特別な夜に招く「レイン。これを」
「?」
差し出したのは、マドル家が所有するいくつかの家の中で、オーターが一番使っているゲストハウスの鍵。
「無理に使わなくても良い。」
オーターは“帰った時にレインがいてくれる日があれば良い”くらいの軽い気持ちで鍵を差し出した。
レインはオーターの手のひらにあるのが“家の鍵”だと認識して少し目を開き、次に無表情なオーターへ視線を上げて、きゅと拳を握った。
――使う時というのはつまり、オーターの不在時に、レインが勝手に家を開けるという事。
「……ありがとぅ、ございます」
レインは神妙な顔つきで“信用の証”へ手を伸ばして、そっと摘んだ。
「場所は、鍵を手のひらに乗せていれば案内してくれる。比較的ここに近いので、帰るのが面倒な時や仮眠でも、好きなように使ってくれて構わない」
「はい」
それから数週間が過ぎた。
二人の休みが重なる前日や当日は、飲みに行ったりどこかに出かけたりと予定をたてる。
明日はレインと共に休みが重なっている事は把握していたが、今日の仕事終わりの目処が立たず連絡はしていない。オーターは思ったより早く終えた職場から、砂を操り夜道を進む。
いつもの角を曲がり、目視できる窓に……明かりがついている。
――レイン
逸る気持ちを抑えて玄関までの道を急いだ。
チャイムを押すか悩んだが、帰る前の連絡もしていない。時間が時間ではあれどマドル家で鳴るチャイムに、レインが扉を開けたりはしないだろう。
オーターは自分でカチャリと鍵を開け、中に声を掛けてみた。
「戻った」
目の前に広がる白い石床と白壁の吹き抜けのホール、その奥の三人がけの白いソファがL字と対面に一つ並び、間の黒い大理石のローテーブルが置いてあるゲストルームに人影はない。
玄関脇のクローゼットへ脱いだローブをかけ、ネクタイに指を掛けたところで。
「お帰りなさい」
腰あたりの片脇にあるポケットから白いウサギの耳が覗いているものの形はシックな黒エプロン、白いポロシャツと紺のジーンズ姿のレインがホールに出てきた。
オーターは、見慣れた白壁が、磨かれた石床が一気に鮮やかな色を持って映るのを不思議な心持ちで見つめる。
「簡単な食事ですが、用意しました。でも気分じゃなければ、他の物を」
「いや、頂こう」
私服を凝視していれば、レインが居心地悪そうに提案を下げかけるのを慌てて引き止める。
「お前も仕事で疲れているだろう。無理はするな」
ハンガーを掛けてカチャリとクローゼットを閉め、レインに向き合い声を掛ければ。
「……わかりました。」
――“余計なことをするな”と、聞こえただろうか。
レインの視線が少し下がった事に気付いたオーターが、一歩踏み出してきゅ、と腕の中にレインを抱き締める。
「嬉しい」
レインが訪ねて来てくれて嬉しい。
待っているだけではなく、食事まで作ってくれて嬉しい。
その全てを要約してしまった、たった一言。
「……はい」
意図を汲み取ったレインの両手が、おず、と腰の辺りへ添えられた。
オーターは愛おしさが増して、軽く包んでいただけの腕に力を込め、レインの背を強く抱く。
鼻腔を擽るのは柔らかなシャンプーと衣服の清潔な石鹸、首筋からレインの香り。
「はぁ……」
思わず、オーターは心の底から溜息を溢した。
義務の社交パーティーで腕へ抱いた女性に身を任されても、卒なく支える以上の何かを思う事もなく。
今まで知ることのなかった、知ろうとも思わなかった他人の体温の心地よさ。
レインの匂いで肺を満たしたいなどという衝動に駆られる己の思考に、軽い目眩を覚える。
「……あぁ、そうだ。レイン、こちらへ」
ひとしきり腕の中のレインを堪能して、そっと解放し片手を引く。
素直についてくる姿を、キッチンダイニングとは反対にあるプライベートスペースへ連れた。
――多分、レインは勝手に家屋の詮索などしてはいないだろう。
吹き抜けの玄関ホールと、壁沿いにある階段を通り過ぎる。三段ほどの段差を上がれば足元は珈琲色の絨毯になり、そこで靴を脱いで白いスリッパに履き替える。
真鍮が形作る小さめのシャンデリアが照らす白い壁に囲まれた、各部屋を仕切るための狭い通路、その右側にゲスト用のユニットバスがついたベッドルームの木製扉が二部屋分、奥へ続きで並んでいる。
二部屋の向かい側へ一つアーチ壁があり、その奥へ付いている木製扉をカチャリと開けた。
他のゲストルームがあるからそのどちらかで眠る、などという選択肢を持たせないよう、きちんと中を紹介する。
「ここが寝室だ。間違えないように」
レインはオーターが押し開く扉の内側へ一瞬目を走らせた。
薄闇の中、正面に書斎のような場所が見えるここがオーターの使っている寝室で、つまりは一緒に眠るように促されたのだと気付いた。
「……、はい」
レインは返事をしてすぐに踵を返した。
少し俯き足早に去るその後ろ姿を、オーターは“可愛らしい”と目を細め、ゆったりとリビングの方へ歩みを進めた。
ホールを通り、ダイニングキッチンへ入る。
キッチンの作業スペースから繋がっているカウンターは足元が黒く塗られ、薄茶の天板が乗っている。その上へ、無表情を装うレインが料理を乗せた皿を並べていた。
皿の上にはちぎったレタスとバンガーズ&マッシュ、カラフルなパプリカが乗るミートソースのかかったパスタ、もやしのナムルの小皿が添えられている。
それを脇目に、オーターは食器棚から飲み物用のグラスを二つ取り出し皿の隣に並べた。
「何を飲む?明日は休みだったな」
「……オーターさんと、同じ物で」
問われたレインは、黒のエプロンを外しながら答える。
「そうか」
オーターは少し考えて、レインでも飲みやすいだろうかと、フルーティーな香り高いグレンモーレンジィを取り出した。
好きに調整できるよう、氷とトング、瓶の水と炭酸水、甘い飲み口のそれが口に合わなかった時の為に冷やしたハーブティーの入ったガラスポットも並べる。
三つ並ぶ備え付けの黒いカウンターチェアの背をくるりと回し、一緒に席に着いた。
「「乾杯」」
互いにロックのまま一口飲み、オーターはそのまま机に戻してフォークを手に取る。
レインはグラスに水を少し足してからフォークでパスタを巻いて口に運んだ。
「美味いな」
オーターは程よい焦げ目のついた香草ソーセージに薄い塩味のマッシュポテトを付けて咀嚼し、またグラスを傾けながらレインに告げる。
「焼いただけ、茹でて潰しただけですよ」
レインは感想を言われるほどのことでは、と首を振った。
「私はそれすら億劫だ」
「そうですか……意外ですね」
なんでも器用にこなしそうなのに。
肘が付きそうな距離で、レインの目が新しい気付きに少し喜色を乗せてオーターを見る。
「一人だと、ついな。私からすれば、料理を作れる事が意外だったが」
オーターはパスタに乗せられた黄色のパプリカをフォークで掬い口に運ぶ。
レインは一瞬、料理を作るようになった経緯に思いを馳せて目を伏せた。カチ、とフォークが皿の端へ置かれる。
「俺は……食べることが、好きなので」
卑しいと思われやしないかと少し躊躇いながら言葉を紡ぎ、グラスを引き寄せて少し口に含んでから俯いた。
「そうか。言うまでもなく食は生活の基本だ。できる事に手を抜かないのが良い」
オーターは深い意味を持たさないよう、ただ事実を称える。――必要に迫られ、レインが急いで身に付けなければいけなかった“生きる為の技術”はたくさんある事だろう。
オーターはレインと同じくカチ、とフォークを置いた。空けた手で、隣に座るレインの黒髪を撫でる。
――レインは短い経験しか持たない、なんならオーター自身はさして記憶にもない子どもを宥める仕草。
「……ありがとうございます」
レインはチラリと視線を上げて礼を告げながら、けれど労わるオーターの手をむずがるように左手をそっと重ねて外し、彼のフォークへ戻させた。
オーターがぎこちなく慈しむ度に、レインは戸惑いを見せる。不器用に触れ合って、けれどそれが不快ではないから一緒にいる事を選んだ。
「水にするか?」
チビチビと酒を舐めるレインに気付いたオーターは、問いながらカウンターチェアからスト、と足を下ろして食器棚へ向かう。
貴族として育ったオーターが食事の途中で席を立ち、レインのために自ら給仕を行う。
それがどれほど特別な事か、分からない訳ではない。
「ありがとうございます」
対面へ置いたコップへ、オーターが水を注ぐ。レインは目の前に、つい、と押し出されたコップを素直に受け取った。
仕事の話、ウサギの話、弟の話。二人ポツリポツリと会話をし、ゆっくりと食事を終える。
「ご馳走様。洗い物はする、休んでいなさい」
オーターが杖を取り出しツイ、と振れば二人分の食器が宙に浮いた。
「お願いします」
レインは酒の残るグラスだけ持って素直に立ち上がり、背後の四人掛けの茶色の木製テーブルが置いてあるダイニングに移動した。
けれどここはオーターの家で、いつも居る愛兎たちは預けてきたし、特にすることもない。