喪服「縄張りに侵入するってどういう事だ!?」
雨の中を走っていた九頭龍は、スマホが指から外れそうになり、南門から校外に出る前に一瞬立ち止まって握りを直した。
「まだ学校にいるに決まってんだろ、クソヤローめ!」と、電話をかけてきた部下を怒鳴りつけた。
「早く来いっていうなら、車を出せ!」
若頭に車を送れようとする音に耳をかさめながら、九頭龍は歩道を踏み、周囲を見渡した。雨に濡れずに車を待つことができる、校外の場所を探さなきゃ……
その日、九頭龍はたしか、学園に傘を持ってきたことだ。間違いなく。5月下旬に傘を持たずに登校するほどアホではないが、下校時間になったらもうなくなっていた。つまり、クラスの誰かのバカヤローに盗られたのだろう。
幸い、容疑者は少ない。その日の出席していたのは罪木、左右田、ソニアだけだった。そして、その3人の性格から、九頭龍はその犯人の目星をつけたのだ。
ヤクザから盗もうと思うバカなんて、左右田和一くらいだろう。
九頭龍はため息をつきながら、どこか数分間ウロウロできる場所はないかと探し続けた。しかし、残念ながら、南地区の周辺はほぼ不毛の地だ。まるで希望ヶ峰学園の敷地がヒルのように、周辺の企業などの活力を奪ってしまったかのようだった。雨宿りのために廃屋に侵入する気にはなれなかったので、早く何か見つかることを願いながら歩道を進んだ。
ようやく雨の中に公園を見つけ、ありがたいスパートで公園の端にある東屋の下へダッシュした。そこにはもう一人の気配があることにだけはぼんやりと気づいていた。
九頭龍は眉間についた水を拭きながら、電話口で「今、誰か送ってんのか?」と喘いだ。
「よし、オレは、ああ、学園の向かいの公園にいる。南西側の。オレが風邪ひかねーうちに早くして!」
九頭龍は通話を終えると、スマホをポケットにしまい、代わりにハンカチを取り出した。すっかり濡れていた。当然だろう。不機嫌になりながらも、とりあえずハンカチで拭いてみるが、効果はない。
左側から「あ、これ」と声がして、九頭龍の視界に濃い青色のハンカチを差し出す手が見えた。
「よかったら、これ使って。ちょっと湿ってるけど、少なくともお前のよりはいい状態だろうから…」
九頭龍は躊躇したが、まつ毛に付着した雨粒を瞬き続けるよりはマシだと思い、受け取った。
「わりーな」とつぶやきながら、白い桜模様の布を手に取り、顔をなで下ろした。うわっ、他人の匂いがついてるハンカチを使うのは変だが、少なくとももう雨水が顔に流れ込まなくてよかった。
「テメーの傘も盗まれたのか?」
「あ、ああ、そうだな。雨がやむのを待っていたんだけど、どんどん強くなるばかりで…」
九頭龍はハッと苦笑した。
「人間ってバカだなぁ。この時期に傘を忘れんのは自己責任だ、いい加減…」
ハンカチを返そうとしたとき、ようやく相手の外見に気づき、言葉を止めた。
背が高く、九頭龍と同じくらいの年齢で、髪は濃い茶色でトゲトゲしている。しかし、その服装は…。
黒いジャケットに黒いズボン、そして黒いネクタイ。その表情も暗くて、九頭龍は間違いないと思った。
喪服。
仕事柄、よく見かける。その原因を作ったのは九頭龍自身であることも少なくない。
九頭龍は気まずそうに目をそらし、ハンカチを握り締めたまま、代わりに東屋を囲むアジサイに目をやった。若い緑の花の縁に、青や紫が滲み始めたところだ。
ようやく声を出すことができた。
「ご愁傷様」
その少年は最初は反応しなかったが、数秒後、九頭龍の方を振り向いた。誰に何を言われているのか分からないといった表情だった。九頭龍が少年の胴体の方向に首を振り、黒い服を示すと、徐々に少年の顔に理解が広がってきた。
「ああ…」
そう言って口を開いたが、思い直したように黙り込み、不快そうに肩をすくめた。
二人の間に静寂が再び訪れ、頭上の屋根に落ちる雨粒のホワイトノイズだけがその静寂を打ち破った。
「誰を弔うんのか?聞いていいなら」と、九頭龍はようやく言った。
茶髪の少年は答えを慎重に考えるように、眉をひそめ、首を横に傾げた。
「俺の未来、かな」
「未来ぃ?」
九頭龍は思わず、信じられないような声を上げた。他人のやり方をとやかく言うつもりはないが、そんな抽象的な事のために、わざわざ喪服を着る必要があるんだ?それに、「なんでそんなことを?」
「だって…ここから先、どこにも行けないんだ」
少年はジャケットの湿った袖口を嫌そうに見下ろしながら、そう呟いた。
「平凡を受け入れてしまった。たとえ成功したとしても、認知度を買っただけなんだろう?何の意味があるんだ?」
げっ、なんて陰気なヤツ。九頭龍は殴って理性を取り戻させようと思ったが、もしこいつが本当に喪に服しているような感じだったら、それは最低なことだ。ため息とついて頭をかき、代わりに言葉を使ってみることにした。
「あのなぁ…もう未来を諦めんの早くねーか?テメーは、何、オレと同い年だろ?16くらい?」
少年はしばらく九頭龍をジーっと見つめた後、無言でうなずいた。
「そんなら人生はまだまだこれからじゃねーか!平凡を受け入れてしまったって、何言ってんだ」
九頭龍は背の高い少年と真正面から向き合い、湿ったネクタイの真ん中に指を突き刺した。
「これから先、その認知度ってかなんとかの尻馬に乗るだけなら、もっと上に行く努力もしなかった自分を責めるしかねーじゃねーか?」
少年は苦笑いを浮かべた。
「九頭龍組の跡継ぎがそう言ってるなんて」
希望ヶ峰の生徒として広く知られるのにまだ慣れていない九頭龍は、一瞬驚いたが、すぐに苛立ちに変わった。
「同じ境遇『だから』言えるんだ」と、腕を組んだ。
「そうだな、もともとある意味恵まれたよ。だがオレは自分の力で結果を出すんだ。七光りだなんて、誰にも一言言わせねーぞ」
ニヤッと、こう付け加えた。
「テメーにも、他に結果を出す方法があるじゃねーか」
その提案には励ましの意味が込められていたが、少年の顔に影が差していることに気づいた。
「えっ、まあ、確かに――」
その言葉を遮るように、車のエンジンがごろごろと近づいてきた。九頭龍の見送りが目の前で停車すると、縁石の向こうから水が滝のように流れ出した。
「やべぇ、オレの車だ」
と、九頭龍はやや無用な言葉を発した。数人の部下が彼を車に押し込もうと飛び出し、黒い傘を頭上にさして、またもやずぶ濡れにならないように遮った。
「もう行かなきゃ。でも、さっき言ったこと覚えてよな?」
少年はまだ複雑な表情を浮かべていたが、ためらいがちに頷いた。
「あ…うん」
車に乗り込むと、九頭龍は一旦止まって、傘を差している部下に思案するように視線を向け、その手から傘を奪い取って東屋の方に振り返った。
「おい!」
黒服の少年は、その言葉を理解する間もなく、投げられた傘を受け取ろうと必死だった。
九頭龍は声が聞こえる程度に車の窓を開けた。
「とりあえず持ってていいぜ。自分で何かを成し遂げるまで、わざわざ返さなくていいんだろ?」
そのとき初めて、少年の顔に僅かな微笑みが浮かんだ。
「わかった。それまで俺のハンカチも持ってていいよ」
あっ、そうだ。九頭龍は片手にハンカチを握っていたことをすっかり忘れていた。それを胸のポケットに入れてポンポンと叩くように見せ、ニヤリと笑った。
「約束だな。オレは、約束は必ず守るからな?」
少年は笑い、傘を頭上に掲げて東屋の下から出てきた。
「あと、その…ありがとう。傘も、あとは…あ、ううん。ありがとう」
車は走り去り、窓が閉められると、九頭龍は唇の端を引きつらせる笑みを抑えることができなかった、
こんないい気分で縄張り争いに臨んだのは、いつ以来だろう。
―――――
一ヶ月以上経って、菜摘が希望ヶ峰に転校してきた時、九頭龍はようやく気づいた。あの雨の日の少年が、喪服を着ていなかっただろう。
黒いブレザーとネクタイは予備学科の制服だ。
その事実に、九頭龍は思わず苦笑いしてしまった。希望ヶ峰の評議委員会がかなり腐敗していることは知っていた。お互い様だろう。しかし、二流校の生徒を毎日葬式に参列するような格好をさせるとは、よほどのクソヤローには間違いないんだ。あの少年があんなに落ち込んでいたのも無理はないな。
でも、あいつなら大丈夫。九頭龍はあの少年ならうまくいくと確信していた。きっと結果を出せる。
だって、約束したんだ。