お題【无限】【花】
「ふううううっ」
猫の姿になって、ぶるるるっと身体を振ると、辺りにものすごい量の水が飛び散った。
「すごい嵐だったね」
まだ身体のあちこちに細かい水滴をくっつけたまま言うと、目の前では師父が能力を使って身体に染み付いた水分を分離している。
「いつも思うんだけど、それ便利だね。僕もやりたい」
「修行をすれば、いずれはできるようになる」
「結局はそこかー」
白い地面に大の字になってふてくされていると、そんなところで寝るんじゃない、と注意が降ってくる。
「大丈夫だよ、風邪なんて引かないし」
「そういうことを言っているんじゃない。とりあえず家に入りなさい」
そう言い残して、自分はひょいひょいと階段を上がっていく。僕は不承不承身を起こして、その後をついていった。
ここは師父の霊域。普段は当然立入禁止だけど、季節外れの台風が直撃したおかげで、こうして緊急避難することになった。初めて入ったのは一年以上前だけど、あの時は外から見るだけで、家の中に入るなんてことはなかった。
師父の育った家。どんなんだろうと、ちょっとわくわくするのは否めない。
階段を上りきり、木で出来た扉をくぐると、ふわ、と不思議な匂いが届いた。古いものによくある匂い。決して不快ではない、お寺みたいな、木と、お香と、静かな生活が入り混じった匂い。師父にくっついた時に微かに感じる匂いだ、と思った。
家の中は、想像していたより遥かに簡素だった。部屋の奥に寝台、窓際に小さな卓と椅子。飾り気も何もない、その色彩に乏しい家の中で、ひとつ目を引くものがあった。
卓の上にある一輪挿し。僕は身軽にそこに飛び乗ると、大きく花弁を広げているそれに鼻を近づけた。
「こら、行儀悪いぞ」
寝台に腰掛けて、こちらを見ていた師父から注意が飛ぶ。僕はそれを無視して、ふんふんとその匂いを嗅ぐ。
「ねえ師父、これって」
たまらず嬉しい気持ちが湧いてきて、師父を振り返る。僕の言いたいことが伝わったのか、師父の頬がふっと緩む。
「ああ」
「やっぱり!」
紫羅蘭がくれた花だ。僕が初めて龍游を訪れた日に。
懐かしいなあ、と思うと同時に、内心で首をひねる。あれから少なくとも一年以上は経っている。ドライフラワーならいざしらず、こうして花弁のすみずみまで生き生きと水が行き渡っているのは、どう考えてもおかしい。
「ねえ師父。花ってすぐに枯れるよね? でもどうしてこの花はずっと生きてるの? 花の妖精がくれたから、この花だけは特別なの?」
疑問を素直にぶつけたら、師父は、ああ、という顔をして立ち上がり、僕の側に来て一緒に花を覗き込んだ。
「前にも言っただろう? ここは私の霊域。霊域では、全てが主の望むままだ」
つまり、師父はこの花が枯れないよう、計らってくれていたらしい。
傍目から見れば他愛もないやり取りであろう、あの日の思い出ごと、あれからずっと、今に至るまで。
こういう人なんだ、と思った。
師父は誤解を受けやすい。僕も最初はそうだった。血も涙もないようなイメージを勝手に抱いて、強く思い込んでは、しばらく嫌っていた。
でも違った。本当はこんなにも、心細やかなやさしいひとなのに。
何気なく貰った、たった一輪の花を、大切に取っておくような。
突然、甘酸っぱいような気持ちが湧いてきて、師父の胸に身体を擦りつける。
「こら、私の服で身体を拭くんじゃない」
師父が苦笑して僕を抱き上げる。
そうじゃない、と思ったけど黙っていることにする。
だって、なんだか照れくさくて。嬉しくて。今すぐ駆け出して、知らない人たちに向かって、大声で自慢したくなって。
でもそんなことできっこないから、僕はただ甘えて喉を鳴らす。
僕の師匠がこの人で本当に良かった、と心の底から思いながら。
お題【风息】【新緑】
さわ、と風が梢を揺らす。
「おや、風の神様のご機嫌がいいようだ」
屈んで作業をしていた腰をうんと伸ばして、男が汗ばんだ身体を気持ちよさげに風に晒した。
「風の神様?」
手笊いっぱいに山菜を摘んでいた子どもが、灰汁だらけの手を止めて訊く。
「ああ。この土地には風の神様が居てな。この季節になるとその息で眠っていた樹々を起こして回るんだ」
「へえ。まるで母さんみたいだね」
「そうだな。優しく揺り起こす時もあれば叩き起こす時もあるところなんか、そっくりだ」
ははは、と親子は顔を見合わせて笑う。
「さて、あともうひとふんばりだ。今日はこれで母さんが美味い飯を作ってくれるからな」
「——だってよ」
親子から離れた樹の上で、洛竹が面白そうに言う。
「人間は面白いことを考えるな。季節なんて放っておいても勝手に進むのに」
「信仰、というやつなんだろう。人間は、とかく理由を他に求めたがる」
隣の枝に立つ风息は、特に感慨もないような様子で応える。
「でも俺、あいつらの言ってること、なんとなく分かるような気がするな。あれ、きっと风息のことなんじゃないか?」
「俺?」
「ああ。いつも飄々としてるとことか、風っぽい」
「なんだそれ」
弟分の戯言に苦笑で返して、风息は眩しげに空を見上げる。またこの時期がやってきた。長い眠りから醒めた樹々や草が若葉を萌やして、生の喜びを全身で謳歌する季節が。
风息はこの季節が好きだった。木属性であるからか、植物の声なき喜びを我がことのように感じられる。緑深き森の中で息をすれば、それだけで身体中に気力がみなぎる。目を閉じれば木漏れ日が、ちらちらと優しく瞼の裏をくすぐり、それもまた、嬉しいような、優しげな気持ちを呼び起こさせる。この季節が巡るたび、この森が好きだと心の底から実感する。この喜びを共有できる妖精に生まれて良かったと。
「気持ちいいなあ」
長い髪を風に揺らして、洛竹が言う。
「風はただの風だろうけどさ、それでもやっぱりこの季節には何か特別なものが混じっているような気がするよ。他の季節にはない、優しさみたいなものが」
そういうところもよく似てる、と洛竹は笑って付け加えた。
どう答えたら良いかやや困った风息は、肩を竦めるだけに留めた。何にせよ、褒めてくれているのは間違いないらしい。风息自身、風のようにありたいと思っている節があるだけに、他人に指摘されることに対して、やや照れくさいような気持ちもあった。
澄み渡り、どこまでも吹き抜ける初夏の風。
そうありたい、と思った。この森で、兄弟たちと四季の移ろいを、新緑の季節の喜びを、いつまでも共に分かち合いたいと。
何の混じりけもなく、清いまま、喜びだけを享受できたなら。
それが、祈るような切ない願いだと、その時では风息自身、気づけてはいなかったのだけれど。
*
思えば、幸福な一枚の絵のようだったと思う。
洛竹は大樹の幹に背を凭せ掛けて上を見る。
天蓋のように空を覆った葉の隙間からは初夏の鮮やかな光が、砕けた玻璃のように煌めいている。
風が、足元の若草を揺らして、青く清しい香りを運んでくる。まるで来訪を喜ぶかのようにふわりと纏わりついては、洛竹の長い髪を揺らす。
ふふ、と誰ともなしに洛竹は笑う。まるで親しい人と内緒話でもしているかのように。
いや、これは内緒話なのだ。洛竹と、彼との。
こつん、と後ろ頭を幹に当てて、洛竹が言う。
「——よお、どうやら機嫌がいいようだな」
お題【黑咻】【居場所】
各所に点在する黑咻に思考の並列化は成し得ない。起点である小黑を軸として初めてその記憶及び感情は共有される。黑咻は生み出された時に生命としての個を得るが、ひとたび吸収されれば、たちまち全に還る。そうして小黑の肉体を通して記憶は巡り、経験を積み重ねた個体が、また新たに尾から生み出される。黑咻という特異な生命の生態は、ひたすらにその繰り返しである。
さてここに、小黑によって新たに生み出された黑咻がいる。小白と共に人間の学校に通うことが決まった小黑が街に移り住むため、阿根の元に残すべく生み出した個体だ。特に感傷的な理由があったわけではない。なんとなれば比丢がいたためだ。夏休みが終わり、小白が自宅に戻る時期になって、小白と阿根の間で比丢をどうするかの話し合いが行われた。本来であれば飼い主の小白が引き取るのが筋であろうし、小白もそうするつもりであったが、阿根の口から待ったがかかった。比丢は天然自然の生き物である。比丢の幸せを考えるなら、人の生活に特化した家の中に閉じ込めるより、できるだけ生育環境に近い田舎で暮らし続ける方が良かろうとの判断で、比丢は阿根の元に残ることとなった。だがここでひとつの問題が発生する。比丢は人間の言葉を解さない。間に小黑の存在があって初めて両者は意思の疎通ができ、禁止事項も伝えられたのだが、これより先それは望めない。だからと言って最初のように、金属の籠に閉じ込めておくのも、情が移った今では心苦しい。しかしここで野放しにしてしまえば、いずれ家屋の倒壊を招くかもしれない。さあどうすると比丢を真ん中に首を捻りあう従兄弟同士に向かって、小黑は事も無げに言った。
「じゃあ黑咻を置いていくよ」
かくして、黑咻は新たに生み出された。この黑咻、使命を持って生み出されたのを知ってか知らずか、よくその責任を果たした。比丢の暴食を阻止し、阿根の言葉を伝え、羅家が平穏に回るよう努めた。
「君がいてくれて良かったよ」
ある晴れた日の午後、風もなく暖かな陽だまりの庭で、いつものように薪を割りながら阿根が言った。時々、細く割れた木っ端を比丢に与え、かりかりと小気味よく咀嚼する音を聞きながら嬉しそうに微笑む。
「君のおかげで、僕も、小白も、そして何より比丢が安心して暮らすことができる。恩人と言ってもいいくらいだよ。本当にありがとう」
黑咻には、難しいことは分からない。ただ、生みの親である小黑からそうしろと命じられたから、そこに存在するだけだ。けれども、黑咻には個としての感情がある。感謝されれば嬉しいし、くすぐったいような気持ちになる。いま得ている幸福は黑咻自身のもので、他の黑咻には共有されない。いずれは小黑によって共有されるのかも知れないが、今は自分だけのものだ。それが秘密を隠し持っているようで、更にくすぐったい。黑咻には、感情を人の言葉で返す術がないから、こういう時は、陽気な毬のように跳ねるだけだ。だが、そんな黑咻の感情を、阿根はよく汲んでくれる。
「そうか、君もここに居られて嬉しいんだね」
はは、と明るい声が響き、木っ端を食べ終えた比丢も歌うように重ねて鳴く。
黑咻も跳ねながら、嬉しげに何度も何度も声を上げる。
平和な時間が、種族を超えた者たちの間に、等しく穏やかに流れていた。