あのモミの木はプラスチックの匂いがした曹丕が気づいたときには既にロビーには巨大なツリーが設置されていた。毎年のことで新鮮さはない、しかし装飾は微妙に変えているようで丁度その飾り付けの作業が行われているところであった。主に外部業者が請け負っていると思っていたがよく見ればあれやこれやと指示を出しているのは己の部下だ。よくもまぁそんなことまでやるものだと、表情を変えないまま鼻を鳴らす。いずれこの社屋全てが曹丕のものになるが面倒事まで自身で抱えなければいけないのだと想像すると少々気が滅入る。イベント事には大して興味が持てない。
「一年って早いですね」
ほとんどの社員が避ける中、怯むことなく近付いてくる男はコーヒー片手に笑っていた。とても業務中とは思えない余裕っぷりに曹丕の眉間の皺が深くなる。
「悠長にしていられる身か」
「単なる休憩ですよ、曹丕殿。お望みでしたらもう一杯お持ちしましょうか」
いらん、と突っ撥ねても郭嘉は笑みを崩さなかった。
隣に立って同じようにツリーの方を眺める。コーヒーを啜って小さく息を吐き至極リラックスした様子で話題を戻される。
「いいものですよ、ああいう飾りって。社外受けを考慮するのならば是非続けるべきです」
「私は何も言っていない」
「そうでしたか?てっきり、面倒に思われて貴方の代ではやめる算段を描いているのかとばかり……」
曹丕は決して隣に視線を向けなかった。彼の前では何も隠せない。下手に否定すると深みにはまる。かと言って無理矢理他の話をする気にもなれず鬱陶しそうに顔を顰めることしか出来なかった。
「ほら、満寵殿も楽しそう」
「あれは……彼奴こそ他の業務があるだろう」
「彼の方が効率が良いですし、ね?」
電飾を両手いっぱいに持ちながらツリーの周囲で行ったり来たりを繰り返す満寵は二人に気付くことなく作業に没頭しているようだった。賢い上に体力もあり、加えて特大の好奇心がいい具合に彼を動かしているのだろう。曹丕とてわざわざ「やめろ」などとは言わない。寧ろ適任者が見つかって、都合が良い。
ふと我に返る。思わず足を止めてしまったがいつまでも留まる理由はない。今日やるべきことはまだ済んでいない。
「もう行くぞ。郭嘉、お前も」
「ああ、曹丕殿。あの素敵なツリーは今でも出してらっしゃるのですか」
言い終わるよりも先にこの場を後にしようと試みたが郭嘉の言葉によって阻止された。指一本すら触れられていないというのに思い切り掴まれた感覚がある。
「もう随分と昔の話ですけど……お家に大きなクリスマスツリーがあったじゃないですか」
嬉しそうに話す郭嘉は目を細めた。曹丕の方を見ているようでもっと後ろを見つめているように感じる。
黙ったまま曹丕も過去の記憶を探った。確かに幼い頃は立派なツリーが自宅に存在した。子供の頃からそういった物事への興味が薄かったせいで曖昧だが親戚に言われるがまま飾りつけに駆り出された気もする。そもそもあれは父親が何処かから貰ってきたものだ。実家で皆で暮らしていた時は毎年出していて何も思わなかったが、恐らく純粋な贈り物ではなかった。世の中を多少知った今なら想像に難くない。
「どうだろうな……いや、数年前に文烈が出していたな」
大して思い入れはないから行方など気にした試しがない。曹休が馬のオーナメントを見つけたと嬉しそうに飾っていたのは覚えているものの結局今現在、それがどこに仕舞われているのか定かではなかった。
「素敵なのに。是非もう一度見たいものですね」
「出さんぞ」
「では曹丕殿のご自宅は?お持ちではないのですか?」
「私が、そういうことをする男に見えるか?」
問い続ける郭嘉へ逆に質問を返せば微笑みしか寄越されなかった。曹丕の目尻が静かに痙攣する。派手好きめ、そう呟くと困ったように笑った。
「一緒に見たいな、と思ったんですよ」
それだけ言い残すと郭嘉は来た道を戻って行ってしまった。引き留めておいて自分はさっさと居なくなることに躊躇しないのだからますます痙攣が強くなる。そしてまた曹丕も彼を引き留めるようなことをせず、ただただ深いため息を吐いた。
「ツリーなど、いくらでも見られるだろうが」
この僅かな間にも着々と設置は進んでそれなりに出来上がってきた。ライトまで付けられて試しに点灯しているのか明るい空間で点いたり消えたりを繰り返している。
強くない光が瞳を刺激する。早く業務に戻った方がいいと理解している癖に不思議と曹丕の足は動かなかった。一緒に、とさらりと言われた彼の言葉が後になってじわじわと侵食してくるようで居心地が悪い。考えてみれば、あれは誘いというより強請っていたと言うべきなのだろう。
今更舌打ちをしたところでそれを受け止める者はいない。面倒だがこちらから追いかけてやらねばまた無闇に苛立つ可能性がある。若干振り回されている自覚を持ちながらも曹丕はツリーが簡単に手に入りそうな店をリストアップするべく郭嘉の向かった方へと歩き始めた。