なにみて跳ねる筆を滑らせ文字をしたためながら頭の中で整理をし、次の文言を浮かべてそれをまた綴っていく。手慣れたものだ。難しいことは何もない、あくまでも事務的な処理。楽しいものではないが苦でもない地味な作業だ。己によく合っていると半ば自嘲気味に荀攸は考えている。
それなのに煩わしいと思うのは背後からやってくる大きな気配が原因であった。
「……その様に凝視されているとやり辛いのですが」
「ん?ああ」
例えば少し下がった場所からこちらの背中を見てくる程度ならば集中力に支障をきたすことなどない。しかし熱視線の送り主は至近距離から遠慮することなく荀攸の手元を見つめてくる。
肩の辺りから覗き込むように立っている彼は間の抜けた声を返し、一言謝ってから数歩後ろに下がった。
「あっ、もしかして見ちゃいけないやつだったか!?」
「いえ。構いません」
「そっか、ならいいんだけど……まぁ、分かんなかったから大丈夫だぜ」
朗らかに笑う姿は穏やかだ。かと言って落ち着きがある訳でもなく少々退屈そうに荀攸の手元を見つめるのだった。
***
「しばし、此れの面倒を見てもらえるか」
内々に曹操に呼ばれ何事かと緊張気味に赴けば、そう言われた。拍子抜けだ。短く言葉にもならない声を漏らす。
此れと呼ばれた者はきょとんとした顔で荀攸をじっと見つめて、そこにいた。厳めしい印象はないが背丈が高いせいでやや威圧感がある。鳶色の目と髪。顔立ちは大人しそうに見えるが物言わぬせいでどうにも居心地が悪い。
静かに目を逸らして、荀攸は曹操へ問いかけた。
「……色々と伺いたいことがあるのですが」
「黙って受けてはくれぬか」
「せめて、一つだけ」
「ふむ。聞こう」
「何故俺なのでしょう」
「ん、なんとなくだ。直感だな」
荀攸は口を閉じた。唇の奥で歯を噛み締め溢れてくる質問を飲み込んだのだ。せっかく一つだけに絞った質問も納得できる答えを貰えず、やりようの無い感情を仕舞った。
「そう重く考えるな。今日一日だけ預かってくれれば良い」
「はぁ、ですが……」
「此奴はなかなかの槍の使い手だ。護衛とでも思え」
護衛。
政務に集中し外へ出ることが少ない荀攸にはあまり必要なものではなかった。警備をしている兵らで十分であるし有事の際には己でも対応ができる。
けれどもここにきてようやく男が反応を示したのだ。曹操の言葉に彼は「おぉ」と間延びした声でコクコクと首を縦に振っている。空気を読んでいるのかいないのか、意味を理解しているのかいないのか、分からない。
「御手杵だ、よろしくな」
大らかな声色と柔和な表情。主君よりも遥かに背丈の大きい彼は鷹揚に名乗った。
***
並んで歩いた体感では、主君の親衛隊らと同じような背丈である。けれども纏う雰囲気は独特だ。面倒を見てくれと頼まれた以上無下にする訳にも行かず、ひとまず荀攸は自分の執務室まで連れてきた。近くにいてもらえれば面倒はないだろうと考えた結果である。
「俺はやることがあるので……しばらくこの場所にいてもらえますか」
「ん、分かった」
丁寧な物言いをしない人だが不思議と苛立ちは沸かない。寧ろ素直に頷く姿は好感が持てる。主に聞けなかった分、尋ねたいことは山ほどあるがあまり口を開かない彼に質問攻めをするのも酷な話だろう。見るもの全てをしげしげと眺めているから、慣れない場所に多少の戸惑いを抱いているかもしれない。
そう思ったのだが、前言撤回。大らか過ぎて捉え難い。何を考えているのか分からない上、何か仕出かしそうだ。放置し過ぎるのも良くないと、荀攸はため息を吐いた。
「えっと、荀攸?ごめんな、俺、刺すくらいしか能がなくて」
「いえ、手伝いを欲している訳ではないので……刺す?」
「俺は槍だからなぁ。刺すことに特化した」
再びため息が漏れそうになり慌てて口を閉じる。思考が跳躍している人物は自軍にも何名かいるが話がここまで嚙み合わないのは初めてである。当たり障りのない返事をして作業再開を告げた。
「……ひと段落つきましたら食事にでも参りましょう」
彼のことを頭に置きながら筆を滑らせ始めた。そもそも何者なのだろうか。曹操が己に託す理由とは一体何であろうか。危険性がないと判断されたから任されたのかもしれないがそれにしたって適任する人物は、もっと他にいるだろうに。
頼られることが苦痛な訳ではない。荷が重いとまでは思わないが、つい叔父や他の軍師の顔を浮かべてしまう。
変に気が逸れてしまって筆の進みが遅い。一旦中止して休憩を入れるべきかと手を止めた瞬間、違和感を覚える。
勢いよく振り返れば部屋には荀攸しかいなかった。
「御手杵、殿」
聞いたばかりの名を呼ぶ。返事はない。姿も見えない。二度、三度と名を呼んでも自分の声が虚しく響くだけであった。
「御手杵殿、どちらへ」
中にいないということは外へ出たからなのだろうが、それにしたって物音ひとつしなかった。汗が背筋を伝う。
「どちらですか、御手杵殿!」
筆を放り投げ急いで廊下へ出る。上背があるからすぐ見つかりそうなものだが左右どちらを見ても、いない。
途端に心臓が騒がしくなる。腕が立つらしいが万が一危険な目に遭っていたら、己のせいだ。主に頼まれたのに目を離すなど言語道断、あってはならない。喉の奥が締まるような息苦しさを覚え荀攸はもう一度口を開いた。
「御手杵!!」
「おぉ、ここにいるぜ」
兎が跳ねるように、大層軽やかに彼が窓から現れた。着地の音も随分静かだ。武芸を嗜んでいるのは事実のようで身体の扱い方が上手い。
しかしそれどころではない。
「一体、どちらへ……」
「外に、ほらそこに桃の木があるだろ?」
「はぁ……確かにありますが」
「実がなってるなぁと思ったら、もいできた人たちがくれるって言うから」
言いながら差し出されたのはまさしく桃だった。緑色の部分が多くまだ熟していない。けれども甘い香りは十分漂っている、食べても差し支えないだろう。嬉しそうに話す彼は腕にいくつか抱えていた。
「荀攸の分も貰ってきたぞ」
「それは、どうも。しかし急に音もたてずにいなくならないでください……心配、しますので」
「あー……そうだな。悪かった」
謝罪をしながらも桃を差し出す手を引っ込めない。仕方なく荀攸が受け取れば、彼は申し訳なさそうな顔をぱっと明るくさせた。
「いい匂いだなー。うん、美味いな、これ」
いつの間にか齧りついて頷きながら食べ始めている。よほど気に入ったのか手の平を伝う汁には見向きもしていない。
何とも言い難い気分だ。切り替えの早さについていけない。我慢できず荀攸の口からは今日一番のため息が出てしまった。
「どうかしたか?腹でも痛かったのか?」
「……いいえ。桃、ありがとうございます」
半ば自棄になり、行儀を忘れて荀攸も桃に喰らいついた。