甘ったるい砂糖菓子のベッドに沈んでしまいたい 鼻腔をくすぐる芳しい匂いに、依織は薄い瞼を持ち上げる。
白いシーツ、隙間から差し込む眩い朝日、情事のあとが仄かに漂うベッドルームと朝食の香り。――ふわふわと眠たく欠伸を零して、まだすこし気だるさの残る身体を依織はゆったりと動かした。
甘ったるい砂糖菓子のベッドに沈んでしまいたい
穏やかな朝だった。外の喧騒から切り離され、まるで世界にたったひとりしか存在しないのだと錯覚させるような居心地の良さがあった。――否、この場合は『世界にたったふたり』と表現した方が正しいのかもしれないな、と。空想にふけるロマンチシストのような思考を依織は静かに享受する。
「依織」
部屋の外から名前を呼ぶ声がした。顔を上げ、上半身だけ持ち上げて、乱れの残る白いシーツの海の上で依織はゆったりと頬杖をつく。視線を扉の方へ動かしたと同時にドアノブががちゃりと音を立てて回されて、遠慮無く部屋の扉が開かれた。
「起きたか?」
「……お~。おはようさん、旦那」
「ん、はよ」
端的な挨拶とは裏腹に、部屋の入り口に立つ彼――神林匋平の表情は穏やかだった。飯、出来てるぞ。手に持っていた煙草を口に咥え、ライターで火をつけながら匋平は淡々と言葉を続ける。
彼の部屋で、こうしてふたりの朝を迎える機会がすこしずつ増えている。そのことを心地好く思っている自分に、依織は多少なりとも驚いているのだ。――酒を飲み、甘いセックスをして、同じベッドで眠り、彼の作った朝食を食べる。『恋人』と称しても許されてしまうような関係を、十年振りに再会したかつての『相棒』と長い時間続けている。
ベッドの上で、ふわふわとそんなことを考えていた依織の輪郭を辿るように、彼のはちみつ色の瞳が静かに動かされる。それから、何かに気付いたらしい彼は咄嗟にちいさく息を飲んで、わかりやすく気まずそうな表情を浮かべてみせた。
「?」
はて、と首を傾ける。彼の視線を追うように顔を下げ、そこでようやく依織は彼の表情の理由に気が付いた。わざとらしく、にっこりと上機嫌に微笑む。
「熱烈やねえ、旦那」
「……」
依織の肌に散る無数の赤い痕。誰がつけたか、なんて、この状況では愚問でしかないのだ。
「……いいから、早く起きろよ。飯が冷める」
依織から視線を外し、こほんと誤魔化すような咳払いを零して匋平はぶっきらぼうに吐き捨てた。照れ隠しとはすこし違う、蜂蜜を煮詰めたようなあの甘ったるい時間を色濃く思い出させる赤い花びらたちを前に、どう反応するべきなのか決めあぐねているのだ。
途端、むくりと頭を擡げた悪戯心に依織はにんまり口角を持ち上げた。――こういう時の『相棒』は『骨の髄まで』弄り尽くすに限る、と。意地の悪い笑みを浮かべ、頬杖をついた体勢のまま上目遣いに匋平へ視線を送ると、依織はうっとりとくちびるを開く。
「……おはようのちゅー、旦那」
「……」
ぱちんと音を立ててふたつの視線が絡み合う。――依織の戯言を前に彼は何も口にしなかった。代わりにふっとちいさく息を吐き、煙草を挟んでいる方の手で依織の後頭部を掬い上げると、形の整った薄いくちびるを寄せて、ちうと触れるだけの口付けを落とす。
「……」
……わお。思わず漏れた感嘆の滲む声が、まだ何処となく昨晩の情事の甘さを残した部屋の空気にゆったりと溶けていく。――まさか本当にキスをするなんて。自らしかけておいて、予想外の匋平の行動に依織の思考は置いてきぼりを食らった子どものようにぴたりと動きを止めてしまった。何かを言葉にしようと口を開いて、けれどそれをうまく音にすることが出来ず、まるで水面を漂う酸欠の魚のようにふたたび口を閉じてしまう。そんな依織の様子を匋平は満足そうな笑みを浮かべて嬉しそうに見下ろしていた。
「……いつの間に立派な女たらしになってしもうて」
「は? お前がしろってねだったんだろ」
「ソウデスケド」
むむ、とくちびるを尖らせ依織はわざとらしく不機嫌そうな声を出した。とっておきの悪戯に失敗して、けれどこのままで終わるのはなんとなく割に合わない気がするのだ。どうせなら、普段ならあまり考えられないような彼からの愛らしい口付けをきちんと堪能すれば良かった、なんて。依織は、じっと匋平のはちみつ色を見上げて思案するような表情を浮かべる。それから、ふたたびくちびるの端を持ち上げてやわく微笑むと、甘えを含んだ声で、だんなあ、と彼の愛称を口にした。――もう一回。
「……調子に乗んな」
「え~。ええやんかあ」
「……」
煙草を咥え直した彼は大袈裟に肩を竦めてベッドルームを後にする。その背中を追いかけるようにくつくつと喉の奥に笑みを落とし、依織は春の陽だまりみたいに穏やかな余韻を噛み締めた。
――『世界にたったふたり』だと、ふたたび砂糖菓子のような甘ったるい思考に頭の中が満たされる。一度は分かれ、そしてふたたび巡り会った彼について。そんな匋平とふたりきりで朝を迎えた時くらいは肩に背負った重たいものたちをすこしだけ下ろしても良いだろう、と。長い月日を経て、そういう生き方をすることを依織は自分自身に許すことにしたのだ。