ふたりにしかわからない9月半ばだというのに今日もまだ夏が居座っていて暑い。
あの夏の日々と同じ匂いの空気が体育館に充ちている。その熱い空気を吸い込むとまだ少し胸苦しかった。いろいろなことがゆっくり変わっていく。
自分は変わらずここにいるのに季節だけが勝手に進んでいくような変な焦りもある。でもその胸苦しさが今はただ嫌なものではなかった。
木暮が久しぶりに部に顔を出した。
後輩たちが先輩、先輩と声をかける。あの宮城ですら木暮に気付くと「あっ」って顔をして5分間の休憩になった。
部の屋台骨だった人間が誰か皆知っている。誰よりも穏やかで優しくて厳しい木暮は人の話をよく聞いて真摯に答えてくれるヤツだ。
後輩たちの挨拶がひと段落したあと宮城も木暮に話を聞いている。
自分と話しているときは揉めて口喧嘩になったりするが、あの二人だとそういうこともないよな、と至極当然のことを改めて目にすると、なにが、というわけではないがほんの少し胸が痛んだ。
自分が屋上で宮城と殴り合っている間もその前も木暮はずっと赤木と二人で必死にここを支えていたということ、そのときに俺はなにやってたんだろうな、という解決のしようもない自問自答。
『怪我をしなかった自分』を思い浮かべることがある。
そうだったらよかった、と思う。心の底からそう思う。
でもあの日はどうやってもなくなってくれない。
そこでプツンと音を立ててその世界が消え、代わりに浮かぶのは自分がいったこと、やったこと、そのすべて。
二度と忘れることを許されないそのすべて。
インターハイのあと赤木と木暮が抜けて宮城が部長になった。
赤木の後釜は宮城にも相当なプレッシャーだったらしく、一時期は妙なもの読んで妙なことばっかりいっていたが最近はもうすっかりそういうこともなくなった。
そのころから相談を受けることが多くなったように思う。
バスケ部在籍期間でいえば宮城は俺よりもずっと長い。ここの部のことはわからないこともまだあるがバスケットのことならいくらでも話せる。
お互い聞いたり聞かれたり二人で話すことが増えた。アイツのいうことで揉めることも多々ある。そして共感することも納得することもたくさんある。
自分で思っているよりもずっとちゃんと赤木の後釜をやってる。アイツがどう思ってるかはわからないが。
相変わらずバスケットの話ばかりしている。宮城についてわかったのはアイツも大概のバスケバカだということ。けれどそれはここの部員たちも自分も大概だ。
宮城はそれ以外の話になると口数が少なくなり、どうでもいいような話で急に口をつぐむことがある。小暮もそれを知ってるかも?なんか理由あるのか?今度話す機会があったら聞いてみるのもいいかもしれない、と思ったところで練習再開の笛が鳴った。
「1on1やろうぜ」
そう声をかけると宮城はいつも同じ顔をする。そして断る。
口から出てくる理由はいつも違う。
「後ろで流川が超絶見てるんであっち相手にしてやってください」とか「腹減ったんで」。「疲れてるから今日はもう無理」「部誌書きたい」「今朝の占いで1on1はNGだったんで」とかいろいろ。
そのやり取りを何度も繰り返し面倒になったのか今日は「しつこい!」とそれだけだった。アイツがこれだけ折れず頑なに断ることも珍しい。なんか別の理由があるんじゃないかとようやく察し、思い返してみるとさっきは『あの顔』してたな、と思い至る。
練習が終わった体育館には今日の居残り組が自分の他に二、三人いた。
まだいるはずの宮城の姿を探したが体育館には見当たらないので部室だろうとあたりをつけ行ってみると部室の小さい机にノートを開いてシャーペンを持った宮城と目が合った。
少し目を眇め面倒臭そうに「うす」とだけいった。向かいの椅子に腰掛け、机に肘をつく。
「お前、いいたくないことあるとき同じ顔するよな」
「はぁ?なんすかいきなり」
お、出た。この曲がった眉毛。
「『いろいろ思ってることはあるけどいいたくねえから黙る顔』って感じ」
「例えるの下手すぎでしょ」
宮城は呆れたように笑ってノートに視線を戻した。
自分でもそう思うのでなんだか腹が立ってきた。
『今日の練習内容、効果、全体の様子、個々の課題。今後の対応』これは毎日書いてる。すっかり慣れた感じでシャーペンが文字をスラスラと綴っていくのを目で追う。
上手くいえない腹立たしさで鼻息荒く見つめていると「三井サンってでっかい犬みたいっすよね」と宮城がニヤけるのをギリギリ堪えた顔でいう。
ンでだよ!っていうかそれよくいわれんだけどなんでだよ。
「話逸しやがってよぉ」
そういうと宮城は「あのね」と前置きしてシャーペンで人のことを指しながら「アンタはね、人の人生に迂闊に関わりすぎなんですよ!」
「はあ?」
こっちの頭の整理がつく前に「犬ならよかったのに」と吐き捨てるので両手のひらを宮城に向けて「ちょっと待て」というのが精一杯だった。
「お前、なに怒ってんの?」
「怒ってないすけど」
「怒ってんだろうが」
むうっと黙った宮城が面倒臭そうに口を開く。
「この前だってアンタ、急に公園で中学生に声かけてやってたじゃないすか」
「え、なに?1on1?この前って……あれ結構前じゃね?」
「いつもあんな感じなんでしょ」
「あ?」
「ひとりでやってるヤツに対して」
「声かけるかってこと?」
そう、と頷く。少し考え込んだ三井が
「……わりとそうかも」
そういって自分の答えにうんと頷いた。こういうところ真面目なんだよなこの人、宮城は目の前に座っている三井をまじまじと見つめる。
「だよね」
「なんか文句あんのか。あんときだって先帰っていいっていっただろ」
「それもなんかアレでしょ」
「なにがアレなんだよ」
「三井サンが1on1やってんだから見たいでしょ」
宮城がそうへらりと答えると三井の顔から眉間の皺が消えた。
こういうとこはわりと好きだ。単純というかこの人の場合、根が素直なんだろうと思う。良くも悪くも真っ直ぐでわかりやすく嘘がつけない。
この人グレてたころもこんな感じだったとしたらよくやれてたよね、不良。
徳男サン代わりにだいぶ泥被ったんじゃないのかなあ。停学にもなったし。
「……バスケは一人でやるより二人の方が面白えんだよ」
三井はボソッとそういった。
「……そうっすね」
この人もそうやって一人、バスケットゴールを見ていたときがあったのか。
バスケットと繋がった自分を切り離したくて足掻いて不良やって。結局どうしても切り離せなかった。
17年間バスケットのことだけ考えるってどんな感じすんだろな。インターハイのとき目の前に現れた存在が自分にそう投げかける。
辞めたほうが楽かもって思うこと、そういうのない人生ってどんな感じなんだろう。あの坊主頭といつもの黒髪の二人を思い出して自分にそう問うときがある。
イメージは海の生き物と陸の生き物みたいな感じ。
海の中で暮らす生き物には陸での暮らしは理解できない。陸の生き物だってそう。きっとお互い理解できない。だからお互い羨ましいとも思わない。知らないんだからさ。想像することはできても本当のところはわからない。
自分は海の生き物にはなれないことをよくわかってるし、なりたいわけでもない。
『父親も兄も生きてる自分』を思い浮かべることがある。
そうだったらよかった、と思う。心の底からそう思う。
でもあの日はどうやってもなくなってくれない。
そこでプツンと音を立ててその世界が消え、代わりに浮かぶのは自分がいえなかった言葉とできなかったことのすべて。
切れそうになる線を必死で繋ぎ直してきた。何度も何度も。ずっとそういうふうにしか生きられなかった。
ひとつひとつ全部繋いでようやくそれが線になって今、ここに立ってる。
将来どうなりたい、とかそんなのはずっとぼんやりしていた。それどころじゃなかったから。いつも今で精一杯だった。
インターハイが始まるころ、旦那に大学推薦の話があったと聞いたときから少しずつ、本当に少しずつだけど輪郭を描き始めた。
ただ好きだということが、自分が生かされてきた理由がこの先、生きる理由になるのならどんな場所のどんなコートにでも立つだろう。
必死で繋いできたものをまた同じように繋いでいく。難易度は上がるだろうけどきっとやれる。「そんな甘くねえよ」っていわれてもそういう未来にまた必死で繋いでいくだけだ。
それは今、目の前で話してるアンタも同じでしょ。もっと上手く生きられたはずなのに出来なかった。怪我がなかったらアンタはアイツ等と同じように真っ直ぐ歩いていたのかもしれないけどさ。キラキラした笑顔でさ。目の前でムッとしてるアンタからはちょっと想像できないけど。
どれだけ戻ったり立ち止まったり、振り切ろうとしたけど出来なくてコートに立ってる。
『バスケットがあったから生きていた』
たぶん俺とアンタの共通点はたぶんそれだけ。
なのに何度も目の前に立つ。何度も俺とバスケットを繋ぐ線の上にアンタはいつも急に現れて勝手なことして去ったり、また現れたりすんだ。なんかわかんねえけど腹が立つ。
こっちは全部憶えてるけどアンタはところどころ憶えてないし。
だからこっちも全部教えたり種明かしたりしない。なんか悔しいんで。
なんでかわかんねえけど無視できない。もう一度追いつき這い上がろうと死にものぐるいで生きる姿を見てしまったからかもしれない。そういうのが自分を殴ったあのときの顔の上に上書きされていく。あの美しいシュートフォームは目の裏側に焼き付いていて二度と消えることがない。
いろんな感情がごちゃごちゃに絡まっていて自分でもよくわかんねえのに人に説明なんかできるワケがない。
「……おい、帰りなんか食ってくか?」
「あー、別にいいっすよ」
あとよ、三井がボソッという。「いいたくねえこと聞くつもりもねえよ。そんな立場でもねえしよ」
「……人たらしなんだよ、アンタ」そういって顔を覆った宮城に「あ?珍しく人が素直反省してんのにお前はよ」と不満げな顔でいった三井だったが
「ほんと参るわ……」という宮城の言葉に困惑しなぜか「え、なんか……すまん」といいだし、それを聞いて宮城は声を出して笑った。