fairy tale 4『こりゃ驚いた。珍しい客もいたもんだな』
『久しぶりだな〈白〉』
『いい加減、その呼び方やめてほしいぜ。犬っころのようだ』
『お前こそ図書室に来るなんて珍しいな。調べものか』
『伽羅坊を探しててな。覚えてるか?』
『〈黒〉のことか』
『あぁ。〈記録係〉さんは今日も忙しそうだな』
『そうでもないさ。お前の膝だと勘違いした小動物が震えていて集中できん』
『伽羅坊!なんだってそんなとこに…ほれこっちだ。よっこいしょ、っと』
『龍というより猫の子だな』
『悪かったな。仕事の邪魔になっちまった。ん?伽羅坊、こいつが気になるのか』
『俺か?研究所の〈記録係:ライブラリアン〉を拝命している。長谷部と呼んでくれ』
伽羅ちゃんを攫ってひと月が経とうとしていた。当初、すぐに現れると思っていた軍の追手も、僕が伽羅ちゃんを連れ出すことに大反対だった鶴さんも、予想に反して全く追ってくる気配は感じられなかった。
僕はそれをいいことに、のんびりと、しかし確実に、研究所から距離を取り国境へと向かう。この街には協力者もいるから過ごしやすい。
「伽羅ちゃん、ほら、ブレッツェル食べようよ。お腹すいたでしょ。」
この街は大きくて、交易が盛んだ。様々な種類の人が行き交い、首都に匹敵する賑わいだ。そんな中、僕らに気をとめる人なんていない。『木を隠すなら森』というわけで、僕らはこの街で一般人の顔をして日々を過ごしている。
「あんたは、どうしても俺に何か食わせたいんだな。」
目深にフードを被る伽羅ちゃんは、僕を見上げて呆れたように返してくれる。
初めて研究所から出た伽羅ちゃんの反応は何をしても可愛くて、僕はついつい寄り道を勧めてしまう。
昨日は、屋台で食べた串焼きの美味しさに目を輝かせていた。今までできなかったことを、何でもさせてあげたい。
伽羅ちゃんは絶対に自分から欲しいものを言わない。僕はそんな伽羅ちゃんが好みそうなものを見繕っては押し付ける。僕が衝動買いをしているように映るのか、伽羅ちゃんはお金の心配をしたり、買いすぎを諫めたりしてくる。はたから見たらくだらない日常の一場面。そんな日常を送れることに、今僕はこの上ない幸せを感じている。
わかってる。全部僕の自己満足だ。
今日はこの街の観光名所の一つに来ている。大聖堂の中は白い漆喰で見事な装飾が施されていて、正面の翼を持つ聖人の像を人々は熱心に見つめ祈っていた。
「…国永みたいだな。」
ポツリと言った伽羅ちゃんの言葉が僕の心に波紋を広げた。
鶴さん、ごめん。でもどうしても僕は…
伽羅ちゃんは僕の特別だ。僕が研究所に来たのは6歳だったと思う。事故で右目と家族を失い、身寄りがなくなった僕は、僕の母の古い友人であるアリス博士に引き取られた。研究所での一番古い記憶は、『ごめんね』と謝る彼女の悲しげな瞳の色だ。
今ならわかる。家族の事故も、博士が友人だというのも、僕という手駒を手に入れるための茶番だった。『燭台切光忠』という存在をこの世から一度消すための。
僕は〈オーロ〉という名前を与えられ、既に研究所で暮らしていた鶴さんと貞ちゃんに出会った。実験と称したテストや訓練は施されたけれど、幼い僕はそれが何の意味を持つのかを知り得なかった。
ほどなくして、伽羅ちゃんが生まれた。正確には五条博士が生み出した。
その姿を見た瞬間、これは僕のものだ。と、何処かで何かが囁いた気がした。以来、僕はずっとこの想いを燻らせている。
伽羅ちゃんと僕の関係を一言で言い表すのは難しい。
7つも下の成人前の少年に、本気で懸想していることは、ちょっと大きな声では言えない。
彼が初めて話したとき、泣いたとき、笑ったとき、そのすべてが目に焼き付いている。それこそ伽羅ちゃんがよちよち歩きの頃から、僕はこれが親愛の類の感情ではないことを認識していた。
初めて真剣に鶴さんに打ち明けた時、『これは、まぁ、驚きたくないなぁ』と言いながら向けてきた、なんともいえない眼を僕は一生忘れない。『せめて成人まで待ったらどうだ』と、何回目かの相談で鶴さんの出した提案に僕は頷いた。
小さい頃から僕を好きだと言ってくれる伽羅ちゃんは、未だに一緒のベッドで寝たがるし、果てはキスまで強請ってくる。しかも口に!
伽羅ちゃんが『好き』と言ってくれる度に、心に重くその言葉がのしかかる。伽羅ちゃんは半分刷り込みみたいな状態で、僕を慕っているだけなんだ。君の『好き』と僕の『好き』は違う。僕の『好き』は、伽羅ちゃんみたいに綺麗な『好き』じゃないんだ。
だから僕はどこまでも愚かな道化のフリをする。君が大人になって、それでも僕を好きだと言ってくれたならー
僕はようやく、正直に君に向き合えるだろうか。
「おはよー。光忠起きてる?俺だけど。」
大きな声ではないのに不思議とよく通る。そんな声が扉の向こうから聞こえた。加州くんだ。
彼は僕の友人だ。出版社で働く民間人だけど、裏でこっそりと情報屋のようなことをしている。任務中に知り合って、不思議とウマが合い良い友人関係が続いている。
僕が伽羅ちゃんを連れ出すことを決めたのも、彼の情報が確かだと確信があるからだ。元々は大きな商家の出身だそうで、その親戚たちが国内の噂のあれこれを加州くんに集めてくれている。
「おはよう、加州くん。早いね。」
「ちょっと出社前にねー。」
加州くんはお邪魔しまーす、と部屋に入る。差し入れにくれたのは揚げパンだろう。美味しそうな匂いが漂う。
「おはよう、大倶利伽羅。」
「…おはよう、ございます。」
伽羅ちゃんは加州くんにぎこちなく挨拶をすると、プイっとリビングのソファに腰かけて本を読みだした。気配的にはこちらを窺っているようだ。
加州くんと初めて会って以来、毎回こんな状態だ。意外と人見知りするのかな。そういえば、よその人に会う機会ってほとんどなかったもんね。
ここ一週間ほどの情報を受け取り、軍の動きを念入りに確認する。いよいよ、三日月さんが僕を探しに動くようだ。一ケ月、何もなかった方が不思議だったんだから、そこは意外でもない。気になるのは鶴さんの行方だった。情報はほとんどない。
「あとは三条で、最近跡目争いが激化してるみたいだよー。」
「そうなの?三日月さんで決まってたはずだけど。」
「んーなんだっけ。分家のボンボン。小狐丸?どうもそいつが三日月宗近に職務怠慢だとか、なんだとか言い出したみたいよー。『五家』は面倒だよねー。」
三日月さんは仕事もそこそこに切り上げ、三条の屋敷ではなく、定宿に滞在しているという。愛人でも囲ったのではないかとのことだ。目立つ存在とはいえ、『五家』の嫡男のプライベートな情報をそこまで入手できる加州くんの情報網に、心の中で舌を巻く。
「ねぇ、加州くん。研究所のその後についてはどう?生存者の話とか。」
「んーーー。それがあんまりないんだよねー。ごめんね、あの辺はやっぱりガードが厳しいみたい。」
「いや、こちらこそ。いつもありがとう、助かってるよ。」
「あとは帝の周囲が騒がしいって。もう年だもんねー。なんか毎日近侍がつきっきりらしいよ。前触れじゃないといいけど。」
話し終えた加州くんが部屋を出ていこうと扉に手を掛ける。そんな加州くんを呼び止めたのは、伽羅ちゃんだった。
「あの、」
「なーに?」
加州くんが伽羅ちゃんを振り返り、綺麗な笑顔で問い返す。
伽羅ちゃんは一度言葉を飲み込んだが、意を決した様子で、加州くんの前まで進み出るとこう言った。
「あんた、光忠の恋人か。」
伽羅ちゃんの言葉に、僕はもちろんだが、加州くんの動きが止まった。
瞬きすら忘れ、加州くんは伽羅ちゃんを凝視している。僕は落ちそうになる顎を、歯を食いしばることで取り繕うのに意識を集中する。
伽羅ちゃん、なんでそんな結論に辿り着くの。僕には伽羅ちゃんしかいないんだから、そんな訳ないじゃない。伽羅ちゃんの早合点だよ。
伽羅ちゃんは澄んだ眼で加州くんを見つめたままだ。
どうやって誤解を解こうかと思案する僕をよそに、加州くんが動いた。
「か」
か?と伽羅ちゃんの顔に疑問符が灯る。
「かっわーーー!なにこれこの子可愛すぎー!!」
がばり、とそんな音がするんじゃないかと思うくらいの勢いで、加州くんは伽羅ちゃんを抱きしめる。
「おばかだねー!俺が来てから不機嫌そうだったの、そのせい?」
「光忠、」
ぎゅうぎゅう抱きしめられて、伽羅ちゃんは戸惑いを隠せない面持ちで僕を見上げる。
「ねー、この可愛らしい子。光忠には勿体ない。俺がもらってこうかなー」
「加州くん、からかうのはやめて。怒るよ。」
冗談だとわかっていても見逃せない。僕の許容範囲は周囲が思っているほど広くない。特に伽羅ちゃんに関しては。
「うっわー、光忠のその眼。引くわ。全く大人ってのは、狡いとこばっかりでヤだよね。」
伽羅ちゃんをその腕に閉じ込めたまま、加州くんは僕に冷たい視線を送ってくる。
「俺、大型犬は好みじゃないんだよねー、もっとなんか、可愛くて強い感じが好きー。ライオンの赤ちゃんみたいな。」
だから心配ないよ。そう加州くんは言いながら伽羅ちゃんを囲っていた腕をほどいた。
「ほんといい子だね、大倶利伽羅は。あのでっかいのがやらかしたら、俺に言いなよ。」
伽羅ちゃんを優しい眼差しで見つめると、その頭をぽんぽんと優しく叩き、今度こそ加州くんは扉に向かう。
「新しい上司がいけ好かなくてさー。1分遅れただけでも遅刻とか言ってうるさいからもう行っとく。」
「情報ありがとう。気を付けて。」
「じゃ、またねー。」
扉がパタンと閉まった。
「なんか…ごめんね伽羅ちゃん。」
加州くんが出て行った後も、伽羅ちゃんは無言のまま扉を見つめていた。なんとなく居心地が悪くて、何に対してか分からないけれどつい謝ってしまった。
くるりと振り返った伽羅ちゃんは、こてんと小首を傾げる。そして、心底不思議そうな顔で言った。
「可愛くて、強い。……やっぱり光忠のことじゃないか。」
今度こそ僕はポカンと口を開けてしまった。格好悪いことこの上ない。
ああ、鶴さん。貞ちゃん。
僕たち、やっぱり伽羅ちゃんのこと、あまりにも可愛く育てすぎたんじゃないかな。
「光忠。」
「なぁに、伽羅ちゃん。」
加州くんからもらった揚げパンを朝食に頬張りながら、伽羅ちゃんが僕を呼ぶ。クリームよりジャムの方が気に入ったのか、三つ目のパンの中身が何かを横から見つめている姿も可愛い。でも、そんなに食べてお腹大丈夫かな。
「逃げなくて、いいのか。」
のんびりとそんなことを考えていたら、真剣な眼で射抜かれた。
「大丈夫だよ。伽羅ちゃんが心配することは何もないんだ。」
「でも、来るんだろう。」
「うん、そうなんだけど。三日月さんだったら、一度は話を聞いてくれると思うんだよね。」
かつての上司は風変りな人物だが、頭ごなしに攻撃するようなタイプではない。
「約束は守るよ、伽羅ちゃん。海を見に行くって、言ったでしょ。」
微笑みながらそう返すと、こくん、と伽羅ちゃんが無言で頷く。不安にさせたいわけじゃないんだ。ごめんね、伽羅ちゃん。
「さ、食べたら今日も出かけよう。備えとして、保存のきく食料買い込んでおこうか。」
「あんたは、節約ってものを覚えた方がいい。値段も見ずに買いすぎる。」
「え!そんなことないよ!!」
慌てる僕に、伽羅ちゃんがニヤリと笑った。
君が、誰よりも愛しいよ。
何に変えても君は僕が守るから。伽羅ちゃん。