眠りについた記憶と（仮）「ミカサ、来年のお前の誕生日、結婚しないか」
年下の留学生である恋人にプロポーズをしたのは彼女の帰国予定1年前の春。
嬉しそうに涙を流して答えてくれたのはその直後。

結婚の準備も佳境に入っているはずの冬の日、俺は一人雪の舞う中、街のクリスマスツリーを眺めていた。

彼女は今、何をしているだろう。
あぁ、友人たちとパーティをすると言っていたか。


今の彼女にとって俺は何かと世話を焼いてくれる知り合い。
「これが俺との運命、だろ。きっと」
あと少しだけ、彼女と過ごせる、それで満足だ。
別れの時まであと少し。



彼女は記憶を失っていた。





『眠りについた記憶と』





ミカサとの出会いは2年前、ミカサが大学の夏季休暇を利用しての短期留学中だった。
駅の時刻表の前からいつまでも動かない若い女性。よく見れば、この国の者ではないことが窺い知れた。

「・・・おい、どうかしたのか」
努めて優しく声をかけたつもりだったが、俺は元々声が低く伯父の影響で口調も鋭い。そのせいだろう、ミカサはびくりと肩を震わせ振り返った。
「あ、い、いえ」
どこの国かは分からないが、東洋の方だろう。髪が黒いのはこの国にもいるが、目鼻立ちが特徴的だった。「いえ」と口では言うものの、明らかに困ってますという表情と態度。ぎゅっとバッグを握り締めているその手は震えるほどだった。

「どうしたと聞いている。俺の言葉、分かるか？」
「……はい。あ、あの、実は、シガンシナ区に行きたかったのですが、どうやら電車を間違えたようで」
「あぁ？どこから来た」
「カラネス、です」
まったくの逆方向、な上にここに着くまで気づかなかったのか。まぁ、言葉が通じねぇ旅行者なら仕方ねぇか。こいつの様子からするに、どう間違えたのかも分かっちゃいねぇな。口で説明しても分からねぇだろうし、ここに置いて行くワケにも行かねぇ。そして、俺がこれから帰る場所がシガンシナだった。



「あの、ありがとうございます」
共に電車に乗ってほっと一息つくと彼女は初めて笑顔を見せた。
「いや、行く場所が一緒だったからな」
「でも、一緒に電車まで乗ってくれて、助かりました」
「・・・お前、観光客か？」
「えっと、短期、留学、です」
先行き不安だな、とは言葉にせず心の中で呟く。

名前はヒイラギ・ミカサ、日本の出身。
メジャーではないこの国はあまり留学先として選ばれないため、珍しいと思った。なぜこの国にしたのかと問えば、自身も分からないが、ここに来た方が良いと勘が働いた、と。そんな理由で留学を認めてくれるとは大層なご家族だ。うちならまず親父より伯父にぶっ飛ばされるな。



「あとは大丈夫なのか？」
「はい、ここからアパートの道は覚えています！」
会った時とは別人のように自信満々に言うミカサにふっと笑うと、そのまま別れた。

一度振り返り、彼女の後姿を目に止める。
肩に届かないくらいの艶のある黒髪。綺麗な肌なのに、弓道の弦を打ち付け切ったという右頬の傷。7つ年下の日本からの留学生。
一介の会社員である俺とは何ら接点がない、会うはずのなかった彼女。
ミカサとはそれきりだと思っていた。