トン、と槍で肩を叩き、クー・フーリンは小首を傾げる。
     メイヴはなおも進み続け、ついに触れられるほどの距離で、クー・フーリンと向かい合った。
     二人の鋭い視線が交差する。
    「コノートの女王の誇りにかけて、あなたの希望は何でも叶えるつもりよ。私にはそれだけの力があるわ。さあ、言ってみてちょうだい。私に何を求めるのか」
    「私が求めるもの、ですか?」
    「ええ」
     メイヴは、クー・フーリンの片手を取った。
     想像どおり傷だらけで、手のひらの皮は厚く硬かった。槍を握り、剣を振るい、戦い続けた者の手だ。
    「オレがあんたに求めるもの」
     クー・フーリンは勢いよくメイヴの手を振り払うと、さっと跳びすさり、ぴたりと槍の穂先を彼女に向けた。
     コノート軍からどよめきが起こる。間髪入れずメイヴも剣を抜き、白刃をクー・フーリンに向けた。
    「一国の主に向かって無礼じゃないこと?」
    「さすがは戦好きで名高き女王だな。腕前は本物と見える」
     クー・フーリンはあっさりと槍を引いた。メイヴは、向けられた槍の先に穂鞘がはまっているのをちらりと見た。
    「オレの希望はこうだ。渓谷そばの浅瀬に、おまえの戦士を送れ。一日に一人だけだ。オレは浅瀬を守るため、そいつと一騎打ちをする」
    「それで?」
     メイヴは剣を下ろさないまま、クー・フーリンを睨みつけた。
    「オレとおまえが送った戦士が戦っている間は、おまえは軍を進めていい。だが、オレが相手を殺せばそこまで。それ以上進んではならない。この条件を飲んでくれるなら、オレも奇襲はやめてやる」
    「くだらないわ。そんな条件……」
    「コノートの女王の誇りにかけて、オレの希望を叶えてくれるんだろ?」
     メイヴはきゅっと唇を引き結んだ。気位の高さと冷静な計算が、頭の中でめまぐるしく戦い合う。
    「どうだい? オレも、もう面倒な交渉にはうんざりしてるんだ」
    「……フン。いいでしょう。その条件を飲んであげるわ」
     女王は剣を下ろし、鞘に収めた。クー・フーリンは口角を引き上げ、満足そうにうなずいた。
     メイヴはフェルグスと共に踵を返したが、思い直したように振り向いた。
    「あのときも言ったけれど」
     鋭い一瞥が投げつけられる。
    「あなた、後悔するわよ」
     猛犬はひょいと肩をすくめた。
    「オレも言ったけど」
     口元に浮かぶ笑みが、ゆっくりと深くなる。
    「望むところだぜ、メイヴ」
     女王は舌打ちし、どこまでも不遜な女を睨みつけると、自分の軍に戻っていった。
    浅瀬の一騎打ち 浅瀬にメイヴの軍勢がやってきたのは、クー・フーリンとロイグが野営の準備を済ませたあとだった。対岸には、敵兵たちの黒い影が雲のように広がっていく。
     準備運動とばかりに剣を放り投げては受け止めたり、突き立てた槍の穂先の上で飛び跳ねたりしている主人に、ロイグは声をかけた。
    「おい。敵さんがおいでなすったぜ」
    「本当? どんなやつ?」
     ぴょんと穂先から飛び降り、クー・フーリンは浅瀬の向こうに目を凝らした。
     全身に青い刺青を入れた毛深い男が、巨体を揺らしながらやってくる。
    「清潔感って言葉とは無縁だな」
    「メイヴ好みの男じゃなさそうだわな」
     クー・フーリンはぐいっと伸びをし、槍を掴んだ。
    「んじゃ、行ってくるわ」
    「おう。気をつけてな」
     ひらりと手を振り、猛犬は軽やかに丘を駆け下りていった。
     ロイグが見ていると、クー・フーリンと大男は浅瀬の真ん中で対峙した。
     だが、なぜかいつまで経っても二人は戦おうとしない。両者は何やら言い争っていたが、やがて、顔を真っ赤にさせたクー・フーリンが足音も荒く戻ってきた。
    「どうした?」
    「あの野郎!」
     クー・フーリンはわめいた。
    「『ヒゲのないガキとは戦わない』なんて言いやがった! くそっ! 絶対許さねえ!」
    「まあ、おまえ女だしなぁ」
    「なんだとォ!」
     ロイグの冷静な一言に、クー・フーリンはクワッと噛み付いた。
    「てめえ、ロイグ! おまえのヒゲよこせコラ!」
    「うわ! バカやめろって!」
     クー・フーリンはロイグを押し倒し、暴れる身体を押さえつけて、頰をぐいぐい引っ張った。
    「いたたたた! 何すんだ!」
    「てめえもいっちょまえにヒゲなんか生やしやがって、この野郎!」
    「やめろ、ほんとやめろ! アレだ、ブラックベリー!」
    「ああ?」
    「ブラックベリーの汁でも塗ればヒゲっぽく見えるだろ。すばやく動けばわかんねえよ」
     クー・フーリンがぱっとロイグを離すと、あわれな御者はうめきながら、赤くなった両頬をさすった。
    「うう、乱暴者め……」
    「いやーおまえ頭いいなロイグ!」
     ばしばしと友の肩を叩き、クー・フーリンはからっと笑った。
     善は急げとばかりに荷物を探り、食用に摘んでいたブラックベリーの実を取り出すと、ぶちゅぶちゅと音を立ててつぶしていく。
    「うーん……」
     しばらく汁をぺとぺと顔に塗りつけていたクー・フーリンは、くるりと振り向いた。
    「どう?」
     ロイグは心を無にし、なんとか吹き出すのをこらえた。クー・フーリンの口の周りには、黒い汁がべったりとついている。
    「ん、まあ、いいんじゃないか?」
    「よっしゃ!」
     クー・フーリンは威勢よく立ち上がると、今度こそとばかりに再び浅瀬へ向かって走っていった。
     ようやく一騎打ちが始まった。打ち合いが始まると同時に連合軍も動き出したが、大して進まないうちに、最初の戦闘はあっさりと終わってしまった。
     クー・フーリンは、浅瀬に沈む男の背中に足を乗せ、肩をすくめた。
    「こんな戦士しかいないんじゃあ、メイヴがオレを欲しがるってのも、ムリないかもな」


     一騎打ちは続いた。
     剣の名手、槍の名手、はては言葉をあやつる風刺詩人まで送り込まれたが、クー・フーリンは次々と敵を撃破していった。
     死ぬのは毎日一人だけではあったが、それでも、自軍の兵士が殺されていくことに、メイヴは我慢がならなかった。
    「私の勇士たちがこんな簡単にやられるなんて!」
     女王はいらいらと天幕の中を歩き回った。
    「妻よ。再びクー・フーリンに休戦を持ちかけてみないか?」
     アリルが提案した。メイヴがかっとなって口を開きかけたところで、「父上に賛成です」とメインも進み出た。
    「いまや、どの氏族もクー・フーリンとの一騎打ちを避けたがって、戦士を探すのも一苦労の状態です。母上、ここは奴と交渉して、その間に策を練ろうじゃありませんか」
    「策ですって?」
    「ええ」
     メインはうなずいた。
    「確かにあの女は強いですが、所詮は一人です。時間を稼いで、やつを陥れる方法を考えましょう」
    「そうね」
     息子の言葉に、メイヴは心を動かされた。
    「さすがは私の子ね、メイン。いいわ、あなたの言うとおり、使者を送りましょう」
    「休戦の証がいるな」
     アリルがうなった。
    「さすがに、手ぶらではやつに警戒されよう」
    「そうね……」
     メイヴは唇を指で叩きながら、ゆっくりと視線を巡らせた。その視線が、天幕の隅でぴたりと止まる。
     黙って控えていたフィンダウィルは、大きく目を見開いた。
    王女フィンダウィル「おい、誰か来たぞ」
     伸び上がって丘のふもとを覗いていたロイグが声をかけた。
     クー・フーリンも、立ち上がって御者の隣に並んだ。人影が二人、こちらへ歩いてくるのが見える。
     一人は、メイヴの忠臣であるマック・ロスだ。使者の証であるハシバミの枝を持っている。
     そして、もう一人は──。
     クー・フーリンは目を丸くした。ロイグも、驚きを隠しきれない口調で言った。
    「フィンダウィル王女……?」
     やがて丘を登ってきた使者たちは、立ち上がって出迎えるクー・フーリンたちと対峙した。
    「コノートの主からの伝言を申し伝えたい」
     マック・ロスは、厳かな口調で切り出した。
    「女王は、アルスターの男たちが呪いから覚めるまでの間、あなたとの休戦を望んでおられる。その間は、こちらも略奪をしないと約束する。その証として、王女フィンダウィル様をお連れした」
     クー・フーリンはちらりと王女に目をやったが、マントをきつく体に巻きつけた娘は、真っ青な顔でうつむいたままだ。
    「休戦の間、フィンダウィル様は、あなたの好きなようになされるがよろしい。もちろん、こちらが約束を破ったときは、王女の処遇はあなたの自由だ」
    「大事なご息女を寄越すとは、ずいぶんと思い切ったようだな」
     挑発するような物言いに、マック・ロスはわずかに眉をあげた。
    「それだけ、メイヴ様は本心から申し出られているということだ」
     クー・フーリンは、はあっと息を吐いた。腰に手を当てると、尊大な口調でマック・ロスに命じた。
    「使者よ。オレは王女と話がしたい。ふもとで待っていろ」
    「は、だが──」
    「黙って従え」
     ぎらりと眼光を光らせ、猛犬はうなった。だが、すぐに口調をやわらげて続けた。
    「安心しろ、王女に危害は加えない。少し話すだけだ。返事はそれから返す」
     マック・ロスはためらったが、アルスターの猛犬に逆らう勇気はなく、しぶしぶと丘を降りていった。
     クー・フーリンは、男が十分に離れたと見るや、立ちすくむ王女に顔を向けた。
    「フィンダウィル」
     呼びかければ、びくり、と毛皮に包まれた肩が跳ねる。クー・フーリンは表情を緩め、柔らかい声を作って呼びかけた。
    「久しぶりだな」
     コノートの王女は、言葉もなく立ち尽くしていた。だが、クー・フーリンが微笑みかけると、その瞳にみるみるうちに涙が浮かんだ。
    「クー様!」
     フィンダウィルは、クー・フーリンの胸元に飛び込んだ。王女の華奢な身体を受け止め、長い髪をなでてやる。
    「まさか、おまえさんが来るとはな」
    「クー様、私、私……」
     声を滲ませ、しがみついてくる娘の背中を軽く叩く。
    「まあ、とにかく、こっちに来て座れ」
     ロイグが倒木の汚れを軽く払うと、クー・フーリンは、フィンダウィルをそこに座らせた。
     王女は小さく震えながら、いまや敵方となった女の手をしっかりと握り締めている。
    「大丈夫か?」
     クー・フーリンは、フィンダウィルの手をさすってやった。ロイグは木の椀に水をつぎ、王女に差し出した。
    「毒は入ってませんよ。どうぞ」
     王女は、黙って椀を受け取った。気の毒なくらい蒼白な顔をしていたが、水を一息に飲むと、少し落ち着いた表情を見せた。 
    「で、だ」
     クー・フーリンは口を開いた。
    「あの使者が言っていたことは本当か?」
     椀を持ったまま、フィンダウィルは力なくうなずいた。
    「お母様たちは、あなたと休戦したがってるわ。それは本当よ。わざわざ、褒美に使う私を寄越したくらいなんだから」
     王女の言葉に、クー・フーリンは眉根を寄せた。
    「褒美?」
    「ええ」
     木の椀を持ったまま、フィンダウィルはうなずく。
    「私、あなたを倒す褒美として、七人の氏族長と婚約してるのよ。笑っちゃうでしょう?」
     王女は声を出して笑ってみせたが、その笑みはひどく虚ろに見えた。
    「……それで、なんでまた、おまえさんがわざわざオレのところに?」
    「私を差し出すことで、お母様たちは本気を示そうとしてるの。だって、私はコノートの王女よ。あなたたちにとって、『人質』として価値があるわ。そうでしょ?」
     クー・フーリンは黙ったままうなずいた。燃え続けている炎の中で、薪がぱちんと弾けて音を立てた。
    「どうするんだ?」
     腕を組んで戦車にもたれかかっていたロイグが、探るように主人を見た。
     クー・フーリンは答えず、考えるように唇をなでている。
     コノートの王女は視線を彷徨わせていたが、やがて、思い切ったように口を開いた。
    「私がこちら側にいれば、アルスターの男たちが回復するまでの時間稼ぎになる。そうよね?」
     王女の言葉の意図をはかりかねて、クー・フーリンは訝しげな視線を向けた。
    「ねえ、クー様」
     フィンダウィルは、クー・フーリンの手を強く握った。
    「どうか、私を逃してくださらない?」
    「はあ?」
     クー・フーリンは、何を言っているんだとばかりに顔をしかめた。
    「おまえがコノートに戻っちまったら、オレたちが損するだけじゃねえか」
    「違うわ、そうじゃなくて」
     王女は、慌てて首を振った。
    「コノートじゃない。アルスターへ行きたいの」
     クー・フーリンはぽかんと口を開いた。ロイグも呆気にとられた顔をしている。
    「なんで?」
     フィンダウィルは唇を舐めた。一瞬ためらうような表情を浮かべ、ゆっくりと口を開く。
    「……私、ずっとお母様の言いなりだったわ」
     か細く、絞り出すような声で王女は言った。
    「褒美に使われて、男たちの許嫁にさせられて。私、その人たちの顔も知らないのにね。ずっとずっと、お母様に従ってきた。でも、本当は嫌なの。そうよ、嫌なの!」
     話しているうちに興奮してきたのか、高い声が上擦った。
    「ただの勲章じゃなくて、道具じゃなくて。もっと自分の好きなように、思うままに生きたい。結婚だって、自分が愛する人としたいの!」
    「えーと、つまり──」
     クー・フーリンは、慎重に言葉を選びながら言った。
    「アルスターに、おまえの想い人がいるのか?」
     王女はこくりとうなずいた。
    「ロハズ・マック・ファセイン様。クー様はご存じ?」
    「ロハズ? 聞いたことある気もするけど……」
     クー・フーリンは、困ったようにロイグを見上げた。御者は淡々と答える。
    「アルスター南の有力貴族だ。すごい美男で、神々ですらその美貌に称賛の歌を捧げるって話だぜ」
     フィンダウィルはかすかに微笑んだ。
    「前に行幸でお会いしたの。男なんてみんな同じだと思ってたけど、あの人は違ったわ。こんな気持ち、初めてだった」
     青白かった王女の頰に、うっすらと朱が差した。クー・フーリンは黙ったまま、熱に浮かされたような娘の瞳を眺めた。
    「今のままじゃ、私は好きでもない男と結婚しなきゃならない。それに、ロハズ様はアルスターの戦士だもの。こんな牛捕りが起きちゃったから、コノートにいたら、もう二度と会えないかもしれないわ」
     フィンダウィルは、のめり込むような勢いでクー・フーリンの両手を強く握りしめた。
    「ねえお願い、クー様。私をここから逃して、アルスターに連れていって」
     クー・フーリンは、潤んだ王女の瞳を見つめていたが、静かに首を振った。
    「オレは、この場所を離れるわけにはいかない」
    「でも!」
     フィンダウィルは驚いて叫んだ。断られるとは思わなかったのだ。
    「私がいれば、休戦協定が結ばれるでしょう? それなら大丈夫じゃない!」
    「それでも、警戒を解くわけにはいかない。アルスターにはオレしかいないんだ。こう言っちゃなんだが、オレはあんたのお母様を心から信じる気はない。それに、オレがおまえを連れて逃げたなんて聞けば、婚約してる男どもが暴動を起こすかもしれないだろ」
    「で、でも」
     コノートの王女は必死に言い募った。
    「クー様なら、そんな奴ら、やっつけられるでしょ。だって、すごく強いもの!」
    「悪いが、フィンダウィル」
     クー・フーリンは、きっぱりとした口調で言った。
    「今は、おまえの願いは聞いてやれない」
    「そんな……!」
     フィンダウィルは、絶望の表情を浮かべた。クー・フーリンは腰元をさぐり、短剣を取り出すと、それを王女に差し出した。
    「これ、やるよ」
    「え?」
     瞬きをするフィンダウィルの手に、クー・フーリンは短剣を鞘ごと握らせた。
    「オレはおまえを送ってはやれないが、本当に自由になりたいのなら、おまえ一人で逃げろ。おまえが自分で行くぶんには、オレは止めない。この川を下っていけば、いずれは村につくはずだ」
     フィンダウィルは、呆然と手の中の短剣を見つめた。黒光りする鞘に収まったそれは、短剣なのに、なぜかひどく重い気がした。
     これを持って、一人でここから逃げる……?
     侍女も衛兵もつけず、暗い森の中を自分一人で進んでいく。想像しただけで、心臓に爪を立てられたような恐怖に襲われた。
     それに、と思う。あの母に知れたら、どうなるだろう。宿敵であるアルスターの猛犬に奪われたのではなく、娘が自ら逃げていったと知られたら……?
     男より猛々しい、暴風のような母の姿を思い浮かべ、フィンダウィルは身震いした。
    「無理」
     ぽろりと言葉がこぼれる。
    「無理、無理よ!」
     フィンダウィルは叫び、クー・フーリンの腕にすがりついた。
    「一人なんて無理! クー様、お願いよ、お願いします、私と一緒に行って!」
    「駄目だ!」
     クー・フーリンは王女を引きはがそうとしたが、王女はますます強くしがみついてくる。
    「言っただろ。オレはここから離れられないんだ!」
    「いや! クー様が一緒に来てくださらなきゃ! お礼はなんとかしますから!」
     フィンダウィルは叫び、泣きわめく幼子のように取りすがった。ロイグが王女の肩を掴んだが、「触らないで!」と激しい身振りで跳ねつけられる。
    「聞き分けろ、フィンダウィル! 自由になりたいんじゃねえのか!」
    「だって、だって……!」
     クー・フーリンの腹の奥で、だんだんと苛立ちの炎が燃え始める。
     ふと目の前に、一人の少女の姿が浮かんだ。怯えた目をして、「自分には無理だ」と繰り返し続けた少女。
     だが、ついには戦車に乗って走り出した──影の国の王女。
    「お願いよ、クー様! 私だけで行けだなんて言わないで」
     フィンダウィルが涙ぐみながら訴える。
    「獣や山賊に会ったら? そんな野蛮な奴らに襲われるくらいなら、ここで死んだほうがましだわ!」
    「じゃあ死ね!」
     ぴしゃりと頰を打たれたように、フィンダウィルは身体をこわばらせた。
     クー・フーリンははっとして、激情を漏らした自分を呪った。
     だが、一度口に出した言葉は元には戻せない。クー・フーリンは大きく息を吸うと、厳しい目つきで王女を見据えた。
    「オレは、びーびー泣き叫ぶ子どものお守りなんぞごめんだ」
     フィンダウィルの唇が震えた。大きな瞳を、ゆっくりと水の膜が覆っていく。
    「オレは、あんたみたいな王女を他にも知ってる」
     押し殺すような声で、クー・フーリンは言った。
    「母親の影にいて、自分にはできないからってうじうじ悩んで。まったくイライラさせてくれたぜ。でもな」
     脳裏に、戦車を駆る背中がよみがえる。細い髪が、風に激しくなびいていた様子が鮮やかに浮かぶ。
    「あいつは、覚悟を決めた。オレが背中を押したところもあるが、最後は自分で戦おうとした」
     クー・フーリンは立ち上がると、容赦なく続けた。
    「おまえはどうだ。人に振り回されるだけ、人にすがるだけで、自分の足で立とうともしない」
     うずくまって、小さく震えている王女を睨みつける。
    「そんな奴は、オレが守る価値もない」
     フィンダウィルの顔色が変わった。唇を噛み、うつむく。見かねたロイグが間に入った。
    「おい、クー。もうその辺で……」
    「──なによ」
     細い声が、ぴりっとした空気を貫いた。白い両手が、マントを強く握り締める。
    「何様なの? まるで、自分がすべてを支配している王みたいな言い方ね」
     クー・フーリンは、かっと頰が熱くなった。
    「オレは、ただ──」
    「あなたに、何がわかるっていうのよ」
     フィンダウィルは、勢いよく顔をあげた。血走った目には憎しみの涙が溢れ、ぎらぎらと光っている。
    「太陽神の子。誉れ高き『赤枝の騎士団』の偉大な戦士。強くて、美しくて、何でもできる特別な女。誰からも愛されて、誰からも尊敬されて、誰よりも自由なあなたに、私の何がわかるっていうのよ!」
    「……!」
     クー・フーリンは目を見開いた。言い返そうと口を開くが、なぜか言葉が出てこない。
    「これ、本当は言わないでおこうと思ってたんだけど」
     立ち上がったフィンダウィルは、ぐいぐいと涙を拭い、唇を歪ませた。
    「お母様やお兄様たちが、あなたを殺す手段を考えてるわよ。私がこうやって時間を稼いでいる間にね。……そうね、私、どうかしてた。あなたなんかを頼ろうとするなんて」
     フィンダウィルは、ひきつった笑い声をあげた。
    「おい、フィン……」
    「クー様の馬鹿! 死んじゃえ!!」
     クー・フーリンは、殴られたように身体を固くした。フィンダウィルは、まるで火花が弾け飛ぶように怒鳴った。
    「あなたなんか大っ嫌い! 死んじゃえ! お母様に殺されちゃえ!」
     呪いの言葉を叫び散らすと、フィンダウィルは踵を返し、嵐のような勢いで丘を駆け下りていった。
     ばたばたという足音が聞こえなくなると、あとには不気味なほどの静けさだけが残った。
    「クー、大丈夫か?」
     ロイグが、気づかわしげに声をかけてくる。
    「ああ……」
     クー・フーリンはうなずいた。鉛を飲み込んだかのように、腹の奥が重かった。
     丘のふもとで待っていたマック・ロスは、戻ってきたフィンダウィルを見て、交渉決裂を悟るだろう。王女の泣きはらした目に、何かを思うだろう。
     彼らが野営地に戻ったとき、メイヴはどんな反応をするのだろうか。
     頭の奥が、鈍く痛む。額を手で押さえ、クー・フーリンは深いため息を吐いた。
    奪われた赤牛 結局、休戦協定は結べないまま、浅瀬の一騎打ちは続行されることになった。
     水しぶきの中で戦う戦士たちを見つめるメイヴの表情は、フェルグスが驚くほどに落ち着いていた。
     自分の娘を使った交渉も失敗したというのに、彼女にこれほどの余裕があることが意外だった。
    「今日はずいぶんと冷静だな、メイヴよ」
     フェルグスは、茶化すように言った。
    「今まで、ずっとイライラしっぱなしだったのに」
    「腹を括ったのよ」
     メイヴは事も無げに言った。ほう、とフェルグスは感心したような声を漏らす。
     女王と話し続けるフェルグスは、メイン王子がそっと戦車のそばを離れていくのに気づかなかった。
     メインは、天幕の陰に隠れるように立っていた男たちに近づくと、それとなく片手を振った。
     男たちは目配せを交わすと、一騎打ちに目を奪われている他氏族たちに気づかれぬよう、すばやく散った。
     彼らは、コノート軍の精鋭たちだった。
     メイヴは、クー・フーリンに気づかれないよう、目的の赤牛を探し出すことにしたのだ。
     男たちは、村や農場を荒らし回りながら進んでいった。彼らにとって、これほど楽な略奪もなかった。
     アルスターの男たちは呪いで動けないし、唯一の懸念材料だったクランの猛犬は、浅瀬から動けないからだ。
     略奪者たちは、ついに渓谷の奥に牛たちがかくまわれているのを見つけた。牛飼いの青年は、突然踏み込んできた男たちに驚愕した。
    「な、なんだおまえたちは……グッ!」
     首領格の男が引き抜いた剣が、牛飼いの身体に突き立てられた。牛飼いが崩れ落ちる。
     男たちは谷間の奥へ進んでいき、とうとう、その姿を目の当たりにした。
     雌牛たちに囲まれた中央に鎮座するもの。
     尾を振り立て、猛々しくうなり声をあげるもの。
     「牛の王」とも称される雄牛──ドン・クアルンゲだ。

    「それ! 縄を回せ!」
     略奪者たちは、容赦なく雄牛を谷から引きずり出した。
     雄牛は激しく抵抗したが、全身を太い縄で縛られ、くびきをかけられては、為す術もなかった。
     男たちは、剣や突き棒で威嚇しながら、獲物を追い立てていく。雄牛の吠えるような叫びが、渓谷中に響き渡った。
     その叫びは、クー・フーリンの耳にも届いた。
     天地をも轟かすような声に、全身がびりびりと震える。一騎打ちを終えたばかりの身体に鞭打ち、大急ぎで高い岩によじ登った。
    「あっ!」
     驚きの声が口から漏れた。自分の目が信じられなかった。あの誇り高き赤牛が、男たちに引きずられていくのが見える。
    「待て!」
     ひらりと岩を飛び降り、クー・フーリンは走り出した。「クー!」と背後でロイグの叫ぶ声が聞こえたが、待っていられない。
     全速力で森を走り抜けたクー・フーリンは、雄叫びをあげながら略奪者たちに襲いかかった。
     気づいた男たちは、次々と槍を投げてくる。盾で薙ぎ払いながら、クー・フーリンは全力で走った。
     目の前で、男たちに押さえつけられた赤い牛が暴れている。クー・フーリンは手を伸ばした。もうすぐ、もうすぐだ──。
     突如感じた鋭い殺気に、クー・フーリンは本能的に槍を背中に回した。
     ガンという激しい衝撃が、太刀打ちを通して両腕に伝わる。
    「くっ!」
     弾き飛ばされて足元が滑るのを、なんとか踏みとどまる。
     身体を起こそうとした瞬間、脇腹に二撃目が入った。クー・フーリンは弾き飛ばされ、地面に転がった。
     うめく間もなく身体を転がすと、目の前にずかりと抜き身の剣が刺さった。
    「クー! これ!」
     はっとして手を伸ばせば、ぱしっと馴染みの感触がてのひらに伝わる。追いついたロイグが、新しい槍を投げたのだ。
     地面を蹴って立ち上がると、クー・フーリンは敵に躍りかかった。
     彼女を襲ったのは壮年の男だった。男は突き出される穂先をかわし、太い剣を振り上げる。
     クー・フーリンと男は激しく戦った。だがその間にも、雄牛の吠える声はどんどん遠ざかっていく。思わず、そちらに目線を向ける。
    「おい、待て!」
    「どこを見ている!」
     白刃のひらめきに、クー・フーリンは振り向きざまにさっと槍を振るう。キィンと音を立てて、刃と刃がぶつかり合った。
    「邪魔だ、どけ!」
    「そうはいくか!」
     男は手強かった。牛を追いかけねばと気ばかり焦り、クー・フーリンは歯噛みする。
     不意に男が「うっ」と呻いた。飛んできた小石が、こめかみにぶつかったのだ。男の意識が一瞬逸れる。
     隙あり!
     クー・フーリンは、すばやく男の胸に槍を突き刺した。肉を貫く感触に、さらに思い切り力を込める。
     男はうめき、どさっと地面に倒れた。投石具を手にしたロイグが駆け寄ってくる。
     とどめを刺す時間も惜しく、クー・フーリンはそのまま牛を追おうとした。だが、くぐもった笑い声が聞こえて足を止める。
     顔を向ければ、地面に倒れた男が薄ら笑いを浮かべていた。
    「牛に構っている場合か?」
     男はしわがれた声で笑い、ゲホッと咳き込んだ。鮮血が男のあごを濡らす。
    「なに?」
    「おまえが守るべき浅瀬が、どうなってもいいのか?」
    「……!」
     クー・フーリンは息を飲んだ。アルスターの宝である雄牛を奪還しなくてはならない。
     だが、そうすれば、あの浅瀬を守る者は誰もいなくなる。アイルランド連合軍は、土地に攻め込み、嬉々として略奪と殺戮を行うだろう。
    「くっ……」
     赤牛が連れ去られた方向に目を向けるが、略奪者たちの姿はもう見えなくなっていた。
    「諦めるんだな。所詮、おまえなんかには何もできな」
     ずが、と嫌な音がして、男の頭を槍が貫いた。
     一瞬にして、あたりが静かになる。
     遠くで、ギャア、ギャアというワタリガラスの声が響いた。
    「クー……」
     ロイグがつぶやくのが聞こえた。槍を握る手がぶるぶると震える。突き上げてくる衝動のまま、クー・フーリンは絶叫した。
    「メイヴ──!!」
     怒りの咆哮が、薄闇に沈んでいく空を引き裂いた。
     
     急いで浅瀬に戻ると、連合軍の姿はまだ対岸にあった。クー・フーリンはロイグが止めるのも聞かず、ずかずかと川に踏み入っていく。
    「メイヴ!」
     浅瀬の真ん中で怒鳴れば、何事かと兵士たちが彼女を見た。
     一人、戦車の上でゆったりと寝そべっていた女王は、怒りに震えるクー・フーリンに悠然と目を向けた。
    「なあに? 今日の一騎打ちは終わったはずだけれど」
    「てめえ、約束を破ったな!」
    「約束?」
    「オレが一騎打ちをしてる間、仲間に赤牛を奪わせたろ!」
    「あら、何のことかしら」
     メイヴは表情ひとつ変えず、ばさりと髪をかきあげた。
    「私たちはこの場所から動かなかったわ。目の前にいたんだから、あなただって知ってるでしょ」
    「ふざけるな。こっそり手下どもを向かわせたんだろ」
    「何を言いだすかと思えば。何か証拠でもあって?」
    「男どもが牛を連れ去った。それだけで十分だろ!」
    「馬鹿馬鹿しい。あの牛がここにいないのなら、私も探しに行かなくてはね」
    「はぐらかすな! 戦士の約束を破るなんて、オレへの恥辱だ。戦士の風上にも置けない、最低の女め!」
    「まあ、随分な口の利きようだこと。それじゃあ、こちらも言わせてもらいますけどね、お嬢ちゃん」
     メイヴは身体を起こすと、鋭い瞳でクー・フーリンを睨みつけた。
    「私が約束したのは、あなたと私の勇士が戦っている間は軍を進め、戦いが終われば軍を進めないということよ。そして、私はそれを忠実に守っている」
     ゆっくりと指を振り、メイヴは口角を引きあげた。
    「でも、それ以外は約束していない。軍からはぐれた者たちが何をしようと、あなたと交わした約束に影響はないわ」
    「なっ……」
     クー・フーリンは絶句した。その表情を見下ろしながら、メイヴは艶然と笑みを深める。
    「でも、そうね。あなたが約束は破られたと言い張るなら、もうどうしようもないわ。こちらとしては、それこそ私への恥辱ととるわ。これから先、どうなるか覚悟してらっしゃい」

    「やられた」
     両手で頭を抱えるクー・フーリンを、ロイグは労わるような面持ちで見つめた。
     ちらちらと燃える小さな焚き火が、二人の背後に薄暗い影を揺らめかせた。
    「仕方ない。言葉は取り消せないんだから」
     ロイグは、なぐさめるように幼なじみの肩に手を置く。クー・フーリンは、すがるような目で友を見上げた。
    「なあ、ロイグ──」
    「ん?」
     クー・フーリンはかすかに口を開いたが、すぐに唇を引き結び、かぶりを振った。
    「いや、なんでもない」
     そのまま、視線を炎に移す。クー・フーリンは、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
    「やるしかないんだよな。マハの呪いが解けるまで、ここでオレが踏ん張らないと」
     ──だって、オレしかいないんだから。
     きゅっとこぶしを握り締め、クー・フーリンは目を閉じた。
     ロイグは、友の横顔がいつになく白いことに気づいたが、かける言葉が見つからなかった。

     メイヴは、情けも容赦もなかった。
     彼女は一騎打ちの約束は反故になったと断じ、一度に何人もの戦士を送ってくるようになった。
     大軍勢での奇襲こそしなかったが、明らかに劣勢になったクー・フーリンは、徐々に、だが確実に押されていった。
     夜になって、ロイグから手当てを受けるクー・フーリンの表情は、暗く沈んでいた。その肌には、真新しい傷がいくつも増えていった。

     日はとうに暮れたが、どうしても眠れず、クー・フーリンはロイグを先に休ませた。
     愛馬たちは、とっくに眠りについている。マントにくるまって夜空を見上げれば、細い月が、闇に白い爪痕を立てていた。
     ぼんやりと空を眺めていると、じわりと景色が滲んだ。うつむいて目を拭い、再び空に目をやる。
     さっと黒いものが月を横切った気がして、思わず瞬きをした。
     そのときだ。
     突如、クー・フーリンは違和感に気づいた。──静かだ。静かすぎる。
     木々のざわめきや獣の遠吠え、ぱちぱちと火の中で爆ぜる薪の音が、急激に遠ざかってしまったようだった。抱えていた槍を握り、クー・フーリンは油断なくあたりを見回した。
     かさり、という微かな音。振り向きざまに槍を構えたところで、クー・フーリンは息を飲んだ。
     どうして気づかなかったのだろう。わずか三歩と離れていないところに、黒衣をまとった女が立っていた。
     女は美しかったが、その眼差しには、どこか人を見下すような冷ややかさがあった。まるで値踏みをするように、じっとこちらを見つめている。
     クー・フーリンは凍りついたようになって、女の視線を受け止めた。
    「──そう」
     女は口を開いた。その声は、ひどく艶やかに耳を打った。
    「これが、あの男の落とし子か」
     玻璃のような瞳がゆっくりと細められた。
    「無様な」
    戦女神モルガン 固まっているクー・フーリンを見つめるうちに、女の顔には、露骨なあざけりの表情が現れた。
     馬鹿にするような笑みが真っ赤な唇に浮かんだのを見た瞬間、クー・フーリンは頭がかっと熱くなった。
    「誰だ、貴様は!」
     マントを跳ね除け、クー・フーリンは憤然と立ち上がった。
    「メイヴの使いか? 開口一番が侮辱とは、ご挨拶じゃねえか」
    「口だけは活きがいいな。仮にも、おまえの父親の知り合いに向かって」
    「なに?」
     驚きのあまり、クー・フーリンは思わず構えていた槍を下げた。
    「父さまの知り合いだと? じゃあ、あんたはアルスターから来たのか?」
    「馬鹿な子。スアルダウ・マック・ロイのことではない」
     女は、呆れたように肩をすくめた。
    「おまえの『本当の』父親だ」
     クー・フーリンは目を丸くした。暗闇の中に佇む女は、ほう、とため息をつく。
    「あの男の娘が戦っているというから、見に来てみれば。こんな情けない姿を見せられるとはな」
     心底嘆かわしいとばかりに首を振り、女はつぶやいた。
    「まったく、悪趣味もいいところ」
     茫然と女の言葉を聞いていたクー・フーリンだったが、自分の両親が侮辱されているらしいことはわかった。新たな怒りが、腹の底でめらめらと首をもたげる。
    「……おい。黙って聞いてりゃ、言いたい放題言ってくれるじゃねえか。殺す前に、名前だけは聞いといてやる」
    「すぐ頭に血が上るのは、あの男譲りか?」
     ただの兵士なら震え上がるような声音にも動じず、女はつんとあごを引く。
     クー・フーリンは怒りをこらえたまま、じっと女の顔を見つめた。初めて会ったはずなのに、その目をどこかで見たような気がした。
    「モルガンだ。──戦女神、モルガン」
     その名を聞いた瞬間、クー・フーリンは身体中の血がざっと引くような感覚に襲われた。
     戦女神モルガン。朱に染まる戦場を舞い、戦士たちに栄光と死を与える、魔の女王。
     じわりと汗ばむ手で槍を握り直し、クー・フーリンは笑みを作ってみせた。それが不敵に見えるように願って。
    「名高い女神様が、わざわざオレの前に現れてくれるとは、光栄だね」
    「自惚れないことだ。戦の匂いがするところなら、私はどこにでもいる」
     モルガンはさらりと優雅に髪を払った。間近で槍を突きつけられているのに、まるで気にする様子がない。
    「そんなにボロボロの身で、このまま戦い続けるつもりか?」
    「ああ」
     なぜ戦女神がそんなことを聞いてくるのかわからなかったが、クー・フーリンはうなずいた。モルガンは、どこか蔑んだ口調で言った。
    「人間どものくだらない争いのために、おまえが一人で立派に血を流すというわけか」
    「そうだ。それがオレの宿命だからだ」
    「宿命、ねえ」
     モルガンが繰り返す。クー・フーリンはふんと鼻を鳴らした。
    「あんたにはわかんねえだろうさ。それより、なんでオレの前に現れた、戦女神。戦士の血をすすりに来たのか? あいにくだが、オレはまだ死んじゃいないぜ」
    「おまえを、誘いに来たのだ」
    「はあ?」
     クー・フーリンは怪訝な顔をした。
    「誘いに来ただと?」
    「そうだ。おまえをこちら側に迎えようと思ったのだ。常若の国〈ティル・ナ・ノーグ〉に」
     思いがけぬ言葉に、クー・フーリンはかすかに目を見開いた。モルガンは、こんな状態に似つかわしくないほど穏やかな口調で続けた。
    「おまえには半分だが、神の血が流れている。そんなおまえが、人間どもの汚い欲と憎悪にまみれていく様は、正直見ていられない。こちら側にくれば、苦しみや痛みから逃れて、末永く幸せに生きられる」
     モルガンは、じっと半神半人の娘を見つめた。突然のことに、クー・フーリンはどう反応していいのかわからなかった。乾いた唇を舐め、戦女神を見据える。
    「……なんで、そんなことを言うんだ」
    「言ったであろう。今のおまえを見ていられないのだ」
    「──オレの父上も、そうお思いなのか」
    「さあ」
     モルガンは軽く目を閉じ、肩をすくめた。
    「あの男が何を考えてるかは知らぬ。だが、少なくとも、おまえに同情している神は多い」
    「……同情だと?」
     身体中を稲妻のように熱が走り抜ける。それと同時に、頭の隅がシン、と冷えていくような気がした。
     クー・フーリンは深く息を吸い込み、きっぱりとした口調で言った。
    「あいにくだが、断る」
    「──ほう?」
     モルガンはかすかに眉をひそめた。
    「なぜだ?」
    「オレは戦士だ」
     女神の眼差しを鋭く見返しながら、クー・フーリンは続けた。
    「戦うために生きて、戦って死ぬ。それがオレの人生だ。神様どもの同情も、ぬくぬくした幸せも必要ねえ」
    「女神が差し出した手を振り払うというわけか?」
    「そうだ」
     クー・フーリンは槍を突き出し、穂先をぴたりとモルガンの胸に突きつけた。
    「オレは、オレの役割を果たす。王との約束を守り、アルスターの盾になる。そのために死んだとしても構わねえ」
     青白い穂先が、月の光を反射してきらりと光った。
    「わかったなら、オレの前からとっとと失せろ」
     モルガンは、底冷えのするような怒りを瞳にたたえ、クー・フーリンを睨みつけた。
    「強情だな」
     戦女神は、苛立ちを隠しきれない声で言った。
    「そうか。そこまで言うなら、よかろう。あとから後悔しても遅いぞ」
     モルガンは、不意に両腕を伸ばした。クー・フーリンには、巨大な烏が翼を広げたように見えた。
    「明日の一騎打ち、楽しみにしていることだ」
     低い声で言い捨てると、モルガンは闇の中に溶けるように消えていった。
     女神の姿が消えた瞬間、厚い幕が取り払われたかのように、周囲の音が戻ってきた。
     木々のざわめき、獣の遠吠え、薪の破裂。まるで、すべてが夢だったかのように。
     クー・フーリンは槍を握ったまま、その場に立ち尽くしていた。夜風が立てるびょうびょうという音が、嫌に耳の奥で響いていた。


     翌朝の挑戦者は、珍しく一人だった。ロッホという名の戦士で、誇り高いことで有名な男だった。それゆえに、メイヴも彼に一騎打ちを許したのだろう。
     クー・フーリンはいつもと同じように敵を出迎えたが、二人が浅瀬の中央で槍を構えたとたん、思いがけないことが起こった。
     いきなり、川の中から巨大な鰻が躍り出たのだ。
     鰻はクー・フーリンの足にすばやく巻きつき、浅瀬の中に引き倒した。クー・フーリンは驚き、邪魔者を引きはがそうとした。
    「なっ……!?」
     挑戦者であるロッホも、目を丸くして動きを止めた。
     しかし、大鰻がクー・フーリンばかりを狙い、自分には向かってこないと気づくや、ロッホは好機とばかりにクー・フーリンに襲いかかった。
    「くっ!」
     真上に振ってきた大槍をなんとか盾で受け流すが、鰻に足を封じられて、思うように身動きがとれない。
     火花が飛び散るほど凄まじい打ち合いの中、川底の石に足をとられ、クー・フーリンの体勢が崩れた。
     大きく隙ができたクー・フーリンの胸元をロッホの大槍が狙う。とっさに身体をひねった瞬間、左肩を穂先が勢いよく貫いた。
    「ぐあっ!」
     焼けつくような痛みが襲う。クー・フーリンは歯を食いしばり、川の水をすくってロッホにぶちまけた。白い飛沫に、一瞬ロッホの動きが止まる。
     その隙になんとか大槍の間合いから転がり出ると、クー・フーリンは力任せに大鰻を掴み、空中に放り投げた。黒い影が宙に舞う。
     次の瞬間、鰻は狼に姿を変えた。狼は身を翻し、ひらりと浅瀬に降り立つと、鋭い牙をむき出しにしてクー・フーリンに飛びかかった。
    「こいつ……!」
     くるりと槍を回転させ、狼の胴に石突を叩き込む。狼はくぐもったうめき声をあげた。
     だが、息つく暇もなく、背後からロッホが迫ってきた。応戦しようと身構えるより早く、大槍はクー・フーリンの胴をとらえた。
    「がッ……!」
     熱い痛みが脇腹に走る。続けざまに、腕と足を深く切り裂かれる。
     クー・フーリンは必死に自分の槍を掴み、飛び退きながらロッホの大槍を弾いた。
     着地と同時に石を拾い上げ、狼に向かって投げつける。石は狼の片目に命中し、獣はギャウンと大きな悲鳴をあげた。
     狼の姿が、陽炎のように揺らぎはじめる。クー・フーリンははっと息を飲んだ。狼の姿が消え、巨大な雌牛が現れた。片目からは、赤黒い血がダラダラと流れている。
     雌牛は一声吠えると、激しく水しぶきを跳ね上げながら突進してきた。
     クー・フーリンは、すばやく逆側に目をやった。体制を立て直したロッホが、大槍を構えて向かってくる。
     クー・フーリンは歯を食いしばり、両足に力を集中すると、真上に高く高く飛び上がった。城壁をも軽々飛び越えるような大跳躍だ。
     ロッホがははっと足を緩め、雌牛との衝突を避けようとする。雌牛も、戸惑ったようにたたらを踏んだ。
    「クー! これを!」
     叫び声がして、槍が自分めがけて飛んできた。ロイグだ。
     クー・フーリンは空中で新たな槍を掴むと、一本をロッホへ、もう一本を雌牛へ向かって、立て続けに投擲した。
     流星のような勢いで飛んできた槍は、敵たちの身体に深々と突き刺さった。
     雌牛は苦しげな悲鳴をあげると、かき消えるように姿を消した。
     ロッホもうめき声をあげ、その場に崩れ落ちた。だが、ばしゃんと川底に手をつき、最後まで倒れまいと身体を支えている。
     着地したクー・フーリンが近づいていくと、ロッホはわずかに顔をあげた。その顔は土気色に変わりつつあったが、瞳には消えない戦士の誇りがあった。
    「頼みがある」
     しゃがれた声で、ロッホは言った。
    「敵に背を向けて死にたくない。どうか、アルスターのほうを向いて死なせてくれ。──頼む」
    「……わかった」
     クー・フーリンは疲れ切っていたが、敵ながら、この男の気持ちは痛いほどわかった。
     傷の痛みをこらえ、川底の石に足を取られてよろめきながらも、クー・フーリンはなんとかロッホの身体をアルスター側に向けてやった。
    「感謝する、光の御子」
     かは、と血を吐き、ロッホはそのまま動かなくなった。
     クー・フーリンは、ぼんやりと男の死体を眺めた。
     ひどく疲れを感じて、この場に座り込んでしまいたかった。まるで、すべての力が溶け落ちてしまったかのように、身体が重かった。
     だが、そんな姿を、メイヴたちに見せるわけにはいかない。
     クー・フーリンはロッホの身体から槍を引き抜くと、野営地へ戻るべく、よろよろと歩き出した。
     流れ続ける血で、ずるり、と足元が滑った。転ばないよう、槍で身体を支える。
     ぼんやりとした視界の中で、ロイグが走ってくるのが見える。クー・フーリンは足をひきずりながら、幼なじみへ向かって歩き続けた。

     びりり、と耳障りな音が響く。ロイグは裂いた布で、薬を塗ったクー・フーリンの腕をきつく縛った。強い力で圧迫され、クー・フーリンが顔をしかめる。
    「薬が足りないな」
     手早く処置を行いながら、ロイグがつぶやいた。御者は立ち上がり、戦車から毛布と水の入った皮袋を取り出すと、クー・フーリンに渡した。
    「薬草を探してくる。おまえは休め」
    「ああ……頼む」
     ロイグはうなずいた。ピューイ、と口笛を吹いてマハを呼び寄せると、その背にまたがり、森の中へと入っていった。
     友がいなくなると、シン、とあたりが静まり返った。身震いをして、クー・フーリンは渡された毛布を身体に巻きつける。
     薄闇が忍び寄ってくる中、ぱちぱちと燃える炎の色が、だんだんと赤味を増していく。それにつれて、そばで草を食んでいるセングレンの影が、次第に見えなくなっていく。
     不意に、セングレンが首をもたげた。何かを探るように、耳をぴくり、ぴくりと動かしている。
     やがて、クー・フーリンのそばに寄ってくると、ぐいっと鼻面を肩に押しつけた。
    「どうした?」
     問いかければ、愛馬はぶるる、と鼻を鳴らし、さらにぐいぐいとクー・フーリンの背中を押してきた。
     わけもわからずクー・フーリンが立ち上がると、セングレンはついてこいとばかりに歩き出した。
    「おい、どこ行くんだよ」
     主人の問いかけにも黒馬は答えず、さくさくと草を踏み分けていく。
     足を引きずりながらクー・フーリンがついていくと、大きな薮の前で、セングレンはぴたりと止まった。首を伸ばし、藪の向こうを覗き込むような仕草を見せる。
     クー・フーリンも枝葉をかき分け、愛馬が気にしているものを見ようとした。
    「あっ……」
     そこには、一羽のワタリガラスがぼろぼろになって横たわっていた。
     身体がかすかに上下していることから、まだ息はあるようだが、あちこちに深い傷があった。狐にでもやられたのだろうか。
     だが、なぜセングレンが怪我をした鳥を気にするのかがわからなかった。
     クー・フーリンは愛馬を見上げた。黒曜石のようにつぶらな瞳が、じっと見返してくる。
    「わかった、わかったよ」
     その視線にうながされるように、クー・フーリンはワタリガラスに近づき、その身体をそっと抱き上げた。
     小さな黒い生き物は、ひどく軽かった。よく見ようと顔を近づけたとき、クー・フーリンは、そのワタリガラスの片目が潰れていることに気づいた。
    「……!」
     まさか、という考えが稲妻のように脳裏を貫く。
     その瞬間、次々と鮮明な光景が目の前に弾け、思わずワタリガラスを抱く腕が震えた。氷雨に打たれたような冷たさが、さっと身体を通り過ぎる。
     とん、と軽く背中を押される感覚に、クー・フーリンは我に返った。振り返れば、セングレンが尻尾を揺らしながら、静かに主人を見つめていた。
     クー・フーリンは少しの間ためらったが、やがて、ワタリガラスを抱いたまま、焚き火のそばへ戻っていった。後ろからは、セングレンがついてくる足音が聞こえた。

     橙色に燃える炎のそばに腰掛け、膝の上にワタリガラスを乗せると、クー・フーリンはロイグが置いていった薬の容れ物を手に取った。
     覗き込めば、中身はほとんど残っていない。わずかな薬を指ですくいあげ、クー・フーリンはワタリガラスの傷にそっと塗りつけていった。
     治癒魔術でも使えれば早いのだろうが、今の自分には、そんな魔術を使うだけの力はない。
     布を水で濡らし、ワタリガラスの潰れた目を慎重にぬぐう。
     血を拭き取り、薬をつけようとしたところで、わずかにカラスが身じろぎをした。潰れていないほうの目がうっすらと開く。
     ワタリガラスはクー・フーリンの顔を見上げると、驚いたように一声鳴き、翼をばたつかせた。
    「あ、こら、暴れんな!」
     膝から転がり落ちそうになった鳥を慌てて支え、クー・フーリンは叱るように言った。ワタリガラスはぴくっと身体を震わせ、おとなしくなる。
    「じっとしてろよ」
     クー・フーリンは手早くカラスの目に薬を塗ると、その身体を持ち上げて、地面に広げた毛布の上に下ろしてやった。
     ワタリガラスは、探るようにクー・フーリンのほうを見上げていたが、セングレンが近づいてくると、そちらに視線を向けた。
     黒馬はぶるる、と鳴いて、興味深そうにワタリガラスを眺めた。黒い生き物同士が、じっと見つめ合っている。
     やがて、ワタリガラスは深々とため息を吐いた。次第に輪郭がぼやけ始める。
     鳥の姿が溶けるように消えたかと思うと、そこには一人の老女が座っていた。長い髪はぼさぼさに乱れ、皺だらけの顔を醜く歪めている。
    「それがあんたの本当の姿かい、モルガン」
     戦女神は答えず、片目でクー・フーリンを睨みつけた。
    「どういうつもりだ?」
    「おまえに聞きたいことがあったからさ」
     クー・フーリンは身を乗り出し、老女の顔を正面から見据えた。
    「影の国で、オレの前に現れた鳥はおまえだな?」


     モルガンは、無言でクー・フーリンの視線を受け止めた。
    「あの日、樫の枝にいたカラスはおまえだろ、モルガン」
     老女は黙りこくったままだったが、クー・フーリンはそれを肯定と取った。
    「ずいぶん前から、オレにつきまとってたみてえじゃねえか。まあ、最後は師匠に追っ払われてたが」
     クー・フーリンは、鋭く女神を睨みつけた。
    「何が目的だ?」
     戦女神は、いかにも不快そうな表情を浮かべた。
    「つきまとうだなんて、嫌な言い方だ」
    「事実だろ」
    「…………」
     モルガンは大きく息を吐き、仕方なく、という調子で口を開いた。
    「あの男──ルーが見初めた人間の子に、興味があったのだ」
     クー・フーリンは険しい表情を変えず、女神を睨み続ける。
    「興味だと?」
    「ああ。ルーが人間との間に子を作ったと聞いたときは、驚いた。マナナンやオグマまで驚いていたから、相当だ。神族の妻たちもいるのに、なぜかと」
    「その子どもが、オレってわけか」
    「そうだ」
     老女はうなずいた。
    「直接問い質したわけではないから、詳しいことまでは知らぬ。だが、ルーは、私たちの中でも特別な存在だ。そんな男の落とし子がどういうものか、どうしても気になったのだ」
    「……父上って、そんなに有名なのか?」
    「もちろんだ。何といっても、あの魔王バロールを倒した男だから」
     クー・フーリンは、いつしかモルガンの話に聞き入っていた。
     見たことも会ったこともない『父親』の話は、彼女の興味を強く惹きつけた。モルガンは続けた。
    「だから、おまえのことは赤子のときから知っていた。ハーリングで王に口ごたえしていたことも、クランの番犬を殺したことも、エメルとかいう娘に懸想していたことも」
    「な、なんだよそれ……」
     クー・フーリンは頰を赤らめ、口をパクパクさせた。
     冗談じゃない! そんな昔から、こいつはオレのことを見ていたっていうのか!?
    「おまえが影の国を目指して旅に出たときも、な。そういえば、おまえが底なし沼をどうしても渡れなくて、しょぼくれていたことがあったな」
    「しょぼくれてるって言うな!」
     羞恥のあまり、クー・フーリンは噛みついた。モルガンはかすかな笑みを浮かべ、孫をいなすように、皺だらけの指を振った。
    「どうするかと思い、私は木陰から見ていた。そうしたら──驚いたな。あのルーが、わざわざ手を出してきたのだから」
    「え?」
     クー・フーリンは瞬きをした。モルガンは、「知らなかったのか?」とばかりに首を傾げる。
    「空から降ってきた光輪が、泥を焼いて道を作っただろう。あれはおまえの父親のしわざだ」
    「嘘っ!?」
     耳を突き破るような大声に、モルガンは顔をしかめた。クー・フーリンは頰を紅潮させ、瞳を火花のようにきらめかせた。
    「あれが、父上の……?」
    「あの男、身内にはとことん甘いと見える。対価もなく、人間に手を貸すなんて」
     モルガンは呆れたように言った。クー・フーリンは押し黙ったが、いまだ興奮冷めやらぬという顔をしている。
    「ああ、質問に答えなくてはな」
     ふと気づいたように、戦女神は顔をあげた。
    「確かに、影の国で私はおまえを見ていた」
     クー・フーリンは、はっと顔をあげた。この女神に本当に聞きたいことを思い出したのだ。
    「やっぱりか。それで、おまえの目的は何なんだ。オレにあんなもん見せやがって」
    「あんなもの?」
     老女はわずかに眉をひそめた。
    「何のことだ」
    「とぼけやがって」
     ごまかされたと思い、クー・フーリンの口調に苛立ちが混じる。
    「燃える城やら、牛捕りの様子やらをオレに見せただろ」
     モルガンは訝しげな顔をして、首を振った。
    「私は知らない」
    「嘘つくな!」
     クー・フーリンはいきり立ち、声を荒げた。
    「おまえを見た瞬間、オレの頭の中がぐちゃぐちゃになったんだぞ。血みどろの光景を散々見せられて。そのせいで、予定より早く子どもが生まれちまったし……」
     まくし立てるクー・フーリンに向かって、モルガンはきっぱりと言った。
    「私は対価なく予言はしない。おまえが何かを見たのなら、それは私の意思ではなく、おまえ自身の力だろうな」
    「なに?」
     思いがけない言葉に、クー・フーリンは戸惑った。あれが、オレ自身の力だと?
    「けど、そんなこと、今までは……」
    「私が、おまえに近づきすぎたからかもしれぬ」
     モルガンは、考え込むように言った。
    「影の国は幽世に近く、世界の境目が曖昧な〈揺らぎ〉の場所。そこに、半神で、しかも身重のおまえがいれば、私の神性に引っ張られて、何らかの影響が出ることは大いに考えられる。それが、予知や暗示の形で見えたのかもしれない」
    「…………」
     クー・フーリンは黙り込んだ。目の前の老女が嘘をついているようには見えなかった。
     では、自分は自分の力で、〈牛捕り〉という未来を見ていたというのか?
     この女神に問えば、あの光景の奔流で見たすべての答えがわかると思っていたのに。
     それじゃあ、と思う。

     燃える城の中で、助けを求めていたのはいったい誰だ?

    「とにかく、借りを返そう」
     モルガンの声に、クー・フーリンは我に返った。
    「借り?」
    「ああ。人間の薬だろうと、手当ては手当てだからな」
     老女は、薬が塗られた片目に触れる。クー・フーリンは顔をしかめた。
    「いらねえよ。本心からおまえを助けたかったわけでもねえし」
    「おだまり。何であれ施しを受けたままなぞ、私が気持ち悪いのだ」
     モルガンは口をすぼめ、小声で何ごとかを唱えた。皺だらけの手に、ふわりと小さな壺が現れる。モルガンは、それをクー・フーリンに差し出した。
    「飲むがよい。少しは元気になるはずだ」
     クー・フーリンはちらりと壺を見たが、手を伸ばそうとしない。
    「それなら、おまえが飲めばいいだろ。さっきまでくたばってたんだから」
    「おまえが来なくても、姉が私を迎えに来ていた。いいから飲め。タラの聖石に誓って、毒ではない」
     強引に迫られ、クー・フーリンはしぶしぶ壺を受け取った。
     覗き込めば、中身は牛の乳のように見えた。ふつふつと小さく泡立ち、ほわりとした湯気と甘い香りがただよう。
     なぜかひどく喉の渇きを覚えて、クー・フーリンは、思い切って壺に口をつけた。温かい乳がゆっくりと喉を伝い、じんわりと身体を暖めていく。
     温もりが腹に満ちると、少しだけこわばっていた気持ちが緩んだ。
    「……うまい」
     モルガンは、満足そうな顔でうなずいた。
    「あんたが邪魔しなきゃ、オレだってそんな怪我させなかったぜ」
     ぼそり、とつぶやかれた言葉に、戦女神は片眉をあげた。
    「私だって、おまえが素直についてくれば、邪魔なぞしなかった」
    「でも、オレは」
    「ああ、みなまで言うな。わかっている。──まったく、下手に才を持って生まれてしまったばっかりに」
     老女の口調はどことなく哀れみを帯びていた。その言い方がクー・フーリンを苛立たせたが、なんとかそれを抑え込み、乱雑に手を振った。
    「もう、行けよ。オレは明日も戦わなきゃならないんだから」
     モルガンは、じっとクー・フーリンを見つめた。
    「……なんだよ」
    「最後に、もう一度聞く」
     静かな口調が、しじまを打つ。
    「私と共に来る気はないか?」
     クー・フーリンは黙ったまま、しかし、きっぱりとかぶりを振った。
    「そうか」
     女の言葉が、低く地に落ちた。
    「残念だ」
     固い声音が妙に胸を波立たせ、クー・フーリンはそっと戦女神の顔をうかがった。とたんに、星々を映す湖のような瞳が自分をとらえていることに気づき、どきりとする。
     戸惑いをごまかすように咳払いをすると、クー・フーリンは軽く壺を掲げた。
    「じゃあな、モルガン。──うまい乳の礼に、御身が健やかにありますよう」
     老女の頰に微笑の影が通り過ぎる。次の瞬間、一羽のワタリガラスが、バサバサと夜空に向かって飛び立っていった。

    「おや」
     聞き慣れた声に、モルガンは顔を上げた。一羽のズキンガラスが、優雅に頭上を羽ばたいている。
    「思っていたより元気そうだな」
    「おかげさまでな」
     姉のバイヴは、くすくすと笑った。
    「あの子のことは、もうよいのか?」
     モルガンは胸を膨らませた。カラスの姿でなければ、思いっきり顔をしかめているところだ。傷つけられた片目がじんじんと熱い。
    「あんな生意気な子どもは初めてだ。せいぜい、後から悔いるがよいわ」
    「ふふ、そうか。──おや」
     そこで、姉は何かに気づいたように、声を上げた。
    「これは、これは。よい祝福をもらったのだな」
    「え?」
     妹が目を瞬かせると、バイヴはふわりと彼女のそばを舞った。
    「怪我が治りかけている。これなら、私が手を貸すまでもなさそうだ」
     モルガンは、慌てて自分の身体に目を向けた。見れば、あちこちの小さな傷がふさがりかけている。
     そういえば、さっきから薬を塗られた箇所がやたらと熱いと感じていたが、痛みが徐々に引いている気がする。
    「まさか」
    「大したものだ。さすが、神の王が愛した人間に贈った特製品、というだけはあるな。言の葉で女神の傷を癒すとは」
    「…………」
     その後もバイヴはしゃべり続けていたが、モルガンは黙り込んでいた。
     ふと、あの娘が海に身投げしたときのことを思い出す。
     粘つくような潮風を身体中に受け、城壁に立つ娘の青白い姿を見たとき、なぜだか胸がひやりとした。
     死にゆく人間など、見慣れているはずなのに。
     確かに興味対象ではあったが、この娘が死んだからといって、大したことではないはずなのに。

     自分はそれを見たくない、と思った。

     結局、あのときは、自分の姿を見ていたらしい人間の男が、彼女を助けていた。
     それに、かすかにルーの力も感じたから、自分が手を出すまでもなかった。滅多に地上に干渉しない男も、なんだかんだで、自分の子どもを見捨てられなかったのだろう。
    「本当に、甘い」
    「え?」
     知らないうちに、思いが口から出ていたのだろう。バイヴが不思議そうな顔で覗き込んできた。
    「何か言ったか?」
    「い、いや。何でもない」
     慌ててごまかしながらも、モルガンのまぶたの裏には、あの娘の姿が浮かび続けた。
     彼女が影の国からアルスターへ戻ってからも、ときどき、こっそりと様子を見に行った。
     婚礼の日の弾けるような笑顔。仲間たちと競い合う野心的な瞳。少女や少年を教え導く背中。
     ──そして、一人で大軍を迎え撃つことを決めた、静かな横顔。
     モルガンはそっと嘆息した。
     まったく。甘いのは、どっちだ。
    最後通告 メイヴはワインの杯を軽く揺らし、口に当てた。
     浅瀬では、クー・フーリンが挑戦者の骸の前で、激しく肩を上下させている。
     ふらりとよろめいたかと思うと、すぐに槍で身体を支えた。うつむき、垂れた前髪の陰から、ぼたっと血のかたまりが落ちるのが見える。
     メイヴは、ゆっくりと目を細めた。
    「そろそろ、限界かしら」
     傍らに控えていたメインは、不思議そうに母を見上げた。
    「立っているのもやっと、という感じね。さすがに哀れに思えてきたわ」
    「母上?」
     息子の怪訝そうな声には応えず、メイヴはちらりとフェルグスに目をやった。
     男は口を引き結んだまま、しかし眉間に深い皺を寄せて、自分の養い子が去っていく様を見つめていた。
    「ねえ、あなた」
     メイヴはぐるりと首を回し、奥に控えていたアリルを見た。
    「もう一度だけ、休戦のチャンスを与えてみない?」

    「クー!」
     甲高い少年の声に、クー・フーリンとロイグは驚いて顔をあげた。
     見れば、使者の枝を持ったルギーが、ぴょこぴょこと走ってくる。
     立ち上がりかけて、クー・フーリンはさっと緊張を全身に走らせた。ルギーの後ろから、もう一人、若い男がやってきたからだ。
     クー・フーリンに飛びつかんばかりの少年に、青年は静かな声をかけた。
    「王子。俺の前で、あまり彼女と親しげな様子を見せるのは感心しないな」
     ルギーはびくっと肩をはねさせ、後ろめたそうな表情で青年を見上げた。
     青年は、自分を睨みつけているクー・フーリンに視線を移した。胸に手を当て、軽く礼をする。
    「お会いするのはクルアハンの城以来だな。アリル王の息子、メインだ」
    「驚いたな。王女の次は王子か」
     腰の剣をまさぐりながら、クー・フーリンは低い声で言った。
    「落ち着いてくれ。今日は、ルギー王子とともに使者として来たんだ。ほら、何も武器は持っていない」
     メインは両手を挙げ、くるりとその場で回ってみせた。確かに、腰のベルトに刺した小枝以外に、持ち物らしいものはない。
    「僕一人で大丈夫だって言ったのに」
     そばでは、ルギーは不満そうに頰を膨らませている。メインは苦笑した。
    「そう言うな。俺も王の命令には逆らえんのさ」
     柔らかな口調になって、メインは弟にするように、少年の肩を優しく叩いた。ルギーも表情をほころばせ、年上の王子を見上げる。
     二人の気安げなやりとりにクー・フーリンは少しだけ警戒を解いたが、剣の柄に当てた手は離さない。
    「それで、今度はどういった申し出なんだ?」
     コノートの王子は真面目な顔になり、クー・フーリンに向き直った。
    「父上からのお言葉だ。あなたのおかげで、アイルランド連合軍は多くの勇士を失った。だが一方で、あなたも深手を負っている。マハの呪いが解けるまでの休戦を、もう一度考え直さないか、とのことだ」
     クー・フーリンは、メインの端正な顔を見つめた。どことなく、面影がメイヴに似ている。
    「信じられると思うか?」
     王子は肩をすくめた。
    「こればかりは、どうにも。だが、俺の言葉で無理なら、父上から聞くといい。父上は、あなたと直にお話ししてもいいとおっしゃっている。心配なら、武器を携えてきてくれても構わない」
    「…………」
     さやさやとした葉擦れの音が通り過ぎる。クー・フーリンは、全身を苛む痛みをこらえながら、めまぐるしく考えをめぐらせていた。
     正直なところ、体力も気力も限界にきており、休戦という言葉は冷たい泉の水のように甘やかに聞こえた。
    「おまえは先に帰れ、メイン。オレは、少しルギーと話す」
     ぶしつけな言葉に気を悪くする様子も見せず、メインはうなずいた。軽くルギーの肩を叩くと、あっさりと踵を返し、去っていく。
     王子の背中が丘の向こうに消えるのを見届けると、クー・フーリンはルギーに向き直った。
    「あいつが言ってたことは、本当か?」
     怖いくらいの固い声に、ルギーは戸惑った表情を見せた。
    「僕も、メイン王子が言ったとおりのことをアリル王から聞いただけだよ。でも、アルスターの猛犬と話す覚悟がある、とは言ってたよ」
    「メイヴは何も言わなかったのか」
     ルギーは困ったように目を伏せ、口ごもった。
    「女王は王の隣にいたけど、王は奴隷女をお供に連れていけばいいって言ってた。それなら、あの番犬も怖がらないだろうからって……」
     クー・フーリンの瞳に怒りの炎がきらめいた。
    「このオレが怖がるだと?」
     ぎり、と奥歯を強く噛みしめる。
     あの女! どこまでオレを侮辱すれば気が済むんだ!?
     大きく息を吸って気持ちを落ち着けると、クー・フーリンはルギーに言った。
    「わかった。アリル王と話そう。王には、心配なら兵士を連れてきてもいいと言ってやれ。ただし、あくまで平和的な会見にすると伝えろよ」
     ルギーは、鬼気迫るクー・フーリンの空気に、少しだけ怯えているように見えた。
    「わかった」と小さくうなずくと、急ぎ足でメイヴたちの元へ戻っていった。
     かさり、と草を踏む音がして、ロイグが歩いてくる。
    「本気か?」
     クー・フーリンは答えない。ロイグは表情を曇らせたが、すぐに気持ちを切り替えて言った。
    「あのメイヴのことだ。十分に用心しないとな」
    「ああ」
     ようやく、クー・フーリンはうなずいた。ロイグは冗談めかして続けた。
    「不意打ちに備えて、尻に剣でも仕込んでいったらどうだ。そこなら誰も気づかないだろ」
    「それもいいな」
     クー・フーリンはかすかに笑みを浮かべたが、すぐに気持ちは浅瀬に飛んでいった。
     ざあざあというせせらぎの音が、耳に蘇る。今までは何でもなかったその音が、自分にのしかかってくるような気がした。

     
     川のほとりにつけた戦車から飛び降り、クー・フーリンは目を凝らした。
     すでに日は落ち、透き通るような青い闇があたりを包み始めていた。
     向こう岸には、すでに王たちが揃っているようだった。松明の灯りを反射して、王冠がきらりと光るのが見えた。
     そばには数人の供が控えていたが、ルギーの言葉どおり、どうやら全員女らしい。
    「なめやがって」
     チッと鋭く舌打ちをして、クー・フーリンは浅瀬に降りていった。
     王たちも、こちら側に向かって歩き始める。一人の侍女が手を差し伸べ、朗々とした声で言った。
    「クランの猛犬殿。我が王からの挨拶を、あなた様へ──」
    「止まれ!」
     クー・フーリンは声を張り上げた。びくりと女たちが身をすくませる。
    「それ以上近づくな。まだるっこしいことは抜きにしようぜ、アリル王。あんたの──」
     突然、どんっと棍棒で殴られたような衝撃に、クー・フーリンは目を見開いた。見れば、左腕に深々と矢が突き刺さっている。
    「え……」
     顔をあげた瞬間、クー・フーリンは、無数の矢が自分に降りかかってくるのを見た。
    「!!」
     本能のままに飛び退けば、自分がいた場所に、矢が土砂降りのように突き刺さっていく。
    「アッ!」
     右足に熱い痛みが走り、思わず膝をつく。轟音のような雄叫びが次々とあがり、剣や槍を持った男たちが浅瀬になだれ込んできた。
     クー・フーリンは、目の前が白く灼けつくような気がした。もはや、戦士の誓いも誇りも何もない。まさか、ここまで卑劣な手を使われるなんて──!
     目の端で男が剣を振り上げるのが見え、転がるようにしてかわす。
     ばしゃ! と剣が水底を叩き割り、冷たい水しぶきが全身に降りかかった。
    「くっ……」
     すぐに別の方向から槍が突き出され、クー・フーリンの背中をかすめる。手を伸ばしてむんずと敵の槍の柄を掴むと、鋭い蹴りを食らわせて槍を奪い取る。
     幾重にも斬りかかってくる刃を弾き、応戦するが、いかんせん敵の数が多すぎる。
     男たちに囲まれ、クー・フーリンは、視界が霞んでくるのを感じた。切り裂かれる身体から鮮血が飛び散り、知らず知らずのうちに、口から悲鳴がほとばしる。
     そのときだ。
     ぶわり、と凄まじい風圧を感じたかと思うと、男たちが苦痛の叫び声をあげてクー・フーリンから離れた。
     黒い影が一直線に空を裂き、男たちに襲いかかっている。
     クー・フーリンは茫然として、敵兵が次々と目を潰されていくのを見た。
     ──それは、濡れたような翼を持つ、ワタリガラス。
    「なに!?」
     対岸から様子を見ていたメイヴも、驚きの声をあげた。もう少しで目障りな小蝿を叩き潰せたというのに、予想だにしない邪魔が入ったのだ。
     女王はいきり立ち、大声で兵士たちに命じた。
    「怯むな、私の勇士たち! 一気に片をつけなさい!」
     わああ、と声をあげ、男たちが獲物に向かっていく。ワタリガラスは顔をあげ、向かってくる新たな敵の一群を見た。
     クー・フーリンの目に、ワタリガラスの姿がぐんと大きくなったように見えた。
     次の瞬間、凄まじい暴風が沸き起こった。浅瀬の水が巻き上げられて、津波のように連合軍に襲いかかる。
     荒れ狂う奔流に戦士たちは次々となぎ倒され、一帯に怒号や悲鳴が響き渡った。

     ──逃げろ、クー・フーリン!

     頭の中に言葉が響く。クー・フーリンが驚いて空を見上げれば、ワタリガラスがこちらを見つめ、ギャアと一つ鳴いた。
    「モルガ……」
    「クー!」
     クー・フーリンは慌てて振り向いた。ロイグが戦車を御して浅瀬に飛び込んでくるのが見えた。
     周りはこんなに荒れているのに、不思議とロイグの戦車には波が襲ってこないようだった。
    「クー、退くぞ!」
     ロイグが叫ぶ。クー・フーリンが手を伸ばすと、ロイグはぎゅっとその手を掴み、抱え上げるようにして彼女を戦車に乗せた。
     そのままぴしりと手綱を叩けば、マハとセングレンはすばやく方向を変え、怒涛の勢いで走り始めた。
     クー・フーリンは、必死に後ろを振り返った。ワタリガラスが羽ばたくたびに、濁った高波と竜巻が猛り、メイヴの軍勢を飲み込んでいく。
     戦車が粉々に砕け、馬たちは狂ったようにいななき、男たちが阿鼻叫喚とともに流されていく。
     地獄のような光景だった。
     激しい揺れで身体中が戦車にぶつかり、クー・フーリンは頭がぼんやりしてきた。
     ロイグの腕がしっかり自分を抱えてくれているのを感じたが、だんだんそれもわからなくなっていく。
     やがて、クー・フーリンは、がっくりと意識を失った。
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