わたしの胃の中に蝶々膝裏が熱い。仄かに体に残る気怠さと喉の渇きが荀彧を覚醒させた。部屋に差し込む日の様子からしてまだ夜が明けたばかりなのだろう。冷たい空気の匂いを感じる。
共寝をするのには少々手狭な寝台のせいで体が軋んだ。自分でさえこうなのだから相手はもっと疲労が溜まっているに違いない。しばらくは起こさない方が良いだろうかと荀彧はそっと隣へ顔を向けて眠る彼の様子を窺った。ひどく静かだ。背をこちらに向けて眠る彼は微動だしない。
一旦名前を呼ぼうとして口を開くが、すぐに閉じた。起こすべきではないと今決めたのだからこちらも静寂を貫くべきだろう。
けれどもあまりにも静かで、そう思うと途端に不安に襲われた。呼吸はしているのか、脈打ってはいるのか。一旦思考がそちらへ向いてしまうともう戻れない。
「……郭嘉殿」
小声で呼ぶがそれくらいでは彼は起きない。荀彧は恐る恐る手を伸ばし、羽織を掛けて眠るの彼の背にそっと触れた。
「ああ」
安堵が口から零れた。低く唸るように出た声からよほど焦燥していたのが分かる。寝起きからこんな心配をしているなど馬鹿げているが、確認せずにはいられなかったのだから仕方がない。
「生きてるよ、大丈夫」
「……起きてらしたのですか」
「いま起きたんだよ」
まだ寝かせておいてあげようと羽織を掛け直した瞬間、掠れた声が聞こえてきた。すぐに体の向きを変えた郭嘉は荀彧を見て薄く微笑む。眠たいのか両目は開ききっておらず幾度も瞬いていた。
「まだ早いんじゃないかな」
欠伸をしながらそれを隠そうともせず郭嘉は寝直そうと言う。横になったまま腕を伸ばすが狭いせいで妙な体勢になり若干苦しそうだった。そして伸ばした手はそのまま荀彧へと触れ、もっと近くへと誘ってきた。
郭嘉の掌は温かいがそっと寄せた身は冷たい。
「やはり、眠るときは着こんだ方がよろしいのではないですか」
「そうかな」
「ええ。腕も脚も冷えていますよ。だから体調を崩すのです」
「荀彧殿が隣にいれば、平気だよ……」
顔を荀彧の首元へと寄せた郭嘉は囁くと深く息を吐いた。乾いた空気に熱い息が混ざる。荀彧はくすぐったさを感じながらも金色の髪へ指を絡ませた。二人の隙間が埋まって素肌が触れ合う。衣越しとは違った感触が何とも心地よかった。
さすがに荀彧も体を起こす気にはなれず時間の許す限りは横になっていようと決めたそのときだった。郭嘉の体が強張ったかと思うと二度、三度咳き込み口を押さえつつ彼は荀彧から体を離した。ごろりと向きを変えて誰もいない方へと咳き込んでいる。跳ねるように上半身を起こした荀彧は彼の名を呼んだ。
「郭嘉殿」
「だ、大丈夫……少し噎せただけだから」
「水、いえ、白湯を」
「大丈夫だから」
言葉通り軽く噎せただけらしくすぐに彼の咳は治まった。乾燥しているせいで早朝はよくあることだと苦笑しているが、荀彧は気が気ではない。ゆっくり眠ろうとしたのに心臓は落ち着きをなくし冷や汗が背を伝う。
「そんな顔をしないで欲しいな。大丈夫だよ、荀彧殿」
「……申し訳ありません。ですがどうにも、貴方のそれに弱いのです」
「そう……ごめんね」
謝って欲しくない。こちらが変に気を張ってしまうのをやめたいだけなのに郭嘉は困ったように笑い再び荀彧の近くへ顔を寄せた。
「ほら。寒いんだから、荀彧殿、くっついて眠ろうよ」
呼吸が落ち着いた郭嘉は荀彧の腕を引いた。その力に逆らうことなく荀彧も横になり自分を待ち望む彼の顔へと指を這わす。
白い頬、血色の良くない唇。細い首。痩せて目立つ鎖骨。愛しいのに悲しい彼の体をゆっくりと触って確かめた。指が伝わる鼓動が安心を与えてくれる。
「大丈夫だよ、荀彧殿。ずっと一緒だからね」
「ええ。そうですね……ずっと、一緒です」
ゆるやかに睡魔がやってきて二人揃って目を閉じる。遠くなさそうな別れに怯えながらも、手放しがたい狭い温もりが何よりも荀彧を満たしてくれた。